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Vol. 21 01 Danny Coughlan - Beach Boy
02 Wayne Newton And The Newton Brothers -
Someone's Ahead Of You
03 Kip Tyler - Eternity (A Surfer's Lament)
04 The Sunsets - Lonely Surfer Boy
05 Tom & Jerry - Surfin' Hootenanny
06 The Tides - Surfin' Boy - John Henry's Surf
07 Jay Bentley And The Jet Set - Watusi '64
08 Chris & Kathy - Shoot That Curl
09 The Captivations - Speedshift
10 Paul Petersen - She Rides With Me
11 The Woofers - Bench Racer
12 Bobby And Bergen - "I've Got A" Tiger In My Tank
13 The Sonics - Summer Job
14 The Hit Pack - Summer Fever
15 The Crowns - She's Wearing His Sweater
16 Leon Smith And The Basics - Basic Surf
17 Kassi Lyon - Little Lonely Summer Girl
18 Kassi Lyon - Lonely Surfer (Its Not The Season)
19 The Newbeats - Tough Little Buggy
20 Tony Sales & The Tigers -
Summer Time (Is The Best Time For Making Love)
21 The Kingsmen - How to Stuff a Wild Bikini
22 The Scramblers - Super Surfer, U.S.A.
23 Bernie Madness - Bikini Beach
24 Victor & The Spoils - I Wish That I Could Make You Love Me
25 Victor & The Spoils - All I Ask
26 Ronny And The Daytonas - 4-Cast She'll Love Me Again
27 The Seagulls - Don't Go Out Into The Rain (You're Gonna Melt)
28 The Seagulls - Anabel
29 The Squirrels - A Girl's Imagination
30 The Alias #1 - Beautiful Beach Bunny
31 The Shaggy Boys - That's The Only Way
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Vol.21
Surfin' and Hot Rod
Other stuff with beach pop, summer pop etc |
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Danny Coughlan |
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21-01
Danny Coughlan - Beach Boy
(7: Canada Capitol Records 72112) 1963
Canada は Ontario 州の Statford 出身の
シンガーソングライターの初期シングルで、彼はその後も
長いキャリアを重ね、Children music を歌うおじいちゃん
になった。所謂クリーンなイメージのキャラクターを
維持できたシンガーソングライターだ。
そんな Danny Coughlan が Beach pop で弾けた
ロッカーになってるのだが、これがけっこう
バッチグーッ (死語) なので、この手のファンは
チェケラーッ!! (死語)
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Wayne Newton |
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21-02
Wayne Newton And The Newton Brothers -
Someone's Ahead Of You / Shirl Girl
(7: Capitol Records 5058) 1963 Mr. Las Vegas の異名を持つラス・ヴェガスのトップ・エンターテイナー
Wayne Newton だが、Terry Melcher と Bobby Darin が設立した
音楽出版社 T. M. Music, Inc. の初のヒット曲となったのが
Wayne Newton "Danke Schoen" (Capitol 4989) 1963年7月13日を
ピークに全米13位の大ヒットとなった。この曲は元々ドイツの
Bert Kaempfert が書いた1959年のインスト曲で Bobby Darin は
この曲を自身の1963年春のヒット曲 "18 Yellow Roses" の続編
として企画されたものだったが、コパカバーナで Wayne Newton
のパフォーマンスを見た後、Bobby Darin はこの曲を Wayne Newton
に譲ることを決意し、キーを変えて Wayne Newton の声に合わせて
録音した。当時 Wayne Newton は21歳で、Barry Mann-Cynthia Weil
が書いた前作 "Heart" (Capitol 4920) 1963年4月27日をピークに
全米82位に続いて "Danke Schoen" は彼にとって2曲目の
ヒットとなった。
この勢いに乗ってリリースされたのが本件シングルで、両A面扱い
の制作がされている。“Someone's Ahead Of You” だが、この曲は
作者に Johnson-Lovejoy とクレジットされたが、これが誤植で
実は Bruce Johnston-Judy Lovejoy だったのだ。
Judy Lovejoy は Jan & Dean の Dean Torrence の当時の
ガールフレンドで Jan Berry のガールフレンド Jill Gibson と
二人のデュエット Judy & Jill としてデビューさせる計画が
あった才女で、実際未発表に終わった数曲の録音を残してる。
まあ結果として裏面 "Shirl Girl" が1963年10月26日を
ピークに全米58位のスマッシュヒットになったのだが
これら3枚は全て Wayne Newton の兄の Jerry Newton との
The Newton Brothers がクレジットされている。この兄弟は元々
The Newton Rascals として (Jerry は15歳、弟の Wayne は12歳)
ラス・ヴェガスのステージ子役として活動していた。
そして彼らは1957年に ABC Paramount と契約して Jerry & Wayne
名義で Baby, Baby, Baby / I'm Sad, Blue And Lonesome
(ABC-Paramount 45-9806) をリリースした経歴を持つ。
そう、Wayne Newton は子供の頃からラス・ヴェガスのステージで
活躍しており Mr. Las Vegas のブランド力は強かった。
本件シングルでヒットした "Shirl Girl" のほうは恐らく政治力も
あるのだろう、前作ヒットの "Danke Schoen" に続くフォローアップ
として T. M. Music, Inc. 本体の Bobby Darin と当時の彼の
パートナーだった Rudy Clark の書き下ろし曲だ。
Rudy Clark は黒人作家で多くのヒット曲を書いており
Betty Everett - The Shoop Shoop Song (It's In His Kiss)
The Olympics, The Young Rascals - Good Lovin' 等が有名。
(13-3 Joey And The Flips を参照)
両面とも日本人好みのポップスなのだが当時日本盤は
リリースされていないので、前作の「ダンケ・シェーン」が
奇妙なジャケなので「ブルー・レディーに紅いバラ」と
一緒に掲載しとく。その下には Sheet Music 楽譜も載せた。
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Kip Tyler |
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21-03
Kip Tyler - Toledo / Eternity (A Surfer's Lament)
(7: Gyro Disc International 711) 1963 先ず私の見解を記述しとく。
本件シングルは当初ピクチャースリーヴ無しで
リリースされたのだろう。それは当初のレーベルには
B面曲が “Eternity” とだけプリントされてるので。
そしてピクチャースリーヴには “Eternity (A Surfer's Lament)”
とプリントされてるので、当然このピクチャースリーヴには
B面に “Eternity (A Surfer's Lament)” とプリントされている
赤白レーベルの盤じゃないといけない。
という事はピクチャースリーヴ付きはセカンドプレスに
なるのか、それとも工場が違うのか。
そもそも、ハリウッドにオフィスを構えていたこのレーベルは
Kip Tyler のシングル4枚のみリリースして閉鎖してる。
Kip Tyler 本名 Elwood Westertson Smith は Illinois 州
Chicago で生まれ、California 州 El Monte で育った。
El Monte Union High School 在学中には Sleepwalkers の
リードシンガーであり、後にFairfax High School のライバル
ミュージシャンとチームを組んで Kip Tyler and the Flips の
初期ヴァージョングループを結成した。高校のダンスやパーティー
での通常のショーに加えて、グループのワイルドなロカビリー
サウンドとステージパフォーマンスにより、すぐに会場の
The El Monte Legion Stadium での伝説的なショーで最も人気
のあるバンドになった。 実際、彼らは会場に出演する他の
アーティストのバックを務めることも多く、事実上の
ハウスバンドとなった。
1957年の初め Kip Tyler はアレンジャーの Joseph Gershenson
の目に留まり、映画 "Rock, Pretty Baby" に関連したプロジェクトに
携わるように Joseph Gershenson は Kip Tyler を雇った。
映画の成功を受けて Kip Tyler は Jimmy Daley (彼が声の
吹き替えをした映画の主人公)の名前をとり、バンド
Jimmy Daley And The Ding-A-Lings を結成した。
"Red Lips and Green Eyes", "Hole in the Wall"
"Bongo Rock" などの曲を Decca Records で録音した
彼は Decca Records で最初のアルバムをレコーディングした。
Kip Tyler にとって残念なことに、"Rock, Pretty Baby" の続編である
映画 "Summer Love" は失敗に終わり、彼の芸名である
Jimmy Daley のキャリアも失敗に終わった。
1957年後半、彼は新しいグループ、Kip Tyler and the Flips を結成した。
彼らの最初のレコード Lets Monkey Around / Vagabond Mama
は Starla Records で録音された。グループは Challenge Records で
レコーディングを行い、そこで制作されたシングルから
さらなる成功を収めた。1958年初め、Challenge Records は
彼らの最初のヒット曲 "Jungle Hop" とインストゥルメンタル
ブレイクを伴う素晴らしいドライブ ロカビリー チューン
"Ooh Yeah Baby" をリリースした。音楽プレスで良い評価を
得たが、売り上げは振るわなかった。
1958年後半、バンドメンバーの変更後、Kip Tyler は Ebb Records
でソロ名義のシングル She's My Witch / Rumble Rock を録音し、
Duane Eddy's Rebels のサックス奏者 Jim Horn のサポートを受けた。
Ebb Records の次の、そして最後のセッションは1959年1月で、
Oh Linda / Hali-Lou (Ebb 156) これは、レーベルが閉鎖される前の
Ebb からの最後のリリースの1つだった。レコーディングメンバー
の中には Bruce Johnston も含まれる注目すべきメンバーがいた
Kip Tyler, Jim Horn (Duane Eddy & the Rebels),
Mike Bermani (Duane Eddy & the Rebels), Mike Deasy,
Larry Knechtel, Sandy Nelson, Steve Kreisman (Steve Douglas)
Bruce Johnston.
Kip Tyler は別の新しいグループを結成し、昔のドラマー
Sandy Nelson の助けでロサンゼルスに本拠を置く Imperial Records
と契約を結んだ。Sandy Nelson は Original Sound のオーナーで
DJの Art Laboe (Arthur Egnoian) 率いる
Art Laboe And His Group (Original Sound OS-23) を脱退した後で、
Sandy Nelson はレコーディングアーティストととして活動していた。
1960年、Kip Tyler は Imperial Records で4曲をレコーディングしたが
リリースされたのは Rocket Round The Universe / The Goblin Trot
の2曲だけだった。
レコーディング アーティストとしての成功はわずかであった
にもかかわらず、Kip Tyler はロサンゼルス地域や西海岸周辺で
個人的な出演に引っ張りだこで、ダイナミックなライブ
パフォーマンスで常に聴衆を魅了した。
彼はまた、60年代初頭に毎週のテレビ番組を獲得することに成功した。
1962年に Kip Tyler が Kipper & The Exciters 名義でシングル
"Drum Twist 1 & 2" を録音したという噂があるが、決定的な証拠はない。
同様に、Kippster の名前でリリースされている
Target Twist / Stompin が Kip Tyler であったとはまだ証拠はないが
両方とも Kip Tyler のディスコグラフィーには入る傾向にある。
1964年 Kip Tyler には Gyro Disc (ジャイロ・ディスク) という
レーベルでレコーディングする機会が与えられ、また他のタレントを
プロデュースする機会も与えられた。Gyro Disc の関係者は
史上最高のボサノバクラシックの1つ “The Girl From Ipanema” を
Kip Tyler に歌わせ、アメリカ以外の地域、特にヨーロッパで金儲け
するために、Kip Tyler に新たに “Swinger" イメージで売り出そう
とした。少なくとも20のネットワークテレビ番組や
プロモーションツアーに Kip Tyler を出演させることが
できたものの、アメリカでレコードセールが失敗したため、
Gyro Disc は最終的にはヨーロッパには手を出さなかった。
それがラベルに Gyro Disc International と印刷されている
所以である。この “Swinger" としてのイメージ戦略が
本件サーフシングルにも適応されているのも失敗要因だ。
どうやら Kip Tyler は特に彼の元バンドメンバー達の多くが
成功を収めていたにもかかわらず、彼自身の失敗に幻滅して
いたようだ。彼は地元のローカルスターであり続けながら、
他の形態のビジネスにも参入したぼだが彼は1996年9月23日
にカリフォルニア州ロサンゼルスで自然死した。
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Kip Tyler
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Gyro Disc Office in Hollywood |
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The Sunsets
LR-Dennis McCarthy, Dick Burns, Gary Usher, Les Weiser |
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21-04
The Sunsets - Lonely Surfer Boy
(7: Challenge 9198) 1963
1963年4月に本件 The Sunsets のセカンドシングル がリリース
された。これはリパブリック賛歌をアレンジしたもので
Usher-Christian-Borchetta の共作クレジットとなっている。
録音は Western Recorders で行われており録音は3月に完成させられた。
Recording members are
Producer-Arranger Gary Usher
Gary Usher - Rhythm Guitar, Back Vocal,
Lead Vocal on "Lonely Surfer Boy"
Dick Burns - Drums, Back Vocal,
Lead Vocal on "Playmate Of The Year"
Dennis McCarthy - Key Board, Back Vocal
Les Weiser - Sax, Back Vocal
しかし本件シングルA面の "Playmate of the Year" のレコーディングに
Brian Wilson は非公式に参加した。
Brian Wilson は1963年の夏、Gary Usher とルームメイトだった。
Brian は父親 Murry Wilson の支配から逃れる必要があり、
ちょうど Brian は6月に21歳になる時期だった。
Brian は父親のプレッシャーから離れて一人で過ごせるよう、
Gary Usher と部屋を用意した。Brian Wilson が5月に Jan & Dean に提供
した "Surf City" が6月16日をピークに全米1位の大ヒットとなり
この出来事のせいで、Capitol Records の幹部連中は激怒した。
Capitol Records は Brian がその曲を提供しただけでなく、
その曲でも歌ったことに腹を立てた。
そのため Brian Wilson と Gary Usher は "Playmate of the Year"
の彼の関与を秘密にしていた。
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Tom & Jerry (AKA The Tides)
Tommy Tomlinson and Jerry Kennedy |
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21-05
Tom & Jerry - Surfin' Hootenanny
(LP: Mercury MG 20842 mono / SR 60842 stereo) 1963
Tommy Tomlinson と Jerry Kennedy (Tom & Jerry) の名ギタリストコンビ
は当時 Mercury Records で低予算のアルバムを制作しており
このアルバムはその中の1枚で Surfin' をテーマにしたもの。
下記 21-30 The Tides も Jerry Kennedy のスタジオ・グループの1つで、
1962年からこの名前で Mercury Records でレコーディングを行っていた。
The Tides と Tom & Jerry は同じスタジオ・グループである。
御存知この歌は Lee Hazlewood が書いた曲でオリジナルは
Al Casey With The K-C-Ettes (Darlene Love & the Blossoms)
が1963年6月に (Stacy Records 962) からリリースした。
本件、そのカヴァーを収録したアルバムは1963年11月30日
にリリースされた。
本件で歌を歌っているのは The Merry Melody Singers だ。
(Elvis Presley のバックアップヴォーカルを担当した
The Jordanaires の一部であった女性コーラス隊)
この The Merry Melody Singers には Margie Singleton が参加してた。
彼女は13歳で南部の帝王 Shelby Singleton と結婚しており、
作曲家でもあった彼女は本件アルバムリリース当時は28歳で
Elvis Presley のバックアップシンガーであり、Mercury Records の
副社長夫人でもあった。
Jerry Kennedy は、アメリカのプロデューサー、ソングライター、
ギタリスト、ドブロ奏者。The Wrecking Crew の南部ヴァージョンで
Muscle Shoals 録音でも有名な The Nashville A-Teamのメンバー。
彼の息子は Eric Clapton の “Change the World" の作者でナッシュビル
のプロデューサー Gordon Kennedy, そして Garth Brooks の
1993年のヒット曲 "American Honky-Tonk Bar Association"
の作者 Bryan Kennedy である。
Jerry Kennedy は11歳のときに RCA Records とレコーディング契約
を結び数枚のシングルをレコーディングしたが、そのうちのいくつかには
Chet Atkins の曲も含まれていた。
その後、Jerry Kennedy は高校生でティーンアイドルのような存在になった。
ヴォーカリストとしてスターになることはなかったが、10 代の頃は
Mercury Records のアーティスト数名のバックヴォーカルを務めた。
彼の地元 Shreveport シュリーブポート周辺のレコーディングセッション
で数年間働いた後、Mercury Records の社長 Irving Green に説得されて
彼はナッシュビルに移住した。その頃はちょうど1960年代の
カントリーミュージックブームが始まった頃で、到着後すぐに彼は
Mercury Records のカントリー系子会社である Smash Records の
タレントスカウトとして働き、プロデュースとレコーディングセッション
での演奏を始めるよう依頼された。
Jerry Kennedy-Margie Singleton による作品については
18-03 The Bentleys - She's My Hot Rod Queen も参照のこと。
有名な Country music show の Louisiana Hayride のスター
Tommy Tomlinson (ルイジアナ州ミンデン出身)と Jerry Kennedy は
1960年に Mercury Records のために Tom & Jerry 名義で4枚の
ギターインストゥルメンタルアルバムを制作した。
彼らのアルバムは、あらゆるジャンルの音楽をカヴァーし
Hank Garland, Boots Randolph, Bob Moore, Harold Bradley も参加した。
因みに Margie Singleton の夫である Shelby Singleton は
軍役除隊後にルイジアナ州 Shreveport シュリーブポートに拠点を置く
軍需会社で5年間働き、その後 Starday Records のカントリーミュージック
カタログのプロモーションに雇われた。
Starday Records と Mercury Records のマーケティング契約が終了したとき
Shelby Singleton はプロモーションマンとして Mercury Records に雇われた。
彼は社内で昇進し、Mercury Records のナッシュビル支社のレコード
プロデューサー兼役員となった。彼は Mercury Records と
その姉妹レーベルである Smash Records で9年間を過ごし、
その間に多くのヒットレコードのプロデュースに関わった。
1962年、Shelby Singleton はもともと LeCam Records から
リリースされていた Jill and Ray の "Hey Paula" のマスター録音を購入し
彼は彼らの名前を Paul & Paula に変更しての曲を Mercury Records
の姉妹レーベルである Philips Records からリリースした。
この曲はビルボード・ホット100で3週間1位を獲得した。
1966年までに Shelby Singleton は Mercury Records の副社長になったが
SSS International や Plantation Recordsなど、幾つかの独立レーベルを
設立するために辞任した。彼は1968年に Jeannie C. Rileyの
"Harper Valley PTA" で最初の1位を獲得した。
Shelby Singleton は Sam Phillips から Sun Recordsと
そのロックンロールカタログを買収し再発に努めた。
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Margie Singleton
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Tommy Tomlinson
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Jerry Kennedy |
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Tom & Jerry (AKA The Tides)
Tommy Tomlinson and Jerry Kennedy |
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21-06
The Tides - Surfin' Boy
The Tides - John Henry's Surf
(LP: Mercury Wing MGW 12265 mono / SRW 16265 stereo) 1963
From album "Surf City / Surfin' USA And Other Surfin' Favorites"
They also released Promo only 7inch EP:
Australia Philips DJ "Rush!" DJ-124 in 1963
And LP: Australia Philips PD-124 mono in 1963.
当時オーストラリアではプロモオンリーで 7inch EP が配布され
モノラル盤のみだがアルバムもリリースされた。
日本でも 7inch EP とアルバムが他のアーティストとの編集盤だが
リリースされている。
Margie Singleton は本件作品を Jerry Kennedy と共作している。
基本情報は上記 Tom & Jerry - Surfin' Hootenanny を参照。
Jerry Kennedy-Margie Singleton による作品については
18-03 The Bentleys - She's My Hot Rod Queen も参照のこと。
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Margie Singleton
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Tommy Tomlinson
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Jerry Kennedy |
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Buzz Cason
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Tommy Allsup |
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21-07
Jay Bentley And The Jet Set - Watusi '64 / I'll Get You
(7: Crescendo GNP 332x) 1964
Buzz Cason は地元の Tennessee 州 Nashville で Brenda Lee の
バックバンドとして1957年から活動していた The Casuals の
結成メンバーだった。
地元 Nashville の音楽シーンで多くのグループを掛け持ちしていた
Buzz Cason は Snuff Garrett のアシスタントとして Los Angeles
に出向いて1960年からソロシンガーとしてのキャリアーを確立
しようとしており、彼は Liberty Records と契約し映画
"Circus Of Horrors" の主題歌を変名の Garry Miles 名義で
リリースした "Look for a Star" が6月20日をピークに全米16位の
ヒットとなった。(注:綴りの異なる Garry Mills - Look for a Star Part 1
Imperial 5674 は違うシンガーに歌わせており、そちらのヴァージョン
も6月20日をピークに全米26位のヒットとなる)
Buddy Holly の死後に同郷 Texas の Snuff Garrett を頼って
The Crickets は Coral から Liberty Records に移籍してきた。
この期間中、Buzz Cason と当時セッションミュージシャンだった
Leon Russell は The Crickets のカヴァーヴァージョン “La Bamba"
の録音に参加し、プロデュースを担当した。
これを期に短時間ではあるが Buzz Cason は The Crickets の
録音メンバーとして活動する。この曲は英国で好評を博し、
Buzz Cason は The Crickets のツアーメンバーとしても
イギリスに行った。と同時に Buzz Cason は地元の Nashville
ではプロデューサー、アレンジャーの Bill Justis の下でも働いていた。
同郷のソングライター Bobby Russell と Buzz Cason が出会ったのは
そんな頃だった。Snuff Garrett のアシスタントだった Buzz Cason は
Bobby Russell と一緒に "Tennessee" と言う地元を題材とした
所謂御当地ソングを書いたところ、その曲は Jan & Dean によって
シングルカット (Liberty F-55454) をされた。プロデュースは
Lou Adler, Snuff Garrett が担当しており、この曲は1962年5月26日
をピークに全米69位のスマッシュヒットとなった。
この手応えを得た Buzz Cason と Bobby Russell は West Coast の
Youth Culture を意識したサウンドを作り始める。
Buzz Cason と Bobby Russell はソングライターや
録音ユニットとして 1963年から Hit Recordsに参加する。
Bobby Russell はセッションシンガーとしても参加し、
そこで作られていったサウンドは後に Buzz Cason や Bergen White
らと外部から参加した Ronny & The Daytonas へと発展する。
Buzz Cason は The Ronny And The Daytonas のレコーディング
にも参加、Buzz And Bucky (Buzz Cason & Buck Wilkin) としての
シングルも残し、更には Los Angeles に出て、同地の流行音楽に
大きく関わっていく。当時 Buzz Cason は Surfin’ & Hot Rod music
のリリースに没頭していた。
1964年になると Buzz Cason は Liberty 内で予算を貰って作った
企画盤アルバムをリリースしていく。
The Eliminators - Liverpool, Dragsters, Cycles & Surfing
(LP: Liberty LRP-3365 mono / LST-7365 stereo)
The Zip-Codes - Mustang!
(LP: Liberty LRP 3367 mono / LST-7367 stereo) 1964
これらはいずれも Leon Russell を参加させてる。
本件シングルは Buzz Cason の数あるセッションユニットの
一つだ。興味深いことに The Crickets の屋台骨を支えてきた
名ギタリストの Tommy Allsup と共同プロデュースしており、
The Crickets のツアーメンバーとしても活動した
Buzz Cason ならではの人脈であり、The Crickets もついに
Surf music scene に参加してきたのが解る。
本件シングルでギター演奏をしているのは Tommy Allsup だ。
Beach Party を想起させるライヴ風録音は当時の流行の
録音スタイルだ。B面では Surf style のヴォーカルチューン
を聴かせており、中々出来がよい。
Tommy Allsup は Buddy Holly との運命のコイントスで
演奏ツアー用の飛行機の座席をBuddy Holly に譲り、
Buddy Holly, Ritchie Valens, and J.P. "The Big Bopper" Richardson
と飛行機パイロットの Roger Peterson は1959年2月2日の
飛行機墜落事故で亡くなった。Buddy Holly の死後に
Liberty Records に移籍してきた The Crickets だが
実は Tommy Allsup はレーベルメイトとなった The Ventures の
録音でもギターを演奏しており "The Colorful Ventures" と
"Twist With The Ventures" で演奏している。
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Kathy Young and Chris Montez |
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21-08
Chris and Kathy - Shoot That Curl
(7: Monogram Records MR-520) 1964
Chris Montez and Kathy Young.
Chris and Kathy だがプロモ盤だけ Chris & Kathy, うふふふ。
あの頃は誰でも Surfin' が歌いたかったんだよ。
何故って?ヤングに馬鹿ウケだったんだよ (死語)
Chris Montez も Chicano rock singer になる
夢を持っていたって言うことだ!
Orange County 出身の Kathy Young なんて
"A Thousand Stars" の全米6位の大ヒットの時15歳で
本件シングルの時でもまだ19歳だからガールである。
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Gary Paxton |
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21-09 The Captivations - Speedshift
(7: Garpax 44179) 1964
Vol. 2 - 12 を参照されたし。
1964年3月にリリースされたこのシングルに Gary Usher
はノンクレジットながら参加してる。
The Captivations - Red Hot Scrambler Go! / Speedshift
A面は元々 "Red Hot Honda" というタイトルだったらしい。
しかし、いわゆるホットロッドイメージにブランドを関連付ける
ことを望まなかったホンダバイク側による反対によって
"Red Hot Scrambler Go!" にタイトルは変更された。
という事はこの時点で Honda と The Beach Boys サイドは
プロモーションソングのタイアップ契約が進んでいたのだろう。
American International Pictures の映画を接点に知り合った Gary Usher と
Kim Fowley だが、その際 Kim Fowley は Gary Paxton に
Gary Usher を紹介した。彼は "It Was I" のヒットでも有名な
Skip & Flip というデュオを後に The Byrd に参加する Skip Battin
とでっちあげたり、Hollywood Argyles や Boris Pickett 等
のノヴェルティー色の濃いダンスナンバーをロックンロールシーン
に送り込みヒットさせた人物としても知られる。
俳優 Douglas Fowley, 女優 Shelby Payne を両親に持つ
Kim Fowley は高校生の頃から Jan Berry, Dean Torrence, Bruce Johnston,
Phil Spector, Nancy Sinatra 等と交流を持ち音楽活動をしていた。
また Gary Paxton は後に Millennium の母体となった The Ballroom
のセッションを仕切ったり Eternity's Children のセカンドアルバム
Timeless でプロデューサーを務める等才能豊かなミュージック
クリエイターだ。このレコーディングでは同じ布陣で
"Little Bitty King Of The Road" という曲も録音されているが
リリースはされていない。この Garpax というレーベルは
London Records 配下による Gary Paxton のレーベルで、
この The Captivations のシングル製作も彼によるものだ。
A-side は B.Biglow-G.Paxton、B-side は P.Nuckles-G.Paxton
のクレジットだが参加メンバーが凄い
Gary Paxton - Lead Vocal
Roy Durkee - Bass Vocal
Gary Usher - Backing Vocal
Bruce Johnston - Backing Vocal
Buzz Cason - Backing Vocal
参加メンバーが凄いというのも Gary Usher, Bruce Johnston,
Buzz Cason というビッグネームの参加と同時にその後1966年
に Capitol Records からサイケ、エクスペリメンタルアルバム
The Happening をリリースする Fire And Ice, Ltd. の Roy Durkee
がバスヴォーカルで歌ってるのだ。
ホットロッドも数年後にはサイケデリックシーンへと変化して
しまうところが西海岸サブカルチャーの成長の早さだろうか。
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Fire And Ice, Ltd. |
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Paul Petersen |
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21-10
Paul Petersen - She Rides With Me
(7: Colpix Records CP-720) 1964 Compilation album - More Teenage Triangle
(LP: Colpix Records CP 468 mono / SCP 468 stereo) 1964 俳優、歌手、小説家と多才な活動をした Paul Petersen
の若き日の一枚。
Paul Petersen は10歳でミッキーマウス クラブのマウスキーパー
としてショービジネスのキャリアをスタートした。
彼は1958年の映画 Houseboat に Sophia Loren や Cary Grant
とともに出演したが、1958年から1966年までABCファミリーテレビ
のホームコメディ The Donna Reed Show で10代の Jeff Stone を
演じてスターダムを獲得した。
本件シングルA面は御存知 The Beach Boys の Brian Wilson が
書いた名曲で、今改めて聴いても当時としてはかなり斬新で
実験的なアレンジが施されている。
当時の Brian Wilson は The Beach Boys 名義では出来ない
へヴィーなアレンジをよく外部作品で行っており、本件でも
Leslie speaker を用いて電気処理したコーラスの声と
ハンドクラッピングでビートを強調している。
実はこのLeslie speaker を用いた本件作品が
サイケデリック・ミュージックにとってエポックメイキング
(その出現の以前と以後とで社会的に大きな違いが
生ずるような有意義なこと) な出来事となった。
Paul Petersen によれば「1963年の大晦日にラスベガスで
Lou Adler から電話があった。Lou Adler は Brian Wilson の曲を
カットするために今すぐロサンゼルスに来るように私に頼んだ。
私がRCAのスタジオに着いたとき、トラックはすでに
Brian Wilson によってカットされていた。そこにいたのは
Lou Adler と2人のエンジニアだけだった。Lou Adler は
ヴォーカル用に Leslie オルガンのサウンドを調整して、
それで終わりだった。」 Lou Adler は同時にリリースされた
妻 Shelley Fabares の "He Don't Love Me" でもこのエフェクト
を使用した。Brian Wilson 自身も The Beach Boys の
1965年7月の曲 "You're So Good to Me" のギター・サウンドに
このエフェクトを使用した。
"She Rides with Me" はヒット・レコードにはならなかったが
Leslie speaker が加工したサウンドはすぐにサイケデリック
ミュージックの顕著な特徴となった。
The Beatles が初めて Leslie speaker を使ってレコーディング
したのは1965年6月 George Harrison が "It's Only Love" の
リード・ギター・パートの1つをオーヴァーダビングしていた
ときだった。Beatles 研究本の著者 Andy Babiukによれば、
"Tomorrow Never Knows"(1966年)は、John Lennonが
自分の声を「まるで私が最も高い山の頂上から歌っている
ダライ・ラマであるかのように」と要求した後
Leslie speaker の入力に直接接続されたマイクを使用して
ヴォーカルが録音された初めてのことだったという。
The Beatles は1966年の Revolver のセッション中ずっと
Leslie speaker を使い続けた。
The Beatles は他のギタリストにこのスピーカーの
使用を促した。George Harrison は Cream の曲 "Badge"(1969年)
にゲスト出演した際に Leslie speaker を介して演奏し、
David Gilmour も Pink Floyd のレコーディングの際に
同様のセットアップを使用した。
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Leslie speaker
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Leslie speaker は1940年代に Donald Leslie によって考案された、
ドップラー効果を利用してトレモロ、ビブラートなどの音色の
効果を出すために作られたアンプ内蔵のスピーカーユニットである。
特にハモンドオルガンと接続して用いられることが多いが
ハモンド社の製品ではない。
高音部用のホーンと、低音部用のローターをモーターで別々に
回転させてコーラス効果を発生させ、音に広がりを与える
仕組みをもったスピーカーだ。ハモンドオルガンと組で使われる
ことが多いが、それ以外の電気電子楽器やマイクを接続し
アコースティック楽器と組で使う事も可能である。
回転速度は速い・遅いの2段で、停止させることも可能。
1960年代以降はハモンドオルガンとともにロックミュージシャン
に好んで使用されるようになった。
Procol Harum の「青い影 ("A Whiter Shade of Pale") 」や
The Animals の「朝日のあたる家」が有名である。
The Ventures の「10番街の殺人」では、サクソフォンの
音をマイクで収録し Leslie speaker で出力している。
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The Dovells (The Woofers / The Scramblers) |
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21-11
The Woofers / The Scramblers - Bench Racer
The Woofers / The Scramblers - Ridin' The Rails
The Woofers - Dragsville
(LP: Wyncote W-9011 mono / SW-9011 stereo) 1964 Surfin' & Hot Rod コレクターには The Dovells - Dragster On The Prowl
が有名なフィラデルフィアの Vocal Quartet の The Dovells だが
彼らを一躍有名にしたのは1961年に全米2位となった彼ら細大の
ヒット曲 "Bristol Stomp" である。
因みに1位は Dion の "Runaround Sue" だった。
The Dovells のグループメンバーは以下
Leonard Borisoff (Aka Len Barry: Lead and Tenor)
Jerry Gross (Aka Jerry Summers: Lead and First Tenor)
Mike Freda (Aka Mike Dennis: Second Tenor)
Arnie Silver (Aka Arnie Satin: Baritone)
The Dovells はその後数年間にわたって一連のシングルをリリースした。
その中には1963年にビルボード・ホット100のトップ・ヒットとなった
"You Can't Sit Down" も含まれていた。グループメンバーの Len Borisoff は
1963年末に脱退し、Len Barry という名前でソロ活動を始めた。
彼のソロキャリアの最高点は、1965年のヒット曲 "1-2-3" と
それに続くヒット "Like a Baby" だった。
そんなビッグネームの The Dovells だが彼らは Cameo/Parkway 系の
ハウスバンドとして同レーベルの人気アーティストのバックコーラスを
担当するという役もこなしていた。そんな彼らが時流に乗って
Cameo/Parkway 系の廉価盤レーベルである Wyncote より
変名ユニット名義でリリースした中には
The Liverpools - Beatle Mania! In The U.S.A. (Wyncote W 9001)
1964年の、あのひでえビートルズパチモンアルバムも含まれる。
そして Surfin' & Hot Rod ブームに便乗し二つのグループ名義の
アルバムをリリースしたのが本件で、名前を使い分けてるが同じ音源である。
The Woofers - Dragsville (Wyncote W/SW-9011)
The Scramblers - Little Honda (Wyncote W/SW-9048)
互いの異なる収録曲は両面の1曲目
The Woofers A-1 "Drag City", B-1 "Little Deuce Coupe"
The Scramblers A-1 "Little Honda", B-1 "G.T.O."
で、B-1 "G.T.O." に関してはエレクトリック・ステレオ・リチャネリング
による初期録音の収録となる。True Stereo ではなく初期の擬似ステレオ。
さらに細かい事を言えば、"Dragster On The Prowl" の Mono version は
The Dovells のシングルと同じだが、Stereo version はそれより20秒長い。
The Woofers / The Scramblers - Ridin' The Rails について。
この曲は元々 Dee Dee Sharp - Riding The Waves
(V.A. - Everybody's Goin' Surfin' : Parkway P-7035 Mono in 1963)
としてリリースされた歌の歌詞を変更したもの。さらに興味ぶかいことに
このバックトラックが Rally-Packs "Bucket Seats" (Imperial 66036 in 1964)
にとても似ている。
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21-12
Bobby And Bergen -
"I've Got A" Tiger In My Tank / The Whole Summer Through
(7: Spar 750) 1964
The Jalopy Five - (I've Got A) Tiger In My Tank
(7: Hit Records 145) 1964
Jalopy Five - Draggin' And Surfin'
(LP: Modern Sound MS 525) 1964
その実体は Bobby Russell and Bergen White だが
同じトラックを The Jalopy Five 名義でもリリースしてる。
1962年に Esso ガソリンはキャンペーンで
“Put A Tiger In Your Tank”(君の車のタンクに
タイガーを入れようぜ)のキャッチコピーが使った。
それを期に Tiger In Tank 系の歌は幾つか存在
するのだが、この曲もその一つで Esso のガソリン
を入れてパワフルに加速する車を歌っている。
Nashville を拠点とした廉価盤レーベル Hit Records,
Modern Sound, Spar Records, Giant Records は
プロデューサーの William Beasley が設立したレーベル
なので同じ音源をそれらのレーベルで使いまわしていた。
そのレーベルでセッションメンバーとして
雇われていたのが Bobby Russell , Bergen White,
John Preston (Larry Dexter), Herbert Hunter (Johnny Keaton,
Leroy Jones, Jim Porter, Marty on Kenilworth),
Alpha Zoe (Clara Wilson, Dot Hester, Mary Merry, Mary Sue,
Peggy Thompson, Sylvia Richards), そして後にSoul music で
成功する Latimore こと Benny Lattimore らだ。
曲調に応じて一人の歌い手が様々な架空のシンガーを
演じていたのが上記の名義からも解る。
The Jalopy Five というグループ名ですら
The Music City Five, The Tides と異なる名義でリリース
させてるが実体は一緒である。
Bobby Russell and Bergen White は Buzz Cason が
可愛がっていたので彼らも Ronny & The Daytonas の
別働隊として録音参加していた。事実下部に掲載した
Ronny & The Daytonas のグループ写真には Bergen White も
写っている。
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Bergen White
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Ronny & The Daytonas
(後列中央 Bergen White, 後列右 Buzz Cason)
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21-13
The Sonics - Summer Job
(7: Byron B-101) 1964
Connecticut 州 New Haven 出身のガレージバンドが残した
彼らの唯一のリリースだが、これが素晴らしいR&B 系ヴォーカルグループ
マナーを持ったサマーテーマ・ビートポップの隠れた逸品。 R&B ヴォーカルグループ名曲 The Silhouettes "Get A Job"
の夏ヴァージョンのロックンロールチューンといったとこか。
もろちん否、もちろん Washington 州 Tacoma の同名ガレージパンク
バンドとは関係ない。
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Robert Staunton / Robert Walker |
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21-14
The Hit Pack - Summer Fever
(7: Colpix Records CP-745 Promo only) 1964
画像を見る限り温泉旅館に泊まりにきた浴衣姿の Robert Staunton,
そして旅館なのにかっこつけてホテルの支配人姿の Robert Walker
といったコントラストの二人である (笑)
The Hit Pack は翌1965年には Motown の子会社 Soul から
Never Say No To Your Baby / Let's Dance (Soul S-35010) を
同じ面子でリリースするので、本件シングルがデビュー盤となる。
ホーンを配して躍動感溢れるビーチポップに仕上げており
プロデュースを担当した Frank Owens は Petula Clark, Lena Horne,
Johnny Mathis, Connie Francis らの音楽監督を務めてきた人物。
The Hit Pack のメンバーは
Charles Jones, Robert Dobyne, Robert Staunton, Robert Walker
の4人で、中核となる Robert Staunton, Robert Walker の二人は
ソングライターチームとして、またはプロデューサーコンビとして
60年代に The Dells, The Artistics, The Monitors, The Headliners,
Brenda Holloway, Sugar Pie De Santo, Jimmy Cliff らの曲を手掛けた。
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21-15
The Crowns - She's Wearing His Sweater
(7: TIP Records 1015 Promo only) 1964
"She's Wearing His Sweater" 「彼女は彼のセーターを着ている」
この曲のタイトルで股間をもっこりさせてはいけない。
彼女が彼の家に泊まって彼のセーターを着ようが、もっこり
させず、ほっこりさせるのが大人である。うふふふ
で作者の E. V. Hollins-B. Buchanan (Veril Hollins-Betsy Buchanan)
は Bob & Earl "Oh Baby Doll", The Furys "Cover Girl",
H.B. Barnum "Dance With Me" 等を書いており、このレーベルは
The Allisons - Surfer Street / Money (Tip Records 1011) 8-23 参照
Bob & Earl - Oh Yea (Have You Ever Been Lonely) /
As We Dance (Tip Records 1013)
この流れからして、恐らくこの The Crowns は黒人のユニットだと
思われる。
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Leon Smith
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Leon Smith And The Basics |
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21-16
Leon Smith And The Basics - Basic Surf
(7: Lavender R-1851) 1964
Oregon 州 Portland 出身のバンドで、リーダーの Leon Smith は
The Orbit Sound と Willamette レーベルのオーナー
Lloyd "Pappy" Smith の息子だったので、特に Willamette の
録音の多くに本件バンドは関わっている。
プロデュースを担当した Pat Mason は Lavender レーベルの
A&R で、彼はカルトな Boogie R&R で人気の高い
Judy Sword - Please, Don't Squeeze My Jimmy のプロデュースも
行っている。
Leon Smith And The Basics のメンバーを記述しておく。
Leon Smith - Guitar, Vocals
Wayne Marshall - Bass, Vocals
Gary Van Ornum - Drums, Vocals
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21-17
Kassi Lyon - Little Lonely Summer Girl
(7: S&M Records G S K L #1 Promo only) 1964
Buddy Holly の死後しばらくの間、The Crickets のリードシンガー
としての地位を確立した David Box の1964年のヒット曲を
スタジオユニットでカヴァーしたのが本件である。
詳細は 5-27 David Box - Little Lonely Summer Girl を参照されたし。
で、ストレイトなカヴァーチューンだが、作者のクレジットすら
印刷してないこのシングルに南部の帝王 Huey P. Meaux (ヒューイ・モウ)
がクレジットされてる。
Huey Purvis Meaux はアメリカのレコードプロデューサーであり、
Crazy Cajun Records, Tribe Records, Tear Drop Records,
Capri Records 等のレーベルや SugarHill Recording Studios 等
さまざまなレコーディングスタジオの所有者だった。
Louisiana 州生れの彼は "The Crazy Cajun" のあだ名を持ち、
Cajun (ケイジャンあるいはケージャン)とは、祖先が北米東部の
アカディア地方(カナダ南東部のノバスコシア地方)に入植した
フランス人の直系で、イギリス人によってアカディアから追放
されたのち、最終的に主にアメリカ合衆国ルイジアナ州南部に
永住した人々を指す。その名 Meaux の通り、彼はフランス系移民で
イギリス人によってカナダ北部から追放されルイジアナ州南部に
永住した家系であり、しばしば荒々しい行動から "The Crazy Cajun"
と揶揄される。彼はそのニックネームを使って Texas 州 Houston
を拠点に Cajun-country をリリースする自身のレーベル
Crazy Cajun Records を設立し Dan Penn に Abel の変名で
サイケデリックソウル My Far Away Cow / Ain't It Weird
(The Crazy Cajun Records 518) をリリースさせたのだから、
やはり狂った人物だ、
しかし Huey P. Meaux の功績は南部から全米ヒットとなった
多数の名曲があり
The Sir Douglas Quintet "She's About a Mover"
Roy Head "Treat Her Right"
B.J. Thomas "Are You Lonesome Tonight?"
Freddy Fender "Before the Next Teardrop Falls"
Freddy Fender "Wasted Days and Wasted Nights"
Barbara Lynn "You'll Lose A Good Thing"
Sunny & The Sunliners "Talk To Me"
Gene Summers "Big Blue Diamonds" 等が有名、
また Huey P. Meaux とレコーディングしたミュージシャンは
Jerry Lee Lewis, Johnny Copeland, T-Bone Walker,
Rockin' Sydney, Lowell Fulson, Chuck Jackson, Doug Kershaw,
Doug Sahm,Rod Bernard, Sonny Landreth, Clifton Chenier,
Little Royal, Ronnie Milsap, Mickey Gilley, Delbert McClinton,
Dr. John, Clarence "Frogman" Henry, Bob Wills, Lightnin' Hopkins,
Tommy McLain, Joe Barry, Johnny Winter と枚挙に上がる。
1996年、彼のオフィスが警察に強制捜査され、何千もの
ポラロイド写真と、ほとんどが未成年で性的な状況にある
少女のビデオが見つかった。彼は子供への性的暴行、薬物所持
の罪、児童ポルノの罪、および保釈金を払ってメキシコの
フアレスに一時的に逃亡した罪の2つの罪状について
有罪を認めた。彼は懲役15年の判決を受け、2007年に
釈放されて、2011年4月23日に 82 歳で亡くなった。
やはり彼の狂気を物語る終焉だった。
Poor little lonely summer girl
vacation’s made you blue
Poor little lonely summer girl
wish I was there with you
Poor little lonely summer girl
your friends are havin’ fun
They’re too busy laughing
to see you’re only one
They’re so happy school is out
but they don’t understand
hearts that are a summer apart
won’t be happy until school starts again
Poor little lonely summer girl
go on and join your friends
and make yourself smile until
we are together again
They’re so happy school is out
but they don’t understand
hearts that are a summer apart
won’t be happy until school starts again
(Instrumental)
Poor little lonely summer girl
vacation’s made you blue
Poor little lonely summer girl
wish I was there with you
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Huey Purvis Meaux |
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21-18
Kassi Lyon - Lonely Surfer (Its Not The Season)
(7: S&M Records G S K L #5) 1964
プロデュースを担当した Huey P. Meaux については
上記を参照のことあるよ。
スタジオセッションユニットではあるが
語り系のメロディアスなサーフチューンで
バッチグーッ(死語)あるよ。
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The Newbeats |
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21-19
The Newbeats - Tough Little Buggy
(7: Hickory Records 45-1269) 1964
(7: Hickory Records HG 1001) 1964
(LP: Hickory Records LPM 120 mono) 1964
(LP: Hickory Records LPS 120 stereo / ST-90701 stereo)
Club Edition stereo copy in 1965
Louisiana 州 Shreveport 出身のバンドなので
南部の名プロデューサー Shelby Singleton と同郷である。
本件は彼らの最大のヒット曲1964年8月15日をピークに
全米2位となった “Bread And Butter” のシングルB面曲
なので重版を重ねられた結果多くのラベルヴァリエイション
が存在する。さらに特筆すべきは1964年にリリースされた
彼らのデビューアルバムにこの曲は収録されたが
そのアルバムはモノラルだけのリリースで、翌年になって
ステレオ盤がクラブエディションとして限定リリースされている。
My little Corvair
My little Corvair
I had a little Corvair
And it's really tough
Four on the floor and that was enough
I took my baby ridin'
Now we're goin' for green
There's no doubt about it
It's a goin' machine
It was a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair
I was out ridin' one Saturday night
And then I saw a terrible sight
My old buddy had a corvair too
And who's my baby with but you know who
It was a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair
I told him he'd better move out of my way
For I was there first and I was there to stay
He dumb it down and I did too
We both peeled rubber 'til the was blue
It was a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair
Now we're both walkin'
And it's plane to see
No more girl for him
No more car for me
The boys went down
Oh, wouldn't you know
She's got her own wheels
And a bless my soul
It's a tough little buggy
A tough little buggy
A tough little buggy
My little Corvair
My little Corvair
My little Corvair
My little Corvair
My little Corvair
My little Corvair
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21-20 Tony Sales & The Tigers -
Summer Time (Is The Best Time For Making Love)
(7: Roulette R-4630 Promo only) 1965
本件シングルはプロモ盤しか確認されておらず
ピクチャースリーヴを付けて配布されている。
Hugo & Luigi がプロデュースしているので
ティーンポップとしてのプロモーションがされたのが伺える。
ミシガン州デトロイト州出身のバンドだが殆どのメンバーの
親が有名人のため、所謂お子ちゃまバンドと定義されがちである。
Tony Sales & The Tigers は当時テレビ番組 Hullabaloo に
2回出演しており1965年12月20日の放送では
Gary Lewis & The Playboys の Gary Lewis の父で
俳優コメディアンの Jerry Lewis がホストを務め、
1966年4月4日の放送では彼らの父親である Soupy Sales
がホストを務めた。
Tony Sales & The Tigers は1967年に Atlantic City の Steel Pier
で行われた The Animals のライヴのオープニング・アクトも務めた。
Tony Sales (vocals, guitar), Hunt Sales (drums)
この兄弟の父親はコメディアンの Soupy Sales で
父の作品 18-25 Soupy Sales - Santa Claus Is Surfin' To Town
を参照されたし。
Jonathan Meredith (bass) の父 Burgess Meredith は
俳優、映画監督である。多才な人物で2度アカデミー賞に
ノミネートされた。代表作は映画『ロッキー』シリーズと、
テレビドラマシリーズ『バットマン』。
Jon Pousette-Dart (guitar) の父 Richard Pousette-Dart は
ニューヨーク絵画学校の創設者として最も有名なアメリカの
抽象表現主義芸術家。彼の芸術的成果には、ドローイング、
彫刻、ファインアート写真も含まれる。
Jon Pousette-Dart 自身は後に The Pousette-Dart Band (PDB) の
リーダーとなり1970年代から1980年代初頭にかけて活躍した。
Jimmy Reilly (bass)、彼は特別な存在である。
ジャズサックス奏者 Aaron Sachs とフィメールジャズシンガー
Helen Merrill の息子で、後に日本でウォッカ・コリンズを
結成する Alan Merrill は彼自身がセレブファミリーであり、
その交友関係で Alan Merrill は友人でルックスもよかった
Jimmy Reilly を Soupy Sales の息子たちのバンド
Tony Sales & The Tigers に紹介した経緯を持つ。
そのような人間関係で Tony Sales & The Tigers の後も
Jimmy Reilly と Alan Merrill はグリニッジ・ヴィレッジの
伝説的カフェ Cafe Wha? で共に1966年から1967年に
The Kaleidoscope, The Rayne, Water Tower West の
メンバーとして活躍した。しかし残念なことに Jimmy Reilly は
1967年にヘロインの過剰摂取により17歳で亡くなった。
Alan Merrill は語っている。「Jimmy Reilly は Eric Clapton の
ような潜在能力を備えた才能あるブルース・ギタリストだった。
そしてとても格好良い青年。彼が自分の潜在能力を
発揮できなかったのは悲劇だ。」
Tony Sales & The Tigers 解散後、1970年に Sales brothers は
Todd Rundgren とともに新しく結成されたグループ Runt
に加わった。彼らは1975年に Iggy Pop & James Williamson
のアルバム Kill City のために2曲を録音した。
そして David Bowie がプロデュースした Iggy Pop の
アルバム Lust for Life (1977) に彼らはリズムセクションを提供した。
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The Kingsmen |
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21-21
The Kingsmen - How to Stuff A Wild Bikini
(LP: Wand WDM 671 mono / WDS 671 stereo) 1965
A track from soundtrack album "How to Stuff A Wild Bikini"
オレゴン州ポートランド出身の名グループ。
彼らはオレゴン州が生んだ最も成功し、影響力のあるロックンロール
バンドで、彼らの代名詞となった "Louie Louie" は元々は Richard Berry
が1957年にリリースしたブルーズ曲だった。
その後この曲は様々なミュージシャンがカヴァーしていったが
Rockin' Robin Roberts (withThe Wailers) の1961年カヴァーが
1962年に地元のオレゴン州シーサイドの Pypo Club のジュークボックス
で何時間も流れ、クラブ全体が踊っているのに出演者だった彼らは気づいた。
The Kingsmen のギタリストでシンガーの Jack Ely はこの曲を
覚えるようメンバーに説得し、彼らがダンスパーティーで演奏すると
大勢の観客の反応があった。Jack Ely は知らなかったが、ジュークボックス
でメンバーが聞き間違えたため、彼らはビートを変えてしまった。
ラジオ局KISNの司会者 Ken Chase は、これらのダンスブームを
利用するために自分のクラブ Chase を開業し、The Kingsmen は
同クラブのハウスバンドとなり、彼はバンドのマネージャーになった。
当初 Paul Revere and The Raiders のカヴァーヴァージョンを
他の競合ラジオ局がオンエアーしてるのを知って Ken Chase は
自身のラジオ番組で The Kingsmen のデモヴァージョンをかけまくった。
直ぐに彼らを地元の Jerden Records と契約させシングルをリリースさせたが
Scepter Records 傘下の Wand Records から再リリースされ全国配布、
その結果1963年11月9日をピークにビルボードチャートで全米2位の
大ヒットとなった。
インディアナ州知事 Matthew E. Welsh が "Louie Louie" の
放送を禁止したとき、The Kingsmen は全国的な注目を集めた。
彼らのヴァージョンの歌詞がわいせつであるとの疑いで FBI
からの注目も集めた。実際この歌の人気と歌詞の判別の難しさから、
この歌がわいせつであると疑う人もいた。
FBI は、この歌に関わった人々がわいせつ物の州間輸送を禁じる法律に
違反したかどうかの調査を依頼された。この限定的な調査は
1964年2月から5月まで続いたが、わいせつであるという証拠は
発見されなかった。結局、歌詞は実際は無害だったが、Jack Ely の
不可解な発音により、10代のファンや心配する親たちは、
最もスキャンダラスでわいせつな言葉を想像することができた。
皮肉なことに、FBI は、0:54秒で Lynn Easton がドラムフィルを
失敗して「ファック!」と叫ぶのをまったく見逃していた。
こうした注目により、この曲の人気はさらに高まった。
Louie Louie, oh no, you take me where ya gotta go
Yeah, yeah, yeah, yeah, yeah, baby
Louie Louie, oh baby, take me where ya gotta go
ルイ・ルイ、ああ、いや、君が行かなきゃいけないところに連れて行って
そう、そう、そう、そう、そう、そう、ベイビー
ルイ・ルイ、ああ、ベイビー、君が行かなきゃいけないところに連れて行って
A fine little girl, she waits for me
Me catch the ship across the sea
Me sailed that ship all alone
Me never think I'll make it home
素敵な女の子が、僕を待ってる
僕は海を渡る船に乗る
僕はたった一人でその船を航海した
僕は家に帰れるなんて思ってない
Louie Louie, oh no no no, we gotta go
Oh no
Said Louie Louie, oh baby, me gotta go
ルイ・ルイ、ああ、いや、いや、いや、行かなきゃ
ああ、いや
ルイ・ルイが言った、ああ、ベイビー、僕は行かなきゃ
Fuck!
Three nights and days I sailed the sea
Me think of girl constantly
On that ship, I dream she there
I smell the rose in her hair
3日間、海を航海した
いつも女の子のことを考えていた
あの船で、彼女がそこにいるのを夢で見た
彼女の髪に咲いたバラの香りを嗅いだ
Louie Louie, oh no, me gotta go
Yeah, yeah, yeah, yeah, yeah, baby
Louie Louie, oh baby, said we gotta go
Okay, let's give it to 'em right now
ルイ・ルイ、ああ、いや、行かなきゃ
そう、そう、そう、そう、そう、そう、ベイビー
ルイ・ルイ、ああ、ベイビー、行かなきゃって言った
よし、今すぐに渡そう
Me see
僕が見える
Me see Jamaica, the moon above
It won't be long me see me love
Me take her in my arms and then
I tell her I'll never leave again
僕が見える、ジャマイカ、上空の月
もうすぐ僕が愛する姿を見る
僕は彼女を腕に抱きしめて
そして
もう二度と離れないと彼女に言う
Louie Louie, oh no, we gotta go
Yeah, yeah, yeah, yeah, yeah, baby
Louie Louie, oh baby, said we gotta go
I said we gotta go now
Let's hustle on out of here
Let's go
ルイ・ルイ、ああ、いや、行かなきゃ
そう、そう、そう、そう、そう、そう、そう、ベイビー
ルイ・ルイ、ああ、ベイビー、行かなきゃって言った
僕は今すぐ行かなきゃって言った
ここから急いで出よう
さあ行こう
そんな騒ぎを逆手にとって渦中の The Kingsmen が
American International Pictures 得意の軽薄なビーチムービーに
出演し、人気女優 Annette と共演し Better Be Ready (準備は万端)
を歌う Annette のバックを務める。
本件はそのサントラアルバムに収録された1曲だが
Guy Hemric-Jerry Styner が書いた軽快なビーチポップの逸品である。
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Annette with The Kingsmen at movie How to Stuff a Wild Bikini
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Dean Kay / Stan Ross |
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21-22
The Scramblers - Super Surfer, U.S.A.
(7: Arvee 6502 Promo only) 1965
詳細は 2-9 The Scramblers - Go, Gilera, Go 参照。
Dean Kay と Stan Ross (Stanley Ralph Ross) によるユニット。
Tennessee Ernie Ford TV Show の常連だった
Dean Kay はレコーディングアーティストおよび
ソングライターとしてデビューし、ソングライター
としては Frank Sinatra “That’s Life” が有名。
Stan Ross は Annette “No Way To Go But Up”,
Bugaloos “Gna Gna Gna Gna Gna” 等多くの
曲を書いており、二人のソングライターが時流に
乗って Surfin' Song を歌ったのだが、これが
かっこいい piano break を間奏部で配しており人気が高い。
作曲とプロデュースを Dean Kay が担当しており
興味ぶかい事にアレンジは後に Heaven Bound (MGM) を
率いる Tommy Oliver が行っている。
当時の Tommy Oliver は Gary Usher, Bruce Johnston,
Terry Melcher らが参加した Wayne Newton “Coming On Too Strong”
のB面 “Looking Through A Tear” (Capitol 5338) を
アレンジしており、西海岸のプロダクションで名を挙げていた。
そして1966年から Jefferson Airplane のプロデューサー
としてさらに知名度を上げた。
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Tommy Oliver |
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21-23 Bernie Madness - Bikini Beach
(7: Bang B-529) 1966
恐らくスタジオユニットだろう、彼ら唯一のリリースだが
1966年にビーチポップというのも時代遅れだから
1964年にケネディー大統領暗殺事件の影響で
自粛&お蔵入りになっていた音源を再アレンジして
ビートを強くしたのだと推察される。
作曲とプロデュースを手掛けた Alfred Haber (AKA Fred Haber) は
Johnny Tillotson "Tommy Jones,
Don & The Goodtimes "If You Love Her, Cherish Her And Such" 等を
書いている正統的なポップミュージックの作家である。
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Victor Millrose (Vic Millrose)
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Bo Gentry |
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21-24
Victor & The Spoils -
I Wish That I Could Make You Love Me
(7: Philips 40346) 1966
Kama Sutra production の好盤シングル
Victor & The Spoils が残した2枚を紹介。
Andrea Carroll, Susan Rafey, April Young etc etc
ガールポップシンガーやガールグループへ提供した人気曲が多い作家
Victor Millrose (Vic Millrose) を中心に Kama Sutra production が
Bo Gentry を一緒に売り込むためのプロモーション的な
ユニットで、Bo Gentry としてはこのユニットがデビューとなる。
ソフトロックファンには Vic Millrose が The Trade Winds に提供した
"Little Susan's Dreamin'" とか Eternity's Children の
セカンド・アルバム Timeless に提供した “The Other Side Of Me”
が有名か。Tommy James & The Shondells "Mony, Mony" の
1968年大ヒット作家で有名になる Bo Gentry も The Trade Winds
に提供した "Only When I'm Dreamin'" や Jerry & Jeff
(Jerry Kasenetz & Jeff Katz) の “Sweet Sweet Lovin' You” を
提供し、Kama Sutra が MGM Records の制作請負から
独立していく際の下支えをしていた。実際 Bo Gentry はこのシングル
がリリースされた1966年には Teddy Randazzo がプロデュース
とアレンジをしたアルバムThe Royalettes - The Elegant Sound
Of The Royalettes に ”Baby Are You Putting Me On” を
提供している。
で、このユニット Victor & The Spoils は当時流行の最先端を狙った
斬新なアレンジを施すことでマーケットリサーチをしていた。
彼らは Bo Gentry が書いた本件デビューシングル
“I Wish That I Could Make You Love Me” を
1966年1月にリリースしたのだが、そのサウンドは The Rogues
(Bruce Johnston & Terry Melcher) が1965年にリリースした
"Everyday" (Buddy Holly cover) のような深いエコーが
心地よい多重録音だった。これは Bo Gentry のオリジナル曲で
プロデュースが Kama Sutra Productions, Bo Gentry, John Walsh
とクレジットされている。The Dreamlovers, The Lavenders (CR Records),
The Cradle "What A Summer" (Jubilee 45-5549) 等のソングライター
Murray Wecht のパートナーだった John Walsh がプロデュースを担当しており、
彼は1967年から The Rogues (Bruce Johnston & Terry Melcher)
と同じ Columbia のプロデューサーとなるので、当然ながらの
サウンドと言えよう。アレンジは Bert Berns のパートナーだったニューヨークの
アレンジャー Garry Sherman なのか、それとも Jubilee の同名異人の方の
アレンジャーなのか。Kama Sutra production という事を考慮しても
どちらかはっきりしない。
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21-25
Victor & The Spoils - All I Ask
(7: Philips 40384) 1966
そして次のセカンドシングルは1966年7月23日にリリースされた。
A-side で The Critters の Don Ciccone が書いたオリジナル曲を
使っている。当時の Don Ciccone はやはり The Trade Winds
のために "Catch Me In The Meadow", "There's Got To Be A Word!"
を書いているが、Victor Millrose, Bo Gentry そして Don Ciccone
の3人がこのユニット Victor & The Spoils と同じ1966年に
The Trade Winds のために曲を書いているのだから
恐らくこのA-side 歌 “All I Ask” は The Trade Winds のために
Don Ciccone が書いたが、アルバムコンセプトか何かの
理由で The Trade Winds のアルバムに収録されなかったと
考えるのが理にかなってるだろう。
アレンジは The Trade Winds 同様に Jimmy Wisner が担当。
The Trade Winds "Mind Excursion" (Kama Sutra 212)
1966年7月23日にリリース。
1966年9月3日にチャートデビュー、全米51位。
Written by Peter Andreoli, Vini Poncia Jr.
Arranged,Conducted by Jimmy Wisner.
Produced by Pete Anders, Vini Poncia.
Victor And The Spoils - "All I Ask" (Philips 40384)
The Trade Winds "Mind Excursion" と同じ1966年7月23日にリリース。
Written by Don Ciccone.
Arranged by Jimmy Wisner.
Produced by Bo Gentry.
A Kama Sutra Production.
The Innocence "There's Got To Be A Word" (Kama Sutra 214)
1966年11月5日にリリース。
1966年12月3日にチャートデビュー、全米34位。
Written by Don Ciccone.
Arranged,Conducted by Jimmy Wisner.
Produced by Pete Anders, Vini Poncia, Artie Ripp.
結果的に “All I Ask” は The Trade Winds による変名ユニットの
The Innocence のアルバムに収録された。
The Innocence は The Trade Winds のフォローアップユニット
であり、むしろ The Trade Winds の持っていたロックンロールや
ヴォーカルグループのイメージを払拭させて、プロダクションから
新興レーベルとなった Kama Sutra のイメージ戦略のための
スタジオユニットである。
“All I Ask” は The Trade Winds の1967年1月のアルバム
Excursions (Kama Sutra KLP-8057 mono / KLPS-8057 stereo)
のイメージには合わずにボツ。
自身も卓越したメロディーメイカーであった Salt Water Taffy の
Rod McBrien がエンジニアーを務めた The Innocence の同名アルバム
(Kama Sutra KLP-8059 mono / KLPS-8059 stereo)
は1967年6月のリリースなので Kama Sutra プロダクションは
The Innocence のアルバムイメージを考慮し万全を期して
彼らのアルバムに “All I Ask” を収録させたのが伺える。
結局は The Trade Winds と The Innocence は同じユニットで
販売戦略が異なるだけなので The Innocence (純真)という
キャラクターイメージを保ちたかったんだろう。
The Trade Winds の "New York's A Lonely Town" がヒット
しなかったら "All I Ask" が入れられた可能性もあったかも
と思えるほど Red Bird Records 時代と Kama Sutra 時代では
The Trade Winds のイメージ戦略は異なる。
Tico, Gee, Rama, Gone Records, End, Roulette Records と
アメリカのロックンロール期を築いた名門レーベルを
次々と設立させてきた George Goldner はそれらのレーベルを
売却して1964年に Jerry Leiber and Mike Stoller の
名ソングライターコンビと提携して Red Bird Records を設立した。
このレーベルの最初のリリース The Dixie Cups “Chapel Of Love” が
全米1位となり世界的な大ヒットとなった。
そのような状況下でデビューしたスタジオユニットの
The Trade Winds は同レーベルではロックンロールをリリースし
彼らの代名詞となった "New York's A Lonely Town" は
1965年1月16日にリリース。1965年2月6日にチャートデビュー、
結果的に全米32位という好成績を残し、もはや Surfin’ music
のブームが去った1965年の冬に、4人グループとして
雪のニューヨークでサーフボードを抱えてプロモーション
画像を撮影させられるはめになった。
そして翌年の1966年に Jerry Leiber and Mike Stoller
のコンビが Red Bird の権益を George Goldner に売却した際に
The Trade Winds はプロダクションから新興レーベルとなった
Kama Sutra に移籍した。Kama Sutra 所属の The Lovin' Spoonful
の一連の大ヒットによってレーベルはメロディアスな Pop music
をレーベルカラーとしてより鮮明にさせていく事になる。
話を戻して本件シングルの B-side "You Are Very Instrumental To Me"
は作者クレジットが Mell-Ripp-Steinberg-Mizrahi-Wisner-Gentry
Frank Mell-Artie Ripp-Phil Steinberg-Hy Mizrahi-Jimmy Wisner-Bo Gentry
となっており、Artie Ripp, Phil Steinberg, Hy Mizrahi
の3人は Kama Sutra and Buddah Records の設立者である。
B-side のアレンジャークレジットに"Admiral" Perry (黒船のペリー提督)
となってるが Richard Perry のことだ。
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Don Ciccone
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Jimmy Wisner |
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Ronny And The Daytonas |
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21-26
Ronny And The Daytonas - 4-Cast She'll Love Me Again
(7: Show Biz Inc. ?21207 Promo only) 1966
Ronny And The Daytonas のリリースの中でも
最もオブスキュアー (不明瞭) な1枚。片面のみ収録の
プロモオンリーシングルなのだが、このレーベル
には Columbia Record Productions と印刷されており
これは Columbia Records のカスタム サービスである。
1959年という早い時期に、Columbia Record Productions は
製品 (パッケージ、ラベル、挿入物など) にレーベルとして
クレジットされ、制作、録音、マスタリング、プレスのクレジットが
付けられた。多くの場合、クレジットされたサービスが実際に
どこで実行されたか、または Columbia のさまざまな組織再編
により、その事業範囲全体が不明瞭になっている。
1960年 Columbia Transcriptions が発表され、
Columbia Records は完全な録音、編集、マスタリング、
金属加工設備を提供し、レコード ラベルの印刷と備品も
提供することになった。この転写サービスには
Bridgeport, Pitman, Los Angeles の3つの配送センターが
利用できた。1961年1月、Columbia Recordsは
以前は “Columbia Transcriptions” と呼ばれていた
同社のカスタム レコード部門の名前を変更し拡張した。
カスタム部門の新しい名前は Columbia Record Productions (CRP)
になったが、1965年後半まで "Manufactured by Columbia Records
Custom Division" (コロンビア レコード カスタム部門による製造)
が使用されていた。
1962年6月、Columbia Records は、Bridgeport, Pitman,
Terre Haute, Los Angeles の4つのカスタム プレス工場を宣伝した。
そして本件が製造された1966年に大規模な再編により、
5つの新しい事業部門が作成された。
Columbia Records は新しく設立された CBS/Columbia Group
の子会社になった。
オーナー Clive Davis の指揮下にある CBS Records は
Columbia, Epic, Okeh, Date, Harmony のマーケティング、
制作を担当した。彼は、自分の部門で次の業務を開始した。
Columbia Record Productions; Custom Pressing Services
Columbia Special Products のレコードとテープの生産
Masterwork Audio Products; 新しいオーディオ製品ラインの生産。
上記の記述で解るように、本件はColumbia Records が
大規模な再編をした1966年にカスタム プレスとして
製造された。このレーベル Show Biz Inc. は一時期
1969年8月から1970年11月まで Bell Records によって
全国的に配給された経歴がある。
Ronny And The Daytonas が所属していた Mala レーベルは
Bell Records の子会社なので、本件は恐らく1965年から
1966年に Bell Records 側が Ronny And The Daytonas に
打診し、何らかの目的で外部プロダクションが用意した歌を
彼らが歌っていた音源をカスタム プレスしたのだろう。
Show Biz Inc. はその後、1971年から1972年頃に
ナッシュビルを拠点とする Mega レーベルと
全国配給契約を結んだ。
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Kenny Young |
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21-27
The Seagulls - Don't Go Out Into The Rain (You're Gonna Melt)
(7: Date 2-1536) 1966
「チミはケニー・ヤングを知ってるか?ボクは知らない」 冗談、冗談(笑)
オールディーズファンには
The Drifters"Under the Boardwalk"
The Charmettes"Please Don't Kiss Me Again"
Ronnie Dove"One Kiss for Old Times' Sake"
The Shirelles"Shhh, I'm Watching The Movies"
Ben E. King"The Record (Baby I Love You)"
Herman's Hermits"Just a Little Bit Better"
Reparata and the Delrons"Captain of Your Ship"
Mark Lindsay "Arizona" "Silver Bird"
等、多数のヒット曲の作曲者としても有名で
隠れたとこではグラミー賞受賞作品 Quincy Jones "愛のコリーダ"
の作曲者でもある。Kenny Young はイスラエル生まれの人気作家で
自らも歌うシンガーソングライターでもある。
本名を Shalom Giskan といい、子供の頃両親と一緒にアメリカに
移住した後、マンハッタンのローワーイーストサイドで育ち、
22歳で名前を Kenny Young に変更した。
それから直ぐブリル・ビルディングで Bobby Darin の
TM Music のソングライターとして働き始めた。
彼は手始めに Bobby Darin, Frank Gari, Roger McGuinn の
3人が Sirfin’ Hot Rod Movement に便乗して結成した
The City Surfers の "50 Miles To Go" を書いた。
この佳曲は翌1964年に Dick Dale And His Del-Tonesも
アルバム Mr. Eliminator でカバー曲を収録している。
そして TM Music で Artie Resnick とコンビを組み彼らが書いた
The Drifters "Under the Boardwalk" は1964年8月22日を
ピークに全米4位の大ヒットとなり Kenny Young は一躍
ヒットソングライターとなった。
彼はシンガーソングライターとしても活動を続けたのだが
その多くが彼が架空のグループ名義でリリースしたもので
The Seagulls, The Squirrels, Kenneth Young & The English Muffins,
The Squares, San Francisco Earthquakes etc etc と
枚挙にいとまがない。ここでは The Summer of Love 期に
Kenny Young の新たな才能が開花した一連のプロジェクト作品
の4部作を紹介しよう。
(The Summer of Love とは San Francisco の Haight-Ashbury で
発生したヒッピームーヴメント。特徴としてヒッピー音楽、
幻覚誘発薬、反戦、そして米国西海岸からニューヨーク市
までの自由恋愛シーンを網羅した。ムーヴメント参加者は
アメリカ政府を疑っており、消費者の価値観を拒否し、
ベトナム戦争に反対していた。彼らは芸術、特に音楽、
絵画、詩、そして精神的および瞑想的な実践に関心を持っていた)
まずはプロジェクトの中核となった The Seagulls を
紹介しよう。アニメ鉄腕アトムの主題歌をも思わせるイントロで
始まるこの曲は、まるで Jan & Dean の1966年の「雨」
コンセプトアルバムの “Save For A Rainy Day” のために
書いたような作風で聴かせる。着目すべきは June Winter と
Duet style で歌われており、この曲はフロリダでローカルヒット
になった。この佳曲は翌年の1967年にはイギリスの
Herman's Hermits と David Garrick がカヴァーしている。
Kenny Young の Summer pop の隠れた名作が
この曲からの Spin Off だったかのような印象的な作品だ。
Recording members are
Kenny Young, June Winter and Ken Sonn (same guy
as Ken Sonenberg who co-wrote 'Charlie No One')
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21-28
The Seagulls - Anabel
(7: Date 2-1573) 1967
A面は Dave Davies (The Kinks) がシングルカットした
“Death of a Clown” のカヴァー曲だが The Kinks のアルバム
Something Else By The Kinks にも収録されたので
実質的には The Kinks のカヴァーと言っていいのかも。
The Kinks ならではの皮肉が効いた人生論を歌っている。
で、ここでも重要視されるのがB面のサンシャインポップだ。
波打ち際の効果音を挿入し、ボサ風の美しいアルペジオ
ギターを多用している。これは次に紹介する The Squirrels
のプロトタイプ的な作風でキャッチーなメロディーと美しいギターが
Kenny Young の作るサマーソングの極意と解る。
Recording members are
Kenny Young, June Winter and Ken Sonn (same guy
as Ken Sonenberg who co-wrote 'Charlie No One')
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21-29
The Squirrels - A Girl's Imagination
(7: RCA Victor 47-9127 Promo only) 1967
これは明らかに Date records の The Seagulls のセッションからの
Spin Off で、AB面の使い分けも良く似てる。
この録音では Kenny Young が手掛けた Phil Spector Sound
ガールポップ The Goodnight Kisses - If He Kissed Me
(Atco 45-6335) のアレンジャーで、Buddy Knox のアルバムでも
ギターを担当した Vinnie Rogers がギタリストとして参加した。
A面では小鳥の鳴き声効果音を交えて陽気なフォーキーポップ
をストレイトに聴かせている。
B面はここに Kenny Young の作るサマーソングの完成形
を見る傑作サンシャインポップだ。発声しやすくスタッカートと
レガートの強弱を付けながらも軽い目眩を感じさせる虚ろな
ファルセットヴォーカル。そこに Vinnie Rogers の奏でる
美しいアルペジオギターがブレンドされるその様は
The Summer of Love 期特有の幻覚誘発効果を生み出している。
挿入されているフラメンコ風のカスタネットのリズムも効果的で、
間奏部でのタンバリンのテンポチェインジとアタックを維持させる等、
そのタイトルどおりとてもイマジネイティヴな作品に仕上げている。
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21-30
The Alias #1 - Beautiful Beach Bunny
(7: American Records AMER-171) 1970
本編最後は Kenny Young がイギリスに渡る前に制作した物件で
素晴らしい Beach pop を柔らかな Folky summer ballad style
で聴かせる隠れた名盤。
作者の Kenneth Yarnell は Kenny Young の数ある変名の一つで
プロデュースは Nashville の Roger Hopkins が担当しているので
懐古的な美しい曲に仕上げている。
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The Shaggy Boys |
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21-31
The Shaggy Boys - That's The Only Way
(7: United Artists Records UA 50135) 1967
すべては1958 年に 12 歳の Richard Mango が
New York の Brooklyn から Long Island の Valle Stream
へ引っ越したときに始まった。
Richard Mango はすぐに5年生のクラスで人気者になり、
学校では一人を除いてほぼすべての若い女の子から
バレンタインデーのカードを受け取った。
それで Richard Mango は彼女に "Lorraine" という曲を書き、
学校の地元のダンスで彼女のためにそれを実行すると豪語した。
そんなプレイボーイ気取りの Richard Mango は男子生徒には
あまり人気がなく、Richard Mango は彼の曲を演奏するように
Bobby Russo, Pete and Vinny Gorman 兄弟(本名 Gutowski)
のトリオバンドを招待した。
それが終わったらこのトリオバンドは Richard Mango を
見捨てるつもりだった。しかしトリオにとって残念なことに
観客は彼らを愛し Ricky and the Vacels が誕生した。
地元のタレントコンテストで優勝した後、彼らは注目を集め
Lou Fargo は彼らと契約した。
彼らは Ricky & The Vacels として1962年にデビューし
翌年まで2枚の Teen vocal のシングルを Lou Fargo が
持つ二つのレーベルからリリースした。
Bublle Gum / Lorraine (Express 711) 1962
His Girl / Don't Want Your Love No More (Fargo 1050) 1963
彼らは最終的に Jay & The Americans の Sandy Yaguda
(Stage name Deane) がマネージャーになり Kama Sutra Records
とレコーディング契約を結んだ。
Richard Mango (Ricky Racano, Richard Racano. Lead Vocal),
Pete Gutowski (AKA Peter Gormann. Drums),
Vinny Gutowski (Real name Vincent Gutowski.
AKA Vinny Gormann. Bass)
Bobby Russo
Vince Coppola (パートタイムメンバー Rhythm Guitar)
そして1965年には The Vacels 名義で2枚のシングルをリリースした。
You're My Baby / Hey Girl, Stop Leading Me On
(Kama Sutra 200)
Can You Please Crawl Out Your Window / I'm Just A Poor Boy
(Kama Sutra 204)
その後 The Shangri-Las をプロデュースしてヒットさせた
George "Shadow" Morton (Phantom Production) に見出され
1966年からグループ名を The Shaggy Boys と変えて
心機一転 Red Bird に移籍する。そして1967年までに
3枚のシングルをリリースした。
The Shaggy Boys -
Stop The Clock / In The Morning (Red Bird RB 10-074) 1966
You And Me / Joy In The Morning (United Artists UA 50100) 1966
Behind These Stained Glass Windows / That's The Only Way
(United Artists UA 50135) 1967
これら全て Shadow Morton のプロデュースである。
本件シングルは彼らの最後のシングルだが有終の美を
飾るような内容を誇る。彼らが少年時代から New York の
ヴォーカルグループマナーを熟知していた事、
そしてグループコーラスも洗練されていった事が
良く解る出来の2サイダーだ。特にB面の “That's The Only Way”
は The Beach Boys “Surfer Girl” の影響下で作られた
美しいヴォーカルチューンで、曲中の転調を交えながら
円滑にAメロに戻るアレンジの妙もしっかり聴かせる。
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The Vacels (Pre The Shaggy Boys)
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【戻る】【続く】 |
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