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Vol. 13
01 Kim Garri With The Rhythm Kings Orch. -
Big Bad Wolf (In A Little Sports Car)
02 The Countdowns - Watermelon
03 Cornells - Wak-A-Cha
04 Mel Douglas - Red Sports Car
05 Bobby James - Let's Surf
06 Dave Del Conte And The Castaways - The Lonely Surfer
07 City Surfers - Powder Puff / 50 Miles To Go
08 Brian Lord and The Midnighters - The Big Surfer
09 Ned & Nelda - Surf Along
10 The Quads - Surfin' Hearse
11 The Brandywine Singers - Summer's Come And Gone
12 The New Dimensions - Failsafe
13 The Alley Kats - Barbie
14 Alleykats - Blanket Tossin' Time
15 The Alleykats - Skate Board
16 Don And The Chevells - The Only Girl / Inner Limits
17 The Wild Ones - Surfin' Time Again
18 The Woofers - Drag City
19 The Fender IV - You Better Tell Me Now
20 Phil & The Flakes - Chrome Reversed Rails
21 The Country Boys - The Okie Surfer / Blue Surf
22 The Rituals - Surfers Rule / Gone
23 Pierre & The Slopers - (Let's Go) Skiing
24 The Eliminators - Classy Lotus Chassis
25 Billy Harner and The Expressions - Coney Island Wild Child
26 Little John And The Sherwood Men - Movin' Out
27 Paul Williams And The Chancellors - Summertime Love
28 The Plagues - That'll Never Do / Badlands
29 Barbara Hess - (Just Another) Summertime Girl
30 Nature Boy & Friends - Surfer John
31 The California Sons -
I'm Gonna Get Some Love / (Baby Please) Dance With Me
32 Moss & The Rocks - There She Goes / Please Come Back
33 Attila And The Huns - Cheryl
34 Pooh And The Heffalumphs - Lady Godiva / Rooty Toot
35 The Creations IV - Dance In The Sand
36 Rick And The Ravens - Big Bucket "T" / Rampage
37 The Illinois Tollway - Another Summer To Remember
38 The Vandals - I Saw Her In A Mustang
39 The Beach Bums - Florida Time
40 The Exceptions - The Girl From New York
41 The Hep Stars - Hawaii
42 The Peppermint Trolley Company - It's A Lazy Summer Day
43 The Hombres - Little 2 + 2
44 Patty Flabbies' Coughed Engine - Billy's Got A Goat
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Vol.13
Their early effort / Garage & Psych Related
Other stuff with beach pop, summer pop etc
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Kim Garri (Kim Fowley) |
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13-01
Kim Garri With The Rhythm Kings Orch. -
Big Bad Wolf (In A Little Sports Car)
(7: Terry-Tone 200) 1960
Kim Garri is Kim Fowley. Los Angeles, California.
American record producer, songwriter and musician
who was behind a string of novelty and cult pop rock singles in the 1960s.
Nice teener pop in sports car theme.
Written by R. Hays, E. James, R. Orrison, R. Christensen.
Produced by Frank De Luna.
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Bobby Russell
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Buzz Cason
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Tony Moon |
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13-02 The Countdowns - Watermelon
(7: Image Records 45-5002-V) 1961
本件は R&Bスタイルで歌われるサーフ系ビーチポップロッカー
のダンスチューンで、初期 Jan & Dean を意識した作りだ。
The Countdowns 名義だが Bobby Russell, Buzz Cason, Tony Moon
によるスタジオユニットで1961年6月26日にナッシュビルのレーベル
Image 45-5002 からリリースした彼らの初期作品。
この曲は同じ1961年6月26日に Gene Vincent & His Blue Caps
のメンバーだった Paul Peek が Fairlane 45-21005 でリリースして
当時は競作となった。
Buzz Cason-Tony Moon が書いており、Tony Moon はプロデューサー、
ソングライター、Dante And The Evergreens のメンバーでギター奏者。
1962年にグループが解散した後、ナッシュビルに移り、その後数年間
Brenda Lee の指揮者とギター奏者を務めた。
Buzz Cason が参加した The Casuals - Mustang 2 + 2
(Sound Stage 7 45-2534) だが、これは Tony Moon が指揮した
元々は Brenda Lee のバックバンドだったので当時 Tony Moon と
Buzz Cason は The Casuals のグループメンバーだった。
そこに Buzz Cason が世話をしていた若きシンガーソングライターの
Bobby Russell が参加したのがこのスタジオユニットである。
この曲は後にBobby And Buzz (Bobby Russell and Buzz Cason)
名義で録音し1966年にプロモ盤のみ配布された。
(Monument 45-954 / MN-45-954 Promo only)
20-22 Bobby And Buzz - Watermelon を参照。
Bobby Russell はシンガーソングライターとしての下積みが長かった。
1959年から18歳でソングライターデビューしており
同年にカントリーデュエット Sadie & Bobby Russell -
Shackled / Not Even Friends (D 1115) でレコード
デビューをし、やはり1959年にはソロのティーンポップ
シンガーとして Dum Diddle / Perhaps (Felsted 45-8559)
でソロデビューしている。そんな中 Bobby Russell は
地元 Nashville の音楽シーンで多くのグループを
掛け持ちしていた Buzz Cason と出会う。
Buzz Cason は Snuff Garrett のアシスタントとして
Los Angeles に出向いて1960年からソロシンガー
としてのキャリアーを確立しようとしており
彼は Liberty Records と契約し映画 "Circus Of Horrors"
の主題歌を変名の Garry Miles 名義でリリースした
"Look for a Star" が6月20日をピークに全米16位の
ヒットとなった。(注:綴りの異なる Garry Mills -
Look for a Star Part 1 Imperial 5674 は違うシンガーに
歌わせており、そちらのヴァージョンも6月20日を
ピークに全米26位のヒットとなる)
Bobby Russell と Buzz Cason が出会ったのは
そんな頃だった。Snuff Garrett のアシスタントだった
Buzz Cason は Bobby Russell と一緒に "Tennessee"
と言う地元を題材とした所謂御当地ソングを書いたところ、
その曲は Jan & Dean によってシングルカット
(Liberty F-55454) をされた。プロデュースは
Lou Adler, Snuff Garrett が担当しており、
この曲は1962年5月26日をピークに全米69位の
スマッシュヒットとなった。この手応えを得た Buzz Cason
と Bobby Russell は West Coast の Youth Culture
を意識したサウンドを作り始める。
Buzz Cason と Bobby Russell はソングライターや
録音ユニットとして 1963年から Hit Recordsに参加する。
Hit Records は Spar, Giant, Modern Sound など
多くの系列会社を持っていたが、すべては廉価盤を販売
する会社だった。これらの会社のレコードは、一般の
レコード店ではなく、例えばロー・ティーン向けの
キャンディ・ストアーやスーパー・マーケットで販売
されたものだ。1960年代当時、普通の大手レコード会社
のシングル盤が1枚98セントや1ドルで売られていた
ところを、これらの廉価盤レーベルは1枚39セント、
もしくは3枚で1ドルという低価格で販売していたのだった。
「39セント」という価格は、Hit Records のオリジナルの
カンパニースリーヴに堂々と印刷されている。
そしてそのカタログは、The Beatles や The Beach Boys
らを初めとする人気グループのヒット曲の安易な
カヴァーソングも多かったが、実はオリジナルソングには
内容の良いものも多く残されており、現在ではそのコレクター
がいるほどだ。
Bobby Russell はセッションシンガーとしても参加し、
そこで作られていったサウンドは後に Buzz Cason や
Bergen White らと外部から参加した
Ronny & The Daytonas へと発展する。Bobby Russell は
1963年から Bergen White, Benny Latimore, Alpha Zoe
らと The Jalopy Five や The Music City Five と言った
名義のスタジオセッションバンドで地元ナッシュビルの
廉価盤レーベル Hit Records とその系列レーベルの
Giant Records や Modern Sound, Spar Records 等で
録音していた。そこには Bobby Russell And
The Tennessee Three (1963年 Hit Records) や
Merry Men (1963年 Giant Records) のような
彼のプロジェクトユニットも含まれる。
Bobby Russell のヴォーカルで歌われているこれらの
Hit Records や Spar のレコーディングには、
Buzz Cason (Guitar, Keyboard, Vocal)
Bill Justis (Saxophone)
Floyd Cramer (Keyboard)
Hank Garland (Guitar)
といった多くの南部出身の有名ミュージシャンたちも
参加している。
Buzz Cason は The Ronny And The Daytonas の
レコーディングにも参加、Buzz And Bucky
(Buzz Cason & Buck Wilkin) としてのシングルも残し、
更には Los Angeles に出て、Surf Music と大きく
関わっていく。Bill Justis は "Raunchy" のヒットで
最もよく知られ、Sun Records における Rockabilly
や Rock And Roll の伝説的なアーティストたちとも
関わりが深く、彼は Ronny And The Daytonas の
マネージャーとプロデューサーも務めた。
Floyd Cramer と Hank Garland の2人は、
Elvis Presley の Nashville セッションにも参加した
猛者たちだ。そしてスタジオにおける Bobby Russell
の役割は主にヴォーカル、プロデュース、
そして Bergen White はプロデュース、ヴォーカル
の他、ストリングスやホーンのアレンジも担当していた。
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Cornells |
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13-03
Cornells - Wak-A-Cha
(7: Garex Records 100) 1962
7-12 も参照すべし。
お金持ちのお子ちゃまバンドとか言うなと
メンバー達が言ってたかどうかは知らないが
彼らの記念すべきデビューシングルである。
The Cornells の5人のメンバーのうち、4人はハリウッドの
セレブリティの息子たちだった。
Peter Lewis (1945年7月15日生まれ、リードギター)
は女優の Lorette Young の2番目の息子で、
彼は後にロック・バンドの Moby Grape のメンバーとなる。
他の3人Bob Linkletter (Rhythm Guitar), Jim O’Keefe(Sax),
Charlie Correll (Drums) も俳優やショウビジネスに携わる有名人
たちの息子たち。唯一一般の両親を持っていたのは
Tom Crumplar (Bass) のみだった。
で、この “Wak-A-Cha” は翌年にリリースされた彼らの
代表曲である “Surf Fever”のB面に収録され "Do The Slauson"
とタイトルを替えられた。(Garex Records GA-206).
そしてそれはUAレーベル経由で当時日本コロンビアから
リリースされ、めでたしめでたしなのだが、細かいことを
言わせてもらう。作曲とアレンジを担当した Scott Engel は
後の The Walker Brothers の Scott Walker で、プロデュースを
担当した Jonathan Young (Arvee A-5039 シングル1枚を
1961年にリリースした) の二人は当時多くのプロジェクトに
参加しており、本件 The Cornels ともスタジオで
一緒に録音してた。即ちこれは若き Scott Engel が
ギター参加した裏名盤なのだ。という事は日本盤シングルが
リリースされた当時、まさかギターが後の Scott Walker
だったとは知らずに “Surf Fever, Surf Fever” とあの滑稽な
コーラスを聴いて楽しんでいた人が、日本にもいたということだ (笑)
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Scott Engel
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日本盤はザ・コーネルス(ズではない) |
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Sterling Damon (AKA Mel Douglas) |
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13-04
Mel Douglas - Red Sports Car
(7: Beck B-904) 1963
1960's Psychedelic Rock artist from Houston, Texas.
AKA Sterling Damon (International Artists IA-108)
Written by O. Jay Beck.
Produced by O. Jay Beck, Mel Douglas.
Mel Douglas used this name around 1964.
In 1966, when he made his only release on International Artists,
he used the alias "Sterling Damon". For both songs,
that he wrote on his own, he used the alias
"Melvin Douglas Gilmore" for songwriting.
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Bobby James |
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13-05
Bobby James - Let's Surf
(7: Jolum J-102 Promo only) 1963
Bobby James 名義だが Bobby Jameson のデビューシングル。
8-3 Dee D. Hope - California Surfer でも記述したが
実は当時彼は The Beach Boys や Jan & Dean の地元ライヴでは
オープニングアクトを務めていた経歴があり、Surfin' music が流行
する初期に彼は本件シングルでムーヴメントに参加した。
またこのシングルでは後に The Mothers Of Invention
のメンバーになる Elliot Ingber がギターを担当しているので
マニア人気が高い。
日本では Curt Boettcher との1967年のコラボレイトアルバム
Color Him In (Verve Records V6-5015) でも知られる
カルトなシンガーソングライター Bobby Jameson はイリノイ州
出身で、西海岸に来た当初はアイドル人気の高いシンガーだった。
雑誌 Billboard と Cashbox で行われたプロモーションキャンペーンで
ポップスターとして宣伝され、その甘いルックスから The Monkees の
参加を打診されたが彼はそれを断った。
1965年には Chris Lucey 名義でプロテストソングアルバムを
リリースし、早くから反戦活動に身を置いた。
そこで聴かせたダークな歌詞とボサ風の洗練されたアレンジにより
アンダーグラウンドマーケットで多くの支持を得ている。
1960年代半ばから 1970年代初頭にかけて Bobby Jameson は
Los Angeles のアンダーグラウンド ミュージック サークルで活動し、
Frank Zappa や Crazy Horse のメンバーなどのミュージシャン達と
作業をしていた。この期間中、彼はサンセット ストリップの暴動に参加し
1967 年のドキュメンタリー映画「Mondo Hollywood」に出演し、「成功の
チャンスを台無しにした人物」としての評判を得た。
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Elliot Ingber |
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Dave Del Conte (AKA Damon)
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The Castaways (AKA The Crossfires. Pre The Turtles) |
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13-06
Dave Del Conte And The Castaways - The Lonely Surfer
(7: Merri Records 6003-45) 1963
超カルトなレア盤。Damon - Song Of A Gypsy (Ankh ANKH-968)
1968年にリリースされたレアサイケ名盤アルバムの Damon こと
David Del Conte がリードヴォーカルで、バックの演奏を務めた
The Castaways とは The Crossfires の変名で後の The Turtles である。
しかもよく聴いていると加山雄三の声に聴こえてくるから不思議だ (笑)
両面とも David Del Conte の自作で、このような流行便乗後に
サイケデリックに覚醒する例としては Phil & The Flakes の
Phil Pearlman が後の The Beat Of The Earth,Relatively Clean Rivers,
そして The Flakes が後の Wildfire となるのと似てる。
これは1960年代初頭から Southern California で徐々に若者文化が
ミュージックシーンに多大な影響を与えていったからだ。
Nature Boy Eden Ahbez, Frank Zappa, Randy Holden だって
ファーストステップは Surfin' & Hot Rod である。
しかし当時高校生の Mark Volman が熱い Sax play を
しているのを想像するだけで興奮してくる。
しかし凄まじい組み合わせのサーフィンソングだ。
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Bobby Darin
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Frank Gari
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Jim McGuinn (Roger McGuinn)
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Terry Melcher |
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13-07
City Surfers - Powder Puff / 50 Miles To Go
(7: Capitol Records 5052) 1963 “Powder Puff” とはスラングで男のやるスポーツやイヴェントを
女の娘達がやる事。包括的に言えば「やんちゃな娘達がやってる事」
アメリカでは車を擬人化する際に「She」(彼女) と女性に
見立てて全ての車を表現するので Car Race は
「やんちゃな娘達がやってる事」というスラングが当てはまる。
で、このスタジオユニット City Surfers について語るとなると
参加したメンバー各人の人生を語らなければいけないので
それは回避して、ざっくりと記述する。
Bobby Darin と Terry Melcher が設立した音楽出版社で
プロダクション T.M. Music のユニットが City Surfers である。
歌手としても成功していた Bobby Darin は T.M. Music 設立後
Wayne Newton と契約し "Danke Schoen" を T.M. Music で
プロデュースをした。これは Wayne Newton をブレイク
させるヒットとなった。Bobby Darin は当時 Jim McGuinn
(後の Roger McGuinn) をバックアップ・ギタリストと
ハーモニーシンガーとして雇った。それは急成長している
音楽分野であった Folk music の要素を自身のレパートリー
に追加させたかったためだった。そして Bobby Darin が
所有するナイトクラブのバンドで Jim McGuinn に12弦ギターを
演奏させていた。それはまだ The Byrds 結成前の事だった。
Jim McGuinn がオリジナルソングを書き始めたので
New York City の Brill Building 内に T.M. Music のオフィスを
開いた際に Bobby Darin は週35ドルで Jim McGuinn と
ソングライター契約をした。約1年半後、Bobby Darin は
病気になり、歌手を引退した。
City Surfers のメンバーは下記4人だ。
Bobby Darin (drums), Jim McGuinn (Roger McGuinn. guitar, vocals),
Terry Melcher (vocals, piano), Frank Gari (vocals).
Frank Gari は1950年代後半から1960年代初頭まで
人気の歌手でソングライターだった。
Frank Gari は Jim McGuinn と共作で "Beach Ball" を書いて
City Surfers のデビューシングルとして録音した。
以前、私が Frank Gari の甥っ子である Alzo (Alzo Fronte) に
インタビューした時に教えてくれたが、当時 Frank Gari は
The Beach Boys style の Surf song に夢中になっていて City Surfers
の続編がしたくて The Beachcombers (Diamond Records Inc D-168)
を製作したらしい。
で、本件 City Surfers では病気の Bobby Darin の声に問題があったので
Bobby Darin はヴォーカルを入れずにドラムを担当した。
A面は Frank Gari と Arthur Resnick の共作だが
Arthur Resnick は Kenny Young の初期コラボレイターとして
The Drifters "Under the Boardwalk" を書いた。
Arthur Resnick はその後 Joey Levine とのコンビでスタジオユニット
The Third Rail を結成したり Ohio Express "Yummy Yummy Yummy"
他、バブルガムポップでも多数ヒット曲を書いた。
B面は当時22歳の Kenny Young の単独作で、彼は T.M. Music
に入社したばかりだった。彼もまたその後多くのヒット曲を書く。
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Brian Lord
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Paul Buff
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Frank Zappa
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Dave Aerni |
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13-08
Brian Lord and The Midnighters - The Big Surfer
The Midnighters - Not Another One!
(7: Vigah V-001) May 1963
(7: Capitol Records 4981 is 2nd pressing) June 1, 1963 Canada Vancouver でラジオDJをしていた Brian Lord は
1962年から California San Berdino のラジオ局 KMEN に移った。
彼は Southern California で最初に The Beatles をオンエアーした男と
しても知られる。それは The Beatles がアメリカでリリースされる
ずっと前の事だった。そんな先見の明を持った Brian Lord が
John F Kennedy 大統領になりすまし歌ったノヴェルティーソング
が本件シングルだ。Paul Buff の Pal Recording Studio で働いていた
若き Frank Zappa が曲を書いて Paul Buff と一緒にプロデュース
を担当した。伴奏した The Midnighters は Paul Buff, Frank Zappa,
Dave Aerni らである。1963年5月に Paul Buff のレーベルで
Vigah V-001 をリリースしたら、興味を持った Capitol が
数週間後にマスターを買って1963年6月1日に 2nd press として
Capitol Records 4981 がリリースされた。
John F Kennedy 大統領が暗殺されたのは1963年11月22日である。
と言うことはリリースして半年もせずに回収されてしまった。
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Frank Zappa
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Ray Collins |
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13-09
Ned & Nelda - Surf Along
(7: Vigah V-002) 1963 人生は trial and error 試行錯誤の繰り返しである。
やってみないと解らない、やるべき事をやらずに
後悔するぐらいなら、自分を信じてやってみよう。
結果を恐れずその先にあるのは笑顔だ。
Zappa 先生はいつもチャレンジした。
Ned & Nelda は Frank Zappa と Ray Collins だ。
伴奏は The Midnighters こと Paul Buff, Frank Zappa, Dave Aerni
そして今回は Ray Collins も加わってジャカジャカやった。
Paul Buff の Pal Recording Studio で働いていた若き Frank Zappa
にとってそこは録音技術を学ぶ訓練の場でもあった。
1964年に Frank Zappa は Studio を買い取って
Studio Z と改名する。本件シングルはその前夜の
試行錯誤である。Novelty Surf が Experimental Psych へ
昇華していく稀有な瞬間が確認できる。
ここに真の Freak Out の瞬間がある、さあ常識を飛び越えて
一緒に歌って向こう側に行こう!
One, two, one, two, three, four, five
ワン、チュー、ワン、チュー、シュリー、フォー、ファイッ
[Ned] Nelda, baby, Nelda, baby, surf along with me
ネルダ、ベイビー、ネルダ、ベイビー、私と一緒にサーフィンして
[Nelda] Neddie, oh, Neddie, I will surf along with thee
ネディ、ああ、ネディ、あなたと一緒にサーフィンするわよ
[Ned] Nelda, baby, Nelda, baby, surf along with me
ネルダ、ベイビー、ネルダ、ベイビー、私と一緒にサーフィンして
[Nelda] Neddie, oh, Neddie, I will surf along with thee
ネディ、ああ、ネディ、あなたと一緒にサーフィンするわよ
[Ned] We will have funzies
楽しみがあるよ
[Ned & Nelda] We will have funzies, we-we wee-wee-wee
楽しみがあるよ、ウィーウィーウィーウィーウィーウィー
[Ned] Come on, little Nelda, do the surfer stomp with me-e-e-e-e
さあ、可愛いネルダ、私と一緒にサーファーストンプをして〜
[Nelda] Come on, Neddie, baby, do the surfer stomp with me-e-e-e-e
さあ、愛しいネディ、私と一緒にサーファーストンプをして〜
[Ned] No, me!
いいえ、私です!
[Nelda] No, me!
いいえ、私です!
[Ned] No, me!
いいえ、私です!
[Nelda] No, ME!
いいえ、私です!
[Ned] No, me!
いいえ、私です!
[Nelda] NO, ME!
いいえ、私です!
[Ned] Forget it!
忘れてくれ!
[Nelda] I’ve already forgotten it
もうとっくに忘れたわよ!
[間奏]
[Ned] Wop! Hoop! Hoop! Hoop! Hoop hoop!
ワッ! 苦しみを味わわせる! 苦しみを味わわせる!
[Nelda] I don’t know, it just makes me sick
He’s tryin’ to make a decent record
This guy’s yellin’, shoutin’ an’ screamin’ an’ stompin’
an’ makin’ all kinds of noises an’ it just makes me sick
わからない、気分が悪くなるだけ
彼はまともなレコードを作ろうとしている
この人は怒鳴ったり、わめいたり、叫んだり、踏み鳴らしたり、
あらゆる種類の音を立てたりして、ただ気分を悪くさせる
[Ned] Hoop hoop!
苦しみを味わわせる! 苦しみを味わわせる!
[Ned] Nelda, baby, Nelda, baby, it is fun to stomp with you
ネルダ、ベイビー、ネルダ、ベイビー、君と一緒にストンプするのは楽しいよ
[Nelda] Neddie, dear Neddie, oh, if you only knew
ネディ、親愛なるネディ、ああ、もしあなたが知っているのなら
[Ned] Nelda, baby, Nelda, baby, it is fun to stomp with you
ネルダ、ベイビー、ネルダ、ベイビー、君と一緒にストンプするのは楽しいよ
[Nelda] Neddie, dear Neddie, oh, if you only knew
ネディ、親愛なるネディ、ああ、もしあなたが知っているのなら
[Ned & Nelda] It is fun to be a surfer
サーファーって楽しいよね
Fun to be a surfer
サーファーって楽しいよね
Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
[Ned] This is fun!
楽しい!
[Ned & Nelda] Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
[Nelda] Oh, I just love it, bouncin’ around in the waves
ああ、私はそれが大好きです、波の中で跳ね回っています
[Ned] Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
[Nelda] This just makes me sick!
気持ち悪くなるよ!
[Ned] Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
[Nelda] Can’t stand this salty water them nasty fishes
この塩辛い水に耐えられない、厄介な魚たち
[Ned] Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
[Nelda] Them fishes just bitin’ my toes
魚たちが私のつま先を噛んでいるだけです
[Ned] Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
[Nelda] And so on and so forth, and everything like that
など、そんなことばかり、そんな事がすべてだ〜
[Ned] Surf! Surf! Surf! Surf!
サーフィン! サーフィン! サーフィン! サーフィン!
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Paul Buff |
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Bobby Hart
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Paul Johnson
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The Woodys / The Woodies |
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13-10 The Quads - Surfin' Hearse / Little Queenie
(7: Vault V-907) 1963
(LP: Vault 104 mono / S-104 stereo) 1963
1963年8月には Vault Records から The Grand Prix というグループのシングル
Candy Apple Buggy / 41 Ford (Vault 906) がリリースされた。
これはこれは表面上は The Challengers のドラマーでコンポーザーである
Richard Delvy の作品という事になっているが、レコーディングには
Gary Usher もバックヴォーカルで参加したと言われている。
これは後に Boyce & Hart として人気作家となる若き Bobby Hart が
リードヴォーカルを務め The Belairs の Paul Johnson がギターで
参加している。A 面は B.Harris-S.Riddle-R.Delvy
(Bob Harris-Sam Riddle-Richard Delvy)
B面は R.Heiss-T.Hughes (Ron Heiss-Tex Hughes)
両面とも Paul Johnson の派手なギターがフューチャーされており
プロデュースは Richard Delvy
奇妙な事に日本では1965年にザ・リチャード・ブラザース名義のシングル
のB面に「キャンディ・アップル」という邦題にて Candy Apple Buggyを
収録。A面では Bobby Goldsboro のヒット曲をカヴァーしており
それをリリースする為に The Grand Prix で録音していたトラックを
B面に使ったものだと推測できる。
ジャケット写真は Richard Delvy (左), Bob Harris (右)が使用され
ているが Bob Harris は "Candy Apple Buggy" の共作者である。
この歌の作詞を担当した Sam Riddle は KHJ の人気DJで、以前
Richard Delvy が番組CMを録音した事から Hollywood A Go-Go や
Ninth Street West の人気テレビショーのプロデュースを Richard Delvy
に依頼した事がある。
Richard Delvy が携わった Surfin / Hot Rod 系のヴォーカルトラック
についてここで簡単に説明しておこう。
ヴォーカルグループ The Dell-Coeds のメンバーの Richard Georgeは
自作 "Love In Return"を1961年にリリースしており、このグループは
3人の女性ヴォーカルをフロントに立てたグループで
The Pendletones 時代の The Beach Boys と共にパーティーで
パフォーマンスする仲だった。
当時 Hermosa Beach に住んでいた Richard Georgeは
Dennis Wilson や Al Jardine と親交があり、The Beach Boysの
成功の影響を受けて彼も Surf music を書き始めた。
1963年の夏に Richard George がThe Beach Boysのために書いた
"Surfboard for Christmas" を彼自身が録音した。
結局この歌は The Beach Boys によって録音されなかったが
そこで Richard George の仲のよい友人達 Ray Duron, John Mead,
Jim Crouch が集められ The Woodys を名乗ったのが始まりだった。
Ray Duron と John Mead は高校のクラスメイトで The Waves
というサーフィン映画のショーに出演した際に Richard George
と出会ったのがきっかけでグループを結成した。
彼らはまず1963年に The Woodys - Red River Valley /
The Saints (Go Surfin' In) (California Records 304) サーフインスト
シングルをリリースしている。その後も Richard George は自身が
書いた曲を熱心にプロモーションし出版社、レコード会社、ラジオ局
にクリスマスの挨拶として送ったところ、反応したのが Surf Vocal
Group を物色していた Richard Delvy だったのだ。
Richard Delvy は当時 Surf Vocal Group のプロデュースと管理に
興味を持っており、これら Vault Recordsでの一連の
リリースもその一環だった。そこで Sam Riddle はテーマソングを
作ってほしいと Richard Delvy に依頼したところ、それを許諾した。
Richard Delvy は自身もサブメンバーとして参加しながら
自身の The Challengers の Vocal Tracks を担当させていた上記の
The Woods (The Woodiesとも言う) で多くのヴォーカルセッションを
当時録音していた。これは Tony Harris With The Woodies -
Go Go Little Scrambler (Triumph TR-60) も含まれる。
The Woodies には若き日の Jim Crouch も参加していたが彼は
ソロデビューする前にグループから離れている。
Tony Harris With The Woodies でリードヴォーカルを担当した
Tony Harris は1958 年公開の SF ホラー映画「The Blob」の
プロデューサーで有名な Jack H. Harris の息子で、1965年に
Hollywood の Dee Gee Records と契約した。
そして1969年に Chartmaker レーベルで有名なサイケデリック
アルバムをリリースする Darius の1965年の Dee Gee Records での
デビューシングル (Dee Gee 3001) で作曲、プロデュース、アレンジを
担当した。そして自らも (Dee Gee 3002) でソロデビューをし、
同レーベルでもう1枚シングルをリリースした後に、Triumph Records で
Tony Harris With The Woodies 名義のシングルをリリースした。
その後1968年から Tony Harris は VMC (Vance Music Corporation)
レーベルの専属プロデューサーとなった。
彼は同レーベルの Eastfield Meadows のメンバーとしても活動し
彼の名を一躍有名にした Duke Baxter の "Everybody Knows Matilda"
ではプロデュースを手掛け、この曲は1969年7月26日をピークに
全米52位のスマッシュヒットとなった。彼は1970年初頭には
Larry Norman (The Zombies の "I Love You" のカヴァーヒットが有名な
People の元メンバー) や Randy Stonehil (Contemporary Christian
Music のパイオニアー) と共作を続けた。
話を戻して The Woodies に Sam Riddle を参加させて歌わせたのが
Aloha A Go-Go のテーマ曲の "Hawaii" だった。
所詮セッションによってメンバーは変わるので録音によっては
Hal Blaine がドラムを担当する事もあり録音は主に Hollywood の
Sunset Sound で行われていた。The Woods / The Woodies は
The Challengers のヴォーカル曲以外にも多くの TVジングルを
歌っており、それらは Richard Delvy の利益となった。
例えば The Challengers at the Teenage Fair (GNP 2010)で
ヴォーカルトラックを担当しているのが The Woodies である。
Richard George をリードヴォーカルにしたセッションでは
Richard George & The Woodies 名義で録音しておりバックアップ
で Richard George, Ray Duron, John Mead, Jim Crouch そして
Richard Delvy がヴォーカルを担当した。そのトラックが日本では
Polydor から The Spartans 名義で1965年にリリースされている。
それは "Count Me In" でこの曲は Gary Lewis And The Playboys
と同年に競作となったので日本のみ The Spartans 名義でリリース
させたのだろうと思われる。このシングルは Polydor DP-1442 で
上記のザ・リチャード・ブラザースが Polydor DP-1447 だ。
両方ともラベルに Original Recording By Sabrina, U.S.A.
とクレジットされてるのでセットで売り込まれたものと推測される。
因みにこの曲は The Astronauts の1967年のアルバム "Travelin' Men"
にも収録されており人気の高いサンシャインポップである。
10月に入ると Vault Records から The Quads というグループ名義で
本件 Surfin' Hearse / Little Queenie (Vault 907) がリリースされた。
Surfin' Hearse とは「サーフィン葬儀車」の意味。葬送行進曲のフレーズを
ピアノでフューチャーした作品で、引きずるようなミドルテンポで歌われる。
これも同レーベルの The Grand Prix と同様に若き Bobby Hart が
リードヴォーカルを務めておりバックヴォーカルが The Woodies,、
The Belairs の Paul Johnson がギターで参加している。
Paul Johnson はルックスも良く、以前 Al Jardine が
The Beach Boys を一時期脱退する時に穴埋めとして The Beach Boys
に参加を打診されているがそれを断っている他にも
その後 Gary Usher が The Hondells のヒットに合わせてツアーメンバー
の参加を打診したが、それも断り Dave Allan 率いる
The Arrows に参加したという顔に似合わず硬派なギタリストだ。
The Quads のレコーディングだが、これは元 The Belairs のメンバーで
The Challengers を結成させた Richard Delvy のプロダクション
で前記の The Grand Prix と実質的には同じグループに Gary Usher が
参加した。因みにB面の "Little Queenie" はその後リリースされたアルバム
には未収録の Chuck Berry のカヴァーのロッカーヴァージョン。
12月には Gary Usher 関連のアルバム Hot Rod City (Vault V/VS-104)
がリリースされた。アルバムジャケットでは俳優でレーサーの Tommy Ivo
と彼の愛車の Barnstormer が使われている。
このオムニバスアルバムでは The Customs 名義の Gary Usher の
グループが RPM, Competition Coupe, Hot Rod City,
54 Corvette, Nifty Fifty の5曲を収録。他にも先に紹介した
The Quads, The Grand Prix らの4曲が収録されている。
The Customs 名義で収録した曲はどれも Gary Usher が過去に別名義で
リリースしてきた曲だが、この The Customs ヴァージョンは荒々しく
ワイルドなガレージサウンドとなっており、こちらも評価が高い。
元 The Belairs のドラマー Richard Delvy とキーボードの Jim Roberts が
The Challengers を結成させて Vault Records の契約グループとなった。
Richard Delvy は早速プロダクションを設立し本件アルバムの
企画を作りレコーディングの指揮をとっている。その人脈で The Quads と
The Grand Prix の録音では The Belairs のリードギタリスト Paul Johnson
が参加している。
この The Quads と The Grand Prixでは後に Boyce & Hart として
人気作家となる Bobby Hart と Woodies がリードヴォーカルを務めている。
彼は後の The Ventures メンバーで James Burton に憧れて西海岸に
出てきたばかりの Gerry McGee とも当時行動を共にしていた。
Richard Delvy が作家&投資家の John Marascalco と共同出資していた
他のレーベル Princess Records だが、そこには若き Harry Nilsson や
Bobby Hart らがセッションシンガーとして出入りしていた。
そこで John Marascalco から紹介されたのが Bobby Hart だった。
John Marascalco は Little Richard 他多くのヒット曲のソングライターで、
当時幾つかのレーベル運営もしていた。
Vault Recordsは、このアルバムの数か月前に Jack Lewerke と Ralph Kaffel
によって設立された新興レーベルだった。1952年にカリフォルニアでレコード
配給会社を設立した Jack Lewerke と Ralph Kaffel は4つの小売店経営も
していた。Jack Lewerke は Jazz Producer として Atlantic Records で
仕事をした経験もあり、その当時から Phil Spector とも共同作業をした
間柄だった。産業と配給のノウハウを知った Jack Lewerke と Ralph Kaffel
は Atco での全国配給権を得て Vault Records を設立した。
Richard Delvy は Vault Records へ出資をし、同レーベルの最初の
プロデューサーとなった。Richard Delvy はその際 Gary Usher を
引き連れて来て、このコンピレーションアルバムを Shut Down または
Hot Rod Rally タイプのレコードとしてパッケージ化することを計画した。
この Hot Rod City は Vault Records から発売される5番目のアルバム
になったのだが同レーベルのメインシリーズでリリースされた最初の12枚の
アルバムのうち、7枚は The Challengers によるもので、2枚を除く
すべてが Surfin' Hot Rod 関連だった。
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Richard Delvy
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Sam Riddle
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The Brandywine Singers
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Van Dyke Parks |
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13-11
The Brandywine Singers - Summer's Come And Gone
(7: Joy Records 45K-281) 1963
(LP: Joy Records JL-1000) 1964
New Hampshire 州のカレッジフォークグループで
このグループには当時若き Van Dyke Parks が参加していた。
曲の作者 Terry Gilkyson と Van Dyke Parks の当時の関連を
考察するとこの作品に Van Dyke Parks が参加したと考えられる。
彼らが残した美しく懐古的なサマーバラードの逸品で
1963年11月に全米129位に到達した隠れた名曲でもある。
歌い出しは Joan Baez や PPM でもお馴染みのトラッドソング
"All My Trials" にクリソツ (死語)
1967年に The Chateaus (Kentucky) がタイトル表記を変えて
“Summer Has Come And Gone" としてリリースしたが
そちらは 6-23 を参照。
この曲は Terry Gilkyson And The Easy Riders の
Terry Gilkyson & Richard Dehr が書いた曲で、
彼らは日本では東芝 Kapp から赤盤アルバムをリリース
している名フォークグループである。
で、本件 The Brandywine Singers だが
別名 The Shaw Brothers, The Tradewinds とも言われ
Rick Shaw, Ron Shaw の兄弟に Fred Corbett、
フロントマン兼ギタリスト Dave Craig とベース奏者 Hal Brown
の5人で構成されており、さすが The Beach Boys 並みに
美しい兄弟ハーモニーを得意としており、地元である
New Hampshire 州を中心に息の長い活動を続けた。
Van Dyke Parks (1943年1月3日生まれ)は、アメリカの
ミュージシャン、ソングライター、編曲家、レコード
プロデューサーであり、さまざまな映画やテレビのサウンド
トラックを作曲してる。彼は1967年のアルバム "Song Cycle" と、
Brian Wilson や The Beach Boys とのコラボレーション
(特にアルバム"Smile") で最もよく知られている。
4人兄弟の末っ子だった彼は、子役としてプロとしての
キャリアをスタートさせた。
1953年から1958年にかけて彼は Grace Kelly 主演の1956年の映画
The Swan を含め、映画やテレビで着実に仕事をした。
彼はNBCテレビ番組 Bonino に Ezio Pinza の息子 Andrew Bonino
として出演した。Bonino での共演者の一人に、Jerry Bonino 役で
出演した14歳の Chet Allen がいた。Van Dyke Parks と Chet Allen
は少年合唱団 The Columbus Boy Choir School のルームメイトだった。
Van Dyke Parks はまた、Jackie Gleason 監督の The Honeymooners
で Little Tommy Manicotti(二階の子供)として定期的に出演した。
1963年初めにカーネギー工科大学を中退した Van Dyke Parks は、
成長を続ける西海岸のビートニク・サブカルチャーに関わり、
兄の Carson Parks と The Steeltown Two (後に3人に拡大) として
演奏する目的で Los Angeles に移住した。それが最終的に
フォークグループ The Greenwood County Singersとなった。
このグループメンバーには、後にRCAレコードのプロデューサー兼
レコーディングアーティストとなる Rick Jarrard が含まれていた。
Van Dyke Parks は後にこの決断について「カリフォルニアに行く
ということは、John Cage から逃れることを意味した。
(John Cage - アメリカの作曲家、音楽理論家。音楽における不確定性、
電子音響音楽、および楽器の非標準的な使用の先駆者である
John Cageは、戦後の前衛音楽の主要人物の1人) 私は抽象概念、
思い出せない音楽、高尚な不安から逃れた」と語った。
2人の Parks 兄弟は San Diego, Santa Barbara, San Francisco 周辺
のさまざまなコーヒーハウスで一緒にパフォーマンスを行った。
Santa Barbara のパフォーマンスに参加していた人の1人が、後に
The Byrds のメンバーとなる David Crosby であることが判明し、
Van Dyke Parks は当時友人の David Lindley にこう発言した。
「彼らが上手く逃げられるなら、私たちも逃げられるだろう。」
California にいる間、Van Dyke Parks はテレビ番組
Art Linkletter's House Party に出演する仕事を見つけようとしたが、
受け入れられなかった。
1963年、兄のフレンチホルン奏者 Benjamin Parks は24歳の
誕生日の前日、ドイツにある米国国務省での勤務中に
フランクフルトで自動車事故によって死亡した。アメリカのフォーク
シンガー兼ソングライターの Terry Gilkyson (Terry Gilkyson And
The Easy Riders) はその知らせを当時20歳の Van Dyke Parks に
伝えた。そして彼はドイツでの兄の葬儀に参列するために
Terry Gilkyson から仕事をもらった。Terry Gilkyson は自身が
書いた曲である "The Bare Necessities" をアレンジするために
Van Dyke Parks を編曲家として雇い、資金を Van Dyke Parks に
提供した。この曲は後にディズニーのアニメーション映画
The Jungle Book で取り上げられる事になる。
上記の件と平行して Van Dyke Parks は所属していた
The Greenwood County Singers がレコードデビューする前の
1963年に短期間活動を休止し、一時的に New England に移り
The Brandywine Singers の一員となり、週に最大3,000ドルを稼いだ。
その際 The Brandywine Singers は Terry Gilkyson が書いた
本件 “Summer's Come And Gone” をリリースした。
この曲は翌年リリースされた The Brandywine Singers の
ファーストアルバム (Joy Records JL-1000) にも収録された。
因みに Van Dyke Parks は1984年にリリースした彼のアルバム
Jump! (Warner Bros. 9 23829-1) に収録した "Home" を
Terry Gilkyson と共作している。
Van Dyke Parks はビートルマニアに強く反応した。
そのことについて彼は、「私は『ビートルズがやってくる』という
看板の下で暮らしているようなものだったが、それが疫病であり
もうすぐ世界中に文化的な影響を与えるだろうと感じた。
痕跡機能と同様に、私がほとんど関わりを持ち始めたばかりの
音楽生活の付属物はエレクトリック化されたフォークミュージック
の出現によって音楽本体から削除されつつあった。そこで私は
ピアノを学び始めた。」
Van Dyke Parks は1960年代半ばの現代ポップミュージックと
その英国好き文化の増大に対する不快感を繰り返し述べており
「当時 Pet Sounds を除けば、米国から出てくる驚くべきものは
何も見つけられなかった」とまで言っている。しかし彼は
Bob Dylanの “The Freewheelin' Bob Dylan” には好意的な意見
を持っており、Bob Dylanの「話し声」スタイルに感銘を受けた
と言われている。「したがって私も Bob Dylan によって書かれた
歌詞を見て、彼が文字を大文字にしていないことに気づいた。
彼は小文字で表現する特徴を持ったアメリカ合衆国の詩人、画家、
随筆家、劇作家の Edward Estlin Cummings をコピーしようと
していたので、明らかに模倣的ではあったがそれは良い位置
だと私は思った。」
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Terry Gilkyson
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The New Dimensions |
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13-12
The New Dimensions - Failsafe Track from their album The New Dimensions “Surf'n Bongos”
(LP: Sutton SU 332 mono / SSU 332 stereo) 1963
有名なお子ちゃまバンドで West Coast Pop Art Experimental Band
結成前の Michael Lloyd, 後に Three Dog Night を結成する
Jimmy Greenspoon, 後に Lambert And Nuttycombe を結成する
Craig Nuttycombe, 後に Smokestack Lightnin' を結成する
Art Guy が在籍していた事が有名だが、その Art Guy が
このサーフバンドのバックグラウンドと詳細をロングインタヴュー
で語っている。これがとても興味深く、今まで語られる事が
少なかった Michael Lloyd (Group 画像左上) のプロフィール
まで判明した。このバンドは以下の6人が在籍していた。
Michael Lloyd, Danny Belsky, Jimmy Greenspoon,
Craig Nuttycombe, Art Guy, Dave Dowd.
では、興味深いインタヴューをどうぞ。
私はミズーリ州セントルイスで、高学歴で非常に音楽的な家庭に生まれた。
私の父は医学博士で、母はジュリアード音楽院を卒業し、コンサート
ピアニストだった。姉も弟もピアノを弾いていた。5歳の頃から母は
ピアノとクラシック音楽に興味を持たせようと、何人かの素敵な
おばあさんのピアノの先生から私は教わった。
残念ながら、それがADD注意欠陥障害であろうと無関心であろうと、
スケールの学習と初歩的な音符の読み方は私の得意ではない。
10歳のとき、家族で南カリフォルニアに引っ越した。私はすぐに
ハリウッドで最も革新的で成功したレコーディングスタジオの
1つを所有し、運営していたカリフォルニアの従兄弟
Richie Podolor (Richard Allen Podolor) を紹介された。
私の従兄弟の Richie は、クラシックの訓練を受けたギタリスト、
スタジオミュージシャン、レコーディングエンジニア、
レコードプロデューサーであり、町で最も成功した最高の人物の
1人だった。Richie と彼のスタジオは、当時最も人気のある
レコーディングアーティストによるヒット曲を次々と生み出して
いた。私の従兄弟の Richie のスタジオへの最初の紹介は、
私が父と一緒にハリウッドの悪名高い場所に行ったときだった。
そこで、ドラマーの Sandy Nelson などに会った。Sandy Nelson は
Richie と共作して演奏した “Teen Beat” や “Let There Be Drums” の
ヒット曲を持っていた。また別の訪問の時に、おそらく地球上で最高の
ボンゴ奏者である Preston Epps を紹介された。 彼のヒット曲には
“Bongo Rock” や “Bongo Boogie” がある。その後数年間、Richie は
Three Dog Night, Steppenwolf, Iron Butterfly, Alice Cooper 等の
ロック史上最大のアクトをプロデュースした。有名なパーカッショニスト達
との偶然の出会いからインスピレーションを得て、私の音楽への関心と
ミュージシャンとしての将来の取り組みが形になり始めた。
当時、私はビバリーヒルズの地元の学校に通っていた。
幸運なことに、私は二人の若い学生と出会い、すぐに友達になった。
Michael Lloyd と Jimmy Greenspoon だ。
Michael の母親は元ブロードウェイ女優。
Jimmy のお母さんはサイレント映画の女優だった。
結局のところ、私たちの両親や親戚の多くは、舞台、映画、
音楽のベテランだった。私の新しい友達は両方とも、クラシック音楽
にどっぷりと浸かっている野心的なミュージシャンだった。
Michael Lloyd と Jimmy Greenspoonは当時のヒット曲、
特にサーフミュージックとして知られるようになった
新しいサウンドを愛していた。
当時はもっぱらインストゥルメンタルだったサーフミュージックは、
The Ventures などのバンドによって生み出された。
彼らの音楽は Bruce Brown (後に The Endless Summer や
On Any Sunday を監督したレジェンド) などの駆け出しの
サーフィン映画プロデューサーによって人気を博した。
Bruce Brown は自分の映画を16ミリ カメラで撮影し、
ホールを借りて自分の映画を上映し、宣伝し、会場のチケットを
販売していた。 映画は無声だったので、Bruce Brown は映画が
進行するにつれて物語を語り、サーフミュージックをレコード
プレイヤーで流してた。
私がドラムを習っていることに気づいた Michaelと Jimmy は
サーフィンとその音楽を専門とするバンドを結成することを提案した。
問題は、Michael と Jimmy の両方がピアノを弾いていたことだった。
Jimmy は象牙を手放すことに興味がなかったので、Michael が
ギターを学ぶことにした。Jimmy は第1世代のポータブルエレクトリック
ピアノを入手して演奏した最初の人物の1人だ。
その後、一緒に練習したり、Michael と Jimmy から紹介されたサーフィン
(彼らは家族と一緒にハワイに進出したことですでに優れたサーファー
だった) と、スケートボードの初期の形への参加 (私たちは歩道での
サーフィンがかなり上手になった) の間で、私たちの音楽への関心は
急上昇した。私たちはバンドを The Dimensions と名付けた。
運転するには若すぎ、私たちの楽器を演奏する以上のことをするには
我々はあまりにも素朴だった。その日から Michael Lloydの 母親 Suzanne
は私たちの指導者になり、彼女はマネージャー、プロモーター、
ブッキングエージェント、フルタイムのドライバー、付添い人として行動し
グループにたゆまぬ努力を惜しまなかった。
機会があれば、すべての楽器とギアを Lloyd 夫人の家族の荷馬車に詰め込み、
出発した。その後、このワゴンはサーフボードを運ぶなど南カリフォルニア
の海岸を行き来するビーチへの数多くのサーフィン旅行で、他の冒険にも
価値があることが証明された。
(注:1966年に Michael Lloydの母親 Suzanneは潰れていたスーパーマーケット
を借り切って、そこに機材を持ち込んで当時 Michael Lloydが在籍していた
West Coast Pop Art Experimental Band は録音をした。録音されたテープを
Michael Lloydが自室のベッドルームで Mix down したのが彼らの
ファーストアルバム Fifo Records M101 である)
私たちのサウンドの特定の側面が欠けていることに気づき、バンドをさらに
拡大することにした。その後まもなく、私たちはサックスを演奏している
若いミュージシャンを紹介された。我々は学校のダンスをコーディネート
している Ted という男性から、私たちの学校で演奏するよう招待されていた。
その男性のロサンゼルスのダンススタジオは子供たちに捧げられており、
一種の初期のモバイル DJ として知られている Ted は、小学校と中学校の
ダンスを生み出すことで彼のビジネスを促進していた。
Ted の助手には幼い息子がいて、同じく音楽家志望だった。
彼の名前は Danny Belskyと言う。Danny が選んだ楽器はサックスだった。
当時は、ギター、キーボード、ドラムに加えてサックスをフィーチャーした
町で唯一のサーフバンドになるとは、まったく予想もしていなかった。
4人のバンドとなり我々は精力的に練習し、音楽を大きく進歩させた。
それでも、私たちはサウンドを完全に捉えたかどうか確信が持てなかった。
1963年頃にカリフォルニア州サンタモニカで開催されたサーフフェアで
既にヒット曲 “Surfin” (Candix) で人気を博していた The Beach Boys と
The New Dimensions は共演した。
その後すぐに、Howard Lane という別の若いミュージシャンがいることを
知った。Howard Laneはギタリストで、当時は Michael よりも経験が
豊富だった。Howard は自分をリードギタリストだと思っていた。
よりファットでフルなサウンドを求めて Howard をリードギターとして
バンドに招待した。Michael はリズムギターを演奏した。
私たちのバンドは5人になりその後まもなくして Michael のゴッドファーザー
有名なエンターテイナーの Jimmy Durante は Michael にフェンダーの
エレクトリックギターをプレゼントした。(注:Jimmy Durante は
Michael Lloyd の名付け親としても知られる)
この楽器は、サーフミュージックを演奏するためのクラシックで
アイコニックなサーフギターとして選ばれた。
Howard は畏敬の念を抱いた。彼は、Michael が今最高のギターを持って
いるので、Michael がリードを弾くべきだと提案して、自分の気持ちを
要約し Howard はギターの神々に頭を下げ、その地位を放棄した。
私たちの若いバンドは、強化されたサウンドにいくらか満足して行進した。
ゆっくりと、しかし確実に技術を磨きながら、ミュージシャンシップを
向上させてきた。しかし、Howard はリードギタリストではなくなったため、
バンドを脱退することにした。
当時、おそらくハリウッドで最も有名で最も成功したミュージックストアは、
Wallach’s Music City だった。(注:少年時代に Phil Sloan と Elvis Presley が
運命的な出会いをした事でも有名な店) Wallach's はハリウッドの Sunset と
Vine の角にあった。最新のレコード (および無料のレコードリスニングブース)
から、最新のステレオ、テレビ、楽譜、そして私たちにとって最も重要な
楽器まで、すべてが揃っていた。楽器部門は、Fife and Nichols として知られる
別の社内組織だった。Fife and Nichols は、ギターからドラム、キーボードから
ホーン、ドラムスティックからギターの弦まで、ほぼすべての楽器と
アクセサリーを販売していた。
たまたま、同じく駆け出しのミュージシャンである高校生が、放課後に
楽器売り場のカウンターの後ろで働いていた。彼は私たちよりも少し年上で、
おそらく賢い (彼はすでにいくつかの Street smarts = 都会の環境で
生き抜く術 を発達させていた) 彼の名前は Craig Nuttycombe という。
(彼は後に Lambert And Nuttycombe という Folk duo を結成する)
Craig の父と叔父はどちらも L.A. フィルハーモニー管弦楽団の弦楽器奏者で、
おそらく L.A. で最も優れた演奏家だった。また彼らはスタジオレコーディング
ミュージシャンとしても常に需要があった。(なお後年、Michael Lloyd は
この二人の演奏を繰り返し使用し、様々なアーティストを輩出した)。
Michael Lloyd, Jimmy Greenspoon, そして私は定期的に Wallach's に通って
いたので、私たちはファーストネームで Craig を知るようになった。
Craig は意欲的なリズムギタリストであり、幸運なことにどのバンドにも
所属していなかった。私たちは Craig をバンドに参加するよう招待し、
再び、私たちは5人のバンドになった。
私たちのサウンドは良くなったが、欠けていたのは強力なボトムエンドだった。
Craig は彼の友人であり、ハリウッドの高校の同級生でもあるベーシストを
新しいメンバーに検討することを提案してくれた。その後まもなくして
David Doud という名前の若いミュージシャンが紹介された。
David と兄の Michael (ベーシスト兼ギタリスト) は、有名な脚本家 Gil Doud
の息子だった。彼らの父は長編映画とテレビの両方でかなりの名前と評判を
築いていた。彼は当時の最高かつ最も多作な脚本家の1人と見なされていた。
Doud Family はハリウッドの丘で快適に暮らしていた。しかし人生には
予期せぬときに予想外の打撃がある。将来の悲劇は、Doud Family を
繰り返し襲うだろう。
David Doud に会う前に彼の父 Gil Doud は重度の致命的な心臓発作を起こした。
家族は打ちのめされ、これから起こることに対して準備ができていなかった。
彼らの父親は遺言を残しておらず、物事を整理して家族の団結を続けるのは
母親次第だった。残念なことに、悲劇はそれから1年も経たないうちに
家族に別の打撃を与えた。何が起こったのかについては2つの説明があるが、
バンドの私たちはどちらが実際の事件であったかは定かではない。
最初の説明は、David Doud のお母さんが旅行中で、大きなヨットに乗っていた
というものだった。ある時、彼女は滑って転んで頭を打った。どうやら軽度の
脳震盪だけだったようで、彼女はすぐに回復した。その後まもなく民間旅客機
を降りる際に、彼女は脳に血栓ができ、その場で死亡した。
2番目の説明は、彼女が旅客機を降りるときに滑って転んで頭を打ち、その後
死亡したというものだった。
どちらの場合も David and Michael Doud の少年たちは突然、父親と母親の
両方を失うことに直面した. 兄弟の生活は完全に混乱に陥った。
当初、彼らのかなり年配の祖母が、少年たちの日常の世話を手伝うために
家族の家に引っ越してきた。Michael Doudは David より数歳年上だったので、
突然、兄として家族の活動を導くのを手伝うことが彼の責任になった。
当初 David Doud はベースギターを弾くために我々のバンドに採用されたが、
残念ながら彼はエレキギター以外の楽器を持っていなかった。
バンドの最初のレコーディングセッションと公の場での出演の間、
David Doud はギターでベースノートを演奏していた。
David Doud がバンドに加入してから、私たちのハードワーク、絶え間ない
リハーサルとパフォーマンスが報われ始めた。10代の頃にプロのレベルで
演奏しただけでなく、機会と会場が劇的に改善された。
学校やプライベートパーティーで演奏を始めた当初から、サンタモニカ
シビックオーディトリアムで開催される毎年恒例のサーフフェアなどの
ショーで最高潮に達し、より大きな会場でのエンゲージメントを確保し始めた。
そこでは、新しく成功した人気の The Beach Boys などのアクトと並んで
10代の若者や若いサーファーの大群の前で演奏するという大きな一歩を
踏み出した。私たちの音楽に対する反応は電撃的で、未来のロックグループ
としての私たちの可能性には終わりがないように見えた。
同じ時期に、2つの小さな町から連絡があった。Hot shot record producers
彼らは私たちのバンドを彼らの傘下に置き、ヒットレコードの作成を支援し、
バンドを次のレベルに引き上げる手助けをすると約束した。
音楽ビジネス、レコーディングの世界、そして約束と契約の世界に不慣れな
私たちは、彼らの熱心な誘いに同意した。
その日からバンドは The New Dimensions として知られるようになった。
その後、非常に短い期間で4枚のアルバムといくつかのシングルレコードを
録音した。メジャーレーベルからのリリースは決して確保されず、その時は
気づいていなかったが、すべての努力は行き場を失っているように見えた。
最終的に、私たちの録音はマイナーレーベルからリリースされたが、
宣伝されることはなかった。最終的に、私たちは最初のプロデューサー
との関係を終了し、代わりに紹介された別のプロデューサーと契約すること
を選択した。Hite と Dorinda Morgan は成功したレコーディングスタジオを
所有していた。彼らは、オリジナルの The Beach Boys のレコーディングを
プロデュースしたときと同じように、私たちのバンドを自分たちの傘下に
置くことを申し出て、私たちと一緒に仕事を続けた。もう一度言うけど
運命のように、私たちはメジャーレーベルとプロモーションの欠如によって
挫折したように見えた。
The New Dimensions はその後数年間、無数の会場で演奏し何千人もの
熱狂的なファンから大きな反響を得たが、私たちの音楽キャリアと
成功への見通しは次第に薄れていった。サーフミュージックは、
The Beach Boys, Jan and Dean, The Beatles などのグループによって
導入された新しいヴォーカルサウンドに突然置き換えらた。
The New Dimensions はインストゥルメンタル・サウンドにヴォーカル
を追加することでこの時流に加わろうとしたが、ヴォーカルグループに
移行することはできなかった。最終的に、私たちは全体としてほぼ同じ
結論に達した。我々は先に進む時が来た。私は実際的というよりも
ナイーブだったが、私にとっては自然な進歩のように思えた。
独力で進んだので、特に道はなかった。
幸いなことに Hite と Dorinda Morgan との親密な関係により、彼らは
私をソロアーティストとして継続することに熱心に勧めてくれた。
私はもともとドラマーであり、ヴォーカリストではなかったが、
その事実に誰も気付いていなかったようだ。
1964年頃、私は Hite と Dorinda Morgan の息子である Bruce Morgan
のレコーディングスタジオで働き始めた。アシスタントとして複数の
レコーディングアーティストや音楽出版社のニーズに対応しながら、
アート、サイエンス、エンジニアリングのニュアンス、レコーディング、
プロデュースのスキルを磨いた。この機会により、プロデューサーや
エンジニアとして多くの意欲的なアーティストと仕事をすることが
できた。しかし私の心は別の場所にあった。それは自らがアーティスト
としての演奏と録音の世界だった。
(注:Morgan studio で録音された Art Guy - Where You Gonna Go /
Teenage Millionaire は1967年2月に Valiant Records V-762 Promo
として配布されたがリリースされなかった。しかし2020年に
イギリスの Hyperloop Records が “Where You Gonna Go” のみの
限定シングルをリイシューし、話題となった)
私の最初のソロの試みは、実際にはまったくソロではなかった。
私はトリックの袋に深く手を伸ばし、デュオとしてペアリングするために
元バンドメイトの Jimmy Greenspoon を採用することができた。
同じ時期に俳優の友人から電話があった。彼は映画スタジオの1つが
新しいバンドのドラマーのポジションのオーディションを行っていることを
私に知らせた。このバンドは The Beatles のアメリカ版を意図した
新しいテレビシリーズで取り上げられる予定だという。
そのテレビショーは The Monkees と呼ばれることになっていた。
スタジオに電話して、パートの面接の予約を取った。驚いたことに最初の
面接の後、2度目の電話がかかってきた。その時点で私は実際にその
役割に選ばれるかもしれないという寝汗をかき始めた。
当時私は知らなかったが、テレビシリーズの "Circus Boy" の
元子役である Mickey Dolenz が争いに加わり、彼のプロの演技力により
ドラマーのポジションは Mickey Dolenz があっけなく手に入れた。
Mickey はドラムが出来ないが、特にスタジオミュージシャンがすべての
音楽を録音する打開策によって、Mickey がその役割を得るのにそれほど
苦労することはなかった。彼らが言うようにそれも音楽ビジネスの歴史だ。
(注:David Doud と Michael Doud は後に East Side Kids
という Psych band を結成する。バンドの David Potter は
International Artists の Endle St. Cloud に参加する)
私がバンドメンバーとして失業していたある晩、ミュージシャンの
Arthur Lee から自宅に電話がった。私は Love と呼ばれる彼の新しいバンド
のドラムを演奏する候補者として彼に推薦された。
平日は夜にプレイする必要があったが、特に当時私がまだ高校生だったので
保守的な両親は同意しそうになかった。私は Arthur の親切な申し出を
丁重に辞退したが、数か月以内に Love が初のトップ10ヒットを
記録することになるとは思いもしなかった。
次に、オーダーメイドのようなオファーが提示された。
The Minutemen と呼ばれるトップ40のバンドが、名声と富を求めて
ミズーリ州からハリウッドに移転した。私は彼らのオーディションを受けて、
その場で採用された。The Minutemen のメンバーとしての最初の仕事は、
Pandora’s Box として知られるサンセットストリップのちょっとした
しかし有名なクラブのハウスバンドだった。これは悪名高いクラブであり
将来、通りの拡張に道を譲るために取り壊され、その過程で
サンセットストリップでの有名な暴動と Buffalo Springfield の
スマッシュシングル “For What It's Wort” に拍車をかけた。
The Minutemen のメンバーとして活動している間にインディーズレーベル
から2つのシングルをリリースした。両方とも全国のさまざまなローカル
ヒットレコードチャートに登場したが、最終的にはそれ以上上昇することは
なかった。このグループは全国のクラブで大観衆の前で演奏したが、
ヒット記録につなげることができなかった。1966年バンドの2人の
年配のメンバーが徴兵され、ベトナム戦争に参加することを余儀なくされ
その後、バンドは継ぎ目でバラバラになったた。私が本格的なヒッピーに
変身するのにそう長くはかからなかった。
次の機会は Jimmy Messina という名前の若いミュージシャンを
紹介されたときだった。Jimmy はかなりのギタリストであり歌手だった。
彼は当時ハリウッドを飛び回り、Bob Keane(Richie Valens や
Bobby Fuller などのアーティストによるヒット曲の作成者)などと
さまざまなプロジェクトに取り組んでおり、50年代のグループ The Platters の
プロデューサーのためにアイデアを開発していた。
Jimmy は Havey’s Hotel の結婚パーティーや Lake Tahoe のカジノで
演奏するグループの歌手としても働いていて、彼らはドラマーを必要と
してたので私が雇われることになった。当時、私も婚約中だったが
Jimmy は次に彼が結成しようとしていたデュオのバックバンドの
ドラマーに参加しないかと私を誘ってくれたが、当時、私はバックバンド
に参加することに興味がなかったので、オプトアウトした。驚いたことに
Jimmy Messina は Kenny Loggins とのデュオ Loggins and Messina
でスーパースターになった。
私は Los Angeles に戻り、別のバンドを探し続けた。新しいドラマーの
オーディションをしているレコーディンググループの広告を見つけた。
最初のオーディションの後、私は採用された。その後私は Bones Howe と契約
を結んだ。Bones Howe は史上最も成功し多作なハリウッドのプロデューサー兼
エンジニアの1人と見なされていた。Bones Howe は The Association,
The Fifth Dimension, The Turtles の最大のヒット曲の制作に大きく貢献した。
その後、彼は Elvis Presley “Hawaii comeback special” をプロデュースした。
彼の数え切れないほどの功績は伝説的であり、エンジニアリングやプロデュース
の名人だった。たとえば、The Mama’s and the Papa’s, Jerry Lee Lewis,
Sergio Mendes, Juice Newton, The Marketts, The Routers,
Barry McGuire, Scott Mc Kenzie など。彼はまた “Back To The Future”
などの主要な映画の音楽でも大成功を収めた。
私の新しいバンドは Smokestack Lightnin’ として知られていた。
当時、グループは The Turtles で初期の成功を収めていた
White Whale Records と契約しており Los Angeles でかなりの
フォロワーを獲得していた。
サンセットストリップにある有名な Whiskey A-Go-Go のハウスバンドの
1つとして好まれていたこのバンドは有名な William Morris Agency と提携して
ツアーに出る前にサンセットストリップ沿いの他のクラブや会場でも演奏した。
私たちは定期的に The Sea Witch と呼ばれる小さなクラブで The Doorsと
週を交互に過ごした。私たちは、カリフォルニア州ベニスの The Cheetah Club
や州全体の他のクラブや大規模な講堂などの会場で、そして最終的には全国の
数多くのコンサート会場で、その時代の最大のロックアクト達と共演した。
私たちは The Doors, Three Dog Night, Creedence Clearwater,
The Nitty Gritty Dirt Band, The Dave Clark Five, Ritchie Havens, Dion,
American Flag など、国内で最も成功した多くのバンドとツアーを行った。
White Whale レーベルからいくつかのシングルをリリースした後、
Bones Howe はニューヨークの Bell Records とバンドのレコーディング契約
を結んだ。Bell は成功を収める新進気鋭のレーベルであり、すでに数多くの
ヒットを生み出していた。最初のプロジェクトはLPリリースだった。
Los Angeles にある最先端のレコーディングスタジオで録音された。
このプロジェクトは、完了するまでに数か月かかった。
有名な Wrecking Crew のメンバーの助けを借りて、劇的な結果が得られた。
アルバムがリリースされた直後、巨大なビルボードがサンセットストリップに現れ、
新しいアルバムを売り込み始めた。アルバムはビルボードチャートに一時的に
入った。しかし、レコーディングはその日の最も売れたアルバムに入ることが
できなかった。その後、数々のシングルをリリース。全国レベルでトップ40の
地位を獲得するのに十分なものではなかったが、全国の多くの独立した
ラジオ市場や都市で、私たちの録音はトップ10を突破した。
1970年、私にとって注意すべき手書きの教訓は再び壁にあった。
グループミーティングで、対立の空気に包まれた。
Bones Howe はセカンドアルバムをレコーディングする前に、バンドが
より商業的な方向に進むことを望んでいた。バンドのメンバーは、オリジナル
のブルース/ロックサウンドを維持することを主張した。
何年にもわたって音楽ビジネスで個人的に経験したすべての浮き沈みの後、
私は Bones Howe が正しい考えを持っていると確信した。人生そのものを
大切にするよりも、トップ10ヒットが欲しかった.。
バンドの他のメンバーは納得していなかった。実際、Bones Howe からの
リリースについて交渉し、バンドのビジョンに沿った別のプロデューサーを
探すという話さえあった。その時点で、私は感情的、精神的にテンションの限界
に達していた。私たちはアメリカで最も成功したプロデューサーの1人と
提携していたが、バンドはそれを望んでいなかったのか? いわば帽子をかぶって、
辞退して会議を後にした。結局、グループはさらに半年ほど存続し、
解散することになった。幸いなことに、私は40年以上経った後、
以前のバンド仲間と社交的に再会することができた。
2014年、私は Michael Lloyd に連絡を取り、バンドをまとめて50年以上前に
共有していた音楽を復活させることを提案した。
Michael は熱心に同意した。その時点から、私は他の人たちに連絡を取り、
彼らの意見と検討を求めた。驚くことではないが、全員が心から参加した。
地理的な距離と Three Dog Night での Jimmy の厳しいスケジュールに
基づいてグループを編成することは、決して簡単なことではなかった。
しかし、それは最終的に実現した。唯一のミッシングリンクは、私たちの
最愛のベーシストである David Doud だった。大人になってからの人生で、
多くの浮き沈みを経験した後、David は交通事故で悲劇的に亡くなっていた。
彼の存在が惜しまれるが、彼の The New Dimensions の遺産は、私たちの
新しい音楽とレコーディングの取り組みの中で生き続けている。
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Art Guy
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The New Dimensions |
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Michael Lloyd and Jimmy Greenspoon |
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13-13 The Alley Kats - Barbie
(7: Impact 31-IM) 1964 The New Dimensions のメンバーは以下からなる。
Michael Lloyd, Danny Belsky, Jimmy Greenspoon,
Craig Nuttycombe, Art Guy, Dave Dowd.
The New Dimensions はデビュー後数年間、無数の会場で演奏し
何千人もの熱狂的なファンから大きな反響を得たが、彼らの音楽キャリアと
成功への見通しは次第に薄れていった。
サーフミュージックは、The Beach Boys, Jan and Dean, The Beatles などの
グループによって導入された新しいヴォーカルサウンドに突然置き換えらた。
The New Dimensions はインストゥルメンタル・サウンドにヴォーカルを
追加することでこの時流に加わろうとしたが、ヴォーカルグループに
移行することはできなかった。
最終的に、彼らは全体としてほぼ同じ結論に達した。彼らは先に進む時が来た。
幸いなことに Hite と Dorinda Morgan との親密な関係により、Morgan 夫婦は
Art Guy をソロアーティストとして継続することに熱心に勧めてた。
Hite Morgan は The Beach Boys のデビューシングルを1961年に
彼の Morgan Studio で録音した事でも有名だが、彼の息子 Bruce Morgan が
クレジットされた “Barbie” を Kenny & The Cadets 名義で
1962年4月にリリースした。
この曲は Hite Morgan の妻 Dorinda Morgan によって書かれたが、
功績は彼女の息子 Bruce に与えるためにクレジットを
Bruce Morgan とした。Dorinda Morgan は1930年代から
曲を書き続けており、夫の Hite Morgan とレコーディングスタジオ
を所有していた。
Kenny & The Cadets の録音メンバーは Brian Wilson, Carl Wilson,
Alan Jardine, バックアップヴォーカルで母 Audree Wilson と
セッションミュージシャンの Val Paliuto (The Jaguars) が
バスヴォーカルを担当している。
The New Dimensions が解散する時に Hite Morgan は彼らに
Robert John Hafner を紹介した。
後に映画 Pulp Fiction の収録曲で有名になる Robert Hafner は
The Revels "Comanche" や The Sentinals ”Latin Soul”,
The Breakers や Bob Vaught & The Renegaids で知られる
Surf Novelty song の金字塔作品 ”Surfin' Tragedy” でも
有名なコンポーザーで、これらの録音で Hite Morgan と
Bruce Morgan とは旧知の間柄だった。
The Alley Kats の実体は The New Dimensions が解散に向けて
トーンダウンする最中の Michael Lloyd and Jimmy Greenspoon である。
サウンド的には Jan & Dean が “Barbie” を歌ったらこんな感じ
といったポップチューンだ。分析癖を持つ Hite Morgan は
妻 Dorinda が書いたヴォーカルチューン “Barbie” を
Beach Boys サウンドと Jan & Dean サウンドでリリースする事で
市場のリアクションが知りたかった。
結局1964年頃、Art Guy は Hite と Dorinda Morgan と彼らの息子である
Bruce Morganのレコーディングスタジオ Morgan Studio で働き始めた。
アシスタントとして複数のレコーディングアーティストや音楽出版社の
ニーズに対応しながら、Art Guy はアート、サイエンス、エンジニアリングの
ニュアンス、レコーディング、プロデュースのスキルを磨いた。
この機会により、Art Guy はプロデューサーやエンジニアとして多くの
意欲的なアーティストと仕事をすることができた。
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Michael Lloyd and Jimmy Greenspoon
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Robert John Hafner |
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Jimmy Greenspoon and Michael Lloyd |
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13-14 Alleykats - Blanket Tossin' Time
(7: Hall Of Fame Record Co. HOF-417) 1964
Ex The New Dimensions with Michael Lloyd and Jimmy Greenspoon.
Nice surfy beach pop.
Written by H. Bowman.
Produced by Robert Hafner (Robert John Hafner)
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Michael Lloyd and Jimmy Greenspoon |
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13-15
The Alleykats - Skate Board
(7: Hall Of Fame Record Co. HOF-418) 1964
Ex The New Dimensions with Michael Lloyd and Jimmy Greenspoon.
Nice surfy pop in skateboard theme.
Written, Produced by Robert Hafner (Robert John Hafner)
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Don Ciccone
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Don And The Chevells |
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13-16
Don And The Chevells - The Only Girl / Inner Limits
(7: Speedway Records No. 1000) 1964
昔この自主盤シングルを売ったが、長きに渡って自分でも
忘れていた1枚を突然思い出した (笑)
これは後に The Critters の創設メンバーとなる Don Ciccone の
最初のシングルで、Speedway Records は彼自身の起業家精神
によるものだった。ニュージャージー州ジャージーシティ出身の
Don Ciccone を中心にしたティーンポップガレージで、
B面はサーフガレージインストを収録している。
両面とも Don Ciccone のオリジナル曲で、当時18歳。
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Don Ciccone |
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Dick Campbell
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Bill Stocker |
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13-17 The Wild Ones - Surfin' Time Again
(7: Camsul CS-3) 1964 Wisconsin 州 Sauk City のスタジオユニットで地元ミュージシャンである
若き日の Dick Campbell と Bill Stocker が参加している。
リードヴォーカルを務めた Bill Stocker はその後 Country music で
長いキャリアを持つ人物で彼の The Hard Times Band が最も有名か。
先ずはこのユニット結成に至るまでの歴史。
Dick Campbell のいとこ Artie Sullivan は Dick Campbell が書いて
プロデュースした It's Time / Suzanne (Swan S-4153) で1963年9月に
シングルデビューしている。この Dick Campbell と Artie Sullivan は
Massachusetts 州の地元 Worcester の大学バンド The Scarlets を
でっちあげた。彼らは "Miami" と "Joannie" の2曲を Boston の
スタジオ Professional Sound Inc. で録音していた。彼らが Wisconsin 州
Monroe に引っ越したとき、彼らはマスターテープを Wisconsin 州
Sauk City の Cuca Recording Studio に持っていった。
Dick Campbell は Wisconsin 州 Monroe 高校出身で、高校時代の友人で
Monroe 出身の Bill Stocker に歌わせたヴォーカルトラックを
Cuca Recording Studio でダビングして、それを Dick Campbell と
Artie Sullivan が移り住んだ Wisconsin 州 Monticello の住所で設立した
CineVista Records から最初のシングルとして
The Scarlets - Miami / Joannie (CineVista Records 45-1001 / 45-1002)
を1964年夏にリリースされた。
これは両面とも若き日の Bill Stocker がリードヴォーカルをとった
軽快なロックンロールだが、当の Bill Stocker は The Scarlets 名義の
シングルなんて知る由もなかった。
そして本件 The Wild Ones も The Scarlets 同様に架空のグループだった。
レーベル名の Camsul は Campbell-Sullivan の Cam - Sul である。
リードヴォーカルは Bill Stocker、ギターは Dick Campbell、
そしてバックアップヴォーカルは Dick Campbell,
彼の妻 Sandi Campbell, Artie Sullivan である。
その後 Dick Campbell は Hollywood に拠点を移しフォーク・ロックの
シンガーソングライター兼映画プロデューサーとなり
音楽出版で大きな成功を収めた。
彼は1965年にデビューアルバム Sings Where It's At
(Mercury MG 21060 mono / SR 61060 stereo) をリリース。
Rrhythm guitar Dick Campbell, Guitar Mike Bloomfield,
Bass Pete Cetera, Harp Paul Butterfield,
Organ Mark Naftalin, Tambourine Artie Sullivan といった面子で
制作したフォークロック名盤アルバムである。
Dick Campbell は 398曲の歌と多くの詩や短編小説を書き映画にも出演した。
Dick Campbell は RCA Records のA&Rマネージャーに就任し
Gary Usher と協力して、彼は当時無名の作家 Jim Weatherly を含む
多くのアーティストと関わった。
Jim Weatherly は "Midnight Plane To Houston" を書いた
ソングライターでオリジナルは Cissy Houston によって録音された。
Gladys Knight and the Pips は後にその歌のタイトルを
"Midnight Train To Georgia" に変更して大ヒットとなった。
Dick Campbell は Gary Usher と"Good Ole Rock & Roll Song" を共作し、
The Cowsills の1970年のアルバム On My Side に収録された。
Dick Campbell は末期がんとなった Gary Usher と最期の時期を
共にしてホスピスを務めており、Gary Usher の死後にリリースされた
Gary Usher の2001年のアルバム Beyond a Shadow of a Doubt の
全21曲を Gary Usher と共作した。
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The Dovells (The Woofers / The Scramblers) |
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13-18
The Woofers - Drag City
The Woofers - Little Deuce Coupe
The Woofers - Dragsville
(LP: Wyncote W-9011 mono / SW-9011 stereo) 1964 Surfin' & Hot Rod コレクターには The Dovells - Dragster On The Prowl
が有名なフィラデルフィアの Vocal Quartet の The Dovells だが
彼らを一躍有名にしたのは1961年に全米2位となった彼ら細大の
ヒット曲 "Bristol Stomp" である。
因みに1位は Dion の "Runaround Sue" だった。
The Dovells のグループメンバーは以下
Leonard Borisoff (Aka Len Barry: Lead and Tenor)
Jerry Gross (Aka Jerry Summers: Lead and First Tenor)
Mike Freda (Aka Mike Dennis: Second Tenor)
Arnie Silver (Aka Arnie Satin: Baritone)
The Dovells はその後数年間にわたって一連のシングルをリリースした。
その中には1963年にビルボード・ホット100のトップ・ヒットとなった
"You Can't Sit Down" も含まれていた。グループメンバーの Len Borisoff は
1963年末に脱退し、Len Barry という名前でソロ活動を始めた。
彼のソロキャリアの最高点は、1965年のヒット曲 "1-2-3" と
それに続くヒット "Like a Baby" だった。
そんなビッグネームの The Dovells だが彼らは Cameo/Parkway 系の
ハウスバンドとして同レーベルの人気アーティストのバックコーラスを
担当するという役もこなしていた。そんな彼らが時流に乗って
Cameo/Parkway 系の廉価盤レーベルである Wyncote より
変名ユニット名義でリリースした中には
The Liverpools - Beatle Mania! In The U.S.A. (Wyncote W 9001)
1964年の、あのひでえビートルズパチモンアルバムも含まれる。
そして Surfin' & Hot Rod ブームに便乗し二つのグループ名義の
アルバムをリリースしたのが本件で、名前を使い分けてるが同じ音源である。
The Woofers - Dragsville (Wyncote W/SW-9011)
The Scramblers - Little Honda (Wyncote W/SW-9048)
互いの異なる収録曲は両面の1曲目
The Woofers A-1 "Drag City", B-1 "Little Deuce Coupe"
The Scramblers A-1 "Little Honda", B-1 "G.T.O."
で、B-1 "G.T.O." に関してはエレクトリック・ステレオ・リチャネリング
による初期録音の収録となる。True Stereo ではなく初期の擬似ステレオ。
さらに細かい事を言えば、"Dragster On The Prowl" の Mono version は
The Dovells のシングルと同じだが、Stereo version はそれより20秒長い。
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The Fender-Menn IV (AKA The Fender IV)
1964 L-R Randy Holden, Mike Port, Keith Kesler, Joe Kooken |
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13-19
The Fender IV - You Better Tell Me Now
(7: Imperial 66061) 1964
The Sons Of Adam (Decca) の前身バンドで後に The Other Half
や The Blue Cheer らとも活動する Randy Holden の初期バンドである。
当然本件シングルの詳細やレヴューを書くには本10冊分の
文字を要するので、大胆に短くまとめなければいけない。
バンドは Maryland 州 Baltimore で結成された。
Randy Holden は結成当時17歳で、彼は The Ventures に夢中だった。
バンドメンバーは自分たちを The Fendermen や Fender-Menn IV
と呼んでいた。それは Randy Holden のアイデアで、彼らが California
に行って Fender から迅速なスポンサーシップを得るためだった。
The Fendermen (Summer 1963 - November 15, 1963)
1) Randy Holden - lead guitar, lead vocals
2) Joe Kooken (AKA Jack Ttanna) - rhythm guitar, lead vocals
3) Mike Port - bass, lead vocals
4) Sonny Lombardo - drums
彼らは Los Angeles に行ってプロデューサーの Russ Regan
(The Beach Boys というバンドネームの名付け親としても有名)
に会った。Russ Regan は彼らをとても気に入り、彼らは
Imperial Records とレコード契約を結んた。
その時点で、バンドは Russ Regan が作ったばかりで
彼が所有していたレコーディングスタジオに入った。
Randy Holden 作のインストゥルメンタル "Mar Gaya"
さらに、彼らの初のヴォーカル・ナンバーで Randy Holden と
Joe Kooken の共作 "You Better Tell Me Now" をデビューシングル
としてリリースした。その際、Fender-Menn IV はその名前を
The Fender IV に短縮した。プロデュースは彼らのマネージャー
Bill Doane and Ozzie Smith が担当した。
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Randy Holden |
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13-20
Phil & The Flakes - Chrome Reversed Rails
(7: Fink Records FINK 1010) 1964
その昔 Surfin' & Hot Rod Collectors と Psych Underground
Collectors を融和させようと本件シングルを Vanda で紹介したが
圧倒的に Psych Underground ファン達から支持を受けた。
なんせ、この狂ったおっさんのキャリアが凄い上に、このシングルが
Psych Underground 市場で大きな意味を持つのだから。
Written by Phil Pearlman.
Lead vocal Phil Pearlman (Later The Beat Of The Earth,
Relatively Clean Rivers)
Guitar Randy Love (Beach Boys Mike Love's cousin. Later Wildfire)
Bass Danny Jamison (Later Wildfire)
まあ Phil Pearlman は The Beat Of The Earth と
Relatively Clean Rivers の二つでビッグネームなのだが
クレジットされてないメンバーが凄い。
The Beach Boys Mike Love の従兄弟の Randy Love、
そして Danny Jamison がバンドメンバーで、これが彼らのデビューバンド
となる。Randy Love と Danny Jamison は1970年にハンドメイドで
100枚のみプレスされたサイケハードロックアルバム
Wildfire - Smokin' (Primo WF-0021) のメンバーで、
アルバムは The Beach Boy のスタジオを使ってデモ録音された。
Danny Jamison はベースと素晴らしいリードヴォーカルを担当、
Randy Love は凄まじい迫力のギターを聴かせ、これは
アンダーグラウンドハードロックとしてはトップの内容を誇る
モンスターアイテムだ。バンドがセッションの費用を負担したため、
バンドがマスターテープを所有し、そのアルバムをセルフリリースした。
無地の白いジャケットに Smokin' と名づけられたアルバムタイトルと
手書きのナンバー入りステッカーを貼ってリリースされた。
実際素晴らしい内容のハードロックアルバムで、当時通常リリース
出来ていればアメリカのハードロック市場で確固たる地位を築いて
いただろう。そんな曰くつきの彼らが「女の娘にキャアキャア言われ
たくて、こんなん作ってましたあ」とリリースしたのがこのシングル
なのだが、もろヒッピーの顔写真がプリントされていて、そのギャップ
にアメリカの西海岸サブカルチャーシーンの奥深さを知る。
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Relatively Clean Rivers
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Wildfire
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Wildfire
LR-Danny Jamison, Donny Martin, Randy Love
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David Gates |
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13-21
The Country Boys - The Okie Surfer / Blue Surf
(7: Del-Fi Records 4245 Promo only) 1964
Surfin' & Hot Rod コレクターには有名な逸品。
後の Bread の David Gates の初期作品と言ってもリリースには
至っておらずプロモ盤しか確認されていない。
"The Okie Surfer" とはオクラホマのサーファーという意味で
オクラホマ出身の David Gates が The Beach Boys
"Surfin' Safari" style で歌う所謂「丘サーファー」のノベルティーソングだ。
で Flip side の Surf inst だが、作者 R. Kuhn (Robert Kuhn = Bob Keene)
Del-Fi Records のオーナー Bob Keene (Real name Robert Verril Kuhn)
の事だ。私はその昔 Bob Keene に会ったが、トレードマークの
サングラスがかっこいいオヤジだった。
で、この録音メンバーは当時 Del-Fi Records でリリース
してた架空のユニット The De-Fenders か The Deuce Coupes
という事になる。セッションによって録音メンバーも
若干流動的だったので、双方のメンバーを記載しとく。
The De-Fenders
Tommy Tedesco (lead guitar), David Gates (rhythm guitar),
Russell Bridges (Leon Russell) (keyboards),
Ray Pohlman (bass), Hal Blaine (drums).
The Deuce Coupes
Lolly Vegas (guitar), Glen Campbell (guitar), David Gates (guitar),
Dale Hallcom (bass), Pat Vegas (bass), Earl Palmer (drums),
Mike Rubini (keyboards), Russell Bridges (Leon Russell) (keyboards),
Plas Johnson (sax).
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P.J. Proby
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The Rituals |
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13-22
The Rituals - Surfers Rule / Gone
(7: Arwin MM-128-45 Promo only) 1964
Arnold (Arnie) P. Ginsburg はウィスコンシン州出身で、
ロサンゼルス西部で育った。Jan Berry 同様、Arnie Ginsburg も
ウエストサイドの出身。Jan Berry はベルエアの丘陵地帯出身だが、
Arnie はソーテル地区に住んでいた。
2人は、ウィルシャー・ブールバードの南、テキサス・アベニューにある
美しいキャンパスを持つユニバーシティ・ハイスクールに通っているときに
友人になった。2人はともに、Hi-Y school club (YMCA に帰属する
ボランティア活動を行う高等学校部) の人気のクラブ The Barons
のメンバーだった。Arnie はビーチでシャツを脱ぐと腹筋が6つに割れた
ハンサムなユダヤ人の少年だった。
Jan Berry は才能あふれる恋人 Jill Gibson と一緒に有名になったかも
しれないが、Jill Gibson は Jan Berry と付き合う前に Arnie と
付き合っていた。
Arnie は音楽が大好きで、ダンスも大好きだった。
Jan が1957年に Hi-Y school club にちなんで名付けた
ヴォーカルグループ The Barons を結成したとき、
Arnie は創設メンバーになった。グループには他に Dean Torrence,
John Seligman, Wally Yagi, Chuck Steele がいた。
Arnie は、カリフォルニア ロック発祥の地の1つであるベルエアの
イレブン イレブン リンダ フローラ ドライブにある
Jan Berry のガレージスタジオにて The Barons のヴォーカルを担当し、
最初から参加していた。Jan の近所の友人で将来 The Beach Boys の
メンバーとなる Bruce Johnston がピアノで参加することが多かった。
後に“Teen Beat”で有名になる Sandy Nelson がドラムで参加した。
Jan Berry と Arnie Ginsburg は一緒にオリジナル曲を書き始め、
最初のコラボレーションは “Jennie Lee” という歌だった。
彼らはパーティーや学校の集会で The Barons と一緒に演奏したが、
2人はJan のガレージスタジオで自分たちだけで録音することが
多かった。彼らはベルエアのリンダ フローラ ドライブで、
Jan の伝説的な最新式のアンペックステープマシン(エコーエフェクト付き)
を使って “Jennie Lee” を録音した。
Jan がピアノを弾いてベースを歌い、Arnie はリードヴォーカルを歌い、
即興のパーカッションを叩いた。
彼らは録音したテープを Sunset と Gower にある United Recording
に持ち込み、アセテート盤をカットした。これは彼らの考えでは当然の
次のステップだった。彼らは自分たちのレコードが欲しかったのだ。
ビバリーヒルズにある Marty Melcher (Terry Melcher の父) の
Arwin Records の A&R 担当役員 Joe Lubin は、その日 Gordon MacRae
の録音に取り組んでいた。ビルから出る途中、Joe Lubin はスタジオで
Jan Berry と Arnie Ginsburgの生の録音を耳にした。
Joe Lubin はリンダ・フローラにある Jan のガレージスタジオに
彼らを連れ戻し、“Jennie Lee” の再録音を監督した。
これは Jan & Arnie が最初に使用したのと同じプロセスに一致していた。
1958年3月、Dean Torrence が米国陸軍予備役に入隊したのと同じ月
Jan Berry と Arnie Ginsburg は Joe Lubin と予備アーティスト契約を
結んだ。その後、Joe Lubin は Marty Melcher に熱心に売り込み、
Jan & Arnie は Arwin Records のレコーディングアーティストになった。
Joe Lubin は、Jan & Arnie の “Jennie Lee” の基本トラックを
強化するために、最高の R&B ミュージシャンを雇い、
Jan Berry をハリウッドのスタジオシステム内で重要な道へと導いた。
最終ヴァージョンはフェアファックス アベニューのマスターレコーダー
で録音され、Earl Palmer がドラム、Ernie Freeman がキーボード、
Rene Hall がギター、Plas Johnson がサックスを担当した。
オーバーダブ セッションはベテランのアレンジャー兼作曲家
Don Ralke (当時 Connie Stevens の一連のヒット曲を手掛けていた。
後に The Sunrays も手掛ける) が監督したが、Ernie Freeman は
ピアノとヴォーカルのトラックをミュージシャンと同期させる
魔法をかけた。
1958年4月にリリースされた “Jennie Lee” は全米で大ヒットし、
6月にはキャッシュ・ボックスで第3位、R&Bで第4位、
ビルボードチャートで第8位に達した。1965年、Jan Berry は
ミュージックマガジン KRLA Beat に対し “Jennie Lee” はロサンゼルス
でよくショーを行っていた「ザ・バズーム・ガール」、
「ミス・フォーティー・フォー・アンド・プレンティ・モア」など、
同名の有名な豊満なバーレスクパフォーマー (ストリップなどから
構成されるわいせつな笑劇) について書かれたものだと語った。
しかし、今日に至るまで、Arnie Ginsburg はストリッパーの話に
異議を唱えている。
Jan & Arnie は、生々しく騒々しい R&B の歌い方で、
黒人のサウンドを奏でた。“Jennie Lee” は大ヒットしたが、
シングルの配給は Joe Lubin の仲介で Randy Wood と
Dot Records との一回限りの契約だった。
同様の配給契約がなかったため、Jan & Arnie の次のシングル
“Gas Money” は作曲とプロデュースが優れ、カリフォルニア初の
カーソングの1つとなったが、全国で81位にとどまった。
Jan & Arnie のデビューシングルが大成功を収めたのに、
なぜ Dot Records はなぜ去ったように見えるのか?
その答えは1958年4月 “Jennie Lee” 発売からわずか1週間後の
サンタモニカ・イブニング・アウトルック紙で公表された。
Arnie Ginsburg は近々兵役に就くことになっていた。
高校時代にジュニアROTC(予備役将校訓練課程)に在籍していた
Arnie Ginsburg は、1957年5月から米国海軍予備役の一員だった。
それでも、1958年の残りの期間は、Jan & Arnie にとって
波乱に富んだ時期だった。Arwin Records の3枚のシングルの
6曲すべてが Jan Berry と Arnie Ginsburg の共作で、
Arnie はすべての曲でリードヴォーカルを務めた。
5月、Dick Clark のサタデー ナイト ビーチナット ショーで
全国テレビデビューを果たした。Arnie は6月に University High Schoo lを
卒業し、同月、Jan & Arnie はパサデナ シビック オーディトリアムと
ロング ビーチ ドライブインで演奏した。
7月に彼らは Frankie Avalon, Link Wray, The Kalin Twins とともに
東海岸の “Summer Dance Party” ツアーに参加した。
このツアーにはカナダでの公演も含まれていた。Dick Clark Show で2度目
の演奏を行い、8月には Sam Cooke とともに北カリフォルニアのツアーに
参加し、ハリウッド ボウルで開催された初のロックンロール ショーで
演奏し、カントリー ミュージックのソングライター、プロデューサー、
そして将来 Liberty Records のスタッフとなる Joe Allison が司会を務めた
KABC-TV のカントリー アメリカに地元で出演した。
Sam Cooke とのツアーで、Jan Berry は当時 Ray Charles や
Little Richard などのプロデュースを手がけたことで知られる
黒人大物プロデューサー Robert “Bumps” Blackwell や、
Keen Records で働きながら音楽業界の仕事のコツを学んでいた
Lou Adler と Herb Alpert に初めて出会った。
Jan & Arnie は9月にロサンゼルス郡の祭りで Ritchie Valens
と共演し、Jan Berry の昔からの近所の友人 Bruce Johnston が
バンドでピアノを弾いた。Jan & Arnie は10月に全国放送の
The Jack Benny Program に出演し"The Beat that Can’t Be Beat"
を演奏した。その年の終わりには、Jan & Arnie の成功にもかかわらず
Arnie Ginsburg は音楽業界に幻滅していた。
自分の才能に疑問を抱き、それが彼の心に重くのしかかっていた
だけでなく、Sam Cooke とのツアー中に目撃した Sam Cooke の
薬物使用にも心を乱されていた。一般的に、Arnie は業界の
プレッシャーが嫌いで、大げさな宣伝に騙されることもなかった。
Arnie Ginsburg は自分の「本当の」将来を見据えて、
1958年末までに次のステップに進む準備ができていた。
移行をスムーズにするために、彼はプロデューサーの Joe Lubin に
最後の頼み事をした。Arnie は1959年1月に Arwin Records から
リリースされた The Rituals というグループの “Girl In Zanzibar”
という曲でリードヴォーカルを務めた (Arwin Records MM 120-45)
その後、Arnie は音楽業界を後悔することなく喜んで去り、
振り返ることはなかった。Jan Berry は友人の Dean Torrence に
音楽制作を続けさせ、Jan & Dean へとデュオは変わっていった。
Arnie は1959年5月にアメリカ海軍に入隊しが、その月は Jan & Dean
のデビューシングル “Baby Talk” (Dore 522) がリリースされた月だった。
Dore Records は Herb Newman と Louis Bideu によって
Era レーベルの子会社として1958年にハリウッドで設立された
新興会社だった。
Arnie は1961年2月に除隊するとロサンゼルスに戻り、さらに学問を
深める準備をした。サンタモニカ シティカレッジに入学し、その後
南カリフォルニア大学(USC)に転校した。そこで建築学部に入学し
自分の天職を見つけた。
Jan & Dean の成功の絶頂期、大学時代を通して Arnie Ginsburg
と Dean Torrence はUSCのクラスメートだった。
Dean Torrence はそこで広告デザインを学んでいた。
Jan & Dean の名声は Arnie を少しも動揺させなかった。
彼はロックンロールを聴くのをやめ、ジャズ音楽の熱狂者、
つまり "Jazzbo" になっていた。John Coltrane と Thelonious Monk
は彼のお気に入りのアーティストだった。1964年に Arnie Ginsburg に
The Beatles という新しいロックンロール現象を最初に紹介したのは
Dean Torrence だった。
Arnie は南カリフォルニア大学で工業デザインの学位を取得した。
文化交流プログラムを通じてロシアで職を得て (両親の祖父母はロシア人)、
米国政府の情報官を務めた。6か月後に米国に戻り、製品デザインに
携わった後、大成功を収めた建築家になった。
ここからが本件の説明になる。
Terry Melcher の盟友であり将来 The Beach Boys のメンバーとなる
Bruce Johnston は既に Arwin Records 上の Jan & Arnie に
深く関与しており、さらに Jerry Cooper とのデュオで
Bruce And Jerry - Take This Pearl / I Saw Her First
(Arwin Records 45-1003) を1959年7月にリリースした。
録音は同年の春に行われており参加したメンバーは
Bruce Johnston - composer, vocals, piano
Jerry Cooper - co-composer "I Saw Her First", vocals
Dave Shostac - saxophone
Sandy Nelson - drums
Harper Cosby - bass
Mike Deasy - guitar
Jerry Cooper は1956年5月にリリースされた Terry Melcher の母
Doris Day "I've Gotta Sing Away These Blues" の作者だ。
同じ1959年にも映画 "Ghost of Dragstrip Hollow" の挿入曲を
The Renegades - Geronimo / Charge (American International Records
A-45-536/537) としてリリース、Kim Fowley がプロデュース、
参加は Bruce Johnston, Nick Venet, Richard Podolor, Sandy Nelson
といったワンオフのセッションバンド。
Bruce Johnston は Sandy Nelson らと録音に参加した1960年の
The Gamblers "Moon Dawg!" (World Pacific Records X-815)
を皮切りに南カリフォルニアで成長していくサーフミュージックの
真っ只中にいつも居た。1962年1月に The Surf Stompers 名義で
Donna 1354 と Del-Fi Records 4202 の2枚の Surf Stomp 系の
ダンスシングルをリリースし、その勢いで1963年に Del-Fi から
The Bruce Johnston Surfing Band 名義でフルアルバムを制作した。
1964年になると Bruce Johnston は Terry Melcher とのデュオ
Bruce & Terry, The Rogues を始め、The Catalinas, The Hot Doggers,
The Kustom Kings, Bob Sled & The Toboggans, The Sidewalk Surfers,
The Reveres, The Vettes, そして The Rip Chords と様々な名義で
Surfin’ Hot Rod movement の下支えをしていた。
The Rituals のプロジェクトは既に1959年1月に Arnie Ginsburg
の引退に伴い終了していた。
しかし1964年に Surfin’ Hot Rod という時流に乗ろうと
Arwin Records は The Rituals という架空のユニットを復活させた。
恐らくそれはオーナーの Marty Melcher の息子の Terry Melcher の
画策であっただろう。The Rituals というプロジェクト
の再編に彼らのオリジナル曲で時流の Surfin’ Hot Rod に参加する
用意は充分にできていた。しかし実際には上記に羅列した多数の
覆面バンド、セッションユニット等の影響で、The Rituals の
再編プロジェクトは Kim Fowley が担当する事になり
彼は実際イギリスに渡って London で録音してきた。
その際にイギリス、ケント州のスワンリー出身の4人組バンドに
The Rituals と名づけトラックを録音し、当時カリフォルニアで
売れない俳優だった P.J. Proby をリードヴォーカルにしたのが
この新生 The Rituals だった。
Bernard Finch,Eddie Hayes,Bob Griffiths and Geoff Hughes.
Gone / This Is Paradise (Arwin Recotds MM-127-45)
1964年10月
A面が Bruce Johnston-Terry Melcher 作。
The Rip Chords でも再録音する有名曲。
B面は Bernard Finch 作で、イギリス、ケント州のスワンリー出身の
このイギリスバンド The Rituals のリーダー。
両面とも Kim Fowley がプロデュースを担当。
Surfer's Rule / Gone (Arwin Records MM-128-45 Promo only)
1964年12月
A面が Kim Fowley 作、B面は上記のファーストシングルと同じトラック。
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Kim Fowley |
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George Young (Sax player)
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George Young (The Easybeats) |
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13-23
Pierre & The Slopers - (Let's Go) Skiing
(7: Kapp Records K-637 Promo only) 1964
George Young がアレンジとコンダクトでクレジットされている。
この George Young には二つの説がある。
(注: Kenny Young の変名じゃないかという無茶な説もあるが。。。)
一つはフィラデルフィアのジャズサックス奏者。
この人は1937年7月10日生まれなので1964年には27歳で
60年代にニューヨークでセッションマンとして活動し、後には
Chevy Chase, John Belushi and Dan Aykroyd (The Blues Brothers) 他
多くの有能コメディアンを輩出したテレビ番組 Saturday Night Live の
バックバンド Saturday Night Live Band のメンバーとなる。
もう一つの説が The Easybeats の George Young である。
そもそもが The Easybeats は1964年後半にオーストラリアのシドニー
で結成されたがメンバーはオーストラリア、オランダ、イギリス、
スコットランドと出自が異なりバックボーンも異なる。
1964年6月に The Beatles がオーストラリアに訪れてから同地の
市場は一変する。Beat Music ムーヴメントの影響下でオーストラリア
からもそれ以降に良質なグループが登場するが1964年後半に
The Easybeats はギグを始めた程度で、本件シングルは
1964年12月に配布されている。
スコットランド出身の George Young だがこの時点で The Easybeats
はオーストラリアで最初の独立したレコード制作会社の 1 つである
Albert Productions と契約を結んでいない、即ちレコードデビューは
出来ていなかった。
もしこのクレジットの George Young があの The Easybeats メンバーで
オーストラリア最強のソングライターコンビ Vanda & Young
(Harry Vanda & George Young) と同一人物ならば、本人も
忘れてしまったような作品だろう。
作風も George Young の初期ビート作品に似てる。
因みにオーストラリアのスキーリゾートは日本の夏に楽しめる
人気のスポットである。
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Buzz Cason
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James Burton
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Leon Russell |
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13-24
The Eliminators - Classy Lotus Chassis
(LP: Liberty LRP-3365 mono / LST-7365 stereo) 1964
Buzz Cason が Liberty 内で予算を貰って作った企画盤
アルバムだが、案の定南部の友人達で固めている。
James Burton がギター、Leon Russell がキーボード、
Buzz Cason はリードヴォーカルを担当してる。
Chuck Berry の Duck walk でも始まるのかといった
James Burton のギターイントロで幕を開ける。
クレジットはないが恐らく Bobby Russell も参加してるだろう。
詳細は 3-6 を参照されたし。
Buzz Cason は Snuff Garrett のアシスタントとして
Los Angeles に出向いて1960年からソロシンガー
としてのキャリアーを確立しようとしており
彼は Liberty Records と契約し映画 "Circus Of Horrors"
の主題歌を変名の Garry Miles 名義でリリースした
"Look for a Star" が6月20日をピークに全米16位の
ヒットとなった。(注:綴りの異なる Garry Mills -
Look for a Star Part 1 Imperial 5674 は違うシンガーに
歌わせており、そちらのヴァージョンも6月20日を
ピークに全米26位のヒットとなる)
Bobby Russell と Buzz Cason が出会ったのは
そんな頃だった。Snuff Garrett のアシスタントだった
Buzz Cason は Bobby Russell と一緒に "Tennessee"
と言う地元を題材とした所謂御当地ソングを書いたところ、
その曲は Jan & Dean によってシングルカット
(Liberty F-55454) をされた。プロデュースは
Lou Adler, Snuff Garrett が担当しており、
この曲は1962年5月26日をピークに全米69位の
スマッシュヒットとなった。この手応えを得た Buzz Cason
と Bobby Russell は West Coast の Youth Culture
を意識したサウンドを作り始める。
Buzz Cason と Bobby Russell はソングライターや
録音ユニットとして 1963年から Hit Recordsに参加する。
Bobby Russell はセッションシンガーとしても参加し、
そこで作られていったサウンドは後に Buzz Cason や
Bergen White らと外部から参加した Ronny & The Daytonas
へと発展する。
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Billy Harner |
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13-25
Billy Harner and The Expressions - Coney Island Wild Child
(7: Lawn 244 Promo only) 1964
1963年に Gary Usher がアセテート盤に残した
デモヴァージョンの歌がある。この曲は "Coney Island Wild Child"
という歌で Gary Usher-Roger Christian が作者として
クレジットされている。この曲は Gary Lee Usher-Roger Val Christian
名義で BMI に登録された。ゲイリーの歌うこのヴァージョンは
かっこいいアップテンポロッカーでニューヨークのロングアイランド
にある名物遊園地コニーアイランドをテーマにしている。
間奏部分でも Freddy Cannon の1962年大ヒット
Palisades Park を意識したオルガンフレーズが入り、また以前
Brian Wilson と共作した "County Fair" と同様にアミューズメント
パーク路線を踏襲したものだった。ハンドクラッピングの
ビートが入ったこの傑作はエンディングでも3部コーラスを
導入させるなど完成度の高さを誇る。
この "Coney Island Wild Child" はテーマからして東海岸側から
オファーの入りやすい曲で、もしくはオファーが入りその後に曲が
書かれたのだろうか。曲そのものは "Nifty Fifty" や
"Little Stick Nomad" をプロトタイプにした様なワイルドなフレーズ
をつなぎ合わせた曲で、ゲイリー自身もこの曲によって次なる
テーマミュージックを模索していたように思える。Brian Wilson
より年上の Gary Usher は元々自身のアイドルが50年代後期
のロッカーだった為に、かっこいいロッカーチューンも書ける
ソングライターであった事を改めて知る作品だ。
しかし何故かお蔵入りになっていたこのアセテートオンリーの
曲が東海岸の Philadelphia と Boston の二つのグループに
よって録音されシングルカットされた。
先ずは1964年に Billy Harner and The Expressions により
Coney Island Wild Child / Feel Good (Lawn 244) がリリースされた。
これはいまだプロモ盤しか確認されておらず、恐らく販売には
至っていないと思われる。
また1968年には Boston の The Myst が Coney Island Wild Child
/ I'm Crying (Open 1252) をリリース。15-38を参照。
"The Human Percolator" としてノーザンソウルシーンで高い人気を
誇るニュージャージー州出身のブルーアイドソウルシンガー
Billy Harner だが、彼のデビューバンドが
Billy Harner and The Expressions だった。
ここで Billy Harner はかっこいいロッカースタイルで歌う。
プロデュースは当時 Swan でソングライターコンビを
組んでいた Debbie Foster and Walter Gates だった。
The Myst のヴァージョンも基本的に同様のかっこいいロッカースタイルで
アレンジもほぼ同じであるがB面のファズガレージが
凄まじいので中古市場での人気は The Myst に軍配が上がる。
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Little John And The Sherwood Men
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Bill Berg |
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13-26
Little John And The Sherwood Men - Movin' Out
(7: Bangar BA 00608) 1964
Minnesota 州 Hibbing の Surf Garage band で、後に
同じ Minnesota 仲間である Bob Dylan の名作アルバム
"Blood on the Tracks" にも参加したドラマーの Bill Berg が
若い頃に所属していた。Minnesota 州 Minneapolis を本拠に
する Bangar は当時多くの Garage band のシングルをリリース
したが、海を持ってない五大湖周辺は無いものねだり的に
Surf music が発展しており、ギター リバーブを効かせた
サウンドが同地のクラブで受けたのだろう。
本件シングルは Surf rocker の隠れた逸品である。
Members are
Rick Sundvick - Lead Guitar
John Hamilton - Rhythm Guitar
Jerry Phillips - Bass
Bill Berg - Drums
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Paul Williams
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The Chancellors |
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13-27
Paul Williams And The Chancellors - Summertime Love
(7: Astra Records 3002) 1964
俳優でシンガーソングライター Paul Williams
(本名 Paul Hamilton Williams Jr.) のデビューシングルで当時24歳。
The Chancellors をバックに従えているが、サックス奏者
Patrick Gagnebin は Bruce Johnston を一躍有名にした1963年の
Del-Fi アルバム "Surfers' Pajama Party" で演奏を務めた
The Centurians のメンバーだった人物。
The Chancellors members are
Tracy Longstreth, Lee Rengert, Gary Metz,
Mickey Daniels, Tom Potts, Pat Gagnebin.
Tom Potts は当時19歳でグループリーダーだった。
もう一人のサックス奏者 Dave Garland が参加することもあった。
大陸横断鉄道の連節点として発展した治安の悪い田舎町
ネブラスカ州オマハ出身の Paul Williams だが、The Chancellors の
シングル Astra Records 3001 と本件シングル Astra Records 3002
の2枚で閉鎖したローカルレーベルからリリースされた。
当然ながら音の悪い Lo-Fi recordings なので、アマチュアガレージや
地下室録音、自主盤ファン等のその手の非商業音楽主義の
Lo-Fi コレクター達から高い評価を得ている。
Paul Williams には二人の著名な兄弟がいる。
ひとりはNASAのロケット科学者のJohn J. Williams で
マーキュリー計画とアポロ計画に貢献したとして1969年に
NASAからディステングイッシュト・サービス・メダルを授与されている。
もうひとりは Dobie Gray のヒット曲 "Drift Away" の作者の
Mentor Ralph Williams である。
Paul Williams は Mentor Williams (rhythm guitar, vocals),
元 Jefferson Airplane の Bob Harvey (bass guitar, vocals),
Hanna-Barbera のアニメーターで元 The Crossfires / The Turtles
のドラマー Don Murray (13-03 Dave Del Conte And The Castaways -
The Lonely Surfer も参照) らとポップサイケバンド The Holy Mackerel
を結成し、1968年に Reprise からアルバム1枚をリリースした。
Paul Williams はロサンゼルスでカルト人気の高いコメディアンで
シンガーソングライターの Biff Rose の元でプロの作曲家としての
キャリアをスタートさせた。二人はテレビのコメディ番組で
共演しているときに初めて出会った。
この二人は一緒に "Fill Your Heart" という曲を作曲し、Biff Rose は
これを最初のアルバム「The Thorn in Mrs. Rose's Side」に収録した。
Tiny Tim は1968年の彼のヒット曲 "Tiptoe Through the Tulips"
のB面でこの曲をカヴァーした。
David Bowie も1971年の彼のアルバム「Hunky Dory」で
この曲のカヴァーヴァージョンを録音している。
Biff Rose は Paul Williams が A&M Records でブレイクする
きっかけを作り Paul Williams は作曲家 Roger Nichols と仕事を
することになった。彼らは、1970年代のヒットポップソングを数多く
手掛けており、特に"We've Only Just Begun"は、もともと
Crocker National Bank の新婚夫婦をフィーチャーしたテレビ
コマーシャルの曲だったが、その後、カヴァー曲のスタンダードとなり、
北米全域で結婚式に欠かせない有名曲となった。
Roger Nichols との初期のコラボレーション曲 "Someday Man" は
Davy Jones が歌って The Monkees(Paul Williams がオーディション
を受けたが不合格だったグループ)によってカヴァーされた。
1969年のシングル "Someday Man" は業界広告で大々的に宣伝され、
プロモーションシングルの「宣伝面」に指定され、
ビルボードチャートで81位を記録した。メンバー Michael Nesmith の
オリジナルのカントリーロック "Listen to the Band" は当初B面扱いで
アイドル人気の Davy Jones ではなく、グループの脱アイドル化と
自主性をアピールしていたMichael Nesmith が初めてリードヴォーカルを
担当した曲だった。その後ラジオDJ達は次第にB面を好むようになり、
Colgems はそれに応じてピクチャースリーブをアップデートし
"Listen to the Band" をA面に載せ、シングルはビルボードチャートで
63位に達した。職業作家から提供される曲を嫌った The Monkees によって
この名曲 "Someday Man" はそのような皮肉な運命を背負う事になった。
作曲家 Roger Nichols とのコンビで Carpenters の一連のヒット曲を
書き、オスカー、グラミー、ゴールデングローブ賞を受賞した
ソングライターの Paul Williams は、アメリカで最も多作で才能のある
作詞家および作曲家の一人として知られている。
子供向けの名作 The Muppet Movieの "The Rainbow Connection" は、
アメリカ映画協会の歴代映画主題歌リストに選ばれた Paul Williams の
2曲のうちの1曲で、2曲目の "Evergreen" は
Barbra Streisand/Kris Kristofferson の"A Star Is Born"
スター誕生の愛のテーマだ。その他の曲のスコアには、カルト的な人気を
誇る "Phantom of the Paradise" や "Ishtar"、
さらに"The Muppet Christmas Carol" や "Bugsy Malone"
郎がある。
また特筆すべき Paul Williams のもう一つの才能として役者がある。
彼は1965年にコメディー映画「The Loved One」で俳優デビューし
その個性的なキャラクターで数多くの映画に出演している。
最後の猿の惑星 Battle for the Planet of the Apes (1973年)
ファントム・オブ・パラダイス Phantom of the Paradise (1974年)
トランザム7000 Smokey and the Bandit (1977年)
名探偵再登場 The Cheap Detective (1978年)
トランザム7000VS激突パトカー軍団 Smokey and the Bandit II (1980年)
トランザム7000 PART 3 Smokey and the Bandit Part 3 (1983年)
ドアーズ The Doors (1991年)
幸せのルールはママが教えてくれた Georgia Rule (2007年)
バレンタインデー Valentine's Day (2010年)
ベイビー・ドライバー Baby Driver (2017年)
弁護士ビリー・マクブライド Goliath (2018-2019年)
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The Plagues |
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13-28
The Plagues - That'll Never Do / Badlands
(7: Quarantined Record Co. 41369-A/B) 1965
Michigan 州の州都 Lansing 出身のガレージバンドが
残した Surf style のレアシングル。
このティーンバンドは後にハリウッドで成功した映画監督の
William Malone がヴォーカリスト兼ソングライターとして
在籍していたことでも有名。
彼は長年SF、ホラー関係のTVや映画の製作に携わってきた
アメリカの映画監督、脚本家、特殊効果コーディネーターで
少年時代から8mm映画を撮るほどの、根っからのSF&ホラーマニア
として知られ、これまで手がけた作品もB級ホラーやSFものが
ほとんどである。
本件シングルは彼らのデビューシングルで1965年に
Quarantined レーベルからリリースされたが、このレーベルは
地元 Fenton Records の節税用の虚飾レーベルでる。
口笛を配した哀愁のガレージバラードで、若き William Malone の
才能が伺えるナンバーだ。B面はホラー風味のサーフインストで
冒頭に風の効果音を控えめに挿入する等のアイディアも確認できる。
Members are
William Malone on lead vocals and bass
Van Decker on lead guitar
James Hosley on rhythm guitar
Phil Nobach on drums
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13-29
Barbara Hess - (Just Another) Summertime Girl
(7: Scotty SR-65) 1965
絶大なカルト人気を誇るダブルサイダーシングルのレア盤。
まあ Garage / Psych 愛好家であればレーベル名を見て
直立不動になるだろう。今や世界中の 60s Garage band の
頂点に立つ The Litter の関連シングルである。
本件 Barbara Hess とは当時の Warren Kendrick のガールフレンド
である。Warren Kendrick (本名 Warren Dudley Kendrick) は
The Litter や The Electras のマネージャーでプロデューサー、
ソングライター、そして彼らバンドが所属した Scotty や
Warick, Hexagon といった御当地 Minnesota 州のローカル
レーベルのオーナーだった。
このシングルの凄いところは A面で Wall of sound 風で
Jackie Trent style のノーザンソウルチューンを収録し、
B面で The Carolyn Hester Coalition のような
趣の Obscure psych rock を聴かせるところだ。
最も特筆されるべき点は、1965年という早い段階で、アメリカ北部の
ローカルスタジオが低予算によって当時最先端のサウンドに
Lo-fi なりに挑戦したという事。しかもガールフレンドを使って
したのだからそれを考えると Warren Kendrick の才気が伺える。
1964年に開設された Minneapolis の Dove Recording Studio で
働いていた Warren Kendrick はスタジオオーナーだった David Hersk
から Lake Street Studio を購入して 1967年に独立した。
The Litter の 1st album "Distortions" は Dove Recording Studio
と Lake Street Studio で録音したトラックで編集されている。
と言うことは本件 Dove Recording Studio で録音されたと考える
べきだろう。
本件この録音に参加した Gary Leech から教えてもらった。
御当地ミネソタのガレージバンド The Victors のドラマーだった
Gary Leech だが彼が本作品のティンパニとドラムを担当、
Warren Kendrick はギターを担当したが、この独特のサウンドのために
ピアノの弦を弾いた。
レコードデビューしていなかった The Victors だが、Warren Kendrick は
The Victors の幾つかのメンバー達を利用して The Scotsmen 名義で
Beer Bust Blues / Scotch Mist (Scotty 803G-1051) をリリースした。
これが Warren Kendrick にとって初めての商業用のレコーディングだったと
Gary Leech は言う。なのでバックの録音サポートメンバーは
The Scotsmen こと The Victors という事になる。
なお The Victors のメンバーでベース奏者の Jim Kane は
The Litter のアルバム $100 Fine (Hexagon HX 681) と
Emerge (Probe CPLP-4504-S) でもベースを担当しており
Emerge ではプロデュースも担当した。さらに Jim Kane は
$100 Fine 収録の名曲 "Mindbreaker" と Emerge に収録された
"Feeling", "Silly People", "Blue Ice", "Future Of The Past"
の4曲を書いた。
参考までにメンバーを記述する
The Victors members
Dan Dailey, Gary Leach, Terry Knudsen, Jim Kane
The Scotsmen members
Dan Dailey, Gary Leach, Terry Knudsen, Jim Kane,
Pete Lokken, Warren Kendrick.
The Victors と The Scotsmen の音源は私の友人の
Erik Lindgren (Arf! Arf! のオーナー) がリイシューし1993年に
Get Hip Recordings からリリースされている。
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Warren Kendrick |
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Eden Ahbez |
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13-30
Nature Boy & Friends - Surfer John
(7: Bertram International Records 45-225) 1965
Nature Boy こと Eden Ahbez のレアシングル。
恐らくバックのガールグループは同じレーベルの The Tilton Sisters
と思われる。プロデュースはレーベルオーナーの Bob Bertram
が担当している。Eden Ahbez はソングライターとして
1940年代から長いキャリアーを有しており、彼が書いた
"Nature Boy" は Nat "King" Cole が歌って1948年に全米1位
の大ヒットとなりポピュラー&ジャズスタンダード化された
名曲だ。"The greatest thing you'll ever learn Is just to love and
be loved in return" 「あなたが今までに学んだ最大のこと
愛し愛されることだけだ」 Eden Ahbez 自身が近代化する社会を
揶揄し、その哲学的でミステリアス歌詞同様に自然を愛する
ヒッピーとしてのライフスタイルを実践し、彼は California の
Hippie movement に多大なる影響を与えた。それは彼の
ルックスを当時のヒッピー達が標榜した事からも解る。
それは彼が1960年にリリースしたカルトなアルバム
"Eden's Island" (Del-Fi 1211) からも伺えるが、恐ろしい事に
本件シングルは Surfin’ movement 末期の1965年である。
1960年代後期にベトナム戦争への抗議としてヒッピー化した
Surfer を先取りしたでもなく、世俗化した若者のスポーツ
カルチャーを使って見事なダンスチューンに仕上げている。
もはやここまでくると哲学の世界観なしでは楽しめない (笑)
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Gary Williams
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The California Suns (Ex The California Sons) |
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13-31
The California Sons -
I'm Gonna Get Some Love / (Baby Please) Dance With Me
(7: Coastline 1001) 1965
詳細は Little Bit Of Heaven - Gary Williams Story
を参照されたし。
Gary Williams は著名なロックンロールシンガーソングライターで
ピアノプレイヤーである Merrill Moore を叔父に持つ。
Gary Williams は San Diego を中心に友人達とバンドを結成た。
彼らは名うてのプロモーションマンだった Mike Borchetta に
見出され、彼が節税の為に設立したと思われる
Coastline Records と契約した。Mike Borchetta は初期の
Gary Usher のソングライティングパートナーとしても知られる
辣腕 A&R マンで Gary Usher と袂を分かれた後にこのレーベル
を設立していた。そのレーベルがスカウトした初のアーティストが
彼らで、1965年後半に本件でデビューした。
これは両面とも Gary Williams が書いた曲で、
当時の西海岸の若者達のカジュアリティーを描いた
サマーポップの傑作シングルだ。
特に A面は同じ San Diego の The Cascades "My Best Girl"
のメロディーを引用したサマーポップの隠れた名曲だ。
パースペクティヴな都会の透視図を見渡す事よりも、喧騒から
離れた部屋でこの曲を聴く事の方が、素敵な事だと私は気付かされた。
プロデュースは両面とも Mike Borchetta & Friedman が担当した。
録音メンバーは
Gary Williams - Vocals, Guitar
Don Weck - Vocals, Bass
Jim Hombs - Vocals, Keyboard
Steve Binghan - Lead Guitar
Bob Reiger - (Session のみ Drums)
John Buell - Drums
上記の Bob Reiger はセッションと数回のギグだけでドラムを
担当したが録音の時には John Buell がドラムを担当している。
また上記の Jim Hombs, Steve Bingham, John Buell の3人は
Rocky Lucia を加えた The Sensations (Jamie and The Sensations)
のメンバーでもあり California Sons と掛け持ちでプレイしていた。
彼らはその後 The Sons という短いグループネームにし
Coastline で最後のシングルをリリースした
The Sons - Cry Baby / I'm Gone (Coastline 1001) の音源は
彼らのマネージャーによって Warner Bros と取引がされ
Magic Mushroom 名義で1966年に再リリースされる。
Magic Mushroom - I'm Gone / Cry Baby (Warner Bros 5846)
そして改めて編成されたメンバーは San Diego の
The Lyrics (So What!! や Mr.Man が有名) からメンバーの
Michael Allen, Chris Gaylord の参加があり下記の5人編成となる
Gary Williams, John Buell, Sonny Casella, Michael Allen, Chris Gaylord
しかし Gary Williams はこのセッションバンドである再編成された後の
Magic Mushroom では Michael Allen, Chris Gaylord に会った事はない。
即ち The Lyrics と合体した新生 Magic Mushroom と California Sons
を本体とする Gary Williams のバンドは同じ名前の下に別行動を始めた。
新生 Magic Mushroom はその後 A&M と契約し Nuggets にも収録された
It's A Happening / Never More (A&M 815) を1966年にリリース。
これは1966年11月12日ピーク:全米93位のスマッシュヒットとなる。
このリリースの際 Magic Mushroom から Magic Mushrooms にクレジットを
統一させている。ややこしい事に同時期にフィラデルフィアにも同名の
Magic Mushrooms が存在したが、彼らは同じグループではない。
Gary Williams らは Liberty Records と契約し傘下の Imperial Records の
所属となった際に California Suns と名を改めた。
Carol Connors-Roger Christian は元々 Jan & Dean に歌わせるために
"Masked Grandma"というサーフィンポップを書いた。
この曲は Jan & Dean の1964年の大ヒット
"The Little Old Lady From Pasadena"のカウンターソングだった。
彼らはプロのセッションミュージシャン達と初めて作業し
「これでバンドにサクセスが訪れる」と期待した。
彼らが歌った Masked Grandma は当時 Smuckers Jam の
コマーシャルソングとしても使われて好評を得た。
しかしこの録音後に当初から Gary Williams のバンドメンバーだった
Steve Bingham と John Buell の2人は Vocal を Rocky Lucia、
Drums を Fred Sanipoli にした第2期であるステージバンドの
Magic Mushrooms に参加。そして2人は San Diego に戻り改めて
The Lyrics に参加する。元々 The Lyrics は San Diego では古典的な
バンドでオリジナルは1959年の結成だ。
このバンドは時期によってメンバー編成が異なるが Michael Allen、
Chris Gaylord 在籍時に Magic Mushrooms と接点を持った。
彼らは後に Love Special Delivery と名を変えている。
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Moss & The Rocks |
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13-32
Moss & The Rocks - There She Goes / Please Come Back
(7: Ikon 181/182) 1965
(7: Chattahoochee CH-703-1/2) Jan 1966
彼らはアンラッキーなグループだった。
California の州都 Sacramento で1964年に結成された
The Jaguars というサーフインストバンドが彼らのスタートだった。
間もなくして British Invasion とそのカウンターリアクションで
Folk rock movement が押し寄せてきた。彼らはヴォーカルが
必要と考えて1965年に Moss & The Rocks (コケと岩) という
日本人好みのワビサビ系のグループ名に改名した。
彼らのマネージャー Gary Schiro は他に The New Breed
(Timothy B. Schmit 在籍、後の Glad, Redwing) と
The Oxford Circle (後に Blue Cheer や Kak に参加する Paul Whaley,
Gary Yoder, Dehner Patten が在籍) の二つのバンドも管理しており
Los Angeles にも顔が利いた。Moss & The Rocks はバンドコンテスト
で優勝し地元の Sacramento に小さなレーベルを持つ Ikon Studios で
無料で録音できる権利を得た。西海岸の Teen band は当時
Surf harmony から12弦ギターの Folk Rock へと変化を
迫られており、上手に Surf harmony と Folk Rock を
ブレンドできたバンドは稀有な存在だった。
何故なら曲を書く側からすると開放的で快楽的な Surfin’ という
テーマと、内省的でメッセージ性の強い Folk Rock では
歌詞が相反する。しかもシンプルな求愛ソングを Folk Rock
で歌うことは当時最もダサいことだった。
しかし音楽の様式美において Surf 系のリバーブの処理次第
では Folk Rock と融合できた。それ故にローカルスタジオ
の Lo-fi sound でそれを実現しようと試みた人達は少なかった。
しかし彼らが初めて書いたヴォーカル曲
There She Goes / Please Come Back はシンプルな求愛ソングで
1965年にシングルリリースされた (Ikon 181/182)
これはその後 Chattahoochee Records に買い取られた際に
Stan Ross プロデュースの下 Hollywood の名門 Goldstar studios で
再録音された。後に Fifth Dimension "Up, Up And Away" でも名をあげた
Norway 出身のエンジニアー Eirik Wangberg (AKA Eirik The Norwegian.
このニックネームの名付け親は Paul McCartney) がセッション録音
を担当している。1966年1月に Chattahoochee CH-703 で
再デビューとなった彼らだが、これは時代の息吹を見事に閉じ込めた
Surf Style Folk Rock の稀有な例となった。
特に "Please Come Back" は充分にエコーを利かせた
Beach Boys "Surfer Girl" meets Beatles "Ticket To Ride"
といった趣の逸品で、Garage band mania のみならず
Surfin' & Hot Rod mania を喜ばす内容だった。
当時 Bruce Johnston & Terry Melcher は自らのプロダクション
Equinox Production を設立し、大手レコード会社と契約を結ぼうと
目論んでいた。そのために曲を書ける人材を探しており The Beach Boys
メンバーとして Bruce Johnston 訪英時期にスカウトしたのが Grapefruit で、
アメリカに残っていた Terry Melcher がスカウトしたのが The New Breed と
Moss & The Rocks であった。Terry Melcher は彼らにアルバム録音が
出来るだけのたくさんの曲を書かせた。イメージチェンジをするべく
Public Nuisance と名を改めた Moss & The Rocks、そして Glad と名を
改めた The New Breed だが、彼らのデビューは大事件に巻き込まれる。
Equinox Production は1968年に ABC Records 傘下となった
新興レーベル Dunhill Records にも話を持ちかける。運良く Grapefruit は
ABC Dunhill から、そして Glad も Equinox Production の下
ABC Records からアルバムリリースを果たしたが
その頃から Equinox Production に暗雲が立ちこみ始める。
既に Gary Hinman と Donald (Shorty) Shea 殺害疑惑で有罪となっていた
ヒッピーコミューンの教祖 Charles Manson だが、
Charles Manson と交友が深かった The Beach Boys の Dennis Wilson は
1968年に当時シエロドライヴ10050番地に住んでいた Terry Melcher
を紹介した。間もなくして Charles Manson は女優 Sharon Tate 宅
に押し入り彼女を殺害してしまった。すぐさま Terry Melcher は
重要参考人として検挙され24時間体制でFBIから監視される状況に陥った。
そのために Equinox Production の運営計画は中止されてしまい
資金難となり一時閉鎖されてしまった。
Terry Melcher の父 Marty Melcher は当時 Gentle Soul (Columbia / Epic)
のマネージメントも行っていた。しかし彼が前もって投資していた
Monterey Pop Festival は財政を悪化させた。これは家族の財政にも
打撃を与え、Terry Melcher の母親 Doris Day はすでに映画女優を
引退し始めていたのだが、Terry Melcher が代表取締役となり
"The Doris Day Show" (CBS TV) のテレビプロデューサーとなって
前払い放送料で財政再建を目指す事になった。
このトラブルにより、Public Nuisance によって録音されていた
多くのトラックは当時はリリースされなかった。それらは
近年リイシューされ彼らは改めて評価された。
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Public Nuisance (AKA Moss & The Rocks) |
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Attila And The Huns |
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13-33
Attila And The Huns - Cheryl
(7: Sara J-65111) 1965
ハーレーダビッドソン (Harley-Davidson) の聖地でもある
Wisconsin 州は五大湖の二つの湖(ミシガン湖とスペリオル湖)
に面してるが海を持ってない、波乗り Surfer に用がない土地である。
Curt Boettcher の出身地としても知られる同州は他の五大湖周辺
の州と同じで、無いものねだり的に Surfin' garage band を排出する。
本件 Attila And The Huns もそんな Wisconsin 州の local surf band だ。
彼らは地元のダンスやクラブサーキットでかなりの人気を博し、
最終的には自己資金によるシングル Cheryl / The Lonely Huns
を Sara レーベルからリリースした。
A面はリードシンガーの Mike Peace が書いたメロディアスな
サーフスタイルのバラード。B面は Moody surf inst の隠れた逸品で、
こちらもマニア人気が高い。彼らのこのデビューシングルは
地元ではそこそこ評価を得たがローカルシーンでしか名を馳せる
事もなく、1967年バンドは地元のバトル・オブ・ザ・バンド・コンテスト
で2位になった。これによってビジネスマン、プロデューサーの
Lennie LaCour に注目された彼らは Lennie LaCour 所有の
Magic Touch Records から2枚のシングルをリリースした。
そのうち1969年にリリースした The Vinyards Of My Time /
Here's Where I Get Off (Magic Touch Records 2071) によって
Chess Records に興味を持ってもらうことに成功し、
Lennie LaCour はバンドの Chess Studios でのいくつかの
レコーディングセッションに資金を提供し、アルバム用カバーアート
を作成した。しかし当時 Chess Records はアルバムをリリース
したくなかったので、Lennie LaCour は Chess からライセンス権
を購入した。カラーカバーの費用は Lennie LaCour の予算を
上回っていたが、そこで彼は、グループの名前を Filet Of Soul に
変更するようバンドを説得し、1969年に LaCour の Dynamic Sound
レーベルから Blue Eyed Soul シングルを1枚リリースし、これは地元
Wisconsin 州でローカルヒットとなった。LaCour は同年 Chicago に
本拠を置く彼の小さな Moniquid Records でアルバム Freedom に
資金を提供し1970年にサイケデリックアルバム
Filet Of Soul - Freedom (Moniquid Sound Records ST-4857)
がリリースされた。アルバムカバーは白黒になり、古い写真の上に
新しいバンド名 Filet Of Soul が印刷された。
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John Sebastian
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Felix Pappalardi
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Jerry Yester |
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13-34
Pooh And The Heffalumphs -
Lady Godiva / Rooty Toot
(7: Laurie LR 3281 Promo only) 1965
Pooh And The Heffalumphs このふざけたユニット名は
A. A. Milne 作の有名童話、ディズニーキャラクターでおなじみの
Pooh (くまのプーさん) と、登場する架空のキャラクター
Heffalumps からもじって "h" を入れた The Heffalumphs だ。
イギリス英語の原語発音は「ヘッフォラン」で、象を意味する
名詞「エレファン」に無声のHが付いた類似音になる。
日本語訳では象をイメージさせるズオウズオウ、ゾゾの二つがある。
で、この架空のユニットの正体は The Lovin' Spoonful として
デビューする前の John Sebastian、そして Jerry Yester と
Felix Pappalardi だ。1964年に録音され、1965年初頭に
プロモ盤のみ配布されたのだが The Lovin' Spoonful の
デビューシングル "Do You Believe in Magic" のセッション
よりも前に録音されている。因みにB面の “Rooty Toot” は
1971年にリリースされた John Sebastian のソロライヴアルバム
Cheapo-Cheapo Productions Presents Real Live
(Reprise Records MS 2036) にも収録された歌である。
本件シングルは The Modern Folk Quartet の Henry Diltz が
バックコーラスで参加、そして The Coasters, The Monkees や
The Lovin' Spoonful のセッションドラマーの Gary Chester が
参加しているので、このユニットの面子から多くの事が解る。
Lead Vocals John Sebastian & Jerry Yester & Felix Pappalardi.
Background Vocals Jerry Yester, Henry Diltz, John Sebastian,
and a hired Bass singer
John Sebastian - Guitar
Jerry Yester - Guitar
Felix Pappalardi - Bass & Organ
Gary Chester - Drums and Boo-Bams
両面ともプロデュースは Erik Jacobsen が担当しており
彼は The Lovin' Spoonful, Tim Hardin, The Charlatans,
Sopwith Camel, Norman Greenbaum, Chris Isaak らの
プロデューサーやマネージャーとして有名だが、
元々は Folk Musician だった。彼は1940年5月19日に
Illinois 州 Oak Park で生れた。高校卒業後1962年には
Bluegrass band の The Knob Lick Upper 10,000 を結成し、
New York の名門 Folk Club である The Bitter End coffee house
で演奏し、彼らは1962年と1963年に2枚のアルバムを
リリース、Carnegie Hall で演奏した最初のフォークおよび
ブルーグラスアーティストの1人であった。
Erik Jacobsen は1964年に The Beatles を聴いた後、
The Knob Lick Upper 10,000 を辞め、Folk Music と電気楽器や
ドラムを組み合わせたレコードを制作しようと考えた。
New York に戻ると、すぐに同様の考えを持つ John Sebastian
に会い、彼らは Jerry Yester, Zal Yanovsky, Jesse Colin Young,
Cass Elliot, Denny Doherty を含む他のミュージシャン達と
協力し始めた。Erik Jacobsen はこれらのミュージシャン達の
さまざまな組み合わせのさまざまな Folk Rock Style の
プロトタイプをデモとして制作し、その一部は1966年の
Elektra のアルバム What's Shakin' に収録され、その他の音源は
1999年のコンピレーション The Magic Circle に収録された。
John Benson Sebastian はハーモニカ奏者としても有名な
John Sebastian Pugliese を父に持ち、1944年5月17日に
New York 州 Greenwich Village で生れたので、本件は
彼が20歳の頃の作品だ。
彼は The Lovin' Spoonful の設立メンバーだが、Jug Band
(ジャグ - 瓶、ウォッシュボード - 洗濯板、
ミュージカルソー - ノコギリ、カズー- ストーブの煙突、
櫛、ティッシュペーパーを使ったもの、
ウォッシュタブ・ベース - 洗濯桶とモップから作ったベース、
スプーンなど身の回りにあるものから作られた手製の楽器を
多く使うのが特徴で、20世紀の初めごろにアメリカ合衆国
南部の地域で興った音楽バンドの形式) と Blues Music の
影響を受けて、それらをポピュラー・ミュージックの形式に
作り直すというアイディアを基に The Lovin' Spoonful は
1964年に結成された。
The Lovin' Spoonful のオリジナルの4人編成は
John Sebastian (guitar, harmonica, autoharp, vocals),
Zal Yanovsky (guitar, vocals), Steve Boone (bass guita),
Jan Carl (drums) で構成されていた。
John Sebastian と Zal Yanovsky がバンドを設立する前、
二人は Greenwich Village の Folk Music Sceneで活動しており、
Steve Boone は Greenwich Village で最初のロック・グループの
一つである The Sellouts のメンバーだった。
Jan Carl はグループで一度だけライブ出演しただけで
1965年初めに解雇され、後任には同じく The Sellouts の
元メンバーであるドラマー兼シンガーの Joe Butler が就任した。
1966年5月に Zal Yanovsky と Steve Boone がマリファナ所持で
サンフランシスコで逮捕されてから、グループ内で緊張が高まった。
Zal Yanovsky が母国カナダに強制送還されるのを避けるため、
二人は当局に麻薬の供給源を明かしたが、この行為により
The Lovin' Spoonful 内でのバンドの評判は地に落ちた。
12月に広く報道されて以降、西海岸のカウンターカルチャーが
急成長した。芸術的方向性をめぐる意見の相違により、グループは
1967年5月に Zal Yanovsky を解雇し、後任にはプロデューサー
であり The Modern Folk Quartet の元メンバーである
Jerry Yester が就任することになる。
1943年1月9日に Alabama 州 Birmingham で生れた
Jerry Yester は The Modern Folk Quartet から The Association の
設立メンバーとなる Jim Yester の弟で、彼自身も
The Modern Folk Quartet のメンバーだった。彼は女流シンガー
ソングライターの Judy Henske と結婚した事でも知られる。
彼は子供の頃、家族が California 州 Burbank に引っ越したので
そこで育ち、兄の Jim Yester とデュオ The Yester Brothers を
結成し Los Angeles の Folk Club で歌っていた。
その後 Jim Yester が軍隊に入隊すると、Jerry Yester は
Randy Sparks が1961年に結成した大所帯 Folk Group の
The New Christy Minstrels に加入した。
彼はセッションミュージシャンとしても優秀で、ピアノ奏者
として1965年に The Lovin' Spoonful のデビューシングル
"Do You Believe in Magic" にも参加した。
Felix Pappalardi は1939年12月30日に New York 州
の Bronx で生れた。Mountain, Cream, 日本の Creation 等
ハードロックのプロデューサーとして有名だが、彼のキャリアの
スタートは Greenwich Village の Folk Music Scene だった。
1964年にミシガン大学在籍中だった彼は
Max Morath's Original Rag Quartet (ORQ) のメンバーとして、
他の数人のミュージシャン達とともに New York の名門 Jazz Club
の Village Vanguard で初共演した。彼は学業を終えて New York
に戻るが、仕事を見つけることができなかったので、Greenwich Village
の Folk Music Scene の一員となり、そこで彼は熟練した編曲家として
名を馳せた。彼は Elektra Records の Tom Paxton, Vince Martin,
Fred Neil のアルバムにも参加した。
ケネディ大統領暗殺事件は、1963年11月22日金曜日、
現地時間12時30分に Texas 州を遊説中の現職の第35代
アメリカ合衆国大統領 John F. Kennedy が Dallas 市内を
パレード中に銃撃され、死亡した暗殺事件である。
これが原因で1964年初頭から全米では自粛ムードが広がり
とりわけ音楽業界、レコード産業ではラヴソングや
ハッピーソング、ダンスソングの類を大手メジャー会社達は
リリースをキャンセルする。それがあって、当時リリース
予定ですでに録音されていたトラックはそのまま埋没したり
時期を変えて後年リリースしようにも、当時の流行の変化や
録音技術の進化が早かったので、曲のテーマによって
ふるいにかけられた。当然、メジャーはリリースに向かって
慎重になっており、1964年夏以降から市場が徐々に回復を
していたが、以前のようなバカ騒ぎ的な流れではなかった。
上記のプロフィールと本件リリースのタイミングを考慮すると
このふざけた名前の架空のユニットが、メッセージ色が濃い
Folk Music Scene にいた当時の若者達のプロダクションで
あったにも関わらず、下火になっていた西海岸サウンドの
代名詞となった Surfin’ Music の影響下であった事が
伺えるサウンドとなっているのが興味ぶかい。
海岸部限定テーマの Surfin’ Music から全国区テーマである
Hot Rod / Car song の Hot Rod Music と表装を変えたのが
1964年頃であるが、やはり当時の全米の若いミュージシャン達
がやってみたいのが Surfin’ / Hot Rod Music 特有のサウンドである。
東海岸側が西海岸の流行を揶揄する場合でさえ、そのサウンドスタイルに
取り込まれてしまうという、言わば「歌謡曲」というモンスターが
アメリカに突如進出し、豊富な栄養を得て強大化している様でもある。
それでも New York 産の土性骨である Doo-wop という
スピリットは忘れていないのだから、いやはや凄まじい
カウンターカルチャー物件である。
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Erik Jacobsen |
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Danny Hutton |
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13-35
The Creations IV - Dance In The Sand
(7: Hanna-Barbera Records HBR 440) 1965
アイルランド出身の Danny Hutton が家族で Boston に
引っ越してきたのが1947年だった。
彼は1960年代に Los Angeles へ移住し、1964年にA&Mレコードで
オーディションを受け音楽活動を盛んにしていった。
当時 Danny Hutton は Kim Fowley と一緒に活動しており
幾つかの One Off 作品に参加してる。彼はレコードリリースを
手に入れるために計画を立てながらスタジオセッションの仕事を
していた。その間彼は Brian Wilson との友情が深まり、
即興のふざけたセッション中に "Farmer's Daughter" のカヴァー録音が
始まった。Brian Wilson の Falsetto vocal と Danny Hutton
の Backup vocals をフィーチャーしたこの曲は、1965年初頭に
Basil Swift And The Seegrams 名義で Mercury Records
からリリースされた。プロデュースは Nick Venet,
アレンジは Danny Hutton が担当している。
本件は HBR (Hanna-Barbera Records) 初のシングルで
Basil Swift And The Seegrams の後の1965年5月にリリースされた。
これは下積み時代の Danny Hutton が歌うビーチポップダンサーで
この曲はアニメ The Flintstones (邦題 : 原始家族フリントストーン)
のエピソード "No Biz Like Show Biz." の中で歌われている。
Danny Hutton は1965年から1966年まで Hanna-Barbera Records
のソングライター兼歌手だった。彼は Hanna-Barbera Records の
レコーディング・アーティストとしての在職中に "Roses and Rainbows"
(HBR 447) で全米73位のマイナーヒットをつくり見事 One Hit Wonder
の一人となった。そして1967年に彼は Three Dog Night を結成する。
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Rick And The Ravens |
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13-36
Rick And The Ravens - Big Bucket "T" / Rampage
(7: Posae 101-1/2) 1965
The Doors を結成する前に Ray Manzarek が所属していたバンドで
彼の兄弟 Rick Manzarek (Guitar)
Jim Manzarek (Organ and Harmonica)
も含む Surf 系 Flat rock のパーティーバンドだった。
本件シングルは両面とも Manczarek (Ray Manzarek) が書いて
ヴォーカルとキーボードを担当している。
このグループのシングルで最も謎とされるのが本件シングルで
プロデュースを担当してる Ken Jenksons で、
Kenny And The Beach Fiends / Kenny And The Fiends の
Ken Jenkins (Real name Kenneth F. Jenkins. またの名を Ken Jekins)
ではないかと言われてる。
もしそうであれば、Ken Jenkins は John Marascalco と
Richard Delvy (The Challengers) が出資していた Princess Records で
The Surfaris - Surfer Joe / Wipe-Out の1963年セカンドプレス
Princess Records 50 に続いて Princess Records 51 をリリース
した Kenny And The Fiends のリーダーであり、
Richard Delvy によって The Surfaris と一緒に Dot Records へ売られた
グループとなる。そもそもが本件 Rick And The Ravens の Posae
というレーベルが Kenny And The Beach Fiends の Posea と酷似している。
話を本件に戻して、ここではA面で Jan & Dean の歌でも有名な
バケットシートの付いた Ford T 型、通称 Bucket "T" を R&B style
で歌い、B面ではサーフインストを収録してる。
1965年9月2日、グループはリードシンガーとして Jim Morrison、
そしてドラムの John Densmore を加えて後に The Doors の
オリジナルとなる6曲をアセテート盤にデモ録音をした。
因みに謎多い Ken Jenkins の当時の Discography を掲載しとく。
この人物はその後も多くの足跡を残しており Essra Mohawk
(AKA Sandy Hurvitz) のアルバムにも参加した。
Kenny And The Beach Fiends -
House On Haunted Hill / The Green Door
(Posea Records 871) 1963
Kenny And The Fiends - The Raven Part 1/2
(Posea Records 80) 1964
Eddie Alexander And The Greats -
I'm In Love / Like-What's Happenin
(Sea Seven Records X164) 1964
Ken Jekins 名義のクレジットでは
Kenny And The Fiends -
House On Haunted Hill / Part 2
(Princess Records 51 / Dot Records 45-16568) 1963
Kenny & The Fiends -
She Kept Doing Him Wrong / Last Night Was The Night
(Princess Records 54) 1964
Kenny & The Fiends -
Moon Shot / One-Two-Three-Four
(Princess Records 54 / Dot Records 45-16596) 1964
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Ford T-Bucket |
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James Holvay
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Gary Beisbier |
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13-37
The Illinois Tollway - Another Summer To Remember
(7: Spectra Sound 101) 1965 Garage band 時代の The Buckinghams がデビューシングル
Sweets For My Sweet / Beginners Love をリリースした Chicago の
マイナーレーベル Spectra Sound からの1枚。
弾けた Summer pop を聴かせる Blue Eyed Soul / Northern Soul な
好盤だが、プロダクションが後にメジャーヒットグループとなる
The Buckinghams 陣営で制作されており、言わば The Buckinghams
特有のホーンサウンドのプロトタイプ、試作といった意味合いを持つ
リリースである。
曲を書いたのが James Holvay-Gray Beisbier (Gary Beisbier)
で、二人とも後に The Mob を結成するのだが
James Holvay は The Buckinghams の一連のヒットソング
"Kind Of A Drag", "Don't You Care", "Susan",
"Hey Baby (They're Playing Our Song)" のソングライターで
Gary Beisbier もそれらの曲で Sax を吹いてる。
プロデュースを Carl Bonafede, Lew Douglas, Dan Belloc の
3人が担当しているが、Carl "The Screaming Wildman" Bonafede
こと Carl Bonafede は The Buckinghams のマネージャーで彼は
Chicago の Garage band の世話役的な人物。
Lew Douglas は Dan Belloc のバンドのアレンジャーで、Chicago の
Mercury Records のヘッド・アレンジャー兼プロデューサーとなり
彼は1950年代の3つの主要な作曲で最も有名。
1953年1月に全米1位となった Joni James "Why Don't You Believe Me?"
全米10位となった Joni James "Have You Heard?"
全米13位となった Nat King Cole "Pretend"
彼はアレンジャーとしても1962年に Ramsey Lewis の
"Country Meets the Blues" (Argo) を手掛けた。
Dan Belloc は The Buckinghams の "Kind Of A Drag" の
共同プロデューサーで、この人は1950年代から Chicago の有名な
プロデューサー兼ビッグバンドやオーケストラのバンドリーダーとして
知られており、彼は Nat King Cole の "Pretend" を Lew Douglas と
共同執筆したことでも有名。
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Carl Bonafede
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Lew Douglas
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Dan Belloc |
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The Vandals |
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13-38
The Vandals - I Saw Her In A Mustang / The Joker
(7: Tiara RR 200) 1966
Florida 州 Hollywood 出身の Garage Psych バンドで
後に Eric Clapton, ABBA のサポートメンバー、Andy Gibb Band
のメンバーとなるギタリスト George Terry と、
Fire And Ice (Capitol/Crazy Horse) のメンバーになる
キーボード奏者の Augie Bucci が在籍していた。
特に George Terry は本件 The Vandals の後に
セッションミュージシャンとして堅実な活動を続け、
Eric Clapton ら多くのビッグネーム達から信用される
腕利きギタリストへと成長した。本件シングルは
間奏部分でのプレイも達者で、Guitar break の大好きな
Garage band コレクター達を狂喜させ近年になって
さらに評価を上げた。
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George Terry |
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Doug Brown And The Omens (AKA The Beach Bums)
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Bob Seger And The Last Heard |
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13-39
The Beach Bums - Florida Time
(7: Are You Kidding Me? Records H-1010) Apr 1966.
Bob Seger And The Last Heard - Florida Time
(7: Cameo C-444) Nov 1966.
御存知 Bob Seger の初期作品。彼は1963年から多くの
バンドのシンガー / メンバーとして活動を続けていった。
The Decibels, The Town Criers, そして Doug Brown & The Omens.
本件はその Doug Brown & The Omens の変名として
The Beach Bums 名義で1966年4月にリリースされた
シングルで、同年 Bob Seger が Cameo と契約した際に
その音源は Bob Seger And The Last Heard 名義で11月に
リリースされた。
Cameo 盤のラベルのヴァリエーションを説明しよう。
まずグループ名が下にクレジットされた初版、
次にグループ名が上にクレジットされ、最後はレタリング
が変わって文字が細くなる。作者は Punch こと
Edward "Punch" Andrews (彼らのプロデューサー) で、
オリジナルで Punch とクレジットされていたが
Cameo 盤ではすべて Punchy と統一されてる。
Doug Brown & The Omens 後期の骨格はすでに
Bob Seger And The Last Heard に向けて進化しており
本件シングルは GTO をぶっ飛ばして Florida へ
向かっていくバッチグー(死語)なカーソングとなっており
Surfin’ & Hot Rod ファンがウハウハ(死語)する内容になっている。
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The Exceptions / The Exception |
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13-40
The Exceptions - The Girl From New York
(7: Quill Records 114) Nov 1966
The Exception - The Girl From New York City
(7: Capitol 5982) Aug 1967
バンド初期からその後 Chicago に参加する若き Peter Cetera
が在籍してた事でも有名で、Chicago の人脈交差点的な
Garage Psych バンド。彼らは元々 Kal David & The Exceptions
としてシングル3枚をリリースしていた。1965年に Kal David が
Dunwich garage でも有名な The Rovin' Kind (後の Illinois Speed Press)
に移籍する際に替わって James Vincent (Jim Donlinger) が参加し
The Exceptions となった。メンバーは
Peter Cetera, Denny Ebert, Marty Grebb, James Vincent.
Marty Grebb はその後 The Buckinghams に参加したが
James Vincent と一緒にその後 HP Lovecraft に参加する。
で、オリジナルは地元 Quill から1966年11月にリリースされ
タイトルも “The Girl From New York” だったが
Capitol に買い上げられて1967年8月に再リリースされた際に
さすがに Beach Boys の曲のタイトルを改名しては
いかんじゃろと “The Girl From New York City” と訂正された
のだが、グループ名も The Exceptions から The Exception と
された。このバンドが最終的に Aorta になるまでのストーリーを
書くと本20冊分の文字が必要になるので割愛する。
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The Hep Stars |
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13-41
The Hep Stars - Hawaii
(7: Sweden Olga Records SO 21) 1966 後に ABBA を結成する Benny Andersson が在籍した
スウェーデンのビートグループによる Beach Boys カヴァー
の名盤。当時黒盤と青盤でリリースされていた。
本国スウェーデンでは所謂両A面シングルとしてリリースされたが
日本ではB面扱いでリリースされた。
彼らは元々 Quartet Yep という名で1963年に結成されたバンドで
時流に合せてビートチューンを演奏したが、彼らのオリジナル曲の
多くは北欧特有のマイナーメロディーの美しいポップチューンである。
Members are
Janne Frisk
Svenne Hedlund
Lennart Hegland
Christer Pettersson
Benny Andersson
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The Peppermint Trolley Company |
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13-42
The Peppermint Trolley Company - It's A Lazy Summer Day
(7: Acta Records 45-809) 1967
The Mark V, The Intercoms, The C-Minors と名を変えながら
シングルリリースを続けていた Jimmy と Danny の
Faragher Bros がついに実力を開花させた。
彼らは The Peppermint Trolley Company となって
先ず Valiant V-752 で P.F. Sloan の名曲 "Lollipop Train" のカヴァーを
1966年9月にリリースした。B面で Jimmy Faragher が書いた
オリジナル "Bored To Tears" を収録したがA面の影に隠れた
Novelty song のような存在だった。
1967年7月にリリースされた第二弾の本件シングルは Dalton Boys
でも知られるカナダ出身の Dan Dalton のプロデュースで
Jimmy Faragher が書いた素晴らしいサマーポップを
A面にした。サイケデリックなアレンジと美しいコーラスワーク
を配したサンシャインポップの隠れた名盤だがヒットには
至っていない。彼らの Roger Nichols-Paul Williams の名曲カヴァー
Trust でも解るように美しい楽曲でもこなせるが
彼らのリリースでチャートインしたのは
"Baby You Come Rollin' 'Cross My Mind" (Acta 815) の
全米59位 (1968年6月8日ピーク) のみで、見事 One Hit Wonder
の仲間入りをしてしまった。彼らはその後1969年から Bones と
改名しアルバム2枚をリリースした。
そして Jimmy と Danny Faragher は Davey Faragher と
Tommy Faragher を引き入れてファミリーグループ Faragher Bros
を結成し4枚の良質なポップアルバムをリリースした。
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The Hombres |
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13-43
The Hombres - Little 2 + 2
(LP: Verve Forecast FT-3036 mono / FTS-3036 stereo) 1967
彼らが歌った"Let It Out (Let It All Hang Out)" は
1967年9月16日に全米12位の大ヒットとなった。
これは Bob Dylan の "Subterranean Homesick Blues" の
無表情な南部風パロディと揶揄された迷作だ。
で、この大ヒットに合せて急遽アルバム制作され、
そこにどさくさに紛れて収録されたのが本件である。
この The Hombres とはそのサウンドを聴けば解るように
バンドの実体は Ronny & The Daytonas の The Daytonas だ。
彼らはナッシュビル産 Surfin' & Hot Rod 業界の便利屋で、
同地のソングライター Bobby Russell と一緒に
The Chords - 2 + 2 (Hit 163)
Jackie And The Giants - Ford G.T. (Hit 185)
Sandy And The Beachcombers - Daytona Darlin’ (Star 760)
Donnie And The Darlingtons - Since Grandpa Got A Rail Job
(ABC-Paramount 45-10633)
これらの名義でも Hot Rod チューンをリリースした。
Members are
Jerry Lee Masters (leader and bass player)
Gary Wayne McEwen (guitar)
B. B. Cunningham, Jr. (lead vocals and electronic organ)
John Will Hunter (drums)
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Patty Flabbies' Coughed Engine (AKA The Third Rail) |
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13-44
Patty Flabbies' Coughed Engine - Billy's Got A Goat
(7: Diamond Records Inc D-252) 1968
"Run, Run, Run" でも有名なサイケデリックユニット
The Third Rail の変名リリースによる GTO ソング。
Arthur Resnick と彼の妻 Kris Resnick,
そして Joey Levine, もろちん、否もちろん
Super K Production でやんす。
New York の Albany ではトップ10ヒットになったらしい。
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【戻る】【続く】 |
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