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Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

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第731269400017号
(広島公安委員会)

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Amusement
Club60's
E-mail
 
Vol. 20
01 Larry Bright - Surfin' Queen
02 Aki Aleong And The Nobles - Mary Ann (Come Surf With Me)
03 Jay Epae - Surfing On Waikiki
04 Dick Jensen And The Diamond Head Surfers -
Doin' The Tamure
05 The Golden Nuggets - Surf Everybody
06 The Premiers - Daytona
07 Pete Cummins And The Redeemers Four - The Surfin' Freeze
08 The Tides - Beach Town Surfers
09 Pilt Down Five - '32' Ford
10 The Woofers - Down By The Draggin' Strip
11 The Scramblers - Little Honda
12 The Sand Fleas - Miracle Strip, USA
13 Bobby Fuller - King Of The Beach
14 The Bobby Fuller Four - King Of The Wheels
15 The Bleach Boys - Wine, Wine, Wine
16 The Embers - I'm Going Surfin' Now
17 The Four Frogs - Think I'm Losing You
18 The Waikiki Surfriders - Hawaiian Rock
19 The Tren-Dells - Tough Little Buggy
20 Gene O'Neal & Mr.”T” - Woody-Woody
21 The Boys Next Door - I Could See Me Dancing With You
22 The Tokens - I Could See Me Dancing With You
23 Bobby And Buzz - Watermelon
24 Harry Deal & The Galaxies - I Feel Good All Over
25 The Centuries - Beach Umbrella World
26 The Noblemen Four - Beach Umbrella World
27 Tony & Terri - California, L. A.
28 Strawberry Children - Love Years Coming
29 The Love Tones - Stop This Thinking Of You
30 The Hot Dog Stand - C'mon, Summer's Happening
31 The Giant Jellybean Copout - Awake In A Dream
32 Goldrush - Somebody's Turning On The People
33 Camp Hilltop - Sunday
34 The Breeze - The Rainmaker

Vol. 20
Surfin' and Hot Rod, Hawaiian Surf
Other stuff with beach pop, summer pop etc

 

Larry Bright
20-01
Larry Bright - Surfin' Queen
(7: Del-Fi Records 4204) 1963
Virginia 州 Norfolk 出身で本名を Julian Ferebee Bright と言う。
彼は Pete Roberts 名義で Twinkie Lee / Hold Me
(Rendezvous Records R-124) シングルを1960年にリリースしており、
本名の Julian Bright 義で楽曲の作者やアレンジャーとして
幾つかのレーベルでクレジットされる。
で本件シングルは彼の自作自演によるサーフロッカーで
いち早く The Beatles に反応した西海岸のラジオ局としても
知られる California 州 San Bernardino の KFXM のヒットチャート
で1963年の3月30日から4月5日まで58位を記録しており
ローカルスマッシュヒットとして同地では評価されている。


Larry Bright
 

Aki Aleong
20-02
Aki Aleong And The Nobles - Mary Ann (Come Surf With Me)
(7: Vee Jay Records VJ 520) 1963
(LP: Vee Jay Records LP 1060 mono / SR 1060 stereo) 1963
Track from album Aki Aleong And The Nobles "Come Surf With Me"
Aki Aleong 読みとしては Hong Kong (ホンコン) のように
末尾の G は発音せずに アキ・アレオンと発音する。
アキのオッサン興奮して “Hangin Ten Now!” って言ってるとこがミソ
アキさんはトリニダード・トバゴ出身のアメリカ人俳優で
歌手、パーカッション奏者、プロデューサー。
テレビドラマ「ベン・ケーシー」(Ben Casey)や「ドクター・キルデア」
(Dr. Kildare) なんかにも俳優として出演してたので古い人には
懐かしいだろう。でアルバムからシングルカットされた本件は
作者が Stan Ross (Gold Star Studios のオーナー) なので
当然ながら録音は名門 Gold Star Studios となる。
しかしアルバムに書かれているクレジットとは違う
セッションミュージシャン達 The Wrecking Crew
によって録音されてるので記述しておく
Produced by Aki Aleong.
Arranged by Bunny Botkin (Perry Botkin Jr.)
Engineered by Larry Levine.
Session mambers are
Aki Aleong on vocal.
Lyle Ritz on ukulele.
Billy Strange, Glen Campbell on guitar.
Ray Pohlman on bass.
Hal Blaine on drumms.
Frank Capp on percussion.
Leon Russell on keyboards.
George Tipton conducted.

 

Jay Epae
20-03
Jay Epae - Surfing On Waikiki
(7: Capitol Records 5029) 1963
彼は本名を Nicholas Epae と言い、ニュージーランド、
タラナキ地方マナイア出身のハワイアン、マオリ
(ニュージーランドに住んでいた先住民族) だ。
彼は1957年にボクシング選手になるためにアメリカに
移住したが、怪我でその道は完全に閉ざされた。
代わりに彼は作曲家兼歌手になった。
彼のアルバムは1962年までアメリカの Mercury からリリースされ、
その後アメリカの Capitol Records に移籍した。

本件はそんな時期に彼がリリースした自作の
サーフロッカーチューンでハワイアンギターを用いて
バックアップグループを配した佳曲である。
その後、ベトナム戦争の影響もありアメリカ市場も
混沌としていき、のん気にハワイアンソングも歌えなくなった。
結局1966年、彼はニュージーランドに戻り同地の
Viking Records に移籍した。

 

Dick Jensen

Tom Moffatt
20-04
Dick Jensen And The Diamond Head Surfers - Doin' The Tamure
Tom Moffatt With The Diamond Head Surfers - Surfin' In Hawaii
(7: Mahalo Records 1012) 1963
Hawiian surf music の中でも云々、と言うより Dick Jensen が伝統的な
Hawiian music の持つ装飾美を捨てて新化させようとしたのが
良く解るプログレッシヴな内容だ。1960年代の多くの録音で普及した
The Tamure タムレは、タヒチとクック諸島のダンスであり、
世界の他の地域では最も人気のあるタヒチのダンスだ。
通常、男の子と女の子のグループとして踊り、全員がより多くの服
タヒチの草のスカートで、草ではなく、プラウ、「ハイビスカス」の
樹皮からの繊維で作られているものを着ている。

そもそもこの Dick Jensen は身長も190センチ以上の大男で
奇妙なレコーディングの経歴を持っていたハワイの異端児だった。
彼はハワイから、ロサンゼルス、ニューヨーク、フィラデルフィアと
進出しており、Mercury, Epic, Philly International 等でも
録音を残している。彼は初期には Lance Curtis という芸名で
ハワイのティーン・ミュージック・シーンで活動し始めた。
その後アメリカ本土に移り、レコーディングアーティストとして
の地位を確立する前に彼は Ed Sullivan Show に早くから出演した。
本件シングルは1963年なので、アメリカ本土進出前夜の、彼が
最も尖っていた頃の作品である。その後Dick Jensen は
1960年代から80年代にかけて Vegas でレギュラー出演をする
ようになり、そこで彼は Tom Jones のクローンになり James Brown
の音楽的な影響を受けたエンターテイナーとして活躍した。

彼は1970年代半ばにホノルルに戻り、地元のショールームで演奏し、
地元の Tom Moffatt の Bluewater レーベルからシングルを録音し、
自身のレーベルからアルバムをリリースした。 しかし彼のキャリアは
予想外の展開を見せる。1983年に麻薬密売容疑で逮捕された彼は
コカインの罪で有罪となり、5年間の保護観察を受けた。
その後、Dick Jensen は生涯と音楽的才能を教会に捧げた。

で、本件B面でクールなサーフロッカーを聴かせる Tom Moffatt だが、
彼はハワイのコンサートプロモーター、起業家、
有名ラジオDJとしてハワイでの Elvis Presley のライヴや
イヴェントをサポートした人物で自身の Paradise Productions
のオーナーだった。

 
20-05
The Golden Nuggets - Surf Everybody
(7: Hawk Records H-106) 1963
The Golden Nuggets は "Papa-Oom-Mow-Mow" でお馴染みの
The Rivingtons のようなスタイルの R&B vocal group だった。
彼らは1963年3月22 〜 24日の週末に Santa Monica の
Deauville Castle Club で開催された"Surf Battle" に参加した経歴を持つ。
この Hawk Records はサックス奏者で投資家の Jimmie Maddin
が所有するレーベルで、本件シングルで熱いサックスプレイを
聴かせているのは Jimmie Maddin 本人と思われる。
Jimmie Maddin は George Motola と彼の妻でスーパーセッション
シンガー Rickie Page (11-15 を参照。The Majorettes, The Bermudas
等が有名) が書いた "Jeannie, Jeannie, Jeannie" を1958年に
リリースし Eddie Cochran のヴァージョンと競作となった
事でも有名 (12-16 Jeff And The Gino's を参照)

Jimmie Maddin は1940年代には様々な劇場に出入りしていて
Duke Ellington, Clyde McCoy や Benny Carter ら当時の多くの
ビッグバンドのトップミュージシャン達と出会い、彼らと交友を
持っていた。その後1946年に軍に入隊し、日本で陸軍楽隊で
演奏した。退役後に彼は Los Angeles のクラブで演奏し始め
"Nighthawk Bandstand" と言うラジオの生放送番組を主催し、
“Honking” と呼ばれる通称「鳴き声」スタイルを開発し
ロックンロール上のサックスのスタイルに貢献した。
1951年に Jimmie Maddin は自身のナイトクラブを購入し、
1958年から1961年にかけて、彼はハリウッドの有名な
ナイトスポットである The Summit を所有していた。
Jimmie Maddin は後に 6507 Sunset で Sundown Club を所有し、
Wilshire の The Mardi Gras, The Sanbah Room, The Trojan Room,
そして Hot Toddies ら有名クラブを所有した。
Jimmie Maddin の最初のリリースである “Boogie Boo" には、
ジャズの偉大なサックス奏者 Benny Carter が参加した。

また Jimmie Maddin はショービジネスにも介入しており、
American International Pictures による1959年のカルト映画
The Ghost of Dragstrip Hollow に出演した。
因みにこの映画はモンスターコメディーのカルトムーヴィーで、
映画で使用されたインスト曲は The Renegades 名義でシングル
カットされている。そのグループは俳優志望だった若き Kim Fowley,
Bruce Johnston, Sandy Nelson の3人を母体とし Nick Venet と
Richard Podolor が参加している。それは Bruce Johnston の
初期ワークスとしても知られる。
ついでに記述すると Jimmie Maddin 本人曰く「私は The Seeds の
1967年のヒット曲 “Pushin’ Too Hard” のクレジットされていない
プロデューサーである」と言っているが、恐らく彼はセッションに
投資してたのだろう。


Jimmie Maddin
 
20-06
The Premiers - Daytona
(7: RRR 100) 1963
The Premiers と言うバンドはアメリカに多数存在するが、
こちらはジョージア州アトランタのガレージバンド。
“Farmer John”で有名なカリフォルニアのバンドとは関係ない。
女性コーラスグループを配した所謂 Beach Rocker で
熱い Sax break が決まった隠れた逸品だ。
 
 
20-07
Pete Cummins And The Redeemers Four - The Surfin' Freeze
(7: Raelex 45-50) 1963
Michigan 州 Lansing 所在の超マイナーレーベルから、と言っても
カスタムプレスの自主盤である。
同地はミシガン州の州都で、州都であるため、多くの雇用者は
政府職員である。また、市の周辺にゼネラルモーターズが
複数の工場を持っており、住民の多くが雇用されている。
そんな土地柄か、事務系の職種に就くホワイトカラーと
工場で働くブルーカラーが共存しているためにバランスを考えた
のだろうか、このバンドはサーフィンテーマを歌った。
通常ならゼネラルモーターズの労働者相手にキャデラックやシボレーを
テーマに歌うところだが、ホワイトカラーに配慮してオイル汚れの
ないサーフィンソングにしたっぽい。と言うのも1963年には
同地である五大湖周辺では「サーフィンって何ぞや?」といった
雰囲気がミシガン州の政府職員達にはあっただろう。
「相も変わらずオイル汚れのカーソングなら他でやれよ」といった
視線を考慮したのだろう。そんな労働階級が集まるクラブのライヴを
生録音したような Lo-Fi サウンドが魅力のロックンロールで
古典的なピアノブレイクがかっこいい。

作曲は Jerman, Cummins (D. Jerman, P. Cummins) とクレジット
されているが、このグループは1962年にも Pete Cummins が書いた
ワイルド ロッカー インスト Nitobe / Damasquinage (Raelex 45-10)
をリリースしており、本件シングル同様にプレスしたのは
Royal Plastics Corporation だった。
これは1946年にオハイオ州シンシナティに設立された工場で、
ここで製造されたレコードは通常 King Custom Pressings と呼ばれる。
この会社は James Brown も所属していたオハイオ州シンシナティの
King Records と連携して運営されており、設立当初から1970年代初頭に
最終的に業務を停止するまで、他の多くのクライアント向けに
カスタムプレスサービスも提供していた所謂プレス請負会社だった。

 

Tom & Jerry (Tommy Tomlinson and Jerry Kennedy)
20-08
The Tides - Beach Town Surfers
The Tides - Surfin' Along
(LP: Mercury Wing MGW 12265 mono / SRW 16265 stereo) 1963
From album "Surf City / Surfin' USA And Other Surfin' Favorites"
They also released Promo only 7inch EP:
Australia Philips DJ "Rush!" DJ-124 in 1963
And LP: Australia Philips PD-124 mono in 1963.
The Tides は Jerry Kennedy のスタジオ・グループの1つで、
1962年からこの名前で Mercury Records でレコーディングを行っていた。
Tommy Tomlinson と Jerry Kennedy (Tom & Jerry) の名ギタリストコンビ
は当時 Mercury Records で低予算のアルバムを制作しており
このアルバムはその中の1枚で Surfin' Hot Rod をテーマにしたもの。
当時オーストラリアではプロモオンリーで 7inch EP が配布され
モノラル盤のみだがアルバムもリリースされた。
日本でも7inch EP とアルバムが他のアーティストとの編集盤だが
リリースされている。

本件で歌を歌っているのは The Merry Melody Singers だ。
(Elvis Presley のバックアップヴォーカルを担当した
The Jordanaires の一部であった女性コーラス隊)
この The Merry Melody Singers には Margie Singleton が参加してた。
彼女は13歳で南部の帝王 Shelby Singleton と結婚しており、
作曲家でもあった彼女は本件アルバムリリース当時は28歳で
Elvis Presley のバックアップシンガーであり、Mercury Records の
副社長夫人でもあった。Margie Singleton は本件作品を Jerry Kennedy
と共作しているが "Beach Town Surfers" は Foster "Camptown Races"
(邦題: 草競馬) をパクった軽快なサーフチューンだ。

Jerry Kennedy は、アメリカのプロデューサー、ソングライター、
ギタリスト、ドブロ奏者。The Wrecking Crew の南部ヴァージョンで
Muscle Shoals 録音でも有名な The Nashville A-Teamのメンバー。
彼の息子は Eric Clapton の “Change the World" の作者でナッシュビル
のプロデューサー Gordon Kennedy, そして Garth Brooks の
1993年のヒット曲 "American Honky-Tonk Bar Association"
の作者 Bryan Kennedy である。
Jerry Kennedy は11歳のときに RCA Records とレコーディング契約
を結び数枚のシングルをレコーディングしたが、そのうちのいくつかには
Chet Atkins の曲も含まれていた。
その後、Jerry Kennedy は高校生でティーンアイドルのような存在になった。
ヴォーカリストとしてスターになることはなかったが、10 代の頃は
Mercury Records のアーティスト数名のバックヴォーカルを務めた。
彼の地元 Shreveport シュリーブポート周辺のレコーディングセッション
で数年間働いた後、Mercury Records の社長 Irving Green に説得されて
彼はナッシュビルに移住した。その頃はちょうど1960年代の
カントリーミュージックブームが始まった頃で、到着後すぐに彼は
Mercury Records のカントリー系子会社である Smash Records の
タレントスカウトとして働き、プロデュースとレコーディングセッション
での演奏を始めるよう依頼された。

Jerry Kennedy-Margie Singleton による作品については
18-03 The Bentleys - She's My Hot Rod Queen も参照のこと。

有名な Country music show の Louisiana Hayride のスター
Tommy Tomlinson (ルイジアナ州ミンデン出身)と Jerry Kennedy は
1960年に Mercury Records のために Tom & Jerry 名義で4枚の
ギターインストゥルメンタルアルバムを制作した。
彼らのアルバムは、あらゆるジャンルの音楽をカヴァーし
Hank Garland, Boots Randolph, Bob Moore, Harold Bradley も参加した。
Tommy Tomlinson と Jerry Kennedy は流行に応じてサーフインスト
アルバム Tom & Jerry Surfin' Hootenanny
(Mercury MG 20842 mono / SR 60842 stereo) を
1963年11月30日にリリースした。

因みに Margie Singleton の夫である Shelby Singleton は
軍役除隊後にルイジアナ州 Shreveport シュリーブポートに拠点を置く
軍需会社で5年間働き、その後 Starday Records のカントリーミュージック
カタログのプロモーションに雇われた。
Starday Records と Mercury Records のマーケティング契約が終了したとき
Shelby Singleton はプロモーションマンとして Mercury Records に雇われた。
彼は社内で昇進し、Mercury Records のナッシュビル支社のレコード
プロデューサー兼役員となった。彼は Mercury Records と
その姉妹レーベルであるSmash Recordsで9年間を過ごし、
その間に多くのヒットレコードのプロデュースに関わった。

1962年、Shelby Singleton はもともと LeCam Records から
リリースされていた Jill and Ray の "Hey Paula" のマスター録音を購入し
彼は彼らの名前を Paul & Paula に変更しての曲を Mercury Records
の姉妹レーベルである Philips Records からリリースした。
この曲はビルボード・ホット100で3週間1位を獲得した。
1966年までに Shelby Singleton は Mercury Records の副社長になったが
SSS International や Plantation Recordsなど、幾つかの独立レーベルを
設立するために辞任した。彼は1968年に Jeannie C. Rileyの
"Harper Valley PTA" で最初の1位を獲得した。
Shelby Singleton は Sam Phillips から Sun Recordsと
そのロックンロールカタログを買収し再発に努めた。


Margie Singleton


Tommy Tomlinson


Jerry Kennedy



 

Eddie Carrozza (AKA Eddie Carr, Little Eddie)
20-09
Pilt Down Five - '32' Ford / The Tick
(7: Parliment Records, Inc 102) 1964
Pennsylvania 州 Coatesville のガレージバンドで作者のクレジット
Eddie Carrozza を見て反応した人は Northern Soul やファンクマニア
だろう。Eddie Carrozza は Eddie Carr, Little Eddie とも知られ
Eddie Carr & The Navajos (A&M Records 933) やレアなソウルアルバム
のリリースでも名を馳せる。

彼自身は子門真人のようにハイトーンで粘っこいヴォーカルの
持ち主だが、本件シングルはまだ若く、車の効果音を上手に
挿入するなど、Surfin’ & Hot Rod のムーヴメントに参加した
ローカルバンドとしての躍動感に溢れている。
また東部のローカルシーンを伺えるロックンロールチューンと
場末のクラブを想起させる Lo-fi が心地よい。
B面で聴かせるサーフインストも出来が良く Eddie Carr の
才能が伺える好盤だ。

 

The Dovells (The Woofers / The Scramblers)
20-10
The Woofers / The Scramblers - Down By The Draggin' Strip
The Woofers / The Scramblers - Mister Hot Rod

The Woofers - Dragsville
(LP: Wyncote W-9011 mono / SW-9011 stereo) 1964
Surfin' & Hot Rod コレクターには The Dovells - Dragster On The Prowl
が有名なフィラデルフィアの Vocal Quartet の The Dovells だが
彼らを一躍有名にしたのは1961年に全米2位となった彼ら細大の
ヒット曲 "Bristol Stomp" である。
因みに1位は Dion の "Runaround Sue" だった。
The Dovells のグループメンバーは以下
Leonard Borisoff (Aka Len Barry: Lead and Tenor)
Jerry Gross (Aka Jerry Summers: Lead and First Tenor)
Mike Freda (Aka Mike Dennis: Second Tenor)
Arnie Silver (Aka Arnie Satin: Baritone)

The Dovells はその後数年間にわたって一連のシングルをリリースした。
その中には1963年にビルボード・ホット100のトップ・ヒットとなった
"You Can't Sit Down" も含まれていた。グループメンバーの Len Borisoff は
1963年末に脱退し、Len Barry という名前でソロ活動を始めた。
彼のソロキャリアの最高点は、1965年のヒット曲 "1-2-3" と
それに続くヒット "Like a Baby" だった。
そんなビッグネームの The Dovells だが彼らは Cameo/Parkway 系の
ハウスバンドとして同レーベルの人気アーティストのバックコーラスを
担当するという役もこなしていた。そんな彼らが時流に乗って
Cameo/Parkway 系の廉価盤レーベルである Wyncote より
変名ユニット名義でリリースした中には
The Liverpools - Beatle Mania! In The U.S.A. (Wyncote W 9001)
1964年の、あのひでえビートルズパチモンアルバムも含まれる。
そして Surfin' & Hot Rod ブームに便乗し二つのグループ名義の
アルバムをリリースしたのが本件で、名前を使い分けてるが同じ音源である。
The Woofers - Dragsville (Wyncote W/SW-9011)
The Scramblers - Little Honda (Wyncote W/SW-9048)
互いの異なる収録曲は両面の1曲目
The Woofers A-1 "Drag City", B-1 "Little Deuce Coupe"
The Scramblers A-1 "Little Honda", B-1 "G.T.O."
で、B-1 "G.T.O." に関してはエレクトリック・ステレオ・リチャネリング
による初期録音の収録となる。True Stereo ではなく初期の擬似ステレオ。
さらに細かい事を言えば、"Dragster On The Prowl" の Mono version は
The Dovells のシングルと同じだが、Stereo version はそれより20秒長い。

 

The Dovells (The Scramblers / The Woofers)
20-11
The Scramblers - Little Honda
The Scramblers - G.T.O.

The Scramblers - Little Honda Featuring GTO
(LP: Wyncote W-9048 mono / SW-9048 stereo) 1964
Surfin' & Hot Rod コレクターには The Dovells - Dragster On The Prowl
が有名なフィラデルフィアの Vocal Quartet の The Dovells だが
彼らを一躍有名にしたのは1961年に全米2位となった彼ら細大の
ヒット曲 "Bristol Stomp" である。
因みに1位は Dion の "Runaround Sue" だった。
The Dovells のグループメンバーは以下
Leonard Borisoff (Aka Len Barry: Lead and Tenor)
Jerry Gross (Aka Jerry Summers: Lead and First Tenor)
Mike Freda (Aka Mike Dennis: Second Tenor)
Arnie Silver (Aka Arnie Satin: Baritone)

The Dovells はその後数年間にわたって一連のシングルをリリースした。
その中には1963年にビルボード・ホット100のトップ・ヒットとなった
"You Can't Sit Down" も含まれていた。グループメンバーの Len Borisoff は
1963年末に脱退し、Len Barry という名前でソロ活動を始めた。
彼のソロキャリアの最高点は、1965年のヒット曲 "1-2-3" と
それに続くヒット "Like a Baby" だった。
そんなビッグネームの The Dovells だが彼らは Cameo/Parkway 系の
ハウスバンドとして同レーベルの人気アーティストのバックコーラスを
担当するという役もこなしていた。そんな彼らが時流に乗って
Cameo/Parkway 系の廉価盤レーベルである Wyncote より
変名ユニット名義でリリースした中には
The Liverpools - Beatle Mania! In The U.S.A. (Wyncote W 9001)
1964年の、あのひでえビートルズパチモンアルバムも含まれる。
そして Surfin' & Hot Rod ブームに便乗し二つのグループ名義の
アルバムをリリースしたのが本件で、名前を使い分けてるが同じ音源である。
The Woofers - Dragsville (Wyncote W/SW-9011)
The Scramblers - Little Honda (Wyncote W/SW-9048)
互いの異なる収録曲は両面の1曲目
The Woofers A-1 "Drag City", B-1 "Little Deuce Coupe"
The Scramblers A-1 "Little Honda", B-1 "G.T.O."
で、B-1 "G.T.O." に関してはエレクトリック・ステレオ・リチャネリング
による初期録音の収録となる。True Stereo ではなく初期の擬似ステレオ。
さらに細かい事を言えば、"Dragster On The Prowl" の Mono version は
The Dovells のシングルと同じだが、Stereo version はそれより20秒長い。

 
20-12
TThe Sand Fleas - Miracle Strip, USA
(7: Exclusive 2284) 1964
1960s label from Chattanooga, Tennessee.
Excellent beach pop rocker.
Written by Lindsey.

 

Bobby Fuller
20-13
Bobby Fuller - King Of The Beach
(7: Exeter EST 122) 1964
Bobby Fuller は人気絶頂の1966年7月18日、テキサス州エルパソ
で死亡した。おそらく殺害されたのだが、彼の死について語ると
本100冊書いたところで意味はないので割愛する。
Bobby Fuller はテキサス州ベイタウンで生まれた、母方の兄の
Jack と弟の Randy を持つ3人の男の子の真ん中として生れた。
彼は幼少期にユタ州ソルトレイクシティに移り、1956年に
家族とともにテキサス州エルパソに移るまでそこに住んでいた。
彼の父はその時、エルパソ天然ガスに就職した。
Elvis Presley が人気を博したのと同じ年で、Bobby Fuller は
新しいロックンロール・スターに魅了された。
彼はすぐに仲間のテキサス人 Buddy Holly のスタイルを採用し、
4人のコンボの前に立ち、しばしばオリジナル曲を歌った。

1960年代初頭、彼はエルパソのクラブやバーで演奏し、
テキサスの独立系レコードレーベルで常にラインナップを変えながら
レコーディングを行っていた。
バンドの常連メンバーは Bobby Fuller とその弟の Randy Fuller だけ
だった。これらの独立したリリース (Clovis の Norman Petty の
スタジオで録音された2曲を除く) と、同じくニューメキシコ州
にある Yucca Records への出張は、Bobby Fuller 自身の
ホームスタジオで録音され、Bobby Fuller がプロデューサーを務めた。
彼は裏庭に原始的なエコーチェンバーまで作り、いくつかのマイクと
地元のラジオ局から購入したミキシングボードを使用したレコーディング
の品質は非常に印象的だったので、彼は自分のスタジオの使用を
地元のミュージシャン達に無料で提供し、彼自身も制作スキルを
磨くことができた。
本件シングルはその頃の作品で、自らが行った自宅録音だ。
Bobby Fuller はその1964年に彼のバンド Bobby Fuller Four と共に
Los Angeles に移り、Ritchie Valens を発見し多くのサーフグループ
をプロデュースしたことで知られるプロデューサー Bob Keane の
Mustang Records と契約した。

 

The Bobby Fuller Four
20-14
The Bobby Fuller Four - King Of The Wheels
The Bobby Fuller Four - The Phantom Dragster
(LP: Mustang Records M-900 mono / MS-900 stereo) 1965
Bobby Fuller はその1964年に彼のバンド Bobby Fuller Four と共に
Los Angeles に移り、Ritchie Valens を発見し多くのサーフグループ
をプロデュースしたことで知られるプロデューサー Bob Keane の
Mustang Records と契約した。
Bobby Fuller Four は地元エルパソに戻り、彼らのデビューアルバム
KRLA King Of The Wheels を制作した。
本件2曲はそのアルバム収録曲で、"King Of The Wheels" は
Bobby Fuller がソロでシングルリリースしていた "King Of The Beach"
の Hot Rod ヴァージョンである。

Bobby Fuller Four は The Crickets による1960年の "I Fought the Law"
をカヴァーし、ローカルシーンで話題となった。
1964年末までに Bobby Fuller は Los Angeles に進出する事が
全国ヒットにする選択肢と考えた。
この時までに、グループはそれぞれ Bobby Fuller のヴォーカルと
ギター、彼の兄弟 Randy Fuller のベース、Jim Reese のギター、
DeWayne Quirico のドラムで構成されていた。
オリジナルメンバーだったドラマーの Dalton Powell のみが家族の
事情で Los Angeles に引越しできなかったので、ドラマーは
Bobby Fuller が直接指導した DeWayne Quirico と替わった。

Members are
Bobby Fuller
Randy Fuller - Bass and rhythm guitar
Jim Reese
Dalton Powell
DeWayne Quirico - Drums

このラインナップで "I Fought The Law" を録音したが実際には、
ヒットした 45rpm シングルヴァージョンと、再録音された
アルバムの2つのヴァージョンがある。アレンジは同じだが、
Bobby Fuller によるヴォーカルは若干異なる。
British Invasion と Folk Rock がミュージックシーンの支配的な
ジャンルだった時代に、Bobby Fuller は Buddy Holly のクラシックな
ロックンロールスタイルと Tex Mex (Texas と Mexico 音楽の融合)
の繁栄に固執した。
Bobby Fuller Four が歌った "I Fought the Law" は1966年1月29日
をピークに全米9位の大ヒットとなり、Buddy Holly の死後に
The Crickets がリリースした "Love's Made a Fool of You" を
Bobby Fuller Four がカヴァーしたヴァージョンは1966年4月16日
をピークに全米26位のスマッシュヒットとなり、彼らの最後の
チャートヒットとなった。

It used to be scrap in an old junk yard
'Til some jocks got together and they thought real hard
They wanted good looks with a lot of go
Better than the ones at the custom shows
KRLA King of the Wheels

Took engine, stuck it under the hood
And a bright yellow paint job that sure looks good
You hear all about it on a radio station
It's a Model A coupe that's the end of creation
KRLA King of the Wheels

It's the hottest machine seconds runs and less

Goes to a quarter eleven seconds and less

Instrumental

It's the hottest machine seconds runs and less

Goes to a quarter eleven seconds and less

Well it's cruising the streets gets noises high
People stop what they're doing when it passes by
Is not very big but it sure is fast
And the Maltese Cross sets it off in class
KRLA King of the Wheels

 

The Bleach Boys
20-15
The Bleach Boys - Wine, Wine, Wine
(7: Studio City Records SC 1030) 1965
South Dakota 州 Sioux Falls 出身のガレージバンド。
この曲 "Wine, Wine, Wine" の歴史を簡単に説明すると
先ず Floyd Dixon が1952年6月に Jump blues version で
(Aladdin 45-3135) をリリース、その後 R&B のスタンダード
として普及していったのだが、Texas 州 Dallas のガレージバンド
The Nightcaps がこの飲酒運転曲をサーフスタイルの R&R へと
改造に成功し (Vandan VR-7491) を1960年10月にリリースした。

The Nightcaps のヴァージョンは中南部や南部のガレージシーン
で人気を博し、Colorado 州 Boulder のサーフバンド
The Astronauts が1964年に彼らのアルバム "Everything Is A-OK!"
(RCA Victor LPM-2782 mono / LSP-2782 stereo) にライヴスタイルで
The Nightcaps のヴァージョンのカヴァー曲を収録した。

本件 The Bleach Boys - Wine, Wine, Wine は The Astronauts の
カヴァーヴァージョンを参考にしたサーフガレージチューンで、
ガレージバンドファンの間でとても人気が高い。
The Bleach Boys のメンバーを記述しておく
Dave Rettig, Jay Stout, Rick Yarnall, Ron Odson.

 

The Embers
20-16
The Embers - I'm Going Surfin' Now
(7: Suemi Records ST 4553) 1965
Texas 州の El Paso 出身の Surf garage band だ。
同地はテキサス州最西端に位置する都市で
メキシコとの国境となっているリオグランデ川の北東岸、
シウダー・フアレスの対岸に立地し、市の西と北は
ニューメキシコ州との州境に接する。
ヒューストンとロサンゼルスのほぼ中間にあり、
そのいずれからも1,100km前後の距離である。
そんな退屈なエリアから出てきたローカルバンド。
単調なチューンだが彼らがヒューストンに背を向け
ロサンゼルスを見つめていたのが間奏部の
Guitar break からヒシヒシと伝わってくる。

 
20-17
The Four Frogs - Think I'm Losing You
(7: The Frogdeath FROTH 2) 1965
New Mexico 州のバンドで、彼らの唯一のリリースだが
この The Frogdeath (カエルの死) というユニークなレーベル名と
そのレーベルデザインによってカルト人気も高い。
プロデュースを担当した Steve Crosno は Texas 州 El Paso の
人気ラジオ局 KELP. の DJ で、彼は "Crosno's Hop" という
テレビの人気ダンスショー番組を1961年夏から1970年まで
持っていた人物としても知られる。

本件シングルはピクチャースリーヴを付けてリリースされており
GS風の曲調で、風呂のようなエコーがかかった Fadeout が妙に
長く、それが印象的でもある。グループメンバーを記述しとく
The Four Frogs members were
Bert Peters, Claude Perilli, Colin Flannigan,
Billy Withers and David Caflan.

 
20-18
The Waikiki Surfriders - Hawaiian Rock
(LP: Design Records DLP 243 mono / SDLP 243 stereo) 1965
Design レーベルは1957 年に Pickwick Sales Corp の
子会社として立ち上げられた。
1965 年まで、すべての Design のリリースはモノラル
だったが1965年からステレオ盤のリリースが始まった。
他の多くの低予算レーベルと同様に、Design Records は
社内のスタッフを使って曲を書き、一般的なオーケストラ
のアレンジを行った。
The Velvet Underground 以前に Lou Reed はスタッフシンガー、
ギタリスト、ソングライターとして、60 年代半ばの
Design のコンピレーションやアルバムのいくつかに登場した。
もちろん本件アルバムは Lou Reed の関与は確認されていない、
しかし奇妙で革新的なハワイアンアルバムである。
見事に Hawaiian Music のロック化に成功した本件トラックを
聴けば頭の切れる人物が曲を書いて、アレンジを行ったのが
解るだけに、Lou Reed の関与すら疑いたくなる。

 

The Tren-Dells
20-19
The Tren-Dells - Tough Little Buggy
(7: Jam Records 45-111) 1965
The Newbeats の1964年の曲を Kentucky. 州 Louisville
のヴォーカルグループがカヴァーしたのが本件。彼らは
The Trend-Els (Tilt 779), The Corners Four (Philips 40488)
の変名リリースもあるが、まず1960年に The Four Frantics
として結成された4人組だ。
Johnny Hourigan (Lead)
Joe Bergman (Tenor)
William Summitt (Baritone) replaced by Jim Settle in 1961,
replaced by Charlie Schuck in 1965,
Bill Mathley (Bass)

The Newbeats のオリジナルヴァージョンは車の効果音が
印象的だったが、The Tren-Dells のヴァージョンは
歌声勝負って感じで、効果音を入れていない。
The Newbeats のオリジナルヴァージョンと意味は一緒だが
歌詞が若干異なる部分があるので聴きながら書いた
歌詞を記述しとく。

My little Corvair
My little Corvair

I had a little Corvair
And it's really tough
Four on the floor and that was enough
I took my baby ridin'
Now we're goin' for green
There's no doubt about it
It's a goin' machine

It was a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair

I was out ridin' one Saturday night
And then I saw a horrible sight
My old buddy had a two plus two
And who's my baby with but you know who

It was a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair

I told him he'd better move out of my way
For I was there first and I was there to stay
He talkin on about it gassy and I did too
We both peeled rubber 'til the was blue

It was a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair

Now we're both walkin'
And it's plane to see
No more girl for him
No more car for me
The boys went down
Oh, wouldn't you know
She's got her own wheels
And a bless my soul

It's a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair

My little Corvair
My little Corvair

My little Corvair
My little Corvair

 
20-20
Gene O'Neal & Mr.”T” - Woody-Woody
(7: Yardbird Records ?YBD-65-1203) 1965
Yardbird Records はハリウッドのレーベルでサイケアンダーグラウンド
コレクターには The Sweet Marie のアルバムが有名で、
ガレージサイケファンには The Starfires のシングルが有名。
そんな弱小ローカルレーベルの初期シングルがこれ。
同レーベルのカタログ番号からもかけはなれた番号であり
恐らく1965年12月3日のリリースがこの番号なのだろう。

 

The Boys Next Door
20-21
The Boys Next Door - I Could See Me Dancing With You
(7: Cameo C-394) 1965
インディアナ州インディアナポリスのグループで彼らは元々
The Four Wheels と名乗って Delaware Records と Soma から2枚の
シングルをリリースしていた。メンバーはピンストライプのシャツを着て
The Beach Boys of the Midwest として地元周辺で知られた存在になった。
彼らは当初 The Beach Boys の影響下にあるサウンドだったが、
The Boys Next Door となってマイナーメンバーチェンジを行っている。
Steve Lester (Lead Guitar, Vocals)
Jim Adams (Rhythm Guitar)
Steve Drybread (Bass, Vocals)
Skeet Bushor (Keyboards, Vocals)
Jim Koss (Drums, Vocals)

彼らは Herman's Hermits, The Hollies, Jerry Lee Lewis,
そして The Beach Boys が同地でライヴを開催した際には
オープニングアクトを務めるまでに成長した。

本件シングルは The Tokens の所有する
Bright Tunes Productions がプロデュースを担当しており、
前作までとは異なり明らかにサウンドが向上している。
本件シングルは The Tokens が書き下ろした曲で、
Al Kooper-Irwin Levine の曲 “There Is No Greater Sin”
とのカップリングによる両A面シングルとして1965年にリリースされ、
それはローカルヒットを飛ばした。その後 ATCO と契約し
徐々にスタイリッシュなサウンドを聴かせはじめ2枚の
シングルをリリース。しかし、彼らはインディアナポリス以外
ではほとんど知られず、全国区の知名度に至らぬままだった。
それはグループの個性オリジナリティーを持たぬまま
The Beach Boys フォロワー的な立ち居地のローカルバンド
ならではのジレンマと言えるだろう。

所謂 Surfin’ Hot Rod ブームの終焉、After The Surf の時代に
ミュージックトレンドは西海岸のフラワーサイケへと移行しており
彼らは岐路に立たされていた。リードシンガーの Steve Lester は
流行の西海岸のサイケデリック音楽に転向したいと考え、
ドラマーの Jim Koss とキーボード奏者の Skeet Bushor は
ルーツの回帰を視野に R&Bを演奏したいと考えた。
彼らは音楽の方向性をめぐって争い、結局1967年後半に
グループは解散した。



 

The Tokens
20-22
The Tokens - I Could See Me Dancing With You
(7: UK Fontana TF 683 Mono) 1966
(LP : B.T. Puppy Records BTPS-1014) 1970
The Tokens は The Boys Next Door の
”I Could See Me Dancing With You” を書き下ろし、
Al Kooper-Irwin Levine の曲 “There Is No Greater Sin”
とカップリングされ1965年にCameo C-394 でリリースされ、
それはローカルヒットを飛ばした。
The Tokens は米国で ”I Could See Me Dancing With You” を彼ら自身の
シングルとしてリリースしないことに決めた。

しかし英国のレコードレーベル Fontana はこの曲を
“I Hear Trumpets Blow” のB面として合わせてリリースした。
米国では、The Tokens の “I Hear Trumpets Blow” にB面として
“Don’t Cry Sing Along With The Music” でカップリングサポートしていた。
結局 “I Hear Trumpets Blow” はビルボード Hot-100で30位に達した。
米国のディストリビューターおよび製造元 Jay Gee Recording が
製造した The Tokens の ”I Could See Me Dancing With You”
は、B.T. Puppy から1970年にリリースされたアルバム
"December 5th" (B.T. Puppy Records BTPS-1014) に収録され
遅ればせながら米国でリリースされたが、The Tokens の人気が
低下してた頃のアルバム故に入手が非常に困難なアルバムとなった。

 

Bobby Russell


Buzz Cason
20-23
Bobby And Buzz - Watermelon
(7: Monument 45-954 Promo only) 1966
(7: Monument MN-45-954 Promo only) 1966
Bobby Russell はシンガーソングライターとしての下積みが長かった。
1959年から18歳でソングライターデビューしており
同年にカントリーデュエット Sadie & Bobby Russell -
Shackled / Not Even Friends (D 1115) でレコード
デビューをし、やはり1959年にはソロのティーンポップ
シンガーとして Dum Diddle / Perhaps (Felsted 45-8559)
でソロデビューしている。そんな中 Bobby Russell は
地元 Nashville の音楽シーンで多くのグループを
掛け持ちしていた Buzz Cason と出会う。

Buzz Cason は Snuff Garrett のアシスタントとして
Los Angeles に出向いて1960年からソロシンガー
としてのキャリアーを確立しようとしており
彼は Liberty Records と契約し映画 "Circus Of Horrors"
の主題歌を変名の Garry Miles 名義でリリースした
"Look for a Star" が6月20日をピークに全米16位の
ヒットとなった。(注:綴りの異なる Garry Mills -
Look for a Star Part 1 Imperial 5674 は違うシンガーに
歌わせており、そちらのヴァージョンも6月20日を
ピークに全米26位のヒットとなる)
Bobby Russell と Buzz Cason が出会ったのは
そんな頃だった。Snuff Garrett のアシスタントだった
Buzz Cason は Bobby Russell と一緒に "Tennessee"
と言う地元を題材とした所謂御当地ソングを書いたところ、
その曲は Jan & Dean によってシングルカット
(Liberty F-55454) をされた。プロデュースは
Lou Adler, Snuff Garrett が担当しており、
この曲は1962年5月26日をピークに全米69位の
スマッシュヒットとなった。この手応えを得た Buzz Cason
と Bobby Russell は West Coast の Youth Culture
を意識したサウンドを作り始める。

Buzz Cason と Bobby Russell はソングライターや
録音ユニットとして 1963年から Hit Recordsに参加する。
Hit Records は Spar, Giant, Modern Sound など
多くの系列会社を持っていたが、すべては廉価盤を販売
する会社だった。これらの会社のレコードは、一般の
レコード店ではなく、例えばロー・ティーン向けの
キャンディ・ストアーやスーパー・マーケットで販売
されたものだ。1960年代当時、普通の大手レコード会社
のシングル盤が1枚98セントや1ドルで売られていた
ところを、これらの廉価盤レーベルは1枚39セント、
もしくは3枚で1ドルという低価格で販売していたのだった。
「39セント」という価格は、Hit Records のオリジナルの
カンパニースリーヴに堂々と印刷されている。
そしてそのカタログは、The Beatles や The Beach Boys
らを初めとする人気グループのヒット曲の安易な
カヴァーソングも多かったが、実はオリジナルソングには
内容の良いものも多く残されており、現在ではそのコレクター
がいるほどだ。

Bobby Russell はセッションシンガーとしても参加し、
そこで作られていったサウンドは後に Buzz Cason や
Bergen White らと外部から参加した
Ronny & The Daytonas へと発展する。Bobby Russell は
1963年から Bergen White, Benny Latimore, Alpha Zoe
らと The Jalopy Five や The Music City Five と言った
名義のスタジオセッションバンドで地元ナッシュビルの
廉価盤レーベル Hit Records とその系列レーベルの
Giant Records や Modern Sound, Spar Records 等で
録音していた。そこには Bobby Russell And
The Tennessee Three (1963年 Hit Records) や
Merry Men (1963年 Giant Records) のような
彼のプロジェクトユニットも含まれる。

Bobby Russell のヴォーカルで歌われているこれらの
Hit Records や Spar のレコーディングには、
Buzz Cason (Guitar, Keyboard, Vocal)
Bill Justis (Saxophone)
Floyd Cramer (Keyboard)
Hank Garland (Guitar)
といった多くの南部出身の有名ミュージシャンたちも
参加している。
Buzz Cason は The Ronny And The Daytonas の
レコーディングにも参加、Buzz And Bucky
(Buzz Cason & Buck Wilkin) としてのシングルも残し、
更には Los Angeles に出て、Surf Music と大きく
関わっていく。Bill Justis は "Raunchy" のヒットで
最もよく知られ、Sun Records における Rockabilly
や Rock And Roll の伝説的なアーティストたちとも
関わりが深く、彼は Ronny And The Daytonas の
マネージャーとプロデューサーも務めた。
Floyd Cramer と Hank Garland の2人は、
Elvis Presley の Nashville セッションにも参加した
猛者たちだ。そしてスタジオにおける Bobby Russell
の役割は主にヴォーカル、プロデュース、
そして Bergen White はプロデュース、ヴォーカル
の他、ストリングスやホーンのアレンジも担当していた。

で本件 Bobby And Buzz はその名のとおり
Bobby Russell and Buzz Cason で、1966年にプロモ盤のみ
配布された One-off ユニットである。
A-side は The Countdowns 名義で (Bobby Russell and Buzz Cason
with Tony Moon) 1961年6月26日にナッシュビルのレーベル
Image 45-5002 からリリースした彼らの初期作品のセルフカヴァー。
この曲は同じ1961年6月26日に Gene Vincent & His Blue Caps
のメンバーだった Paul Peek が Fairlane 45-21005 でリリースして
当時は競作となった。
これは初期の Jan & Dean のようなスタイルで歌われるサーフ系
ビーチポップロッカーのダンスチューン。
Buzz Cason-Tony Moon が書いており、Tony Moon はプロデューサー、
ソングライター、Dante And The Evergreens のメンバーでギター奏者。
1962年にグループが解散した後、ナッシュビルに移り、その後数年間
Brenda Lee の指揮者とギター奏者を務めた。
Buzz Cason が参加した The Casuals - Mustang 2 + 2
(Sound Stage 7 45-2534) だが、これは Tony Moon が指揮した
元々は Brenda Lee のバックバンドだった。

B-side は Buzz Cason-Bobby Russell が書いた Obscure folky blues で
この曲は Mighty Sam がこのバックトラックを用いてカヴァーし
1966年に Amy 957 からリリースした。
Buzz Cason がオーナーを務めた Bell Records の子会社 Elf から
Clifford Curry が1967年に Elf 90,003 でカヴァー リリースし
Produced by Buzz Cason for Russell - Cason Productions.
Bert Hunter は1968年に Elf 90;012 でカヴァー リリースし
プロデュース、アレンジは Buzz Cason, Mac Gayden が務めた。

 

Harry Deal & The Galaxies
20-24
Harry Deal & The Galaxies - I Feel Good All Over
(7: Laurie Records LR 3338) 1966
(LP: Lotus Records 6-7116) 1966
North Carolina 州で長いキャリアを誇るグループで
Harry Deal and Jim Deal の兄弟自らが所有する Galaxie III Studios
のクレジットはよく同地のバンドのレコードで確認されるので
North Carolina の名門スタジオとして機能したのだろう。
で、本件は彼らのメジャーリリースシングルなのだが
彼らの自主盤アルバムにも収録されてる。
で、当初は赤いジャケットだけだと思っていたら
黒いジャケットで裏写真も異なるヴァージョンが存在していた。
グループメンバーを記述しておく
Harry Deal, Jim Deal, Bob Marshall, Lynn Barker, Mike Carrigan.

 

Gary Marlow & The Centuries
20-25
The Centuries - Beach Umbrella World
(LP: Numero Group 074) 2018
A track from compilation album "Teen Expo: The Cleopatra Label"
Limited to 2000 copies. Also released on CD.
これは New Jersey の60sマイナーレーベル Cleopatra Records の
音源で構成したコンピで、本件は当時お蔵入りになっていた曲で
2018年に日の目を見たもの。

レーベルオーナー兼アコーディオン奏者の Tommy Falcone は、
旋風のような想像力とジャンルへの雑食的なアプローチで
New Jersey の若い才能を発掘して指導し、曲を書き、
ワイルドなスタジオ効果音を制作し、すべてを自ら宣伝するために
本業を辞めてレーベル運営を続けた努力家である。
New Jersey の地下室を改造した Tommy Falcone の録音スタジオで
彼は自家製 Phil Spector sound を目指した。
彼は1962年に Cleopatra Records を設立し、1970年まで運営した。

Cleopatra Records には The Angels の前身グループである
The Starlets に在籍する Bernadette Carroll (New Jersey 出身で
"Party Girl" のヒットが有名) も所属していた。
全米に数多く存在する The Centuries だが、サーフ系マニアには
“The Outer Limits” をリリースしたこの The Centuries が知られている。
で、本件はそのコンピに収録された際に、ソングライタークレジットを
間違ってレーベルオーナーの Falcone (Tommy Falcone) と記載した。
しかし実際に曲を書いたのは次に紹介する The Noblemen Four で
詳しく記述するが Lyrics by Earl Shuman-Music by Leon Carr である。

インストグループである The Centuries の作品のほとんどが
Tommy Falcone かメンバーの D'Amato 兄弟、あるいはその両方によって
書かれたにもかかわらず1961年の Design Records DSR 841 の
Ship-To-Shore / Like Weird は Tommy Falcone & The Centuries 名義
でリリースされた唯一の作品だ。おそらく、この曲の激しく跳ねる
オルガンのリフを Tommy Falcone 自身が演奏したために
自分をクレジットしたのだろう。

The Centuries は一時期 Cleopatra Records のハウスバンドとしても
使用され、レーベル所属の他の歌手のバックを務めたり、別の名前で
作品をリリースしたりもした。
Tommy Falcone は The Centuries の楽曲を他のレーベルでリリース
するためのライセンス取得に成功した。1962年 Flamingo Records は
彼らのシングル Chihuahua Cha Cha / You’re A Dirty Robber
をリリースし、同年ヴォーカルグループ Four Hits & A Miss
によるシングル She Wobbles (All Night Long) / Do It では
The Centuries が伴奏を務めた。

1963年 The Centuries は Dick Dale を崇拝するような曲
Anniversary Hop / Theme of the Centuries (Carlton 588)
をリリースした。Cleopatra Records からのリリースは
1963年のスペーシーな The Outer Limits / Polynesian Paradise
1964年の Jack 23 / 4th Dimension があり、これが最後のリリースとなった。

そもそもが、Leon Carr が書いたこの美しいサマーバラード
“Beach Umbrella World” をどういった経緯で The Centuries が録音し、
未発表となったのかが謎である。ヴォーカルを誰が務めたのかも不明だ。
おそらくレーベルオーナーの Tommy Falcone はソングライターチーム
Earl Shuman & Leon Carr が1960年代に、映画またはテーマソング
のために書いたこの曲の楽譜を入手し、The Centuries に録音させたのだろう。
しかし弱小レーベル&プロダクション故に Cleopatra Records の
末期に録音したがレーベル閉鎖に伴うアンリリースが容易に想像つくが、
もったいないほど出来が良い。The Centuries はヴォーカルがいないので
レーベル所属の他の歌手達がヴォーカルパートを担当したのだろう。

The Centuries members are
Peter D'Amato - Lead Guitar
Charles D'Amato - Drums
Salvatore Girgenti - Rhythm Guitar
Francis Corragio - Bass


D'Amato brothers The Centuries


Harriet Rogers & The Centuries


Gary Marlow & The Centuries


Tommy Falcone

 

The Noblemen Four
20-26
The Noblemen Four - Beach Umbrella World
(7: Mercury 72828) 1968
ペンシルバニア州ピッツバーグの南東に位置するグリーンズバーグと
アーウィン出身のグループ。1968年彼らは地元の WIIC-TV のイヴェント
Come Alive’s Battle of the Bands で、ウェストバージニア州
フォランズビー出身の The Pilgryms を破って優勝。
賞品は Mercury Records とのレコーディング契約で、
Beach Umbrella World / Lady Flora (Mercury 72828) の
リリースに至った。

20-24 The Centuries - Beach Umbrella World でも説明したが
本件は Earl Shuman-Leon Carr が書いた美しいビーチバラードで
これがファーストリリースである。
このシングルはガールポップシンガー Cathy Carroll の旦那の
Bob Halley がプロデュースを担当している。

1910年にペンシルバニア州アレンタウンで生まれた Leon Carr は
所謂アルドン系と言われている作家よりも一世代前のソングライターだ。
作詞家の Earl Shuman とコンビを組んで書いた ”Hey There Lonely Boy”
を Ruby and The Romantics が1963年にリリース、それを
"Hey There Lonely Girl" と改題し Eddie Holman が1969年12月27日
をピークに全米2位の大ヒットにした。
また Leon Carr は Paul Vance と組んで The Tokens や Gene Pitney が
1969年に歌った “She Lets Her Hair Down (Early In The Morning)”
も書いている。

Members are
Dave Henry - Lead Guitar, Vocals
Lou Penzera - Bass Guitar
Roy Albert - Drums
Rich Yusko - Organ






Leon Carr
 

Tony Rossini


Donna Weiss
20-27
Tony & Terri - California, L. A.
(7: Monument MN 45-1017) 1967
Tony Rossini と Donna Weiss によって60年代半ばにメンフィスで
結成されたデュエットで、モロ The Mamas & The Papas のヒット曲
"California Dreamin'" のカウンターソングだ。
"California Dreamin'" は時事的な側面を持ち、当時の若者の疎外感を
表現しておりアメリカンドリームへの挫折感を歌っていた。
しかし本件 "California, L. A." はカリフォルニアの生活を賞賛するもので
ウェストコーストカルチャーへのメンフィスからの回答といったとこか。
曲は同地の女流作家 Mary Unobsky と Donna Weiss によって書かれており
プロデュースとアレンジは同地出身で比喩系ノヴェルティーソングの大御所
Ray Stevens が担当してるので当然ながら独特の視点を持つ素晴しい
カウンターソングに仕上がっている。因みに Ray Stevens の偉業は
Vol.19 - 04 Ray Stevens - The Old English Surfer
Vol.19 - 05 Ray Stevens - Surfin USSR
を参照するあるね。

Tony Rossini (本名: Anthony Rossine Jr.) は元々メンフィスを
拠点とする Sun レーベルでシングル曲を数曲レコーディングした
ティーンポップシンガーだった。

Donna Weiss (本名: Donna Terry Weiss) はメンフィス出身の
ソングライター兼歌手。Jackie DeShannon と共作した Kim Carnes
のヒット曲 "Bette Davis Eyes" でグラミー賞最優秀ソング賞と
最優秀レコード賞を受賞したことで有名。
Donna Weiss は Taylor Swift, Vince Gill, Dusty Springfield,
Cher, Belinda Carlisle などの曲も手掛けている。
また彼女は、Bob Dylan, Al Kooper, Joe Cocker, Rita Coolidge
などのアーティストのバックヴォーカリストとして
幅広いキャリアを積んできた才女である。

 

Jim Webb
20-28
Strawberry Children - Love Years Coming
(7: Soul City SCR 758) 1967
本件は Jim Webb と彼の友人達によるスタジオユニット。
Beach Boys "God Only Knows" スタイルのポップサイケで
Beach Boys ファンよりもソフトロックファンに有名なパクり曲。
この歌は The Match (Bjorn Kruse, Tony Dey) もアップビートカヴァー
を1969年にシングルカットし彼らの RCA Victor アルバムに収録してる。

Written, Arranged by Jim Webb.
Produced by Johnny Rivers.
Engineered by Armin Steiner (Uncredited)
Recorded at Sound Recorders Studio in Hollywood.

Members are
Jim Webb, Mike Reilly, Glen De Lange, Endoree Luke, Patrick McCann.
Hal Blaine is on drums, Larry Knechtel is on the guitar.

参加メンバーの Mike Reilly (本名: Michael Patrick Reilly) は
北カリフォルニア出身のソングライターで1960年代に
ロサンゼルスで Jimmy Webb や Johnny Riversと仕事を始め、
その後コメディアン&フォークシンガーの Tom and Dick Smothers
と仕事をするようになる。
Glen De Lange, Endoree Luke, Patrick McCann は Jim Webb の
学生時代の友人達とその恋人みたいな集合体である。
ピクチャースリーヴの写真を撮影したのは The 5th Dimension の
創設メンバーで写真家の Lamonte McLemore だ。

 
20-29
The Love Tones - Stop This Thinking Of You / Trust Me Babe
(7: Luci-fer Records 102) 1968
New Jersey 州の Edison / Metuchen エリアのバンドで
地元では The Strat-O-Tones としても知られていた。
A面はサーフスタイルの曲で、所謂 Surfy (サーフィー / サーフっぽい)
好サンプルとして Surfin’ & Hot Rod コレクター達にも認知される。
変なエフェクトの風呂桶太鼓が気になるがメロディーは良い。
ファルセットコーラスが幽霊みたいで素晴らしい。
さらに言えばB面の、シンプルなガレージバラードが
やるせない男の遠吠え系で、とても良い。

 

Bob Morrison
20-30
The Hot Dog Stand - C'mon, Summer's Happening
(7: Mala M-12,014) 1968
ソングライタークレジット R. Morrison を見て鼻の穴を
大きく膨らませた人は私以外にもいるだろう。
そう "Hey! Puppet Man" の Bob Morrison だ。
Bob Morrison は Mississippi 生まれで、Nashville を拠点とした
シンガーソングライターだ。なので自身も1957年全米2位の
大ヒット "Raunchy" をもち、後に Ronny & the Daytonas の
マネージャーを務めた Bill Justis がプロデューサークレジットが
されているのは偶然ではなく、南部 Nashville 産の Surf / Summer song
のプロダクションの一環で本件シングルが生産された事を物語っている。
ただ Bob Morrison は独自のユニークな経歴を持っていて
所謂 Buzz Cason 一派とは異なるストリームから Bill Justis 側に
入ってきた。

ミシシッピ州ビロクシで生まれた Bob Morrison は
父がジュークボックスのオペレーターだった。
父はローカルジュークボックスのシングルを補充するため
2週間ごとにニューオーリンズに受け取りに行っていた。
Bob Morrison はそのような音楽的な環境のため早くから
南部音楽に傾倒していった。彼は独学でギターを学び、15歳で
地元のバンドで演奏を始めた。その後ソロフォークシンガーとして
クラブで演奏をしていたが Bob Morrison はアメリカンフットボール
の選手としてスポーツ奨学金を受け取りミシシッピ州立大学へ進学した。
彼はサウスイースタン・カンファレンスのシーズンチャンピオンを
決定するSECチャンピオンシップを獲得した。
在学中に著名プロデューサーの目に留まるも、彼は学位を取得して
卒業した1965年に原子力工学の博士号を取得という
文武両道的活躍で地元のヒーローとなった。Bob Morrison は
Columbia Records のエグゼクティブの John Hammond と契約を
結んで、いくつかのシングルをリリースした。そのシングルの一つで
1965年にリリースされたのが "The Shadow of Your Smile" であり、
この名曲を録音した最初の歌手となったが、彼のヴァージョンは
見向きもされなかった。結局この歌は Tony Bennett やその他の
定評のあるアーティスト達によるヴァージョンがその後の
録音によってヒットした。Columbia Records でチャートヒットを
作れなかった Bob Morrison は1967年に Hollywood へ引越し
Screen Gems の契約俳優として働き、Capitol Records に移籍し
彼のオリジナル曲を含む "Friends of Mine" というタイトルの
アルバムをリリースし、彼はいくつかの成功を収めた。

本件シングルは1968年なので、Bob Morrison としては一番
勢いに乗っていた時期の作品ということになり、夏の躍動感を
現した弾けたサウンドになってる。ただ時代的に1968年では
ベトナム戦争が悪化していた頃なので、所謂 Summer Of Love
に帰属するメッセージが音楽シーンでも必要となっていた。

1967年夏にアメリカ合衆国を中心に巻き起こった、文化的、
政治的な主張を伴う社会現象。最大で10万人がサンフランシスコ
のヘイト・アシュベリー周辺に集まったといわれる。
サンフランシスコ以外にも膨大な数のヒッピーがニューヨーク、
ロサンゼルス、フィラデルフィア、シアトル、ポートランド、
ワシントンD.C.、シカゴ、カナダのモントリオール、トロント、
バンクーバーやヨーロッパの各都市に集った。
当時のサンフランシスコは音楽、ドラッグ、フリーセックス、
表現、政治的意思表示の中心地、ヒッピー革命の本拠地と
見做された。

因みに1968年の夏までのヒット曲を簡単に記しておく
Otis Redding - (Sittin' On) The Dock Of The Bay
The Beatles - Lady Madonna
The Zombies - Time Of The Season
Simon & Garfunkel - Mrs. Robinson
The Rolling Stones - Jumpin' Jack Flash
Steppenwolf - Born To Be Wild
The Doors - Hello, I Love You
The Rascals - People Got To Be Free
The Beatles - Hey Jude

 

Jimmy Ryan


Bob Dileo
20-31
The Giant Jellybean Copout - Awake In A Dream
(7: Poppy POP 504) 1968
The Critters の Jimmy Ryan が手掛けたスタジオユニットに
イタロ系ヴォーカリスト Bob Dileo が参加したのが本件だ。
所謂 "Good Vibrations" フォロワー的な Beach Boys sound の
ポップサイケで、これも Beach Boys ファンよりも
ソフトロックファンに有名な曲。1993年のコンピCDの
The Melody Goes On - Soft Rock Volume 1 (M&M Records MMCD 1005)
にクレジットを伏せて隠しトラックとして秘かに収録させていた曲
としても我が国のソフトロックマニアには有名な曲だ。
また Flip side の Bob Dileo が書いた "Look At The Girls" は見事な
広がりを持つコーラスワークを配したフラワームーヴメント期特有の
ラウンジポップでジャズっぽいアレンジで聴かせるため
クラブ人気も高い作品だ。

The Critters が Project 3 に移籍して最初のアルバムを制作する際に
曲が足らず、Jimmy Ryan は "Awake In A Dream" のバックトラックを
用いてアルバム Project 3 Total Sound PR 4001 SD を完成させた。
Bob Dileo は New Jersey 出身のヴォーカルグループ
The Brooks Four (Sinclair 100),
The Four Winds (Felsted 8703 / Derby 10022),
The Teamates (Lemans 006)
を渡り歩いてきたヴォーカリストで、彼はその後ソロシンガーとして
1968年から1969年まで Jimmy Wisner プロデュースの下、
良質なソフトロックシングル3枚をコロムビアからリリースした。

 

Bruce Johnston and Terry Melcher


Christopher Jones
20-32
Goldrush - Somebody's Turning On The People
(7: Dunhill D-4174) 1968
Beach Boys ファン / Surfin’ Hot Rod マニアなら当然の如く
60s West Coast Sub Culture / Youth Culture を研究しなければ
いけない。それを研究すればパズルは完成させられるのだ。
しかしここで持ち込まれたマテリアルが Grapefruit からの
曲となるともっと大きな意味を持つ。
実は私の研究材料である、この手のイレギュラー物は Bruce & Terry
だけでも、まだ存在する。その研究資料やデータをここで公開する
には全83巻(広島弁対訳、豪華ファミリーツリーポスター付き)が
必要となる。さて本件シングルだが、随分昔に我々 Top dealer の間で
「Bruce Johnston が Grapefruit の録音に参加してた」と噂された事
があった。長年 Bruce & Terry の裏ワークスとして噂されていた正体
がこのシングルレコードだ。
Equinox Production の初期のレア盤だが噂の通り Bruce Johnston と
Terry Melcher の声が聴ける、素晴らしいフラワーポップだ。
Grapefruit の George Alexander が書いたアルバムボツ曲なのだが、
Grapefruit の Equinox 在籍時の音源に誰かが手を加えた
お遊びとして言い伝えられて来た。
その誰かが Bruce & Terry ではないかと騒がれていたのだ。
George Alexander はこの曲を書いて Grapefruit はこの曲を
スタジオで録音を残している。そのトラックは彼らの
アンリリースドトラックを編集した CD Yesterday's Sunshine:
The Complete 1967-1968 London Sessions にも収録
されており世界中の Apple 系コレクター達を驚かせた。
また BBC で放送した音源は CD Around the BBC に収録されている。

この Goldrush は Terry Melcher のプロジェクトである。当時
Terry Melcher は Mike Curb から American International Pictures
の映画 “Wild In The Street” に収録する曲を探している事を聞かされ
Equinox Production 所属の Grapefruit のトラックを利用して
ハリウッド俳優の Christopher Jones のリードヴォーカルと
Bruce & Terry のコーラスをオーヴァーダビングしたのが
本件シングルのA面だった。映画が1968年5月29日に公開された
ので、このシングルは5月初旬にリリースといったとこか。
しかし Dunhill D-4174 の番号でいくと1968年末辺りが妥当なのだが
1968年になって Lou Adler が Dunhill Records を ABC Records へ
売却してから番号は前倒しになってリリースされていた。

Bruce Johnston と Terry Melcher が Equinox 発足当時に語っていた
「ハーモニーをクッションにリズムを乗せる」と言う手法は
その後 California Music で開花させる。ただそこに至るまでの間、
彼らは外部からの曲中心にアレンジ方法を模索していた。
Legendary Masked Surfers 然り、既成のユニットではなく
音源を利用して発展をさせようと試みていたのだ。
勿論それらのテーマは West Coast Sub Culture / Youth Culture
に起因するものだ。
この Goldrushで聴ける "Sweet Sweet Sweet Sweet Music " と
ハモるフレーズで Bruce Johnston が何を狙っていたのかが
はっきりと解る。「甘い」と直訳するよりは望郷的に「愛しい」
と目訳してほしい。
その後 “Somebody's Turning on the People, People” と歌ってる
のが Terry Melcher の声だ。特筆すべきもう一つの点として
George Alexander の作曲能力の高さがある。George Alexander
こと Alexander Young は The Easybeats の創設メンバーで
オーストラリア最高のソングライターコンビ Vanda & Young の
片割れ George Young の兄で、AC/DC の Malcolm & Angus Young
の兄でもあり、彼らはスコットランド移民で音楽一家の血筋だった。
ティーンエイジャーとしてデビューした George Alexander は
既に多くの楽曲を携えていた有能な若者だった。そんな才能が
あったからこそ天下の Apple に引き抜かれたのだろう。
育ての親 Tony Rivers にとって最大の反逆劇だった Grapefruit
引き抜き事件だが、メンバーと Tony Rivers の年齢的な差が
そうさせたのだろうか。気がつけば George Alexander 争奪戦と
いった様相となり、そこに資金もない Equinox Production が
食い込むことが出来たのは The Beach Boys というブランド力が強い。
まるで Beach Boys と Beatles を天秤にかけて勝負したかの
ようだ。しかしこの歌は映画 “Wild In The Street” では使われず
ボツになってしまった。政治色の強い Mike Curb なら当然
Equinox Production の裏事情も把握してただろうから、そこらへん
を考慮してのボツだったのではないか。

“Somebody's Turning on the People” のリードヴォーカルをした
Christopher Jones はこの映画 Wild In The Street (邦題:狂った青春)
で Shelley Winters を相手役に野心家のロック・スターを演じ、
見事に一躍スターの座に上り詰めた。この頃 Christopher Jones は
女優 Sharon Tate とその夫で映画監督の Roman Polanski と
親しくなった。後に Christopher Jones は当時妊娠中の Sharon Tate
と肉体関係があった事と、彼女が死の予感を抱いてたことを
告白しているが Sharon Tate は1968年8月9日に狂った
ヒッピー集団マンソン・ファミリーによって殺害された。
当時 Bruce Johnston & Terry Melcher は自らのプロダクション
Equinox Production を設立し、彼らは大手レコード会社と契約を
結ぼうと目論んでいた。
そのために曲を書ける人材を探しており The Beach Boys の
メンバーとして Bruce Johnston 訪英時期にスカウトしたのが
Grapefruit で、アメリカに残っていた Terry Melcher がスカウトした
のが Timothy B. Schmit が在籍していた The New Breed と
サクラメントの Moss & The Rocks だった。

Terry Melcher はアルバム録音が出来るだけのたくさんの曲
を彼らに書かせた。イメージチェンジをするべく Public Nuisance
と名を改めた Moss & The Rocks 、そして Glad と名を改めた
The New Breed だが、本件シングルのB面は後に Glad の
アルバムでも使った Piano インストで、作者は Ronald Floegel
(後に Redwing を結成するギタリスト) だった。これを見て分かる
ように Terry Melcher のプロジェクトであるこの Goldrush の
シングルはその後の Equinox Production の方向性を探るためにも
重要なシングルになる筈だった。

Equinox Production は1968年に ABC Records 傘下と
なった新興レーベル Dunhill Records にも話を持ちかける。
運良く Grapefruit は ABC Dunhill からアルバムリリースを
果たしたがその頃から Equinox Production に暗雲が
立ちこみ始める。Equinox 所属グループ達のデビューは
Sharon Tate 殺害事件に巻き込まれる事になるのだ。
既に Gary Hinman と Donald (Shorty) Shea 殺害疑惑
で有罪となっていたヒッピーコミューンの教祖 Charles Manson
だが、Charles Manson と交友が深かった The Beach Boys の
Dennis Wilson は1968年に当時シエロドライヴ10050番地に
住んでいた Terry Melcher を紹介した。間もなくして
Charles Manson は女優 Sharon Tate 宅に押し入り彼女を
殺害してしまった。すぐさま Terry Melcher は重要参考人
として検挙され24時間体制でFBIから監視される状況に
陥った。そのために Equinox Production の運営計画は中止
されてしまい、資金難となり一時閉鎖されてしまった。
これらの絡みを考えても、いかに複雑怪奇な経緯が一枚の
シングルにあるのか容易に想像が出来る。しかし音楽に罪はなく
如何なる理由で埋没されたとしても、この手で掘り起こし
サウンドの素晴らしさを音楽ファンに伝えるのが私の使命。
で、驚くべきは、こんな経緯があれど Equinox Production は
ちゃんとこのシングルを発売してたんだから、偉いよ。


George Alexander (Alexander Young)


Christopher Jones in “Wild In The Street”
 
20-33
Camp Hilltop -
Sunday / Lost And Found
(7: A&M 1154) 1969
さて本件シングルだが、Goldrush 同様に初期 Equinox Productions
が手掛けた隠れた傑作シングルだ。
私はその昔、このシングルに出会った時に感動して
A&M 本社に手紙を送って「このシングルの詳細を教えてちょうだい」
と尋ねたが、A&M から逆に「詳細が解らないから調べてください」
と答えられた。頭に来た私はA&M に私の研究資料も教えずに
一人で研究を続け、Goldrush でも説明したように当時の
Equinox Productions を取り巻く状況を調べてきた経緯がある。
この傑作シングルA面では Millenium の持つ vocal easy listening
スタイルを踏襲し、当時普及拡大をしていた FMラジオの
放送プログラムを視野に入れていたかのような爽快感溢れる
West Coast Sound を完成させている。もはやこれは来るべき
California Music / California の到来を予告するような出来だ。

興味ぶかいのは作者の Miller-Somberg (Jim Moller-Lenny Somberg)
で、彼らは "Psychedelic Used Car Lot Blues" で有名な
Detroit, Michigan のサイケバンド The Southbound Freeway の
メンバーである。彼らがこのような美しい曲を書いて
Terry Melcher が入手したとなると、T. M. Music 時代から
続く彼の楽曲出版社事業の賜物だろう。
またB面で聴ける女性が Gloria Grinel であるならば彼女が
Bill House や David Cassidy のバックで歌う以前という事に
なるので Kenny Hinkle もこのレコーディングに参加していれば
既に California Music の骨格作りに着手していた事になる。
Gloria Grinel と Kenny Hinkle は1974年の California Music
"Don't Worry Baby" (RCA NB-10120) では3番を歌うのだが
当時彼女は明らかに David Cassidy のサークルのメンバーで、
彼女が薬物の過剰摂取で若くして亡くなった….

一般的に California Music のコンセプトの起源は1972年の
Dean Torrence (Jan & Dean) による Legendary Masked Surfers
とする考え方があるが、そもそもが70年代に入り
Equinox Productions は Terry Melcher の勧めもあり
事務所をニューヨークの RCA ビルディングの5階に移った。
なので当然セッションも RCA の当時のプロダクトに
集まってきたミュージシャン達が主体となる。
RCA で Bill House, Barry Mann そして David Cassidy
のアルバム制作に携わっていた Equinox Productions が
同じ時期に California Music を RCA でリリースしたのは
当然である。興味ぶかいことにこのA&M シングルの
B面の作者 Bob Simpson は RCA Studio A のエンジニアー
であり、この事実も Equinox Productions がその後
RCA から California Music をリリースさせる事が予見できる。


Terry Melcher
 

Howard Boggess


Neil Goldberg
20-34
The Breeze - The Rainmaker
(7: A&M Records 1131 Promo onky) 1969
Beach Boys “Hushabye” スタイルのコーラスを配した
フィラデルフィア産ポップサイケで、これも Beach Boys ファンよりも
ソフトロックファンに有名な曲。
これは Howard Boggess と Neil Goldberg にスタジオユニットで
プロモ盤だけが配布された。
Written, Produced by Howard Boggess-Neil Goldberg
で、彼らは Cameo-Parkway 時代に出会った。

Howard Boggess はフィラデルフィアのヴォーカルグループ
のメンバーとして活動していた人物で
The Stereos (Mink Records MR 22)
The Tams (SWAN S4055, Heritage 101)
The Hippies (Parkway P-863) に所属していた。
Neil Brian Goldberg はフィラデルフィア出身のミュージシャン、
ソングライター、アレンジャー、プロデューサー、ラジオ司会者、
作家、慈善活動家だ。

60年代半ば Neil Goldberg はプロのソングライターとしての
キャリアをスタートさせると同時に、テンプル大学に通っていた。
その間ずっと、彼は歌手としてのキャリアを維持するのに
苦労していた。Cameo-Parkway での在籍期間は終了したが
Philtown などの小さなレーベルで Joe Renzetti との共作を含む
シングルをさらにリリースした。
彼はこの時期にレコード会社に何度も足を運んだが、それは常に
プロモーションのためであり、決して報酬のためではなかった。
何年もの間、彼は Howard Boggess と提携していた。
1966年には Howard Boggess と Neil Goldberg は、地元のソウル グループ
The Globeliters のために "See How They Run" / ”The Way You Do”
という気の利いた曲を書いて共同プロデュースをした。
有名なオールディーズ・ミュージック DJ の
Jerry "Geator With The Heater" Blavat は、この曲に夢中になり
オンエアで大々的に流したが、全国レベルではヒットしなかった。
Howard Boggess もまた並外れた才能を持つ若手プロデューサーで
Motown の Billy Horner のレコードや、Neil Goldberg が
架空のグループ The Breeze 名義で A&M レコードで録音した
本件 “The Rainmaker” という曲を共作共同プロデュースした。

Neil Goldberg は Howard Boggess を高く評価しており、
彼は第二の Phil Spector だったかもしれないと考えている。
「なんという才能!リズム、ハーモニー、そして曲を本当に
仕上げてプロデュースする方法に対する、なんとも自然な理解力だ。」
と驚いていた。
Howard Boggess の最高の曲の1つは、Paul Davis などが録音した
ひどくキャッチーなポップ チューン “Sally Sayin' Somethin'" だった。
しかし、Howard Boggess は Phil Spector ほどの成功には近づけなかった。
もちろん、努力が足りなかったわけではない。
Neil Goldberg は Thom Bell の師である Kenny Gamble and Leon Huff
と曲作りもしたが、大学での勉強のせいで、思うように彼らと
コラボレーションすることはできなかった。
1970年、Neil Goldberg はテレビ番組 The Archies シリーズの
続編 "Archie's Funhouse " のために32曲を書いた。
Neil Goldberg は The Monkees, Tom Jones, Dusty Springfield,
Richie Havens など、多くの著名人のために曲を書いた。

Neil Goldberg は晩年、カリフォルニア州サンタ クルーズで
コンピューター ストアを経営し、成功を収めた。
1990年代には、KSCO ラジオで "In the Spirit" という
番組の司会者となり、多くのファンを獲得した。
また、保守派の活動、特にプロライフ運動に積極的に参加し、
部分出産中絶に関する "Almost Born" という曲を書いた。


Howard Boggess


Howard Boggess
 
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