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昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
ここではサンデーソングブックであまりオンエアーしない昭和歌謡や
それらの和ジャズカヴァー中心にアップロードしていまして、
60歳以上の熟年層を対象にしています。
90年から店頭やヤフオク、eBay 等で販売してきた昭和歌謡の
レコードをカセットに録音して店頭BGMとして使ってましたが、
とある客人に「デジタルアーカイヴ化すべき」と勧められました。
リイシューの際にレコード会社に売ったり、人気盤は著名DJ達、
レア盤になると作家の方々本人達や記念館等に売ったケースも
多く「メンドイので再発CD音源でもいいか」も入ってますが、
友人達の協力のもと過去売ったレコードの音源をせっせと
デジタル化して整理してます。特に再入手困難な軽音楽、エロムード等
のアルバム内の1曲を求めてガムバッテみます。
中古レコード屋なのでレコード音源の場合は少々のノイズは
許容してますのでノイズに神経質な方は御遠慮ください。
基本情報としてアーティストプロフィールを記載しますが、販売当時の
商品説明や専門誌に書いた際のレヴューが見つかり次第、
追加アップデートしていきます。
昭和の音楽を愛する皆さんのリスニングライフを豊かにするために
御自由に利用して頂ければ幸いです。
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Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.2 (1968-1969)
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
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1968年 |
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水戸浩二 - 涙のボサノバ
7inch single : Crown CW-784
1968年2月リリース。
作詞 : 石川康江
作曲 : 北原じゅん
演奏 : クラウン・オーケストラ (ザ・ジェノバ参加)
水戸浩二は1967年1月発売の「君を信じて」でデビューし
美樹克彦、望月浩、永井秀和などとプレGS期の
アイドル系の青春歌謡シーンを支えた。
東映第11期ニューフェイスとして活躍していたが
GSがブームになり、青春歌謡の購買層だったティーンズ女子
がアイドル性の高いGSに向いてしまい、そこをターゲットにしていた
青春歌謡の男性ソロ歌手は大苦戦する。
本件は、そんな時期の水戸浩二のシングルで
レーベルの表記はクラウン・オーケストラの演奏となっているが
作曲した北原じゅんによって結成されたレーベルメイトの
ザ・ジェノバが参加してエレキビートを強調している。
しかしレーベルカラーなんだろう、西郷の輝ちゃん風味。うふふふ
北原じゅん (きたはら じゅん、1929年 - 2017年5月6日)
日本のソングライター、編曲家。
本名菊地正巳 (きくち まさみ)、別筆名文 れいじ (ぶん れいじ)。
「兄弟仁義」、「骨まで愛して」、「愛の執念」、「命くれない」等のヒット曲、
アニメ『まんが日本昔ばなし』の主題歌と劇伴音楽で知られる。
日本クラウン専属作家。娘はプロゴルファーの菊地あつ子。
1929年、当時日本領であった樺太 (現在のロシア共和国サハリン州)
に生まれる。弟の正規はのちの歌手・城卓矢 (菊地正夫)、
作詞家の川内康範は叔父 (叔母の元夫) にあたる。
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北原じゅん |
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木村ヨシコ - リオの夜
7inch single : Capitol Records CP-1015 赤盤
1968年3月10日リリース。
作詞 : ホセ柴崎
作曲 : ヨリ寺部
編曲 : 三保敬太郎
木村芳子と漢字クレジットにした Express EP-1161 は
1969年8月リリースの再発。
前野曜子の親友でジャズシンガーの木村芳子は1945年生まれ。
大学時代に歌いだし米軍キャンプで経験を積む。
1967年三保敬太郎に認められ氏のグループに加わる。
当時の三保敬太郎は作曲&アレンジャーとしてジャズ〜映画音家
など幅広く活動していた。本件シングルリリースの後に
1969年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに参加し
バニー・ケッセルの伴奏でゲストとして歌い、日本でのライブも活
況していた。そうした時期RVCから井坂紘氏のプロデュースで
ファーストアルバムを1978年にリリースしたが
リリース後惜しくも病没しアルバムは遺作となってしまった。
作詞のホセ柴崎は本名が柴崎宗佑で作詞家・訳詞家の
渡 舟人 (わたり ふなんど) の変名の一つ。
タカオ・カンベも同一人物。渡 舟人は
神楽坂浮子「浮子のボサノバ (Desafinado) 」
坂本九「戦場に陽は落ちて」、「月夜に歩けば」
平尾昌晃「バルコニーに座って〜Sittin' in」
山下敬二郎「ダイアナ」等の訳詞を手掛けた事でも有名。
作曲をしたヨリ寺部はハワイアンギターを日本に植え付けた
海軍大尉 寺部頼幸 (てらべよりゆき) である。「ゼロ戦にギター
抱えて飛んでるんじゃ勝てるわけねえよ」は戦地から復員して来た
特攻帰りの寺部氏が苦笑して吐いた言葉である。
終戦の翌年4月に結成されたヨリ寺部のハワイアンバンド
ココナツ・アイランダースは直ぐにトップバンドとなり彼らの曲は
NHKラジオから全国に流れた。終戦直後の有名な歌手やミュージシャン
で寺部氏から教えを受けた者は多く、一般人のファンも多かった。
しかし開拓者である寺部氏はテレビ時代が始まる前に突然ブラジル
へ移住した。それは日伯移住協定が再開された直後で、農業か
工業技術者にしか永住ビザが下りないのに、夫人と長男を連れた
一家での渡航だった。すごいバイタリティの持ち主だ。
寺部みき子夫人はもともとプロのフラダンサーだった。ブラジルの
有力な興行師であるユダヤ系ウルグアイ人カッツ・ネルソンが
寺部氏に目をつけ、ネルソンはハワイ人口の約30%が日系人であると
知っていたので、本格的ハワイアンバンドがホノルルから初来演
として売り込む目論見だった。寺部氏はブラジルでも成功し
早くから当時の日本の若手ジャズメンと交流を持った。
三保敬太郎とヨリ寺部はコダマプレスのソノシートブック
Singing Guitar + 1 で沢田駿吾、藤田正明、猪俣猛、宇山恭平、
滝本達郎、ポス宮崎らと共演しており、それを鑑みると
本件、木村ヨシコに歌わせた「リオの夜」も三保敬太郎を
中心に置くと、その接点が見えてくる。
三保 敬太郎 (みほ けいたろう : 1934年10月17日 - 1986年5月16日)
東京都出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、
レーシングドライバー、俳優、映画監督。妻はボーカリストの宮崎正子。
鮎川義介の懐刀で満州重工業開発理事や日本コロムビア社長などを
歴任した三保幹太郎の息子。高校時代から、ピアニストの守安祥太郎に
師事し、在学中の1950年に「クール・ノーツ」でプロデビュー。
慶應義塾大学卒業後は、トミー・パーマー・オーケストラなどで
ピアニストとして活動。1959年4月、前田憲男、山屋清とモダンジャズ3人の会
を結成。同年『モグラの唄』で芸術祭奨励賞受賞。
1961年、日本ジャズ界の作・編曲分野に大きく貢献し、2度目の
芸術祭奨励賞を受賞。1965年、日本テレビのテレビドラマ『ザ・レーサー』
(演出 早川恒夫、脚本 倉本聰、主演:鈴木やすし、長谷川明男、和田浩治、
斎藤チヤ子) に俳優として出演。1968年、寺尾聰らとともに
グループ・サウンズ『ザ・ホワイト・キックス』を結成。
シングル1枚(「アリゲーター・ブーガルー/愛のことば」:東芝)のみで解散。
一世を風靡したテレビ番組『11PM』のタイトル曲の作曲者でもあり、
死後の2000年に発売された「11PMのテーマ」が、オリコンシングル
チャート初登場92位となる。同チャートでの自身初のチャートイン記録となった。
福沢諭吉の曽孫でレーシングドライバーの福澤幸雄とは、福澤が慶應義塾
幼稚舎在学中からの仲であり、1969年には福澤の死を悼み、追悼盤を
発表している。また自身もレーシングドライバーであり、マカオグランプリに
1965年(ロータス・エラン)と1966年(マツダ)に参戦。
1967年、第6回シンガポールGPツーリング&サルーンカーレースでは、
クラス1(850cc以下)にて第3位に入賞した。
1986年、酒に酔って階段から転落し、その際の怪我が原因となり
5月16日に脳内出血により死去した。51歳没。
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ホセ柴崎 (渡 舟人)
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ヨリ寺部 (寺部頼幸)
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三保敬太郎 |
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木村ヨシコ - 人魚に恋した少年
7inch single : Capitol Records CP-1015 赤盤
1968年3月10日リリース。
作詞 : 片桐和子
作曲編曲 : 三保敬太郎
木村芳子と漢字クレジットにした Express EP-1161 は
1969年8月リリースの再発。
のっけからナンセンス・シラブルで「シュビシュビ」と
入れてくるが、三保敬太郎と一緒に歌っているようだ。
意図的なのか日本語をたどたどしく発声してるところがある。
間奏でファーフィサのブレイクが入りビートが強調されている。
前野曜子の親友でジャズシンガーの木村芳子は1945年生まれ。
大学時代に歌いだし米軍キャンプで経験を積む。
1967年三保敬太郎に認められ氏のグループに加わる。
当時の三保敬太郎は作曲&アレンジャーとしてジャズ〜映画音家
など幅広く活動していた。本件シングルリリースの後に
1969年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに参加し
バニー・ケッセルの伴奏でゲストとして歌い、日本でのライブも活
況していた。そうした時期RVCから井坂紘氏のプロデュースで
ファーストアルバムを1978年にリリースしたが
リリース後惜しくも病没しアルバムは遺作となってしまった。
作詞を担当した片桐和子は東京音楽大学ピアノ科卒業後
数多くの音楽学校の講師として従事するかたわら、映画音楽や
ミュージカルなどの作詞・訳詞を手がけていた。
訳詞では、ナオミの夢(ヘドバとダビデ)、
愛のおとずれ(カーチャ・エプシュタイン)、
クエスチョンズ67&68 (シカゴ)等が有名。
作詞はGSからフォーリーブス、ピンク・レディー、
五木ひろし他、多岐にわたる。
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泉田エミイ |
泉田エミイ - ストリート・サンバ
7inch single : Takt TS-301
1968年3月25日リリース。
作詞 : 中村小太郎,泉田エイミ,渡辺貞夫
作曲 : 渡辺貞夫
演奏 : 渡辺貞夫セクステット
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Bass : 原田政長
Drums : 富樫雅彦
Guitar : 中牟礼貞則
Cabasa : 宮田英夫
なんですか、この透明感は!
当時16才の泉田エイミ自身も作詞に携わった
天国直行便の極上ガールサンバである。
デビュー当時の斉藤由貴と南野陽子のような「はにかみ」と
「フレッシュ感」を内包した少女ヴォーカルである。
産婆娘、もといサンバ娘の大場久美子に「ストリート・サンバ」を
歌わせたらTitty Shaker (おっ○いを振り乱して踊る) になって
みんなで並んで鼻血ブーッ (死語 !)
いやあ、今日も天気いいんで能天気ですわ (笑)
泉田エミイは1951年1月にサンパウロで生れブラジル国籍を
持つ日系二世である。彼女はミュージシャンの父親の仕事の都合で
住居を転々とする生活を送っている。
父がヴァイオリン、母はピアノをひき、ペルーの国立劇場でオペラの
演出を手がけたりもする音楽一家に育ち、四才からピアノを習う。
1953年に大阪へ来て1955年にはブラジル・リオへ向かった。
感受性が豊かな幼い頃からサンパウロやリオで培った音感や
歌好きの明るい性格は後に日本で開花する。
1960年に東京へ再来日、1963年には関西、1966年にはペルー、
そして1967年、母親の病気の治療のために再び東京へやって来て
玉川学園編入した。泉田エミイは当時、玉川学園高等部の高校1年で、
同級生に井上陽水の奥さんとなる石川セリがいた。
そんな16歳の彼女の元へ渡辺貞夫セクステットのメンバーの
菊池雅章からオファーの電話がかかってきた。
渡辺貞夫がポルトガル語と日本語ができる女性歌手を探しており
菊池自身のピアノの伴奏で歌のテストをしたいとの事。
彼女は日本語はもとより、ポルトガル語、スペイン語、英語に堪能。
アストラッド・ジルベルトをも想起させる少女っぽい歌声、
サンバのリズムを生まれながらに身につけた逸材であった。
これをスタートに渡辺貞夫セクステットと泉田エミイの活動が
始まり朝日ソノラマと新興レーベル Taktでの事なるセッションの
録音が残された。
本場ブラジル仕込みのボサノヴァを美しいポルトガル語で歌って
初めて我が国のレーベルでリリースしてくれたのは泉田エミイである。
その後、クラウディア・ラロやソニア・ローザらブラジル人女性が
来日し日本でのボサノヴァの普及に貢献したが、紛れも無く
泉田エミイがパイオニアーであり、同時にロリータボサの種を
日本の地に最初に撒いた女の娘であった。
声楽研究家諸氏がボーイソプラノを尊ぶように
ジャズ/ポピュラーシーンではロリータヴォイスを尊ぶ。
同様にポップミュージックシーンでキッズポップが愛好される。
これは穢れの無い純潔を求める哺乳類の本能から来るものだ。
本作は後に日本コロンビア傘下となる Takt レーベル(タクト電気株式会社)
のポピュラー第一弾として発表された泉田エミイのデビュー・シングル。
1967年10月12日にリリースされた渡辺貞夫クインテット
との共演ソノシート (朝日ソノラマ K-19) から渡辺貞夫の紹介文。
最後に泉田エミイを紹介しましょう。
ブラジル生まれの16才の女の子です。
ぼくは日本へ帰ってきて、ボサ・ノヴァを演奏しはじめてから、
ずっと歌手をさがしていました。いろいろとオーディションも
やったのですが、ついにボサ・ノヴァが唄える人は現れませんでした。
ところがある日、突然泉田エミイがぼくのところへ来たのです。
さっそくテストしたところ、実にいいフィーリングをもっているのです。
日本人ばなれしたボサ・ノヴァのフィーリングを彼女はもっているのです。
歌手としては、もちろんまだ無名の新人ですが、実にまれな才能を
もっている貴重な存在です。彼女の今後の成長をぼくは
大いに楽しみにしているのです。
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渡辺貞夫 |
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泉田エミイ - キューピッヅ・ソング
7inch single : Takt TS-301
1968年3月25日リリース。
作詞 : 小室等,泉田エイミ,渡辺貞夫
作曲 : 渡辺貞夫
演奏 : 渡辺貞夫セクステット
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Bass : 原田政長
Drums : 富樫雅彦
Guitar : 中牟礼貞則
Cabasa : 宮田英夫
1967年10月12日にソノシートの朝日ソノラマ K-19
でリリースしていた曲だが、こちらでは間奏サビの部分で
トロンボーンがハモるが、ソノシート盤では聴こえないので
異なるセッションだと思われる。
ユキとヒデはタイトルを「恋のスノー・ドルフィン」と変えてリリースした。
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永田克子 |
永田克子 - 甘い想い出
ソノシート : 日産自動車株式会社非売品
1968年3月リリース。
作詞 : 林春生
作曲編曲 : 筒美京平
初代サニークーペのコマーシャルソング
日産自動車がサニーのプロモーション用に制作した
ソノシートでロカビリー歌手の、ほりまさゆき「男の世界」
と共に収録された。
「甘い想い出 甘い想い出 昨日のように
サニー クーペに サニー クーペに あなたをのせた
遠い遠い 遠い遠い・・・」この曲、サニークーペじゃなく、
通常の歌詞にしてリリースしても、そこそこ売れてたと思う。
1966年にシングル「じゃあネ バイバイ」で歌手デビューした永田克子。
1970年代に「永田カツコ」へと改名し、歌手の佐川満男との
デュエット曲「かんにんしてや」がヒットした、
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筒美京平 |
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沢田駿吾 |
沢田駿吾 & The Modern Jazz All-stars - Bim Bom
LP : This Is Bossa Nova
CBS YS-10021-JC
1968年4月16日リリース。
Also released in 1968 as
LP Bossa Nova Standard
Columbia PX-10004-J (Popular Standard De Luxe Series)
1968年リリース。
作曲 : Joao Gilberto
Guitar, Leader : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Drums : 日野元彦
Flute : 宮沢昭
Percussion : 小野寺武司
Piano : 徳山 陽
Tenor Saxophone : 西条孝之介, 村岡建
Trumpet : 日野皓正
Vocals : 伊集加代子
Joao Gilbert のカヴァー。
個人的には Astrud Gilberto のヴァージョンと
このヴァージョンは双璧である。
沢田駿吾、本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』(1944年アメリカ映画)を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送(現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。
伊集 加代 (いしゅう かよ、1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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伊集 加代子 |
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沢田駿吾 & The Modern Jazz All-stars - Mas Que Nada
LP : This Is Bossa Nova
CBS YS-10021-JC
1968年4月16日リリース。
Also released in 1968 as
LP Bossa Nova Standard
Columbia PX-10004-J (Popular Standard De Luxe Series)
1968年リリース。
作曲 : Jorge Ben Jor Guitar, Leader : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Drums : 日野元彦
Flute : 宮沢昭
Percussion : 小野寺武司
Piano : 徳山 陽
Tenor Saxophone : 西条孝之介, 村岡建
Trumpet : 日野皓正
Vocals : 伊集加代子
Jorge Ben のカヴァー。
伊集加代子は「Mas Que Nada」のカヴァーを何回したのだろうか、
このスキャット「ルバ、ルバ」を聴いて「ん!?」と思った人、
御名答だ。君は今日から私の友人だ。
1967年3月1日発売のジョニー広瀬の迷作「太陽に抱かれたい」で
ジョニーの奴と一緒に「ルバ、ルバ」やってるのはスリー・ハーツ
とクレジットされている。
1967年に4人組の男女混声コーラス・グループであった
フォー・シンガーズの解散により、その女性メンバーであった
団洋子、伊集加代子と、尾形道子(藤村道子)の3人により
1967年に結成された女性コーラス・グループがシンガーズ・スリーだ。
元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの日本語の声を担当
していた団洋子だが、結成後間もなく結婚して渡米したため
メンバーは伊集と尾形の2人プラス1人という形で活動を継続。
加入メンバーは井上知子、福田まゆみと変わり、その後は
再び井上がメンバーとして復帰し、伊集、藤村、井上の
3人に戻っている。
伊集加代子の数あるスキャットの中で「ルバ、ルバ」は
珍しく、スリー・ハーツが伊集と尾形の2人プラス1人
という体制の頃の変名であった可能性はある。
もしくは、スリー・ハーツの「ルバ、ルバ」コーラスに
興味を持った伊集加代子がジョニー広瀬の翌年となる
1968年4月16日リリースのこのアルバムで「ルバ、ルバ」
コーラスに挑戦したのかも知れない。
店内でこれを聴きながらこの仮説にたどり着いた時に
私は口を開けてストーンドしてしまった。
その時に訪れた常連客に「あれっ竹内さんどうしたんすか?」
「ルバルバルバルバア〜〜うふふふ」(一同爆ッ!)
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沢田駿吾 & The Modern Jazz All-stars - Agua De Beber
LP : This Is Bossa Nova
CBS YS-10021-JC
1968年4月16日リリース。
Also released in 1968 as
LP Bossa Nova Standard
Columbia PX-10004-J (Popular Standard De Luxe Series)
1968年リリース。
作曲 : Antonio Carlos Jobim Guitar, Leader : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Drums : 日野元彦
Flute : 宮沢昭
Percussion : 小野寺武司
Piano : 徳山 陽
Tenor Saxophone : 西条孝之介, 村岡建
Trumpet : 日野皓正
Vocals : 伊集加代子
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
冒頭で「ドゥヴィドゥヴァ」とナンセンス・シラブルを
聴かせ、軽快な沢田駿吾のギターに続き「ダラダラダダダ〜」
とスキャットを自在に操る傑作ヴァージョン。
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沢田駿吾 & The Modern Jazz All-stars - The Girl From Ipanema
LP : This Is Bossa Nova
CBS YS-10021-JC
1968年4月16日リリース。
Also released in 1968 as
LP Bossa Nova Standard
Columbia PX-10004-J (Popular Standard De Luxe Series)
1968年リリース。
作曲 : Antonio Carlos Jobim Guitar, Leader : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Drums : 日野元彦
Flute : 宮沢昭
Percussion : 小野寺武司
Piano : 徳山 陽
Tenor Saxophone : 西条孝之介, 村岡建
Trumpet : 日野皓正
Vocals : 伊集加代子
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
The Beatles の「Yesterday」などに次いで、世界中で多くカヴァー
されたポピュラー・ソングの一つといわれ、ボサノヴァのナンバー
としてはもっとも著名な曲となっている。
ここでは伊集加代子が務めて軽やかなスキャットを
聴かせているが「パ」と「バ」を巧みに使い分けている。
そのアクセントによる強弱が彼女のセンスなのだろう。
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沢田駿吾 & The Modern Jazz All-stars - Cinnamon & Clove
LP : This Is Bossa Nova
CBS YS-10021-JC
1968年4月16日リリース。
Also released in 1968 as
LP Bossa Nova Standard
Columbia PX-10004-J (Popular Standard De Luxe Series)
1968年リリース。
作曲 : Johnny Mandel Guitar, Leader : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Drums : 日野元彦
Flute : 宮沢昭
Percussion : 小野寺武司
Piano : 徳山 陽
Tenor Saxophone : 西条孝之介, 村岡建
Trumpet : 日野皓正
Vocals : 伊集加代子
Sergio Mendes & Brasil '66 のカヴァー。
走るリズム、そこにスキャット娘が軽やかにライドオン、
そして最後に彼女は喜び叫ぶ Pow!
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沢たまき - 終局 (フィナーレ)
7inch single : Victor SV-701
1968年5月5日リリース。
作詞 : 山口洋子
作曲 : 猪俣公章
編曲 : 松本浩
ルーズなパヤパヤスキャットと軽やかなフルートを
ブレンドしたセクシーラウンジ歌謡の傑作。
このギターのトーンは沢田駿吾氏だろうか。
作曲は猪俣公章さん、編曲はヴァイヴ奏者の松本浩さん。
沢たまき (さわ たまき)、本名:山本昌子 (やまもと まさこ)、
(1937年1月2日 ‐ 2003年8月9日)
日本の歌手、女優、政治家。歌手や女優などの芸能活動の後、
政界に転身し参議院議員を務めた。神奈川県川崎市出身。
ラジオ番組「大学勝ち抜き歌合戦」での優勝を機に、
山脇学園短期大学在学中の1956年にテイチクより歌手デビュー。
このジャズ・シンガー時代に、TBSのプロデューサーと
熱い討論をしたというエピソードがある。
1966年にビクターへ移籍。移籍第一弾『ベッドで煙草を吸わないで』
が大ヒットする。1969年から1974年まで東京12チャンネルで
放映された「プレイガール」への出演(沢村たまき=オネエ役)など、
女優としても活躍。異色なところでは、「独占!おとなの時間」(テレビ東京系)
など主に深夜番組の司会で活躍。また、「クイズダービー」では、
五月みどりの後を受けて2代目2枠レギュラー解答者を担当した。
正答率は3割5分7厘(平均3勝6敗〜4勝5敗ペース)と
決して悪くはなかったものの、歴代ワースト6位の17連敗を記録した。
猪俣公章 (いのまた こうしょう、1938年4月11日 - 1993年6月10日)
日本の作曲家・作詞家。福島県河沼郡会津坂下町出身。
本名は同じ漢字表記で「いのまた きみあき」と読む。
旧制京都帝国大学工学部電気工学科出身で東北電力勤務の父と、
福島市で料亭を経営する母の間に生まれた。家は猪俣総本家であった。
小学5年生の頃から作曲をするようになり、中学時代に作曲家を志望する。
中学卒業後は上京して開成高等学校に進学。高校卒業後は実家の家計が
苦しくなったため、入学金を稼ぐために1年間の浪人生活を選ぶ。
喫茶店のボーイ、ペンキ職人、バーテンダーなどで入学金を稼いだ。
1958年に日本大学芸術学部音楽科へ入学。入学後は新橋や銀座の
キャバレーでバンド演奏のアルバイトを務め、ベースを担当。
大学3年次の1960年に古賀政男が設立したプロダクションに
スタッフとして採用され、事実上の門下生として師事。
大学卒業後の1962年にビクターレコードと契約。
1964年、鈴木やすし『僕の手でよかったら』作曲家デビュー。
1966年に森進一のデビュー作にしてヒット作となった『女のためいき』
を作曲、その後も森に『ひとり酒場で』『港町ブルース』
『おふくろさん』『波止場町』『冬の旅』『さらば友よ』などの大ヒット曲を
提供する。他にも水原弘『君こそわが命』、藤圭子『女のブルース』
『京都から博多まで』『別れの旅』、内山田洋とクール・ファイブ『噂の女』、
テレサ・テン『空港』、五木ひろし『千曲川』、
海原千里・万里『大阪ラブソディー』など数多くのヒット曲を
提供して成功を収めた。また、野村将希『一度だけなら』、
石川さゆり『かくれんぼ』などデビュー曲を提供した。
中でも坂本冬美『あばれ太鼓』やマルシア『ふりむけばヨコハマ』
を内弟子として育て上げデビュー曲を提供した。
1993年に肺がんのため死去した。55歳没。
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猪俣公章
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松本 浩 |
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加山雄三 - 暗い波
7inch single : 東芝 TP-2010
1968年5月10日リリース。
LP : 君のために
東芝 TP-7271
1968年9月10日リリース。
作詞 : 岩谷時子, 弾 厚作
作曲 : 弾 厚作
編曲 : 森岡賢一郎
風呂場のエコーのようで、あまりスッキリしないが
流麗なピアノと風にたなびくフルートが心地よい。
個人的にはオーヴァープロデュース感の強い
間奏部のストリングスは不要だと思う。
加山雄三、本名:池端 直亮 (いけはた なおあき)
1937年4月11日生れ、日本の歌手・俳優。
神奈川県横浜市生まれ、茅ヶ崎市出身。
ニックネームは若大将。作曲家として弾 厚作 (だん こうさく)
のペンネームを用いる。公益財団法人日本セーリング連盟応援団長、
文化功労者。父は俳優の上原謙 (池端清亮)、
母は女優の小桜葉子 (池端具子)。妹は池端亮子。
母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。
慶應義塾大学法学部政治学科卒業後の1960年春に東宝へ入社。
同年『男対男』で映画デビュー、『独立愚連隊西へ』で初主演。
当時、東宝本社と同じく有楽町にあった渡辺プロダクションにも
一時期在籍した。
1961年、『夜の太陽』で歌手デビュー。NHK『紅白歌合戦』出場17回。
代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に
先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、
また日本で初めて多重録音を手がけた歌手でもある。
ソングライターとしてのペンネームは、加山が尊敬している團伊玖磨と
山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく/ドン・コサック)
であり、同名義で作曲(稀に作詞もある)している。
1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された
『君といつまでも』はレコード販売350万枚の大ヒットになり、
1966年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたが、
結局大賞は同曲に比べ売上面で劣る橋幸夫の『霧氷』が
受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まる。
俳優としてはそれまでの宝田明に代わって東宝の若手看板スター
として大活躍、娯楽映画の「若大将シリーズ」が大ヒットし
代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八と
いった名匠の作品にも多く出演している。
ブロマイドは女学生を中心に爆発的な売れ行きを記録した。
1964年、加山雄三は従弟の喜多嶋瑛、喜多嶋修の兄弟と、
大矢茂の4人で、第二期ザ・ランチャーズを再結成した。
1965年、7月〜8月にかけて、ザ・ベンチャーズとTV番組で
共演し、永年に渡る彼らとの交友関係のきっかけとなった。
1966年、高校生であった喜多嶋修と大矢茂に芸能活動の
制限が掛かり、サポートメンバーとしてサイド:堤光生、
ベース:岩崎道夫が参加、映画「歌う若大将」に映像として残っている。
同年3月には、来日中のザ・ベンチャーズより直接ギター演奏の
指導を受ける機会があり、その時の模様は堤光生によって録音されていた。
1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業。
1967年、運営会社の日本観興開発(後に株式会社パシフィック・ジャパン
に改称)取締役に就任。しかし、パシフィック・ジャパンは
1970年3月に23億円の負債を抱え倒産。ホテルは18億円で売却され、
監査役だった加山は、父の上原と共に巨額の債務を抱えた。
加えて、女優松本めぐみとの結婚が世間を騒がせ、
1969年の『フレッシュマン若大将』以降低迷した同シリーズが
1971年に終了、映画出演の減少もあいまって、かつてない不遇の
時代を迎える。ナイトクラブ、キャバレー回りをするも、
ギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へと
追い込まれるが、10年で完済した。
編曲は名アレンジャーの森岡賢一郎。
指揮を平井哲三郎、高階正光、ピアノをポール・ヴィノグラドフ、
作曲を團伊玖磨にそれぞれ師事。「君といつまでも」「恋のしずく」
「ブルー・シャトウ」「今日でお別れ」で日本レコード大賞編曲賞
を受賞。作・編曲の傍ら、映画やテレビ番組の音楽監督・プロデューサー
として活動。主な作品に、映画音楽「若大将シリーズ」「宇宙からの
メッセージ」「山下少年物語」「典子は、今」など。往年の歌謡曲に
しばしばクレジットされている、ケニー・ウッド・オーケストラとは、
彼が率いていた楽団である(ケニー=賢一郎、ウッド=森岡のもじりである)。
またスマイリー小原とスカイライナーズでは首藤邦彦、鈴木庸一と
共にピアノも担当していた。
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森岡賢一郎 |
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森山良子 - 雨上がりのサンバ
7inch single : Philips FS-1043
1968年5月25日リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲編曲 : 村井邦彦
ズー・ニー・ヴー もアレンジを変えてこの曲を1968年11月に
シングルリリースした (Columbia LL-10077-J)
森山良子はジャズ・トランペッターの森山久を父として、
ジャズシンガーの浅田陽子を母として誕生。
本名同じ。若くして亡くなった兄がいる。
かまやつひろしは従兄(母の甥)、その長男かまやつ太郎は
従甥にあたる。高校時代、先輩の黒澤久雄に手渡された
ジョーン・バエズのレコードがきっかけで友人らと
フォークグループを結成。成城学園高等学校を(同級生に
小宮山洋子がいる)を1年間の留年を経て卒業した。
1967年、19歳で「この広い野原いっぱい」でレコードデビュー。
黒澤プロダクション所属になったのは、黒澤家をたびたび訪問し
歌も披露していた森山が歌手になると聞いた映画監督黒澤明の意向。
自身の楽曲がラジオで流れたことがデビューのきっかけだった。
この時期の森山はカレッジフォークに分類される。
デビュー当初はフォーク歌手のイメージだったが、
1969年の山上路夫作詞・三木たかし作曲による「禁じられた恋」
のミリオンセラーヒットで、日本レコード大賞大衆賞を受賞し、
NHK紅白歌合戦に初出場したことから、"フォークから歌謡曲の女王"
になったと評された。
山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。
村井邦彦 (むらい くにひこ、1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。
暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科
に進学し、在学中は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」
に所属した。大学3年時に、東京都港区赤坂でレコード店「ドレミ商会」を
開店した。1966年に大学を卒業し、グループ・サウンズ全盛期の1967年に
ヴイッキー・レアンドロスへ『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家となり、
1968年にテンプターズへヒット曲『エメラルドの伝説』を提供し、
ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」、赤い鳥に「翼をください」、
トワ・エ・モワに「虹と雪のバラード」を提供した。
1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの
日本国内における版権を獲得し、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立する。
1969年に自ら唄い発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、
当時、「(特にラジオで放送すると)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報
と紛らわしい」とされ、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を
受けているが、該当部分を除けば放送可能である。
1970年に川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と
共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立する。
1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツを設立し、
1977年に川添象郎とともにアルファレコードを設立した。
自身がプロデューサーとなり、従来ポップス曲を提供する裏方として
作家活動を主体としていた荒井由実をシンガーソングライターとして
デビューさせた。ティン・パン・アレーを見い出して、アーティストの
レコーディングの際にスタジオミュージシャンとして起用した。
1970年代末から1980年代前半にかけて、イエロー・マジック・オーケストラ
のアルバムを発売した。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点を
アメリカに移した。
作曲は東海林修に学んだところが多いと語る。映画音楽が好きで
ミシェル・ルグランに私淑する。『座頭市御用旅』など勝プロ作品の
音楽監督などを経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督を務めた。
市川崑監督『火の鳥』で映画プロデューサーを初めて手掛け、ルグランに
主題曲の作曲を依頼した。音楽監督は深町純が務めた。
発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は
代表取締役会長を務める。
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山上路夫
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村井邦彦 |
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美空ひばり - 愛のボサ・ノバ
LP : 歌は我が命 第2集
Columbia ALS-5059
1968年5月29日リリース。
作詞 : 西沢 爽
作曲 : 佐伯 亮
美空ひばりは1967年から1976年にかけて、毎年5月29日の
誕生日に「歌は我が命」シリーズを発売していた。
この曲を聴いていて、いつも思うのだが
コーラスは不要だと。しかし間奏部のギターブレイクは
ひそかにかっこいい。
美空ひばり (みそら ひばり、1937年5月29日 - 1989年6月24日)
日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区出身。
本名:加藤 和枝 (かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。
身長は155センチメートル(推定)。
横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校
(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。
9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、
歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に
歌謡界の女王と認める存在となった。
昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に
国民栄誉賞を受賞した。
佐伯 亮 (さえき まこと、1938年2月24日 - 2008年11月3日)
日本の作曲家・編曲家。馬場良の別名を持つ。
東京都中野区出身。明治大学法学部卒業。マンドリン倶楽部に在籍し、
卒業後古賀政男に師事。1961年、コロムビアレコード専属の作曲家となる。
翌年、美空ひばり「恋の曼珠沙華」で日本レコード大賞編曲賞受賞。
さらに翌年、美空ひばり「柔」のレコード大賞受賞を機に、一気に
トップ編曲家の地位を確保した。
1972年、編曲を担当したぴんからトリオの「女のみち」は400万枚を越す
未曽有の大ヒットとなった。
美空ひばりのステージにおける音楽監督を25年間務めた事でも有名である。
変わったところでは、競艇で1991年 - 2010年まで使われた、
一般競走の際のファンファーレ(優勝戦は除く)の作曲を担当していた。
2006年、氷川きよし「一剣」で第48回日本レコード大賞(編曲)受賞。
2008年11月3日、尿管癌のため死去。
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佐伯 亮, 西沢 爽, 美空ひばり |
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村岡 建 |
村岡建とボサ・ノヴァ・グループ - 涙のかわくまで
LP : 心
Crown GW-5028
1968年5月リリース。
作曲 : 宮川泰
編曲 : 村岡建
演奏 : 村岡建とボサ・ノヴァ・グループ
Scat : 伊集加代子
西田佐知子のカヴァー。
昭和初期、服部良一は本格的なジャズの作曲・編曲でヒット曲を連発した。
彼が和製ポップスのヒントとしたのは『民謡』だった。
佐々紅華 (さっさ こうか)、服部良一たち昭和初期にジャズの影響を
受けて新しい音楽を作っていた作曲家たちは、単にコピーするのではなく、
日本的な音楽を作ることが頭にあった。その時、日本的な素材として
民謡が取り上げられた。そのような状況だったので我が国の
流行歌は『民謡』と『ジャズ』のミクスチュアー的な要素を含んでいた。
ここで行われたのは昭和歌謡とボサノヴァの融合であり
ジャズクロスオーヴァーの領域である。
これが和と洋の融合 (Fusion フュージョン)
村岡建 (むらおかたける) は1941年1月12日、東京生まれの
サックス奏者、クラリネット奏者、フルート奏者。
中学生時代にジャズに興味を持ち、ジェリー・マリガン・カルテット
の「バードランドの子守り唄」にインスパイアされた。
文化学院在学の時アルト・サックスを持ってアルバイトで
クラブの仕事をするようになり新宿のジャズ喫茶「きーよ」に
徹夜で入り浸る。文化学院を卒業する頃の1959年に
ジョージ川口 BIG 4+1 にスカウトされてプロ・デビューした。
1960年6月に五十嵐武要クインテットに加入しテナーサックス
に転向した。この頃銀座・銀巴里で日野皓正、稲葉国光、菊地雅章
らと知り合いとセッシヨンを重ねた。この後ビッグバンドの
浜水俊朗とゲイ・スターズ、1964年4月には白木秀雄クインテットに
参加し白木クインテットで日野皓正とともに1965年10月に
ベルリン・ジャズ・フエステイバルに出演した。
しかしこのフエステイバルで多くの世界の一流ジャズメンと接し
自身の未熟さを痛感し白木クインテットを退団した。
1966年1月に小原重徳とブルーコーツに入団。1年半ほど
サックス演奏技術の徹底的研鑚をした。この頃に渡辺貞夫が
アメリカバークレイから帰り、そのメソッドを自宅で教えており
村岡もその教室にも通って勉強した。そのうちにスランプに陥り
偶然耳にした R&B バンドが気に入り、ふらふらと入団し
約3ヶ月在団した。その後1967年10月に西条孝之介が抜けた
沢田駿吾クインテットに迎えられた。
1968年2月には菊地=日野クインテット、菊地が抜けた後の
日野皓正クインテットで1970年秋頃まで活躍し
日野と村岡の2管フロントラインは大人気を得てヒノテル・ブーム
と呼ばれる社会現象となった。
この間1969年3月に石川晶とカウント・バッフアローズにも参加。
1970年2月には菊地雅章らとカルテットで初リーダー作「Takeru」
を録音し全5曲すべて自身のオリジナルを提供した。
日野クインテット退団後にはフリーダム・ユニテイ、
石川晶とゲンチャーズ、自身の村岡建とブラス・セクシヨン等、
多くの分野のジャンルのミュージシヤン、歌手と共演し
膨大な数の録音に参加している。
伊集 加代 (いしゅう かよ、1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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伊集 加代子 |
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村岡建とボサ・ノヴァ・グループ - わたしの好きなもの
LP : 心
Crown GW-5028
1968年5月リリース。
作曲 : いずみたく
編曲 : 村岡建
演奏 : 村岡建とボサ・ノヴァ・グループ
Scat : 伊集加代子
佐良直美のカヴァー。
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村岡建とボサ・ノヴァ・グループ - 夕焼けのあいつ
LP : 心
Crown GW-5028
1968年5月リリース。
作曲 : 高瀬タカシ
編曲 : 村岡建
演奏 : 村岡建とボサ・ノヴァ・グループ
Scat : 伊集加代子
泉アキのカヴァー。
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村岡建とボサ・ノヴァ・グループ - 雨の一つ木通り
LP : 心
Crown GW-5028
1968年5月リリース。
作曲 : 須田純弘
編曲 : 村岡建
演奏 : 村岡建とボサ・ノヴァ・グループ
Scat : 伊集加代子
作曲家でジャズ・ピアニストの須田純弘が
このアルバムのために書き下ろしたオリジナル曲。
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村岡建とボサ・ノヴァ・グループ - 月のしずく
LP : 心
Crown GW-5028
1968年5月リリース。
作曲 : 五代けん
編曲 : 村岡建
演奏 : 村岡建とボサ・ノヴァ・グループ
Scat : 伊集加代子
西郷輝彦のカヴァー。
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村岡建とボサ・ノヴァ・グループ - 恋はハートで
LP : 心
Crown GW-5028
1968年5月リリース。
作曲 : 三木たかし
編曲 : 村岡建
演奏 : 村岡建とボサ・ノヴァ・グループ
Scat : 伊集加代子
泉アキのカヴァー。
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佐良直美 - ボサノバ花まつり
ソノシート : ナショナル冷蔵庫 非売品
1968年リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲 : Edmundo P. Zaldivar
編曲 : いずみたく
花祭り El Humahuaqueno (Carnavalito)
原題の「エル・ウマウアケーニョ」は「ウマウアカの人」という意味。
アルゼンチンの北西部ボリビアと国境を接するフフイやサルタの
諸州はインディオの多い地方だ。ウマウアカはそのフフイ州の渓谷にある
小さな町である。そしてこの曲は同地のインディオが、カーニヴァルの
シーズンに踊るフォークダンスで, カルナバリート (カーニヴァルの愛称)
と呼ばれる形式で作られている。カルナバリートはペルーのワイニョが
もとになってアルゼンチン風にアレンジされた舞曲である。
作者はブエノスアイレスに生まれた Edmundo Porteno Zaldivar
エドムンド・サルディバル・イホ (ジュニア) で
1941年に発表されたが元はフォークローレ民謡曲だと思われる。
これがフランスに入って1953年に Jacques Plante ジャック・プラント
のフランス語歌詞がつき、「花祭り」 La fete des fleurs という題の
シャンソンになり1954年に Yvette Giraud イヴェット・ジローの
歌がリリースされたが、大ヒットしたのは 10年ほど後のことである。
それ故に日本では「花祭り」の題でポピュラーになったが
こちらの歌詞は原曲とは異なり、カーニヴァルに花と楽師を乗せて
流れを行く舟の姿を歌ったもの。そこに山上路夫が詞をつけて
いずみたくがポップなアレンジを施したのがこの曲である。
歌は「ボサノバ花まつり」というタイトルだが、本質的には
フォークダンスにカテゴライズするべきだろう。
佐良直美 (さがら なおみ、1945年1月10日生れ)
日本の女性歌手・タレント・女優・作曲家・実業家。
出生名は山口納堡子 (やまぐち なほこ) だが、現在は戸籍名を
芸名と同じく佐良直美に改名している。日本芸術専門学校特別講師。
東京都出身で、明治時代の漢学者川田甕江の玄孫で住友財閥の
常務理事の川田順 (甕江の三男) の従曾孫にあたる。
遠縁に吉永小百合がいる。また山本直純の妻の山本正美も遠縁にあたる。
日本大学藝術学部を卒業後、1967年に「世界は二人のために」で
歌手活動を始めて120万枚のレコードを売り上げ、
第9回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、同年の第18回NHK
紅白歌合戦に初出場する。1968年に「世界は二人のために」が
第40回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に採用された。
1969年に「いいじゃないの幸せならば」で第11回日本レコード大賞
を受賞し、女性歌手初の日本レコード大賞新人賞・大賞受賞者となる。
1970年に芸術選奨新人賞を受賞する。1971年に所属事務所である
オールスタッフプロから独立し、(株)佐良直美音楽事務所を設立する。
歌手としてだけでなく、作曲(テレビドラマの音楽も担当)、
タレントとしてのバラエティー番組への出演やテレビ番組の司会、
女優としても『ありがとう』に出演するなど、多方面で活躍した。
1980年にタレントのキャッシーとの同性愛関係スキャンダル報道が
されて以後は、次第に芸能活動から遠ざかり、同年のNHK紅白歌合戦
も落選した。佐良本人は後に「あれは何がなんだか全然わかりません。
ビックリするだけでした。ただ、どの社会にも裏表や力関係がある。
そういうことなんでしょうね」と騒動を否定している。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
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山上路夫
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いずみ たく |
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梓みちよ
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梓みちよ - 花束のうた
ソノシート : ナショナル冷蔵庫 非売品
1968年リリース。
作詞 : 藤浦洸
作曲 : いずみたく
女声合唱愛唱歌集「うたのブーケ」に収録するような
ほのぼのホームソングとボサリズムの融合。
作詞を担当した藤浦洸さん (ふじうら こう) は戦前戦後を通じて
多数のヒット曲を世に送り出した作詞家である。
特に美空ひばりには、デビュー曲の「河童ブギウギ」を始め
「悲しき口笛」「東京キッド」など初期楽曲を多く提供している。
また彼は社歌や校歌も多く手掛けた。
梓みちよ (あづさ みちよ :1943年6月4日 - 2020年1月29日)
歌手、女優。本名は林 美千代 (はやし みちよ)
日本統治下の朝鮮釜山市生まれ。福岡県福岡市博多区出身。
福岡女学院中学校・高等学校2年中退。
宝塚音楽学校中退 (入学時の同期には紺 早千子こと堀内美紀がいた)。
1960年代から1970年代を中心にヒットを飛ばし
アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。
1960年、福岡女学院高校を2年で中退して宝塚音楽学校に入学。
同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、
上京し契約する (同校は中退) 約1年間のレッスンを経て、
1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズで
キングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、
歌手として本格的に活動を始める。
芸名の名付け親は渡辺プロダクション創業者の渡辺晋。
「梓弓のようにしなやかで強くなって欲しい」の意味で
名付けられたという。
1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として
発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)
が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。
また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、
人気歌手としての地位を得た。また同曲は翌1964年3月の
第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用された。
更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた
学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前で
この歌を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の
天覧歌謡曲となる。しかしその後は歌手として人気が一時低迷、
1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』まで7年連続出場していた
紅白歌合戦も翌1970年に落選、1973年まで4年間出演出来なかった。
1971年に俳優の和田浩治と結婚したが、翌1972年に離婚している。
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久美かおり - 夜明けの海
7inch single : Columbia P-22
1968年6月15日リリース。
作詞 : なかにし礼
作曲 : 東海林修
演奏 : コロムビア・オーケストラ
デビューシングルのB面。
冒頭で聴かせるこの手のグリッサンドを聴くと
海の底とか海中をイメージするのは何故だろう。
なんか竜宮城を思い起こさせるのは完全に
意識の中にハープやピアノのグリッサンドが
夢の中の御伽噺的なイメージとして刷り込まれてる
からなのだろう。そこに久美かおりのうっとりとさせる
緩やかなヴォーカルがブレンドされていく。
久美かおり (くみ かおり、本名・深町陽子、1948年2月4日生まれ)
日本の元歌手、元女優。 渡辺プロダクションに1967年から
1970年まで所属していた。「くちづけが怖い」で
第10回日本レコード大賞・新人賞(女性)を受賞。
ザ・タイガースの主演映画全て(3作)でヒロイン役を務めた
ことでも知られる。東京都渋谷区出身。
東洋音楽大学付属高等学校 (現在の東京音楽大学付属高等学校)
2年生の時、ジャズシンガーを志し、マーサ三宅 (大橋巨泉の元夫人)
に師事する。ホテルニューオータニなどでジャズを歌っていた
ところ平尾昌晃に認められたことがきっかけで、
渡辺プロダクションに所属する。
東海林修に師事しながら、渡辺プロダクションが経営していた
ミュージック・スポット「メイツ」で活動。
1967年12月に公開された植木等主演の映画『日本一の男の中の男』
に白鳥英美子や平山みきとともに「メイツガールズ」として出演する。
1968年2月、映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』の
ヒロイン・シルビイ役に抜擢され、注目される。
またこの頃、『題名のない音楽会』(NETテレビ)に出演したり、
映画『100発100中 黄金の眼』の主題歌やレナウンの
コマーシャルソングを歌った。
同年7月に日本コロムビアから『くちづけが怖い』でレコードデビューし、
梢みわ、浅尾千亜紀と共に次世代の「ナベプロ3人娘」として
当時期待された。同年12月には第10回日本レコード大賞の
新人賞(女性部門)を受賞した際、『くちづけが怖い』の歌唱披露時に
思わず感極まり涙をこらえ、特に1番目の歌詞が殆ど歌えなくなる
シーンがあった。
しかし、1969年7月公開の映画『ザ・タイガース ハーイ!ロンドン』
の撮影を最後に芸能活動を休業し、翌1970年3月に芸能界を引退した。
その後はニッポン放送でアシスタント・ディレクターとして
月曜日から金曜日まで生番組『カメ・カメ・ポップス』を担当。
1973年に作曲家・編曲家の溝淵新一郎と結婚した。
引退後は表舞台に出ることはないが、1982年に一度だけ沢田研二の
ラジオ番組『NISSANミッドナイトステーション 夜は気ままに』(TBSラジオ)
に出演しており、「芸能界一番の思い出は、ザ・タイガースと共に、
映画『ザ・タイガース ハーイ!ロンドン』の撮影でイギリス
ロンドンへ行ったこと」だと明かした。
作曲を手掛けたのは村井邦彦のパートナーでもある東海林 修。
東海林 修 (しょうじ おさむ、1932年9月6日 - 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。
その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日した
モダン・ジャズ・カルテットとの共演などで活躍していたところ、
渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインと
して同プロダクションに参入することになった。
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどの
グループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワの
デビュー・アルバム『或る日突然』(1969年)などの作品への
編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。
1970年、大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」
(スクール・メイツ)の音楽を担当。欧米のヒット曲や童謡メドレー
の編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。
演奏は宮間利之とニュー・ハードが担当した。1972年4月に
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の音楽監督に就任し、
1973年9月まで務めた。
作詞はその壮絶な人生を背景に業の深い詩で
昭和歌謡を代表する作詞家だった、なかにし礼。
なかにし礼 (なかにし れい) 本名:中西 禮三(なかにし れいぞう)
(1938年9月2日 - 2020年12月23日)
日本の小説家、作詞家。森田童子 (本名 中西美乃生 みのぶ)の叔父。
森田童子の父、中西正一は、なかにし礼の兄。
1938年9月2日、満洲国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国
黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、
渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは
家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな
影響を与えた。彼の兄の中西正一は立教大から学徒出陣として
陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
彼の兄の中西正一は、第二次世界大戦中に零戦のパイロットだった。
特別攻撃隊の生き残りで戦後は荒れた生活を送った。
なかにし礼は8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで
小学校時代は東京と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学から
東京品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、
シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。
シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中に
ヒットメーカーになる。一浪して1958年に立教大学文学部英文科に
入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部
仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に
最初の妻と結婚する。元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の
深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を
手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルの
バーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の
石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。その間、一女をもうけるも、
1966年に別居、1968年に離婚する。
石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の
歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1に作詞作曲した作品
(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。
それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」が
ヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の
執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、
NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。
兄の中西正一は、弟のなかにし礼が多額の借金を抱えて設立した
会社をいくつも倒産させた。その頃、なかにし礼の自宅には、
中西正一の家族である、正一の妻、長女、次女中西美乃生(後の森田童子)
長男の家族が住み始めた。次女の中西美乃生は、1970年の日本の暴動時代、
17歳の時に友人が校内紛争に巻き込まれ、高校を中退した。
中西美乃生の15歳から19歳までの4年間、なかにし礼と中西正一の
家族は東京・中野のなかにし礼の自宅で同居していた。
なかにし礼は1971年に、いしだあゆみの妹の石田ゆりと再婚した。
つまり、いしだあゆみの義弟は、なかにし礼となる。
それで、1971年から1972年までの1年間、中西美乃生(森田童子)
は石田ゆりと暮らしていた。兄の中西正一のゴルフ場開発の失敗により、
なかにし礼は6億円の借金を抱え、なかにし礼の会社も倒産していった。
なかにし礼は新婚生活の邪魔だったために、これを機に兄の家族と絶縁し、
追い出した。森田童子は、なかにし礼のことが好きだったが、
なかにし礼の家での生活は彼女にとってとても大変だった。
そんな時期、なかにし礼とその兄の中西正一(森田童子の父)は、
京都から東京に来た銀座のナンバーワン若手ホステス堀川麗子
という田舎娘をスカウトした。この田舎娘は後の風吹ジュンである。
彼らは風吹ジュンのために芸能事務所「Adoプロモーション」設立し、
中西正一の友人でイラストレーターの前田亜土(本名 : 前田正春、
後の森田童子のマネージャーで夫)を社長に迎えた。
事務所に所属するタレントの風吹ジュンは給料の安さに不満を抱いていた。
なかにし礼、中西正一、前田亜土は、風吹ジュンが事務所を
移籍しようとした1974年9月12日に拉致監禁事件を起こした。
彼らはヤクザを使って風吹ジュンを監禁し、事務所の異動を断念させた。
その後の裁判で風吹ジュンの事務所への移籍は認められたが、
その際に風吹ジュンの過去の経歴詐称が明らかになり
イメージダウンとなった。
中西美乃生 (森田童子) は20歳頃から歌を歌い始め、風吹ジュン誘拐事件
の翌年の1975年に22歳でデビュー。彼女の背景には多くの問題があり、
有名な、なかにし礼との関係を隠してデビューしたかったのである。
なかにし礼は若い頃から何度も繰り返した心臓疾患や離婚に加え、
1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して
全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を
肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。
1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、
2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の
照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』
『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と
向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。
2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや
核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は
若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
とも語っている。2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、
同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため
東京都内の病院で死去。82歳没。
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なかにし礼
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東海林 修 |
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江波杏子 - さよならも云えなくて
7inch single : Daiei Records D-42
1968年6月リリース。
作詞作曲 : 柴田幸一
編曲 : 池田孝
いつの事だっただろうか、江波杏子の先祖が新撰組の
沖田総司を匿った植木職人の平五郎だったと知り
新撰組研究家でもある私は目眩をおこして失神した (笑)
私の尊敬する新撰組研究家の釣 洋一先生は新撰組隊士達の
全国菩提寺を巡礼しては過去帳を読み解くという凄まじい
調査スタイルを実践された方だ。
労咳 (結核) で末期状態にあった沖田総司だが
幕府の名医である松本良順により内藤町 (現在の新宿)
の植木屋平五郎宅で匿われ療養していた。
師匠の近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に
沖田総司は死去。近藤の死を知らないまま亡くなったとも
いわれる。幕末当時、身分制度で苗字を持っていなかった
植木屋の平五郎だが、明治3年に公布された平民苗字必称義務令
によって柴田平五郎と名乗るようになった。
その柴田平五郎を高祖父に持つ女優の江波杏子が
さよならも言えず他界した沖田総司の情念が乗り移ったかのように
「さよならも云えなくて」というタイトルのボサを歌う。
嗚呼、土方さん、私はどうすればいいのですかっ!
やはり、私は目眩をおこして失神してしまう (爆)
江波杏子 (えなみきょうこ : 1942年10月15日- 2018年10月27日)
日本の女優。東京都渋谷区千駄ヶ谷出身。宝仙学園高等学校出身。
本名は野平香純。高祖父は、最後に沖田総司を匿った植木職人の
柴田平五郎。母・江波和子は戦前に東宝で活躍した映画女優。
デビュー後しばらくの間は、悪女や情婦などの役柄を中心に
助演が続いたが、1966年、当初『女の賭場』での主演を
予定されていた若尾文子が自宅風呂場での転倒による怪我を
理由に降板し、江波が代役として主演に抜擢された。
そこで演じた胴師ぶりがうまくハマり、同作品はヒット。
以後、昇り竜のお銀を主人公とした「女賭博師シリーズ」
として定着し、1971年の『新女賭博師 壷ぐれ肌』まで
全17本が制作され、東海道新幹線の車内で本物のヤクザから
「姐さん、きょう賭場が開いてますよ」などと声を
掛けられるほどの当たり役となった。
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徳永芽里 - 白い雨
7inch single : Columbia LL-10057-J
1968年6月リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
1946年11月25日生まれ。Mary Tokunaga ハーフの
タレント、女優、歌手。どちらかと言うとピンキーとキラーズの
今陽子っぽい発声の歌声である。
ジュディー・オングと同時期にデビューしテレビの音楽番組や
GS映画などに出演した。歌手としては、後にテレサ・テンも
カヴァーした佐々木 勉作品「あなたのすべてを」1967年に
Columbia LL-10027-JC でデビュー。
同年に佐々木 勉自身も「あなたのすべてを」で歌手
(シンガーソングライター)としてデビューを果たし競作となった。
ラジオでは前田武彦がメインパーソナリティを務めた
夜の番組 (22時台・23時台) 「フレッシュイン東芝
ヤング・ヤング・ヤング」で徳永芽里がパートナーを
務めた時期もあった。
1967年10月4日から1968年9月29日まで東京12チャンネルで
放送されていたバラエティ番組『街ぐるみワイドショー』で
丹下キヨ子に代わって(第17回以降、1968年1月31日 - 1968年9月29日)
司会を務めた。テレビドラマでは大橋巨泉が主演を務めた『こりゃまた結構』
(1967年10月7日から同年12月30日までTBS系列局で放送されていた)
に出演。また「二人の銀座」のコンビの才賀明がシナリオを執筆し、
鍛冶昇が監督した青春もの『東京ナイト』1967年日活、
『小さなスナック』1968年松竹 (主演は藤岡弘で、「小さなスナック」を
歌ったパープル・シャドウズも助演)、「夜明けの二人」の桜井義久が
脚本を担当、「囁きのジョー」の斎藤耕一がメガホンをとった
青春もの『思い出の指輪』1968年松竹の映画に出演している。
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筒美京平 |
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ピンキーとキラーズ - つめたい雨
7inch single : King Records BS-865
1968年7月20日リリース。
作詩 : 岩谷時子
作曲編曲 : いずみたく
デビューシングルB面。
1967年に15歳で「甘ったれたいの」でビクターレコードから
ソロ歌手としてデビューした今陽子(ピンキー)が
キングレコードに移籍し、男性ヴォーカルのジョージ浜野、
エンディ山口、ルイス高野、パンチョ加賀美の4人と結成。
グループ名は、当時アメリカで流行っていた男女混合バンドの
スパンキー&アワ・ギャングをもじったもので、作曲家の
いずみたくが命名した。当時、今陽子はいずみたくの事務所に
所属しており、いずみは彼女を売り出すためグループに
することを考えて、ルイスたち男性陣を集めてピンキーとキラーズ
を結成させた。この頃の音楽業界では“大きな女性歌手は売れにくい”
というジンクスがあり、ルイスたちは高身長の今陽子 (167cm) に
不安を感じた。しかし陽子の歌声を聞いたルイスたちは彼女の声量が
すごく、リズム感の良さや英語歌詞も上手に歌えたことから
「これはモノになるぞ」と確信したという。
1969年1月、4枚目のシングル「涙の季節」が発売され
1位になり、続く「七色のしあわせ」が4位、「星空のロマンス」
が10位とオリコンのトップ10に入ったが、それ以降
トップ10からは遠ざかった。
その後デビューから4年で陽子がグループを脱退したが、
実はグループ結成の時点でルイスたち男性陣にはいずみから
陽子の処遇について事前に聞かされていた。
それは「ピンキーが20歳になったら、その時ピンキーとキラーズが
売れていても売れていなくても、この子はソロで活動させる」
という話だった。ただし陽子本人にはこの話は知らされていなかった。
このためルイスが人づてに聞いた話として、「『私(陽子)が
ピンキーとキラーズを脱退になったのは、自分の努力が
足りなかったせい』と裏事情を知るまで責任を感じていた」とのこと。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
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いずみ たく
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渚まゆみ - アイ・ラブ・ユー
7inch single : Daiei Records D-47
1968年7月リリース。
作詞作曲編曲 : 藤家虹二
演奏 : 大映レコーディング・オーケストラ
浜口庫之助夫人。
のっけから感情を込めて歌うので「これは来るな」と
思ったら案の定、セカンドヴァースの二度目の
「I Love You」のとこで Higher Key (ハイヤー・キー) になる。
サイケ系のスラングでレコーディング最中にパフォーマーが感情を
込め過ぎてトリップしてしまい (もしくは意図的に)我を見失い
ハイテンションになり意外な結果を生み出してしまうこと。
ここで、渚まゆみの声がブレてしまっている。
私は聴いていて眼の瞳孔が開いて硬直してしまう (笑)
私にとって渚まゆみと言えば、仁義なき戦いシリーズ
仁義なき戦い (1973年)
新庄秋子 (演者・渚まゆみ) … 山方の女。さらに坂井の女へ。
山方新一 (モデル・山平辰巳 : 演者・高宮敬二) 山守組若衆 (幹部)。
広能の親友。有田たちに殺された山方の女だった新庄秋子 (演者・渚まゆみ)
は坂井鉄也の女になっていた。
坂井鉄也 (モデル・佐々木哲彦 : 演者・松方弘樹) 山守組若衆頭。
組を公平に運営しようとするが山守の策謀もあって、これに不快を示す
幹部仲間を次々と粛清する。子供への土産を買っている最中に射殺される。
仁義なき戦い 頂上作戦 (1974年)
三重子 - 渚まゆみ:松井の情婦。ヤッチンこと福田の元情婦。
「ウチには打本も早川も関係ないんじゃけん!わあああ (号泣)」
松井隆治 - 宮城幸生:早川組若衆。杉本の兄貴分。
杉本博 - 夏八木勲:早川組若衆。(四代目共政会会長、沖本勲)
福田泰樹 - 長谷川明男:打本会若衆。渾名はヤッチン。
鼻を削がれた後に惨殺される。(藤田逸喜)
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渚まゆみ、1944年10月10日生れ、秋田出身。
日本の女優、歌手。高校中退後、1961年に映画
『夕やけ小やけの赤とんぼ』 (島耕二監督) で主演デビュー。
大映の新人スターとして売り出される。芸名の「渚まゆみ」は
作曲家の山田耕作が命名した。
青春映画、ヤクザ映画、時代劇など実に幅広いジャンルの
映画に数多く出演した。また、歌手としても活動した。
1973年、浜口庫之助と年齢差27歳の結婚をして事実上引退、
翌年に長女を出産した。1990年に浜口が他界した後は、
サスペンスもののテレビドラマなどに出演するようになっている。
娘夫婦と孫がいるロンドンと六本木の自宅を往復する生活を送っている。
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丸山明宏 - 黒蜥蜴の歌
7inch single : King Records BS-881
1968年8月20日リリース。
作詞作曲 : 丸山明宏
編曲 : 中村八大
江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台作品、
音楽と映像による強烈なデカダンス映画『黒蜥蜴』から。
世紀の大泥棒、緑川夫人の欲深いボサ。
美輪明宏 (みわあきひろ : 1935年5月15日生れ。長崎県長崎市出身。
日本の歌手。俳優・演出家・タレント・声優・コメンテーター・ナレーター
としても活動している。
本名及び1971年までの芸名は丸山明宏 (まるやま あきひろ)、
幼名は臣吾 (しんご)。愛称はマルさん。
美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊廓」と呼称された遊廓の近くで
「世界」という名前のカフェや料亭を経営して成功を収めており、
経済的に豊かな環境で育った。1941年12月、イギリスやアメリカ合衆国
との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は
時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェを閉店せざるを
得なくなり、金融業に転業する。
1945年8月9日、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町
にある自宅において、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に
御伽草子の「万寿姫」の絵を描いていた。絵の仕上がりを
確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを
焚いたような白い光をみた。その直後に激しい爆発音が聞こえ、
家がぐらぐら揺れて傾いた。それは原子爆弾によるものであった
長崎市への原子爆弾投下。女中に促され2人で布団をかぶると
すぐさま空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた
兄を起こして、3人で防空壕に向かった。6日後の終戦の日に
爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、
惨状を目の当たりにする。
原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため
返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。
その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等
の不幸に見舞われ美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎の
ボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノの
レッスンを受け始める。海星中学校では、同期に西岡武夫がいた。
1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で
寺山が美輪のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』
や『毛皮のマリー』に主演する。
1968年、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。(初版は大光社より)
江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『黒蜥蜴』に主演して
以降も、『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』
といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマ
での主演を続ける。また1970年からはTBSラジオ「ラジオ身の上相談」
を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という
長期に渡り続いた。
松竹1968年版 映画『黒蜥蜴』1968年(昭和43年)8月14日封切。
1時間26分、カラー・ワイド作品。
製作・配給:松竹大船。監督:深作欣二。
原作戯曲:三島由紀夫。脚本:成沢昌茂、深作欣二。
音楽:冨田勲。製作:織田明。撮影:堂脇博。照明:三浦礼。
録音:田中俊夫。調音:佐藤広文。美術:森田郷平。
編集:浦岡敬一。監督助手:大江英夫。
メークアップ・アーチスト:工藤貞夫
キャスト
黒蜥蜴 (緑川夫人):丸山明宏 (現・美輪明宏)
明智小五郎:木村功
日本青年の生人形:三島由紀夫 (特別出演)
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中村八大 |
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岡崎広志とスターゲイザーズ - Call Me
LP : The Late Late Show
Columbia XMS-10006-CT
1968年8月リリース。
作詞作曲 : Tony Hatch
Chris Montez のヴァージョンのジャズヴォーカルカヴァー。
この曲は Tony Hatch が作詞作曲した楽曲。
1965年にイギリスの Petula Clark が発表し、
同年に Chris Montez がカヴァーした。
Chris Montez のヴァージョンは Herb Alpert と Tommy LiPuma
がプロデュースしたボサノヴァ風のソフトロック作品で
ビルボード・イージーリスニング・チャートで2位を記録し
Chris Montez のスタイルを確立させた。
11PMテーマソング “サバダバ サバダバー”の
作者でお馴染みの岡崎広志、奥さんはヴォーカリストの田井聖子。
これはヴォーカリスト、サックス・プレイヤーである
岡崎広志 (現:岡田愛詩) が結成したグループ。
岡崎広志はこれ以前にフォー・シンガーズを結成していた。
結成当初は岡崎広志、大久保計利、西城慶子、団洋子の
4人から成る男女混声コーラス・グループ。
団洋子は元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの
日本語の声を担当していた声優でもあった。
その後、西城慶子の病気療養による一時活動休止により
女性1名が欠員となり、オーディションで選出された伊集加代子が
西城慶子に代わりメンバーとなった。1965年 - 1967年活動。
1977年にアルバム「ウェルカム・バック!」をリリースしたが、
この時のレコーディングメンバーは岡崎、大久保、伊集の3人と、
後にシンガーズ・スリーのメンバーとなった尾形道子の4人だった
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岡崎広志とスターゲイザーズ - This Could Be The Start Of Something
LP : The Late Late Show
Columbia XMS-10006-CT
1968年8月リリース。
作詞作曲 : Steve Allen
Mark Murphy のカヴァー。
作者の Steve Allen はアメリカのテレビおよびラジオのパーソナリティ、
コメディアン、ミュージシャン、作曲家、作家、俳優。
1954年に初の深夜テレビ トーク ショーであるザ トゥナイト ショー
の共同制作者および初代司会者として全国的な名声を博した。
Steve Allen はピアニストであり、多作な作曲家でもあった。
彼自身の推定によると、彼は 8,500 曲以上の曲を書き、その一部は
多数の一流歌手によって録音された。
彼は自身が作詞した「Gravy Waltz」で1964年のグラミー賞
最優秀オリジナル・ジャズ作曲賞を受賞した。
11PMテーマソング “サバダバ サバダバー”の
作者でお馴染みの岡崎広志、奥さんはヴォーカリストの田井聖子。
これはヴォーカリスト、サックス・プレイヤーである
岡崎広志 (現:岡田愛詩) が結成したグループ。
伊集加代子のスキャットをフィーチャー。
岡崎広志はこれ以前にフォー・シンガーズを結成していた。
結成当初は岡崎広志、大久保計利、西城慶子、団洋子の
4人から成る男女混声コーラス・グループ。
団洋子は元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの
日本語の声を担当していた声優でもあった。
その後、西城慶子の病気療養による一時活動休止により
女性1名が欠員となり、オーディションで選出された伊集加代子が
西城慶子に代わりメンバーとなった。1965年 - 1967年活動。
1977年にアルバム「ウェルカム・バック!」をリリースしたが、
この時のレコーディングメンバーは岡崎、大久保、伊集の3人と、
後にシンガーズ・スリーのメンバーとなった尾形道子の4人だった
伊集 加代 (いしゅう かよ、1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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伊集 加代子 |
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ホキ徳田 - あの日のあなた ヘンリー・ミラー愛の世界 (Love Forever)
7inch single : CBS/Sony SONA 15004
1968年9月5日リリース。
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞 : ヘンリー・ミラー
訳詩 : ホキ徳田
作曲 : いずみ たく
編曲 : 渋谷毅
元スリー・バブルス、ヘンリー・ミラー・元夫人
1937年11月14日生れ。ピアニスト・クラシック音楽・ジャズ歌手・女優。
アメリカの文豪 ヘンリー・ミラーの8人目の妻として知られる。
東京出身。エスペランティスト・NHK解説委員の徳田六郎の長女
として東京上野に生まれる。本名浩子。母方は弓の達人那須与一の
子孫にあたり、祖母は東京六本木の東洋英和女学院の創立者である。
3歳からピアノと音楽を学び、桜美林高等学校卒業後、
カナダの音楽学校アルマ・カレッジに留学。
そのカナダのカレッジの級友が「ヒロコ」をなまって「ホキ」と
呼んだためこれを芸名とした。
何故「ヒロコ」がなまって「ホキ」になるのかと言うと
「ヒロコ」と呼ばせるには HILOKO とすべきだが
日本では英語をローマ字表記に置き換えるため HIROKO と書く。
英語では RO は「ゥロ」と発音するので、例えば広島を HIROSHIMA
と書くとアメリカ人は「ヒゥロシマ」と発音するので
殆ど「ホロシマ」に近い。そのため HIROKO と書くと「ヒゥロコ」
と発音するので「ホロコ」に近い。ホロコが言い難いカナダの
級友は彼女を「ホキ」と呼んだことが推察される。
帰国後、1958年にコーラスグループ「スリーバブルス」としてデビュー。
日劇ミュージックホールやテレビドラマ『サラリーマンの勲章』、
『ザ・ガードマン』、映画『にっぽんぱらだいす』(1964年)、
『怪談昇り竜』(1970年)などに出演する。
1965年に渡米、ロサンゼルスの高級日本食レストラン
「インペリアル・ガーデン」でピアノを弾いて歌っていたところ
ヘンリー・ミラーに出会い翌年に結婚。
46歳年上のミラーとの結婚は日本のマスコミを賑わすが、3年後に別居、
1978年に離婚した。年齢差があったことから、遺産目当てと目されて
欧米では批判的な記事が踊った。あるパーティで徳田を見染めたミラーは
ロスの日本料理店でピアノを弾いていた徳田のもとに通い詰めた。
300通以上の膨大な数の熱烈なラブレターを徳田に送り続けたが
徳田自身は、単に日本女性を自分の恋愛コレクションに
加えたいだけのようだったとインタビューに答えている。
徳田の滞在ビザが切れそうになったのをきっかけに、
寝室は別にすることと友人の同居を条件に、徳田が結婚を承諾。
300通以上のラブレターは、当初徳田がミラーに興味がなかったことと、
英語の問題で未開封のものもあったが、のちに本としてまとめられた。
手紙の実物は徳田の生活費のために売却された。
渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
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渋谷 毅
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いずみ たく |
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ホキ徳田 - ベッドで煙草を吸わないで (Don't Smoke In Bed)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞 : 岩谷時子
作曲 : いずみたく
編曲 : 渋谷毅
沢たまきのカヴァー。
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ホキ徳田 - イエスタデイ (Yesterday)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞作曲 : John Lennon-Paul McCartney
編曲 : 渋谷毅
The Beatles のカヴァー。
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ホキ徳田 - 別離 (C'est irreparable)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
訳詞 : 漣健児
作詞 : Nino Ferrer
作曲 : Gaby Verlor- Nino Ferrer
編曲 : 渋谷毅
Nino Ferrer のカヴァー。
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ホキ徳田 - オルフェの唄 (La chanson d'Orphee)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
英語訳詞 : John William
作詞 : Antonio Moraes
作曲 : Luiz Bonfa
編曲 : 渋谷毅
Luiz Bonfa のカヴァー。
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ホキ徳田 - 女の恋ははかなくて (Woman and Love)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞作曲:鈴木道明
編曲 : 渋谷毅
西田佐知子のカヴァー。女の意地 (女の恋ははかなくて)
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ホキ徳田 - 夜霧よ今夜もありがとう
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞作曲:浜口庫之助
編曲 : 渋谷毅
石原裕次郎のカヴァー。
恐ろしい事に昭和を代表するムード歌謡の傑作
「夜霧よ今夜もありがとう」のエンディングで
高速サンバが入る。渋谷毅の狂気が秘かに隠れていた。
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ホキ徳田 - 指さすのは止めて (Love Me Like Before)
7inch single : CBS/Sony SONA 15004
1968年9月5日リリース。
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詩 : ホキ徳田
作曲 : いずみ たく
編曲 : 渋谷毅
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ホキ徳田 - デイトリッパー (Day Tripper)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞作曲 : John Lennon-Paul McCartney
編曲 : 渋谷毅
The Beatles のカヴァー。
The Beatles のカヴァーというより
1967年の Tamiko Jones With Herbie Mann "Day Tripper" ヴァージョン
によってこの曲はボサボヴァフィールドでカヴァーが増殖した。
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ホキ徳田 - 君に夢中 (Goin' Out of My Head)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞 : Bobby Weinstein
作曲 : Teddy Randazzo
編曲 : 渋谷毅
Little Anthony And The Imperials のカヴァー。
途中から日本語で歌っている。
趣は異なるが私的には The Zombies のカヴァーヴァージョンと
ホキさんのヴァージョンは双璧である。
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ホキ徳田 - この恋に生きて (It Must Be Him)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
英語詞 : Mack David
作詞 : Maurice Vidalin
作曲 : Gilbert Becaud
編曲 : 渋谷毅
Vikki Carr のカヴァー。
オリジナルはフランスのシャンソン歌手 Gilbert Becaud
ジルベール・ベコーが1966年に発表した “Seul sur son etoile”
(邦題 : ひとり星の上に)である。
この曲をアメリカの女性歌手 Vikki Carr が「It Must Be Him」と
Mack David の英訳詞を付けて歌い1967年9月2日をピークに
全米3位となった。ホキ徳田のカヴァーヴァージョンは
Vikki Carr のヴァージョンを日本語と英語のミックスで歌っている。
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ホキ徳田 - 別れ話 (Smile Before Say Goodbye)
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞 : ホキ徳田
作曲 : いずみたく
編曲 : 渋谷毅
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ホキ徳田 - あなたの面影
LP : "あの日のあなた" と ボサ・ノヴァと・・・
CBS/Sony SONL-90001
1968年9月5日リリース。
作詞作曲 : 荒木一郎
編曲 : 渋谷毅
荒木一郎のカヴァー。
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加山雄三 - ロンリー・ナイト・カミング
LP : 君のために
東芝 TP-7271
1968年9月10日リリース。
作詞 : 岩谷時子, 弾 厚作
作曲 : 弾 厚作
1968年映画「リオの若大将」插入曲.。
加山雄三、本名:池端 直亮 (いけはた なおあき)
1937年4月11日生れ、日本の歌手・俳優。
神奈川県横浜市生まれ、茅ヶ崎市出身。
ニックネームは若大将。作曲家として弾 厚作 (だん こうさく)
のペンネームを用いる。公益財団法人日本セーリング連盟応援団長、
文化功労者。父は俳優の上原謙 (池端清亮)、
母は女優の小桜葉子 (池端具子)。妹は池端亮子。
母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。
慶應義塾大学法学部政治学科卒業後の1960年春に東宝へ入社。
同年『男対男』で映画デビュー、『独立愚連隊西へ』で初主演。
当時、東宝本社と同じく有楽町にあった渡辺プロダクションにも
一時期在籍した。
1961年、『夜の太陽』で歌手デビュー。NHK『紅白歌合戦』出場17回。
代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に
先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、
また日本で初めて多重録音を手がけた歌手でもある。
ソングライターとしてのペンネームは、加山が尊敬している團伊玖磨と
山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく/ドン・コサック)
であり、同名義で作曲(稀に作詞もある)している。
1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された
『君といつまでも』はレコード販売350万枚の大ヒットになり、
1966年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたが、
結局大賞は同曲に比べ売上面で劣る橋幸夫の『霧氷』が
受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まる。
俳優としてはそれまでの宝田明に代わって東宝の若手看板スター
として大活躍、娯楽映画の「若大将シリーズ」が大ヒットし
代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八と
いった名匠の作品にも多く出演している。
ブロマイドは女学生を中心に爆発的な売れ行きを記録した。
1964年、加山雄三は従弟の喜多嶋瑛、喜多嶋修の兄弟と、
大矢茂の4人で、第二期ザ・ランチャーズを再結成した。
1965年、7月〜8月にかけて、ザ・ベンチャーズとTV番組で
共演し、永年に渡る彼らとの交友関係のきっかけとなった。
1966年、高校生であった喜多嶋修と大矢茂に芸能活動の
制限が掛かり、サポートメンバーとしてサイド:堤光生、
ベース:岩崎道夫が参加、映画「歌う若大将」に映像として残っている。
同年3月には、来日中のザ・ベンチャーズより直接ギター演奏の
指導を受ける機会があり、その時の模様は堤光生によって録音されていた。
1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業。
1967年、運営会社の日本観興開発(後に株式会社パシフィック・ジャパン
に改称)取締役に就任。しかし、パシフィック・ジャパンは
1970年3月に23億円の負債を抱え倒産。ホテルは18億円で売却され、
監査役だった加山は、父の上原と共に巨額の債務を抱えた。
加えて、女優松本めぐみとの結婚が世間を騒がせ、
1969年の『フレッシュマン若大将』以降低迷した同シリーズが
1971年に終了、映画出演の減少もあいまって、かつてない不遇の
時代を迎える。ナイトクラブ、キャバレー回りをするも、
ギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へと
追い込まれるが、10年で完済した。
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沢田駿吾
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村岡 健 |
沢田駿吾=村岡健オールスターズ - エメラルドの伝説
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 村井邦彦
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
ザ・テンプターズのカヴァー。
昭和初期、服部良一は本格的なジャズの作曲・編曲でヒット曲を連発した。
彼が和製ポップスのヒントとしたのは『民謡』だった。
佐々紅華 (さっさ こうか)、服部良一たち昭和初期にジャズの影響を
受けて新しい音楽を作っていた作曲家たちは、単にコピーするのではなく、
日本的な音楽を作ることが頭にあった。その時、日本的な素材として
民謡が取り上げられた。そのような状況だったので我が国の
流行歌は『民謡』と『ジャズ』のミクスチュアー的な要素を含んでいた。
ここで行われたのは昭和歌謡とボサノヴァの融合であり
ジャズクロスオーヴァーの領域で和と洋の融合 (Fusion フュージョン)だ。
逆説的にこれは日本のジャズミュージシャンたちによるアイデンティティの
確立であり、1960〜70年代にかけて、日本のジャズマンは盛んに
日本独自の表現を模索していった。
沢田駿吾、本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』(1944年アメリカ映画)を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送(現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。
村岡建 (むらおかたける) は1941年1月12日、東京生まれの
サックス奏者、クラリネット奏者、フルート奏者。
中学生時代にジャズに興味を持ち、ジェリー・マリガン・カルテット
の「バードランドの子守り唄」にインスパイアされた。
文化学院在学の時アルト・サックスを持ってアルバイトで
クラブの仕事をするようになり新宿のジャズ喫茶「きーよ」に
徹夜で入り浸る。文化学院を卒業する頃の1959年に
ジョージ川口 BIG 4+1 にスカウトされてプロ・デビューした。
1960年6月に五十嵐武要クインテットに加入しテナーサックス
に転向した。この頃銀座・銀巴里で日野皓正、稲葉国光、菊地雅章
らと知り合いとセッシヨンを重ねた。この後ビッグバンドの
浜水俊朗とゲイ・スターズ、1964年4月には白木秀雄クインテットに
参加し白木クインテットで日野皓正とともに1965年10月に
ベルリン・ジャズ・フエステイバルに出演した。
しかしこのフエステイバルで多くの世界の一流ジャズメンと接し
自身の未熟さを痛感し白木クインテットを退団した。
1966年1月に小原重徳とブルーコーツに入団。1年半ほど
サックス演奏技術の徹底的研鑚をした。この頃に渡辺貞夫が
アメリカバークレイから帰り、そのメソッドを自宅で教えており
村岡もその教室にも通って勉強した。そのうちにスランプに陥り
偶然耳にした R&B バンドが気に入り、ふらふらと入団し
約3ヶ月在団した。その後1967年10月に西条孝之介が抜けた
沢田駿吾クインテットに迎えられた。
1968年2月には菊地=日野クインテット、菊地が抜けた後の
日野皓正クインテットで1970年秋頃まで活躍し
日野と村岡の2管フロントラインは大人気を得てヒノテル・ブーム
と呼ばれる社会現象となった。
この間1969年3月に石川晶とカウント・バッフアローズにも参加。
1970年2月には菊地雅章らとカルテットで初リーダー作「Takeru」
を録音し全5曲すべて自身のオリジナルを提供した。
日野クインテット退団後にはフリーダム・ユニテイ、
石川晶とゲンチャーズ、自身の村岡建とブラス・セクシヨン等、
多くの分野のジャンルのミュージシヤン、歌手と共演し
膨大な数の録音に参加している。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 天使の誘惑
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 鈴木邦彦
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
黛ジュンのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 星を見ないで
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 平尾昌晃
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
伊東ゆかりのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 草原の輝き
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 井上忠夫
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
ジャッキー吉川とブルー・コメッツのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 思い出の指輪
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 筒美京平
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
ヴィレッジ・シンガーズのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 夢でいいから
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 筒美京平
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
いしだあゆみのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 恋のときめき
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 鈴木淳
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
小川知子のカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - シー・シー・シー
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 加瀬邦彦
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
ザ・タイガースのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 花の首飾り
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : すぎやまこういち
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
ザ・タイガースのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 悲しくてやりきれない
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 加藤和彦
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
ザ・フォーク・クルセダーズのカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 愛の園
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 平尾昌晃
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
布施明のカヴァー。
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沢田駿吾=村岡健オールスターズ - 花のマドンナ
LP ヒット・アンド・ヒット・イン・ボサノバ
Columbia YS-10041-J
1968年9月10日リリース。
作曲 : 筒美京平
ギター : 沢田駿吾
サックス : 村岡健
ヴァイヴ : 前田憲男
トロンボーン : 鈴木弘
伊東きよ子のカヴァー。
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石坂浩二 |
石坂浩二 & The San Sebastian Strings ? お風呂でサーフィン
LP : 海へ帰ろう Home To The Sea
Warner Bros. Seven Arts Records BP-8807
1968年9月リリース。
作詞 Producer : Rod McKuen
訳詞 : 岩谷時子
作曲 Producer : Anita Kerr
ナレーション : 石坂浩二
ロッド・マッケンの詩にアニタ・カーが作曲した企画アルバムの
日本語ヴァージョン。岩谷時子が日本語詞をつけた。
この手の趣のボサチューンとなると The Hellers - Singers…Talkers…
Players…Swingers… & Doers (Command RS 934 SD) なんかと
同傾向の作品として認知すべきだ。
このアルバムリリース時はウルトラセブンの最終話の頃だが
どうしてもウルトラマンのナレーターとしての石坂さんの
イメージが強く、声を聴いているとカラータイマーの音が
気になるのは私だけだろうか?うふふふ
石坂浩二 (いしざか こうじ : 1941年6月20日生れ)
日本の俳優・タレント。石坂ミュージカル・エンタープライズ社長。
2015年10月からプロダクション尾木に所属。
本名は武藤兵吉で、親しい芸能人には「へーちゃん」と呼ばれる。
ナレーターとしても新人時代の『ウルトラQ』『ウルトラマン』(前半)
をはじめ、『シルクロード』や『関ヶ原』などで活躍。
画家としても知られ、自らの作品の展覧会を度々開催することもある。
また、1976年6月26日に開催された異種格闘技戦
アントニオ猪木対モハメド・アリ戦の広告ポスターを描いた。
そのポスターを見たモハメド・アリが「私はこんなに醜い男ではない」
と苦笑したという。その猪木対アリ戦で、アントニオ猪木が入場の際に
着用したリングガウンも石坂のデザインで製作されたものである。
画家として1974年から1985年まで二科展に連続入選している。
プラモデルの愛好家としても知られる。
元関東明治屋商事株式会社 (現:明治屋) 取締役の武藤吉二は父。
元横浜市長の平沼亮三は外祖父、元ポニーキャニオン常務取締役で
音楽プロデューサーの渡辺有三は従弟に当たる。
私生活では加賀まりことの同棲を経て1971年に浅丘ルリ子と
結婚するも、ほどなくして別居するようになる。
2000年12月、女優である浅丘に実母の介護をさせるわけには
いかないとして離婚。離婚から間もない5日後に2001年1月に
再婚を発表。大橋巨泉事務所から独立、フリーとなる。
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クラウディア - 恋のカローラ
7inch single : Seven Seas HIT-1544
1968年9月リリース。
Also released in Jun 30 1969
LP : O Meu Corolla
Seven Seas SR 235
1969年6月30日リリース。
作詞作曲:浜口庫之助
編曲:ありたあきら (小杉仁三)
本名 Maria das Gracas Rallo
ブラジル人シンガーのクラウディア・ラロ。
彼女は日本では1968年7月に下記シングルをリリース
クラウジア・ラロ (Claudia Lallo) ?
砂浜のバラード / サンバ・ナンバー・ワン (Polydor DP-1572)
「クラウジア」ってなんか性病クラミジアみたいで可愛そうなんすけど!
それでカタコト日本語歌を披露した。
その後、キング傘下の洋楽レーベル Seven Seas へ移籍して
装いも新たに本件シングルをリリースした。
洋題は O Meu Corolla / Vamos Dansa La Bossa Nova
でトヨタの車カローラのCMソングとして
浜口庫之助が作った「恋のカローラ」は当時話題になった。
Monty Norman が書き John Barry が編曲した James Bond Theme
の有名なリフを応用したのではなかろうか。
スパイ映画のようなスリリングなボサである。
録音は彼女がまだ20歳にも満たない売り出し期である
1968年の来日時に行われたもの。
クラウディアが歌う初代カローラのCMソング「私のカローラ」を
その後誕生したカローラのファーストバックモデルで
兄弟車種カローラ スプリンターのCM用に歌詞を一部変えた
ポルトガル語ヴァージョン「私のスプリンター」のソノシート盤もある。
クラウディア・ラロは1948年5月10日生まれ。
彼女は非常に早くからキャリアをスタートし、わずか9歳のときに
番組で歌い始めた。彼女はMG州ジュイス・デ・フォーラの
ラジオ・ソシエダーデで特集され、その街は彼女が育った街であり
彼女の声は当時から非常に力強かった。彼女は首都サンパウロに移り
いくつかの新入生プログラムで、いつも講堂で歌った。
1960年、サンパウロのテレビ番組でエリス・レジーナと
ジャイール・ロドリゲスの「オー・フィノ・ダ・ボッサ」を
何度か歌った。1969 年、クラウディアは第1回フルミネンセ歌謡祭
に出場し、エドゥアルド・ラーゲとアレシオ・デ・バロスの
Razao de Paz para nao Cantarで1位を獲得した。
その後、彼女は非常に名誉ある歌手としていくつかの国を旅し
日本、ギリシャ、メキシコ、ベネズエラのフェスティヴァル
に出演した。彼女はブラジル国内よりも海外で多くの賞を
受賞しており、彼女は国内の歌手というよりも国際的な歌手
であると言われていた。
編曲は小杉仁三。昔持っていた小杉さんの写真が紛失したので
小杉さんの画像掲載は諦めた。小杉さんは日本クラウンと専属契約
していた時期があり、その時期にクラウン以外で活動した際には
ありたあきらの別名を使用していた。
例えば、ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」(編曲 ありた・あきら」)
小杉さんが編曲を手掛けた歌謡曲は多数ある。小林旭
「恋の山手線」(作曲:浜口庫之助)から美川憲一
「柳ヶ瀬ブルース」(作曲:宇佐英雄)他挙げれば切がない。
小杉仁三は昭和歌謡を代表するアレンジャーである。
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浜口庫之助 |
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クラウディア - はだしのボサノバ
7inch single : Seven Seas HIT-1544
1968年9月リリース。
Also released in Jun 30 1969
LP : O Meu Corolla
Seven Seas SR 235
1969年6月30日リリース。
作詞作曲:浜口庫之助
編曲:ありたあきら (小杉仁三)
この曲はA面「恋のカローラ」の応用で作られている。
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鈴木庸一 |
鈴木庸一とラテン・カンパニオン・應蘭芳 -
夢は夜ひらく (Dream Blooms In The Night)
LP : ピンク・ムード・デラックス第3集
Victor SJV-386
1968年10月5日リリース。
作詞 : 富田清吾, 中村泰士
作曲 : 曽根幸明
編曲:鈴木庸一
鈴木庸一とラテン・カンパニオン
テナーサックス:道井明
ナレーション:應蘭芳
園まりのカヴァー。
原曲は、東京少年鑑別所 (練馬少年鑑別所、通称ネリカン)
で歌われていた俗曲を採譜・補作し、曽根が自ら「藤原伸」名義で
1966年に歌った『ひとりぽっちの唄』テイチクSN-301
作詞:川上貞次(曽根のペンネーム))である。
その後、歌詞・曲名を新たにつけかえ、
園まりが歌うことになった。
箱スカ乗りだった私は、應 蘭芳が箱スカ GT-R (KPGC-10) を
所有して乗り回していたのが超ウラヤマだ。
曲後に挿入される應 蘭芳の声をマグマ大使の妻モルが甘えてると
想像して自身のロケットを磨いてはいけません!
鈴木庸一 (すずき よういち : 1930年2月13日 - 2010年9月20日)
1960年代に活動した東京府出身の作曲家。法政大学経済学部中退。
学生時代より、スマイリー小原とスカイライナーズのピアニスト
(他に首藤邦彦と森岡賢一郎がいる) となり、後に独立し、
ララレカンパニーレ楽団を結成。同時にビクターレコード専属の
作曲家となる。その後手掛けた、渡辺マリ「東京ドドンパ娘」や
青江三奈「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットした。
應 蘭芳 (おう らんふぁん、1938年3月9日生れ)
日本の女優、歌手。旧芸名は応 蘭芳。本名は応 仲奇。
日本名は三瀬滋子 (さんのせ しげこ) だったが、1981年に結婚し
近藤滋子になった。身長160cm、B90cm、W60cm、H90cm (1969年1月時点)
イギリス・イングランド・ロンドン生まれ。
父親は英国籍の中国人で、母親は日本人。
女優でダンサーのアンジェラ浅丘はいとこ (応の母がアンジェラの父の妹)
生後すぐに満州国に移住し、満州国籍となる。
11歳の時に母親と二人で舞鶴へと引き揚げた。
1957年、日本国籍がなかったため就職できず、「優勝すると女優になれる」
という『井の頭公園カーニバル』のミスコンテストに応募し優勝する。
1958年、ミスコンテストの結果を受け、東映ニューフェイスの
第5期に合格。同期には梅宮辰夫・八代万智子・高島新太郎・
小嶋一郎・滝川潤がおり、東映へ入社。その後、俳優座養成所にも
12期生として入所。同期には中村敦夫・松山英太郎・加藤剛・山本圭・
長山藍子・樫山文枝らがいる。東映には2年弱、俳優座には
3年ほど在籍し、その後青年芸術劇場に所属。
1959年、日本名の三瀬滋子で映画『素晴らしき娘たち』
『空港の魔女』『スピード狂時代命を賭けて』に出演。
1964年、青年芸術劇場(青芸)第6回発表劇『袴垂れはどこだ』
に出演、当時のパンフレットにも芸名は三瀬滋子でクレジッ
トされているが、劇の原作の一つである中国小説の
訳者表記部分には本名の応 仲奇でクレジットされている。
1966年(昭和41年)、『マグマ大使』(ピープロ、フジテレビ)
にモル役で出演。劇中では特技のスクーバダイビングも
披露している。昭和30年代に自動車の国際A級ライセンスを取得。
『マグマ大使』出演時には、日産スカイライン2000GTで撮影所に
通っていて、鈴鹿ロケのついでにレース出場したこともあった。
1970年には、「箱スカ」と呼ばれ現在でも伝説の名車として名高い
日産スカイライン2000GT-Rを購入。
1968年、青芸の解散に伴い第一協団へ移籍し、芸名を應 蘭芳に変える。
『女性自身』(光文社)3月25日号のインタビュー記事で
「私、あのときはいつも失神するの」と、当時の世相としては
衝撃的な赤裸々な発言を行い、一躍“失神女優”と呼ばれることとなる。
同年、『11PM』(日本テレビ制作版)でホステス役を務める。
また、歌手としてビクターレコードから「渚の歓喜(エクスタシー)」
(A面は「火遊びのブルース」)が発売され、
そのセクシーな内容から“失神ソング”と呼ばれた。
1969年(昭和44年)、『プレイガール』(東映、東京12チャンネル)
に、初代メンバーとして出演。
同年、ビクターレコードより“失神ソング”第二弾「痛い痛い痛いのよ」
が発売されるも、当時としてはあまりに過激な歌詞内容のため
「渚の歓喜」と併せて“放送禁止歌曲”にされてしまった。
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真理明美 - タバコの匂い
7inch single : Teichiku SN-701
1968年10月リリース。
作詞 : 有馬三恵子
作曲 : 鈴木淳
編曲 : 森岡賢一郎
真理明美、本名は及川久美子。岩手県盛岡市出身。
日本の女優。夫は映画監督の須川栄三 (1998年死別)
岩手県立花巻南高等学校卒業後、デパートガールを経て、
松竹『モンローのような女』のヒロインに募集し金的を射止め
1963年に松竹入社。同作で主演デビューする。
松竹は映画のタイトルに合わせ、芸名を真理明美とし
渡米させてマリリン・モンローの墓に詣でさせるなど
鳴物入りの宣伝をしたが空振りに終わり、期待が大きかっただけに
その反動で熱が冷めるのも早く、以降の作品は顔見せ程度の
出演になった。当時の松竹は"女性路線"を標榜し、
新人女優を次々売り出したが、見切りも早かった。
黒澤プロダクションの助監督だった松江陽一との3年越しの
恋にも破れ、1966年秋にひっそり盛岡に帰郷した。
1968年以後は活動の拠点を映画からテレビへと移す。
1969年より始まったドラマ『プレイガール』で人気が出た。
自身の作詞による本件シングルを出した。
A面曲である『忘れたいの』は、本名である及川久美子名義で
本人が作詞している。しかし撮影の多忙さと主婦業の
仕事のため腎臓を患い番組を降板する。
回復後も時々『プレイガール』に出演していた。
1969年、須川栄三と結婚。2017年8月8日午前10時50分、
肝細胞がんのため東京都世田谷区の自宅で死去。76歳没。
鈴木 淳 (すずきじゅん) 本名:藤田順二郎 (ふじた じゅんじろう)
(1934年2月7日 - 2021年12月9日)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。
夫人は元女優で作詞家の悠木圭子、前妻は作詞家の有馬三恵子。
1934年2月7日、山口県防府市の防府天満宮の宮司の子息として生まれる。
山口県立防府高等学校、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、
音楽之友社に入社、音楽雑誌の編集を手がけるが、過労により郷里に戻り、
入院生活を送る。2年間の療養生活を経て、さらに2年間、同地の
女子高校に国語科教諭として勤務する。合計4年の時期を経て東京に戻り、
音楽之友社に復帰、音楽雑誌『教育音楽』『ポップス』の編集に携わり、
『ポップス』編集長に就任する。
1963年、満29歳のとき、西田佐知子に提供した楽曲『恋なんてしたくない』
の作曲でレコード作家としてデビューする。1967年、当時の妻であった
有馬三恵子が作詞、鈴木が作曲して伊東ゆかりに提供した楽曲『小指の想い出』
がヒットし、伊東が同年の第9回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、
鈴木は職業作曲家として認知され、有馬とも「おしどり夫婦」として
知られることとなる。1969年には、同郷の防府市出身の女優であった
藤田佳子(現在の悠木圭子)の作詞家としてのデビュー作、
小川知子『さよならがこわいの』の作曲を手がける。のちに有馬と離婚、
悠木と再婚し、1973年、悠木作詞、鈴木作曲の八代亜紀への
提供曲『なみだ恋』をヒットへ導き、悠木を本格的に作詞家に転向させる。
1970年(昭和45年)1月5日に放送開始したオーディション番組
『全日本歌謡選手権』(よみうりテレビ)に審査員としてレギュラー
出演を開始、八代亜紀らのデビューのきっかけに貢献する。
1982年、日本作曲家協会の理事に就任、2000年、同協会理事長に就任、
2004年に理事長を退任する。1995年、日本音楽著作権協会の
理事に就任、2007年まで務める。
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鈴木 淳
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森岡賢一郎
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泉田恵美 (泉田エミイ) |
ロマンツアー・ポップスオーケストラ - The Girl From Ipanema
LP : ロマンツアー音楽世界めぐり 14 南米
Roman Tour SRS-1014
1968年11月1日リリース。
作詞 : Vinicius de Moraes
作曲 : Antonio Carlos Jobim
編曲指揮 : 山本直純
歌 : 泉田恵美 (泉田エミイ)
演奏 : ロマンツアー・ポップスオーケストラ
ロマンツアー合唱団
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
The Beatles の「Yesterday」などに次いで、世界中で多くカヴァー
されたポピュラー・ソングの一つといわれ、ボサノヴァのナンバー
としてはもっとも著名な曲となっている。
千趣会が作成したレコード付きの書籍の14巻
南米各国の都市、名所、文化、音楽などを紹介。
泉田エミイは当時、玉川学園高等部の高校2年で、
同級生に井上陽水の奥さんとなる石川セリがいた。
本件の前年である1967年に渡辺貞夫がポルトガル語と
日本語ができる歌手としてブラジル日系二世で当時16歳の
彼女をスカウトした。
泉田エミイは1951年1月にサンパウロで生れブラジル国籍を
持つ日系二世である。彼女はミュージシャンの父親の仕事の都合で
住居を転々とする生活を送っている。
父がバイオリン、母はピアノをひき、ペルーの国立劇場でオペラの
演出を手がけたりもする音楽一家に育ち、四才からピアノを習う。
1953年に大阪へ来て1955年にはブラジル・リオへ向かった。
感受性が豊かな幼い頃からサンパウロやリオで培った音感や
歌好きの明るい性格は後に日本で開花する。
1960年に東京へ再来日、1963年には関西、1966年にはペルー、
そして1967年、母親の病気の治療のために再び東京へやって来て
玉川学園編入した。泉田エミイは本作品当時、玉川学園高等部の
高校2年で、同級生に井上陽水の奥さんとなる石川セリがいた。
1967年の時、16歳の彼女の元へ渡辺貞夫セクステットのメンバーの
菊池雅章からオファーの電話がかかってきた。
渡辺貞夫がポルトガル語と日本語ができる女性歌手を探しており
菊池自身のピアノの伴奏で歌のテストをしたいとの事。
彼女は日本語はもとより、ポルトガル語、スペイン語、英語に堪能。
アストラッド・ジルベルトをも想起させる少女っぽい歌声、
サンバのリズムを生まれながらに身につけた逸材であった。
これをスタートに渡辺貞夫セクステットと泉田エミイの活動が
始まり朝日ソノラマと新興レーベル Taktでの事なるセッションの
録音が残された。
本場ブラジル仕込みのボサノヴァを美しいポルトガル語で歌って
初めて我が国のレーベルでリリースしてくれたのは泉田エミイである。
その後、クラウディア・ラロやソニア・ローザらブラジル人女性が
来日し日本でのボサノヴァの普及に貢献したが、紛れも無く
泉田エミイがパイオニアーであり、同時にロリータボサの種を
日本の地に最初に撒いた女の娘であった。
声楽研究家諸氏がボーイソプラノを尊ぶように
ジャズ/ポピュラーシーンではロリータヴォイスを尊ぶ。
同様にポップミュージックシーンでキッズポップが愛好される。
これは穢れの無い純潔を求める哺乳類の本能から来るものだ。
本件は編曲指揮を指揮者として有名な山本直純が担当しているが
実は山本直純と渡辺貞夫は渡辺が渡米前からずいぶん山本直純
の仕事をしていたので二人は懇意な関係であった。
渡辺貞夫は18歳で上京後、数々のバンドへ参加。秋吉敏子の紹介で
バークリー音楽大学へ留学し、在学中にチコ・ハミルトン、
ゲイリー・マクファーランド等と共演・全米ツアーにも参加して
ボサノヴァを覚えていった。1965年11月15日の日曜夜に
渡辺貞夫は米国ボストン・バークリー音楽院留学を終え羽田空港に帰国。
翌日の11月16日に山本直純より電話が入り、「スタジオにいらっしゃい」
と打診があり、渡辺貞夫は楽器を持って「アバコスタジオ」へ行った。
帰国祝いということで、ワンフレーズだけ吹いて帰国お祝いのお金を
4千円もらったのが帰国後の初仕事であった。
本件、1968年11月1日リリースだが、リリースされる前だと
思われるが同年に泉田エミイは姉の住むメキシコへ移り、セルメン系の
バンドメンバーとなって歌ったり、メキシコのミュージカルで
歌や踊りで出演したりしていた。その後アメリカに渡ったが
そこで音楽キャリアーを終えている。
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山本直純 |
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ズー・ニー・ヴー - 雨あがりのサンバ
7inch single : Columbia LL-10077-J
1968年11月リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲編曲 : 村井邦彦
彼らのデビューシングルB面といっても両A面扱い。
森山良子が1968年5月25日にリリースした
名曲カヴァーで同年後半に競作という状況になった。
しかし、こちらはエンディングで “Up Up And Away” の
フレーズをさりげなく導入しており、聴く者を破顔させる。
アマチュア・バンド「マックルズ」にいた山本康生が
大学の同級生大竹茂とバンド結成しメンバーを探し始める。
まずR&B専門のディスコテークでベースを弾いていた
塚谷茂樹が加入。次に「キャッスル&ゲイツ」にいた
町田義人と上地健一が加入。そして「マックルズ」で
一緒だった桐谷浩史が加入して、1968年3月活動開始。
山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。
村井邦彦 (むらい くにひこ : 1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。
暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科
に進学し、在学中は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」
に所属した。大学3年時に、東京都港区赤坂でレコード店「ドレミ商会」を
開店した。1966年に大学を卒業し、グループ・サウンズ全盛期の1967年に
ヴイッキー・レアンドロスへ『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家となり、
1968年にテンプターズへヒット曲『エメラルドの伝説』を提供し、
ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」、赤い鳥に「翼をください」、
トワ・エ・モワに「虹と雪のバラード」を提供した。
1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの
日本国内における版権を獲得し、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立する。
1969年に自ら唄い発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、
当時、「(特にラジオで放送すると)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報
と紛らわしい」とされ、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を
受けているが、該当部分を除けば放送可能である。
1970年に川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と
共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立する。
1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツを設立し、
1977年に川添象郎とともにアルファレコードを設立した。
自身がプロデューサーとなり、従来ポップス曲を提供する裏方として
作家活動を主体としていた荒井由実をシンガーソングライターとして
デビューさせた。ティン・パン・アレーを見い出して、アーティストの
レコーディングの際にスタジオミュージシャンとして起用した。
1970年代末から1980年代前半にかけて、イエロー・マジック・オーケストラ
のアルバムを発売した。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点を
アメリカに移した。
作曲は東海林修に学んだところが多いと語る。映画音楽が好きで
ミシェル・ルグランに私淑する。『座頭市御用旅』など勝プロ作品の
音楽監督などを経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督を務めた。
市川崑監督『火の鳥』で映画プロデューサーを初めて手掛け、ルグランに
主題曲の作曲を依頼した。音楽監督は深町純が務めた。
発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は
代表取締役会長を務める。
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山上路夫
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村井邦彦 |
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岡崎広志とスターゲイザーズ - ソー・ダンソ・サンバ
Columbia YSS-10036-J
7inch EP : マシュ・ケ・ナダ
1968年11月リリース。
LP : Gazing The Cygnus
Columbia YS-10026-J
LP は1969年2月10日リリース。
作詞 : Vinicius de Moraes
作曲 : Antonio Carlos Jobim
伊集加代子をフィーチャー。
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
So danco samba (ソー・ダンソ・サンバ) は Jazz'n samba とも言う。
11PMテーマソング “サバダバ サバダバー”の
作者でお馴染みの岡崎広志、奥さんはヴォーカリストの田井聖子。
これはヴォーカリスト、サックス・プレイヤーである
岡崎広志 (現:岡田愛詩) が結成したグループ。
伊集加代子のスキャットをフィーチャー。
岡崎広志はこれ以前にフォー・シンガーズを結成していた。
結成当初は岡崎広志、大久保計利、西城慶子、団洋子の
4人から成る男女混声コーラス・グループ。
団洋子は元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの
日本語の声を担当していた声優でもあった。
その後、西城慶子の病気療養による一時活動休止により
女性1名が欠員となり、オーディションで選出された伊集加代子が
西城慶子に代わりメンバーとなった。1965年 - 1967年活動。
1977年にアルバム「ウェルカム・バック!」をリリースしたが、
この時のレコーディングメンバーは岡崎、大久保、伊集の3人と、
後にシンガーズ・スリーのメンバーとなった尾形道子の4人だった
伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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伊集 加代子 |
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岡崎広志とスターゲイザーズ - マシュ・ケ・ナダ
Columbia YSS-10036-J
7inch EP : マシュ・ケ・ナダ
1968年11月リリース。
LP : Gazing The Cygnus
Columbia YS-10026-J
LP は1969年2月10日リリース。
作詞作曲 : Jorge Ben
伊集加代子をフィーチャー。
Jorge Ben のカヴァー。
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岡崎広志とスターゲイザーズ - Live For Life - パリのめぐり逢い
Columbia YSS-10036-J
7inch EP : マシュ・ケ・ナダ
1968年11月リリース。
LP : Gazing The Cygnus
Columbia YS-10026-J
LP は1969年2月10日リリース。
作詞 : Pierre Barouh
作曲 : Francis Lai
伊集加代子をフィーチャー。
映画「Live For Life - パリのめぐり逢い」のテーマ曲のカヴァー。
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朝丘雪路 |
朝丘雪路 - スキャンドール
7inch single : Crown CW-895
1968年12月1日リリース。
作詞 : 阿久 悠
作曲 : 小杉仁三
演奏 : クラウン・オーケストラ
名作「うい・う・のん」の続編的なサウンド。
しかし、ジャケに描かれた透け透けのネグリジェは
当時流行りましたなあ。でもババアは禁止っす!
朝丘雪路 (1935年7月23日 - 2018年4月27日)
日本の女優、タレント、舞踊家、歌手、司会者。
本名:加藤雪会 (かとう ゆきえ)、旧姓・勝田。
東京市京橋区 (現・東京都中央区) 築地生まれ。
元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水。
夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。
日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名を持つ。
山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年同校を卒業し、
宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は31人中8位。
同期の39期生には女優の真帆志ぶき (元雪組男役トップスター)、
東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組に在籍し娘役として活動。
1955年8月31日に宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は
月組公演『黄色いマフラー』。料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘
して生まれる。芸事を好んだ母の勧めで、3歳より日本舞踊を
花柳三之輔に師事。妾腹 (非嫡出子) ではあるが父の伊東深水に
溺愛され育つ。泰明小学校へは養育係とともに人力車で
通学しており、養育係は登校から下校までの間、彼女を車屋と学校で
待っていた。深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていた。
それを見聞きしていた友人で阪急東宝グループの創設者である
小林一三に「このような浮世離れした生活をさせていては、
娘さんがだめになる」と意見されたこともあり、深水は渋々ながらも、
朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承したという。
1966年4月から『11PM』の金曜日のホステスを16年間務め、
大橋巨泉との名コンビで人気を集めた。
1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうける。
1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取る)。
1973年津川雅彦と再婚。1974年3月真由子を出産。
作詞をしたのは昭和歌謡を代表する作詞家の阿久 悠。
阿久 悠 (あく ゆう : 1937年2月7日 - 2007年8月1日)
日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名は深田公之 (ふかだ ひろゆき)
淡路島 (兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原) 出身。
ペンネームの由来は、広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、
兼業禁止の会社にばれないよう“悪友”をもじった筆名として
使い始めた事から。深く考えずにつけたため、いずれは別の筆名に
するつもりだったが、仕事が途切れなかったので、独立後も使い続けた。
また多夢星人 (たむせいじん) の変名も使用した。
長男は作曲家の深田太郎で、阿久作詞・深田作曲の楽曲も存在する。
1959年に広告代理店・宣弘社 (現在の電通アドギア) へ入社する。
元々は映画の脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった
宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に
行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し
入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家の伊上勝が
課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」
と言われて、振られた仕事はCMの絵コンテ描きだったという。
絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で
必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のために
ここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの
仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ
方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の
後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を
書かせてもらえるものだと思っていたという。
また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』
で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、
上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを
活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家
として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、
1964年から放送作家としても活動。1966年に宣弘社を退職し、
放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を
書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。
また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。
作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズ
デビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年5月10日発売)
初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」
(1966年11月発売)。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」
(1967年11月5日発売)。このタイトルの由来は、曲の締め切りが
朝に迫っていたからだという。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、
1968年に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした
阿久の作詞作品となった。この頃より死去までオフィス・トゥー・ワンに所属する。
その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は
5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、
コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。
さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に
番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は
各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げる
というものであったが、このスタイルは「密室でタレントを選考する
過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と阿久が提案した
ものである。1977年、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」
というシリーズを手がけ『おはよう!こどもショー』のコーナーで歌われていた。
1980年代に入りニューミュージックの歌手が台頭し、彼等のつづった
叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である
松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。
以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。
この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」
としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。
直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、
1982年には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。
1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』は
その後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞
ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年、30年間にわたる作詞活動に対して、
日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年春、
紫綬褒章を受章。2000年10月、掌編小説集『詩小説』で
第7回島清恋愛文学賞を受賞。2001年に腎臓癌を患い、同年9月12日に
癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を
続けていたが、2007年8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区
西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、70歳没。同年3月に行われた
石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。
日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した
2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で
決定した。また、同年の第49回日本レコード大賞では特別功労賞、
第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。
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阿久 悠 |
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クラウディア - 愛なき心
7inch single : Seven Seas HIT-1570
1968年12月20日リリース。
Also released in Jun 30 1969
LP : O Meu Corolla
Seven Seas SR 235
1969年6月30日リリース。
作詞作曲:浜口庫之助
編曲:ありたあきら (小杉仁三)
クラウディア・ラロは1948年5月10日生まれ。
彼女は非常に早くからキャリアをスタートし、わずか9歳のときに
番組で歌い始めた。彼女はMG州ジュイス・デ・フォーラの
ラジオ・ソシエダーデで特集され、その街は彼女が育った街であり
彼女の声は当時から非常に力強かった。彼女は首都サンパウロに移り
いくつかの新入生プログラムで、いつも講堂で歌った。
1960年、サンパウロのテレビ番組でエリス・レジーナと
ジャイール・ロドリゲスの「オー・フィノ・ダ・ボッサ」を
何度か歌った。1969 年、クラウディアは第1回フルミネンセ歌謡祭
に出場し、エドゥアルド・ラーゲとアレシオ・デ・バロスの
Razao de Paz para nao Cantarで1位を獲得した。
その後、彼女は非常に名誉ある歌手としていくつかの国を旅し
日本、ギリシャ、メキシコ、ベネズエラのフェスティヴァル
に出演した。彼女はブラジル国内よりも海外で多くの賞を
受賞しており、彼女は国内の歌手というよりも国際的な歌手
であると言われていた。
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浜口庫之助 |
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クラウディア - 五木の子守唄
7inch single : Seven Seas HIT-1570
1968年12月20日リリース。
Also released in Jun 30 1969
LP : O Meu Corolla
Seven Seas SR 235
1969年6月30日リリース。
熊本県民謡
この熊本県民謡「五木の子守唄」はボサと縁が深い。
この名曲 The Shadow Of Your Smile は、1965年の映画『いそしぎ』
のテーマ曲として書かれたポピュラー・ソングである。
英語では別名「Love Theme from The Sandpiper」
(いそしぎの愛のテーマの意) と呼ばれ、
日本語では「いそしぎのテーマ」、
あるいは単に「いそしぎ」とも呼ばれる。
作曲者 ジョニー・マンデル (Johnny Mandel) は
熊本県民謡の五木の子守唄の「おどま盆ぎり盆ぎり」を
耳にしてそれをヒントにして作曲したと言っているらしい。
それ故か、日本人に馴染みやすいメロディーである。
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麻鳥千穂 - 太陽のイブ
7inch single : Columbia SAS 1220
1968年12月リリース。
作詞 : 横澤秀雄
作曲 : 高井良純
編曲 : 河村利夫
宝塚グランド・ショー「ガールス・オー!ガールス」主題歌。
麻鳥千穂 (あさどり ちほ : 1937年2月10日 - 2017年6月2日)
元宝塚歌劇団花組主演男役。宝塚歌劇団40期生。
兵庫県出身。本名、島ア澪子 (しまざき みおこ)
宝塚歌劇団時代の公称身長は162cm。
宝塚時代の愛称はカンさま、ハザカン。
1953年、宝塚歌劇団に入団し、『春の踊り』−花の宝塚−で初舞台。
同期に浜木綿子 (元雪組トップ娘役/香川照之の母)、
那智わたる (元星組トップスター)、藤里美保 (元月組トップスター)
などがいる。宝塚入団時の成績は64人中11位。
1970年10月5日、宝塚歌劇団退団。
その後は宝塚音楽学校評議員・声楽講師を務めていた。
高井良純 (たかい よしずみ : 1932年12月23日 - 2020年8月31日)
日本のミュージカル作曲家、編曲家、演出家。大阪音楽大学卒業。
元宝塚歌劇団作曲家 (1992年まで在籍)。
関西のミュージカル劇団、日本ミュージカル研究会・劇団JMA 創立者・主宰、
但馬ミュージカル研究会 創立者・芸術監督、市民ミュージカル劇団『希望』
創立者代表・芸術監督を務める。宝塚歌劇団時代の主な作品に、
虞美人、華麗なる千拍子、ワン・ボーイ、ガールス・オー!ガールス他。
編曲はコロムビアの作曲家でサックス奏者の河村利夫さん。
河村利夫氏は、作曲家、編曲家、ソプラノ琴、ベース琴、ミニ琴などの楽器の
考案者としても知られ、邦楽の分野では合奏の新しい分野を開拓、
筝曲界の新時代のサウンドを作り出す編曲で知られている。
武蔵野音楽大学卒業後、ベニーグッドマンに魅せられジャズ界に入る。
内山平五郎モダンジャズクインテッド、平野快次ドンシックステッド、
福原彰グループ、 その他数多くのバンドを経て、
河村利夫イーストダンディーズを結成。
後にコロムビアレコード専属作曲家契約。
代表作『真夜中のギター』レコード大賞新人賞受賞。第2回古賀賞受賞。
「哀愁のアルトサックス」ではコロムビアゴールデンディスク賞受賞。
「琴世界をまわる」(全20巻)アルバムの受賞。
その他数多くの受賞を受けている。
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高井良純
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河村利夫 |
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1969年 |
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ピンキーとキラーズ - 涙の季節
7inch single : King Records BS-930
1969年1月1日リリース。
作詩 : 岩谷時子
作曲編曲 : いずみたく
1969年1月、4枚目のシングル「涙の季節」が発売され1位。
1967年に15歳で「甘ったれたいの」でビクターレコードから
ソロ歌手としてデビューした今陽子(ピンキー)が
キングレコードに移籍し、男性ヴォーカルのジョージ浜野、
エンディ山口、ルイス高野、パンチョ加賀美の4人と結成。
グループ名は、当時アメリカで流行っていた男女混合バンドの
スパンキー&アワ・ギャングをもじったもので、作曲家の
いずみたくが命名した。当時、今陽子はいずみたくの事務所に
所属しており、いずみは彼女を売り出すためグループに
することを考えて、ルイスたち男性陣を集めてピンキーとキラーズ
を結成させた。この頃の音楽業界では“大きな女性歌手は売れにくい”
というジンクスがあり、ルイスたちは高身長の今陽子 (167cm) に
不安を感じた。しかし陽子の歌声を聞いたルイスたちは彼女の声量が
すごく、リズム感の良さや英語歌詞も上手に歌えたことから
「これはモノになるぞ」と確信したという。
1969年1月、4枚目のシングル「涙の季節」が発売され
1位になり、続く「七色のしあわせ」が4位、「星空のロマンス」
が10位とオリコンのトップ10に入ったが、それ以降
トップ10からは遠ざかった。
その後デビューから4年で陽子がグループを脱退したが、
実はグループ結成の時点でルイスたち男性陣にはいずみから
陽子の処遇について事前に聞かされていた。
それは「ピンキーが20歳になったら、その時ピンキーとキラーズが
売れていても売れていなくても、この子はソロで活動させる」
という話だった。ただし陽子本人にはこの話は知らされていなかった。
このためルイスが人づてに聞いた話として、「『私(陽子)が
ピンキーとキラーズを脱退になったのは、自分の努力が
足りなかったせい』と裏事情を知るまで責任を感じていた」とのこと。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
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いずみ たく |
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ピンキーとキラーズ - 涙のバラード
7inch single : King Records BS-930
1969年1月1日リリース。
作詩 : 岩谷時子
作曲編曲 : いずみたく
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麻里圭子,リオ・アルマ - 月影のランデブー
7inch single : Victor SV-796
1969年1月5日リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲編曲 : 寺岡真三
今聴くと耳が痒くなるほど恥ずかしいコール&レスポンス
であるが、当時はこれでお洒落だった。
キュートと軽薄はいつの時代でも表裏一体と言うべきか。。。
しかしベースヴォーカルが「ボンボボン」と入ると
「狼少年ケンのテーマ」が脳裏に浮かぶのが時代性
というか、聴く手の意識に強烈にインプットされた事実だ。
それでも麻里圭子のぶりっ子キャラが聴いていて
恥ずかしいのは時代を超えている (笑)
麻里圭子 (まり けいこ : 1947年8月1日生れ)
歌手、女優、フラワーデザイン講師。
以前はJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに所属していた。
東京都中野区出身。幼少期に日本舞踊を習っていたことから、
漠然と芸能界を志す。私立麹町学園女子中学校在学中にモデルとして
芸能活動を開始し映画にエキストラ出演したこともあった。
ビクターのオーディション後、演歌「命をかけて」で歌手デビュー。
本人ブログ曰く:“圭子は42年8月15日に演歌歌手で
デビューそんな中、赤坂プリンスホテル旧舘のロビーで、
週刊プレイボーイの取材で、8月にデビューした3人の
新人女性歌手と巨泉との対談が在り、巨泉さんに、まだ完全に
タレントとして出来上がっていない圭子を気にって頂き
フジTVのディレクターに、合わせて頂き、巨泉さんの推薦により
ビートポップスの初代マスコットガールでレギュラーにして
頂きました。圭子がその後ポップス路線に変更出来たのも、
巨泉さんの助言が、在ったからなのです!!”との事。
1967年に演歌歌手としてデビュー。新人歌手の披露イベントで
大橋巨泉に気に入られたことにより、1968年に大橋が司会を務める
フジテレビ洋楽専門音楽番組『ビートポップス』に出演し
初代マスコットガールになった。
大橋の進言により、演歌からポップスに転向した。
そして『銀色のお月さま』『月影のランデブー』などが
ヒットした後、テレビドラマ『サインはV』の主題歌を担当した。
1969年、TBSラジオ「トクホン ニューヒットパレード」のDJ、
日本テレビ歌謡番組「ヒットスコープ」の司会、
1970年、NET(現・テレビ朝日)深夜番組「23時ショー」の
カバーガールを務めた。
1971年に『ゴジラ対ヘドラ』で女優として出演。
後年のインタビューに明かしたところによれば、
1970年の晩夏に東宝にて同作品の監督の坂野義光による面接を
経たものであり、ロケの際には富士山の二合目にも赴いたが、
寒さとの戦いだったという。
また、同作品の主題歌「かえせ! 太陽を / ヘドラをやっつけろ」
のレコーディングについては、あらかじめ坂野が前者の作曲家の
眞鍋理一郎宅へ連れていってくれたことから彼のピアノ演奏で
練習できたほか、スタジオにて歌い終わった後には
後者の作曲家のすぎやまこういちが訪れ、歌の上手さを
褒めてくれたという。
1971年にはプティ・マミ名義での活動もあり。
1972年、麻里ケイコに改名後、引退。
横田年昭 (1944年2月4日 - 2023年9月26日)
1944年東京生まれ。17歳でプロ入り、
自己のグループ「ビート・ジェネレーション」
「原始共同体」を結成して10年。
その後「猪俣猛とサウンドリミテッド」のソロ・フルーティスト
として活躍した、日本のジャズフルーティストの草分け。
その後、美しく壮大に広がる海を前にした伊豆稲取に工房をかまえ、
鳥や野の花などに恵まれた自然を友に、笛作り、竹楽器作りに
いそしんでいた。横田の作る笛は、日本の笛、主に尺八、横笛、
弥生笛、その他本人独自のアイディアによるもので、数種類にも及ぶ。
これらの楽器を演奏活動に使い、1976年には日本人として
初めてパリ・オランピア劇場にて「日本の春夏秋冬」と題し公演した。
曲を手掛けたのは寺岡真三 (てらおか しんぞう :
1925年12月4日 ‐ 2007年8月26日)
昭和期の作曲家、編曲家。本名寺田 常三郎。京都府京都市出身。
早稲田大学政治経済学部卒業。
1952年以後に、ビクターレコード専属作曲家となる。
第2回日本レコード大賞大賞の「君恋し」 (フランク永井) や、
第6回日本レコード大賞編曲賞の「お座敷小唄」 (松尾和子、和田弘と
マヒナスターズ)、第11回日本レコード大賞編曲賞の「悲しみは駈け足で
やってくる」 (アン真理子)、ほか青江三奈の「恍惚のブルース」
「長崎ブルース」「池袋の夜」など大ヒットの編曲を数々手掛けた。
2007年8月26日、心不全のため東京都中野区の自宅で死去した。享年81。
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横田年昭
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山上路夫
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寺岡真三 |
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ザ・ハーフ・ブリード - ムーン・アンド・スターズ
7inch single : Express EP-1128
1969年1月10日リリース。
作詞作曲 : 木村竜照
編曲 : The Half Breed
フィフィ・ザ・フリーと共に脱ビートバンドにチャレンジした
和製ソフト・ロックの代表的存在。メンバー全員がハーフという
異色グループであった。1968年夏にアメリカン・スクール卒の
日系人を中心に結成された。米軍キャンプや都内のジャズ喫茶にも
出演していた。レコードデビューはGSブーム終焉に近い
1969年1月10日だった。本件はデビューシングルB面で
彼らのマネージャーだった木村竜照が書いた英語詞
によるボサノヴァ曲の隠れた逸品。彼らのキャッチフレーズは
「日本初のソフト・ロック・グループ」だった。
マニアには日活映画『八月の濡れた砂』で彼らの演奏シーンが
観れることでも有名。
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ザ・ジャガーズ - 恋するまゆみ
7inch single : Philips FS-1067
1969年1月25日リリース。
LP : Second Album
Philips FS-8045
1969年6月25日リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
私は広島の中央公園ファミリープールでゲスト出演してた
彼らがプールサイドで「恋するまゆみ」を演奏したのを
目の前で観ていた。今考えれば超貴重な体験だった。
グループの母体は、1963年に六本木野獣会のバンドとして
結成された「野獣会オールスターズ」で、この時点では
井上順など、野獣会メンバーの課外活動に近かったが
1964年には「宮ユキオとザ・プレイ・ファイブ」という
エレキバンドへ発展した。デビューに際して、
フィリップス・レコードで「ザ・ジャガーズ」(豹)と命名され
1967年6月にザ・カーナビーツと一緒にレコードデビューを果たす。
デビュー曲の『君に会いたい』が大ヒット。
1968年3月には「進め!ジャガーズ 敵前上陸」で映画初主演。
この映画は当時人気だった美人歌手の中村晃子と共演した
コメディだが、小林信彦が脚本を担当していたことから
後年、カルト映画として再評価された。
共演者にはてんぷくトリオ、三遊亭圓楽 (5代目)、穂積隆信らもいた。
グループ・サウンズのファッションでジャガーズとスパイダースは
ミリタリー・ルックのイメージが強かった。「君に会いたい」の後は、
デイヴ・ディー・グループのカバー曲である「キサナドゥーの伝説」
を発表した。だが彼らが移動で使用していた専用マイクロバスが
交通事故を起こし、メンバー全員が頭を縫うなどの負傷を
負ってしまった。その結果、療養中に代役でジャズ喫茶に出演した
オックスに人気を奪われてしまう。ジャガーズは1968年夏以降
GSブームの中でも埋没した存在となってしまう。
GSブームが終焉を迎えた1969年夏以降は、ジャズ喫茶や
ゴーゴークラブが主な活動の場となった。
1970年に入り、メンバーの交代が顕著になっても活動を続けたが
1971年7月に解散した。
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筒美京平 |
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舟木一夫 - 恋だけが
LP : ワンダフル・ボーイ
Columbia ALS-5087
1969年2月1日リリース。
作詞 : 河端茂
作曲 : 山屋清
演奏 : 原信夫とシャープス・アンド・フラッツ
スキャット : 伊集加代子
NTVドラマ「ドロボーイ」より挿入歌。
舟木一夫が怪盗役で主演したドラマ「ドロボーイ」の
サントラ盤。ドラマのキャラをイメージして制作された
内容のコンセプトアルバム。
舟木一夫 (ふなき かずお : 1944年12月12日生れ)
本名:上田 成幸 (うえだ しげゆき)、日本の歌手、タレント。
橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれている。
学生服と八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、
学園ソングとよばれる高校生活をテーマにした歌が多かった。
初期の所属事務所はホリプロダクション、現在のホリプロであった。
愛知県中島郡萩原町 (現・一宮市) 出身。当初は舟木和夫という
芸名になる予定だったが、舟木が「和はひ弱な感じがあるので、
一にして欲しい」と希望したために一夫になったという。
本人は、紙に書いたら字が縦に長くなって横倒しになりそうで
頼りない感じがしたので、「和」を「一」にして“つっかえ棒”
としてほしい、とお願いしたとも話している。
のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、
同じ時期にデビューした西郷輝彦、橋幸夫とともに「御三家」
として人気を集める。青春歌謡の定番「高校三年生」に
代表されるように、学生時代を題材にした歌謡曲のほか、
『銭形平次』のテーマソングのように時代モノも数多く歌っている。
また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。
山屋清 (やまや きよし) 1932年3月29日生まれ。山梨県甲府市出身。
1956年-1957年、原信夫とシャープス&フラッツにて
演奏・作曲・編曲をする。
1959年、三保敬太郎・前田憲男氏と「モダンジャズ三人の会」を結成、
第14回芸術祭奨励賞受賞。
1965年、第7回日本レコード大賞にて編曲賞受賞。
1966年、東京ユニオンオーケストラのバンドリーダーとなる。
伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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山屋 清
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伊集 加代子 |
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岡崎広志とスターゲイザーズ |
岡崎広志とスターゲイザーズ - ボーン・フリー (Born Free)
LP : Gazing The Orion / イージーリスニングの世界
Columbia YS10050J
1969年2月10日リリース。
作曲 : John Barry
伊集加代子をフィーチャー。
映画「野生のエルザ」のテーマ曲のカヴァー。
11PMテーマソング “サバダバ サバダバー”の
作者でお馴染みの岡崎広志、奥さんはヴォーカリストの田井聖子。
これはヴォーカリスト、サックス・プレイヤーである
岡崎広志 (現:岡田愛詩) が結成したグループ。
伊集加代子のスキャットをフィーチャー。
岡崎広志はこれ以前にフォー・シンガーズを結成していた。
結成当初は岡崎広志、大久保計利、西城慶子、団洋子の
4人から成る男女混声コーラス・グループ。
団洋子は元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの
日本語の声を担当していた声優でもあった。
その後、西城慶子の病気療養による一時活動休止により
女性1名が欠員となり、オーディションで選出された伊集加代子が
西城慶子に代わりメンバーとなった。1965年 - 1967年活動。
1977年にアルバム「ウェルカム・バック!」をリリースしたが、
この時のレコーディングメンバーは岡崎、大久保、伊集の3人と、
後にシンガーズ・スリーのメンバーとなった尾形道子の4人だった
伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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伊集 加代子 |
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岡崎広志とスターゲイザーズ - 何も云えない (I Can't Find The Words)
LP : Gazing The Orion / イージーリスニングの世界
Columbia YS10050J
1969年2月10日リリース。
作曲 : 岡崎広志
伊集加代子をフィーチャー。
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岡崎広志とスターゲイザーズ - クワイエト・ナイト
(Quiet Nights Of Quiet Stars)
LP : Gazing The Orion / イージーリスニングの世界
Columbia YS10050J
1969年2月10日リリース。
作詞 : Gene Lees
作曲 : Antonio Carlos Jobim
伊集加代子をフィーチャー。
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
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山本真記子 - アモロッサ東京
7inch single : Columbia P-53
1969年2月リリース。
作詞 : 京藤敦子
作曲 : 加納光記
編曲 : 山本丈晴
よみうりTV「ちんころ大作戦」挿入歌。
ジャケを良く見ると何気に彼女の手の指が長い。
1968年にデビュー曲「みんな仲間だ」でスクールメイツを
従えて弾けた彼女だが、本件はセカンドシングルにて
ラストリリース。1968年に読売テレビで毎週水曜日18:00-18:30に
放送された子供向けドラマよみうりTV「ちんころ大作戦」挿入歌。
白木みのる、横山やすし、西川きよしが主演を務めた。
興味ぶかい事に花登筺 (はなと こばこ) のドラマ系作曲家の
加納光記 (かのう みつのり) が曲を書いている。
加納光記は下記の作曲家としても知られる。
大村崑, 芦屋雁之助, 芦屋小雁「丁稚マンボNo.カックン」
大村崑「とんま天狗の歌」
梅宮辰夫「盃よお前だけ」
アレンジを担当したのは山本富士子の旦那の山本丈晴。
山本丈晴 (やまもと たけはる : 1925年5月22日 - 2011年9月7日)
日本の作曲家、ギタリスト。山梨県南都留郡河口村 (後の河口湖町、
現在の富士河口湖町) 出身。出生名は古屋 武治 (1925年 - 1945年)。
作曲家の古賀政男に師事し、ギター演奏により古賀メロディの普及に貢献。
作曲作品は、美空ひばりに代表される流行歌・歌謡曲・演歌から
映画・テレビ・舞台音楽、社歌・校歌と数多く幅広い。
第48回日本レコード大賞功労賞受賞。
音楽活動を始めた当初は古屋 雅章 (1946年 - 1948年) の筆名を
名乗っていたが、その後に古賀の正式な養子となった際、
本名の「武治」を「丈晴」にして古賀 丈晴 (1948年 - 1958年) に改名。
キングレコード専属作曲家時代は古屋 丈晴 (1958年 - 1962年) 名義と
なっている。私生活では1962年第1回ミス日本に選ばれ当時「天下の美女」
と謳われた女優の山本富士子と結婚したことも人生の大きな転機となった。
山本の実家には男兄弟がなく、家の後継者が居なかったことから
丈晴は婿養子となり以降山本姓を名乗る。富士子とはその後1968年の
愛息誕生などを挟み丈晴自身の逝去まで夫婦生活を全うした。
2011年9月7日午後10時37分、肺炎のため東京都渋谷区の
病院で死去。86歳没。
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山本丈晴 |
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梓みちよ - 夜のせいなの
7inch single : King Records BS-955
1969年2月リリース。
作詞 : なかにし礼
作曲 : 鈴木淳
編曲 : 森岡賢一郎
演奏 : レオン・サンフォニエット
梓みちよ (あづさ みちよ : 1943年6月4日 - 2020年1月29日)
歌手、女優。本名は林 美千代 (はやし みちよ)
日本統治下の朝鮮釜山市生まれ。福岡県福岡市博多区出身。
福岡女学院中学校・高等学校2年中退。
宝塚音楽学校中退 (入学時の同期には紺 早千子こと堀内美紀がいた)。
1960年代から1970年代を中心にヒットを飛ばし
アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。
1960年、福岡女学院高校を2年で中退して宝塚音楽学校に入学。
同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、
上京し契約する (同校は中退) 約1年間のレッスンを経て、
1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズで
キングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、
歌手として本格的に活動を始める。
芸名の名付け親は渡辺プロダクション創業者の渡辺晋。
「梓弓のようにしなやかで強くなって欲しい」の意味で
名付けられたという。
1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として
発表された「こんにちは赤ちゃん」 (作詞・永六輔、作曲・中村八大)
が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。
また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、
人気歌手としての地位を得た。また同曲は翌1964年3月の
第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用された。
更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた
学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前で
この歌を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の
天覧歌謡曲となる。しかしその後は歌手として人気が一時低迷、
1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』まで7年連続出場していた
紅白歌合戦も翌1970年に落選、1973年まで4年間出演出来なかった。
1971年に俳優の和田浩治と結婚したが、翌1972年に離婚している。
作詞はその壮絶な人生を背景に業の深い詩で
昭和歌謡を代表する作詞家だった、なかにし礼。
なかにし礼 (なかにし れい) 本名:中西 禮三 (なかにし れいぞう)
(1938年9月2日 - 2020年12月23日)
日本の小説家、作詞家。森田童子 (本名 中西美乃生 みのぶ) の叔父。
森田童子の父、中西正一は、なかにし礼の兄。
1938年9月2日、満洲国の牡丹江省牡丹江市 (現在の中華人民共和国
黒竜江省) に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、
渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは
家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな
影響を与えた。彼の兄の中西正一は立教大から学徒出陣として
陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
彼の兄の中西正一は、第二次世界大戦中に零戦のパイロットだった。
特別攻撃隊の生き残りで戦後は荒れた生活を送った。
なかにし礼は8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで
小学校時代は東京と青森 (青森市立古川小学校) で育ち、中学から
東京品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、
シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。
シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中に
ヒットメーカーになる。一浪して1958年に立教大学文学部英文科に
入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部
仏文科を卒業する (立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に
最初の妻と結婚する。元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の
深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を
手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルの
バーで『太平洋ひとりぼっち』 (映画1963年公開) を撮影中の
石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。その間、一女をもうけるも、
1966年に別居、1968年に離婚する。
石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の
歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1に作詞作曲した作品
(後の「涙と雨にぬれて」) を自ら石原プロに持ち込んだ。
それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」が
ヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の
執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、
NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。
兄の中西正一は、弟のなかにし礼が多額の借金を抱えて設立した
会社をいくつも倒産させた。その頃、なかにし礼の自宅には、
中西正一の家族である、正一の妻、長女、次女中西美乃生 (後の森田童子)
長男の家族が住み始めた。次女の中西美乃生は、1970年の日本の暴動時代、
17歳の時に友人が校内紛争に巻き込まれ、高校を中退した。
中西美乃生の15歳から19歳までの4年間、なかにし礼と中西正一の
家族は東京・中野のなかにし礼の自宅で同居していた。
なかにし礼は1971年に、いしだあゆみの妹の石田ゆりと再婚した。
つまり、いしだあゆみの義弟は、なかにし礼となる。
それで、1971年から1972年までの1年間、中西美乃生 (森田童子)
は石田ゆりと暮らしていた。兄の中西正一のゴルフ場開発の失敗により、
なかにし礼は6億円の借金を抱え、なかにし礼の会社も倒産していった。
なかにし礼は新婚生活の邪魔だったために、これを機に兄の家族と絶縁し、
追い出した。森田童子は、なかにし礼のことが好きだったが、
なかにし礼の家での生活は彼女にとってとても大変だった。
そんな時期、なかにし礼とその兄の中西正一 (森田童子の父) は、
京都から東京に来た銀座のナンバーワン若手ホステス堀川麗子
という田舎娘をスカウトした。この田舎娘は後の風吹ジュンである。
彼らは風吹ジュンのために芸能事務所「Adoプロモーション」設立し、
中西正一の友人でイラストレーターの前田亜土 (本名 : 前田正春、
後の森田童子のマネージャーで夫) を社長に迎えた。
事務所に所属するタレントの風吹ジュンは給料の安さに不満を抱いていた。
なかにし礼、中西正一、前田亜土は、風吹ジュンが事務所を
移籍しようとした1974年9月12日に拉致監禁事件を起こした。
彼らはヤクザを使って風吹ジュンを監禁し、事務所の異動を断念させた。
その後の裁判で風吹ジュンの事務所への移籍は認められたが、
その際に風吹ジュンの過去の経歴詐称が明らかになり
イメージダウンとなった。
中西美乃生 (森田童子) は20歳頃から歌を歌い始め、風吹ジュン誘拐事件
の翌年の1975年に22歳でデビュー。彼女の背景には多くの問題があり、
有名な、なかにし礼との関係を隠してデビューしたかったのである。
なかにし礼は若い頃から何度も繰り返した心臓疾患や離婚に加え、
1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して
全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を
肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。
1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、
2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の
照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』
『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と
向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。
2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや
核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は
若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
とも語っている。2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、
同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため
東京都内の病院で死去。82歳没。
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なかにし礼
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鈴木 淳
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森岡賢一郎 |
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古谷充とザ・フレッシュメン - 夜は流れる
7inch single : RCA JRT-1005
1969年2月リリース。
作詞 : 志摩夕起夫
作曲編曲 : 大塚善章
唄 : ジュニア坂本
彼らのアルバムは夜の店の需要があったのかコンディションの
悪い盤が多いが、シングルは売れてなかったのか
比較的綺麗な盤が多い印象がある。
古谷充 (ふるや たかし : 1936年2月13日 - 2020年9月2日)
日本のジャズミュージシャン、サクソフォーンプレイヤーで
ヴォーカリスト。父親はジャズ・クラリネット/サクソフォーン奏者
の松野国照、自身の息子はジャズ・サクソフォーン奏者の古谷光広。
1936年2月13日、ジャズ・クラリネット、サクソフォーン奏者
であり、作曲家の松野国照の息子として大阪府に生まれる。
1951年、京都市立堀川高等学校音楽課程入学、当初はヴァイオリン
を専攻していたが、途中でクラリネットに転課。
1952年、父親の勧めでアルトサックスを購入し、大津市の
米軍キャンプで演奏していたジャズバンドに参加。
1954年、プロとして活動開始。
1959年、北野タダオとアロージャズオーケストラ等を経て
23歳で自身のバンド「古谷充とザ・フレッシュメン」を結成し
関西随一のトップ・コンボの座を占め、18年間活動した。
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由紀さおり - バラのためいき (Whispering Rose)
7inch single : Express EP-1136
1969年3月10日リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲 : いずみたく
編曲 : 渋谷毅
世の喧騒からそのひと時だけ別空間へと誘ってくれた
名曲シングル「夜明けのスキャット」のB面でこちらも
いずみたく作品。
まさに深夜ラジオが生んだ最大のリクエスト曲だったA面だが
改めて聴くと「バラのためいき」も味わい深い。
アレンジはホキ徳田の名作ボサアルバムでも大活躍した渋谷毅。
由紀さおり (ゆき さおり : 1946年11月13日生れ)
本名・旧芸名:安田 章子 (やすだ あきこ)、
日本の歌手、タレント、女優、ナレーター。
田辺エージェンシー・安田音楽事務所所属。
ひばり児童合唱団出身。洗足学園第一高等学校を経て、
洗足学園短期大学英文科卒業。
群馬県桐生市に生まれたが、3歳で横浜市へ移る。
少女時代から姉の安田祥子と共に本名の「安田章子」名義で
童謡歌手として活躍。1965年にキングレコードから
本名名義で「ヒッチハイク娘」にて歌謡曲の歌手としてデビューするが、
ヒットに恵まれず停滞の時代に入る。
童謡歌手時代からの仕事であるCM曲やテレビ・ラジオ主題歌の
吹き込みや、「大人の世界を歌えるように」という修行の
意味合いもあったキャバレー・ナイトクラブへの出演を
行いながら雌伏の時を過ごす。
1969年、東芝音楽工業より「夜明けのスキャット」で
現在の芸名で再デビューし150万枚の大ヒットとなった。
1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる
大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。
国際的な知名度が高く、2011年に世界50ヵ国以上で
CD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付の
iTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールド
ミュージックで1位獲得するなど、世界的に高く評価されている
歌手である。シンガー・ソング・コメディアンを自称。
姉は声楽家の安田祥子で、二人で録音することや、
同じステージに立つこともある。
山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。
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山上路夫
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いずみ たく
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渋谷 毅 |
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沢 知美 - 素敵なあなた
LP : 人の気も知らないで ? 沢知美とあなたの夜 -
Columbia JPS-5169
1969年3月リリース。
作詞 : Jacob Jacobs
作曲 : Sholom Secunda
Andrews Sistersの "Bei mir Bistu Shein" のカヴァー。
1932年にブルックリンのパークウェイ劇場で上演された
イディッシュ語のミュージカルのために Sholom Secunda
ショロム・セクンダが作曲したものが原曲である。
沢 知美 (さわ ともみ : 1947年10月8日生れ)
日本の元歌手、女優、ファッションモデル、タレント。
本名は中野美和子。北海道札幌市出身 (ただし、東京都出身とする
資料も多い)。初期は、本名の中野美和子や中野味和子名義で
活動していた。実家は札幌市内の日蓮宗の寺院。
後に東京に移り、二階堂高等学校を中退。
1964年に「ミス・プレタポルテ」に当選し、ファッションモデル
として活動。1965年に映画『高原のお嬢さん』に中野味和子名義で
出演し、女優デビュー。他にも『女の意地』『高校生無頼控』など
数々の映画に出演。モデル、女優としてそのフェロモン溢れる
エロディシズムで男たちを虜にしてきた。
その後歌手を志し、日本コロムビアの作曲家・和田香苗に師事し、
1967年に日本コロムビアから、和田の作曲による『私にいわせて』で
歌手デビュー。同年テレビ番組『11PM』のカバーガールとなり、
タレントとしても活躍。
1970年1月に発表したシングル『モーニング・ブルース』が
ヒットし、人気歌手の仲間入りを果たした。1972年に引退。
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ヒデとロザンナ - 愛のひととき (Between Waves)
7inch single : Columbia P-58
1969年4月15日リリース。
LP : イタリーの休日 (Holiday in Italy)
Columbia JDX-32
1969年11月25日リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲 : 筒美京平
演奏 : コロムビア・オールスターズ
先ず「ユキとヒデ」の経緯から。
アン真理子 (本名 佐藤ユキ) 日劇のダンサー兼コーラス員としてデビュー。
その後、平岡精二クインテット等のソロ歌手となる。
1966年、水木英二 (日活ニューフェース) の芸名で俳優活動をしつつ
ソロ歌手として『東京ロマンチックガイ』(東芝レコード、1962年)で
デビューした出門ヒデと、日劇のダンサー兼コーラス員としてデビュー後
平岡精二クインテット等のソロ歌手だった佐藤ユキ (後のアン真理子) が結成した
ボサノヴァ・デュオが「ユキとヒデ」だった。
1966年、東京ヒルトンホテルのスター・ヒル・プラザに出演
していたときに、出門ヒデと「ユキとヒデ」を結成。
翌1967年、デビューシングルをリリース。
ユキとヒデとしての活動と平行して、佐藤ユキ (後のアン真理子) は
ソロ歌手藤ユキ (ふじ ユキ) としても活動。
結局、佐藤ユキ (後のアン真理子) はデビューシングルの
後に「ユキとヒデ」を脱退した。
2枚目のシングル「スノー・ドルフィン・サンバ」で
矢野育子 (2代目ユキ) にメンバーチェンジした。
矢野育子は三枝伸とデイ&ナイツに参加したのち、
ユキとヒデの2代目ユキとなった。
1968年の恐らく8月から9月には実質的に「ユキとヒデ」は
解散していた。と同時にヒデこと出門英は後に妻となる
イタリア出身のロザンナ・ザンボンとの男女デュオ「ヒデとロザンナ」
を結成する準備をしていた。このロザンナはは1950年7月3日に
イタリア・ヴェネト州スキオで生れた歌手。
1967年、日本で彼女の兄フラビアーノ・ザンボンが所属する
カサノヴァ7の編曲をしていた叔父ブルーノ・ダラポッサの勧めで、
音楽学院を卒業と同時にグループ歌手として17歳で来日。
と言うことはヒデと出会えたのは夏以降になる。
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筒美京平 |
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いしだあゆみ - ひとりにしてね
LP : ブルー・ライト・ヨコハマ
Columbia YS-10060-J
1969年4月25日リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
ファーストアルバムに収録。
昔ウチの親父がこの曲を聴いていて「たそがれとりやがる」
と呟いた。それは、いしだあゆみに向けてではなく
一緒に聴いていた私に向けてだった。うふふふ
音楽用語にドローン (Drone) という言葉があり
持続低音を指す。簡単に説明すると「ん〜〜〜〜」と
低い音を言うと、言う側も聴く側も脳が振動して
サイケデリックな催眠効果が発生する。
いしだあゆみの独特な歌唱法に注目して頂きたい、
例えば一般的に彼女の歌い方を真似るときに
「街の灯りが とてもきれいねヨコハマ ブルー・ライト・ヨコハマ」
まん ちん のん あん かん りん がん とん てん もん
きん れん いん ねん ヨン コン ハン マン
ブルー・ライト・ヨコハマ〜〜ン
といったように、小さく「ん」を入れてドローン効果を出す。
いしだあゆみの韻を踏むドローン歌唱法はサイケデリックな
催眠効果を発生させているのだ。
彼女は初期の歌では、このような発声方法で歌っておらず
曲を書いた橋本淳と筒美京平のコンビが仮に意図的に
この発声方法で歌わせたのであれば、昭和歌謡史において
画期的な発明である。なお本件「ひとりにしてね」では
ドローンを使わず、意図的にハスキーな艶声でフェミニンを
放出している。これで解るように、下積みの長かった
いしだあゆみはヴォーカリストとして変幻自在の
表現方法を習得しており、ビクターからコロムビアに移籍
した際に大きくイメージチェンジを図ったのが解る。
ドローン (Drone) とは、持続低音の事で音楽における多声性の
テクスチュア (音構成原理) を形成する方式の一つで、「うなり音」を
意味し、和声には組み入れられない非和声音の一種であるが、
「最初は和声音であるが、和音が変わって非和声音になっても続く」、
「後で和声音に解決する」という点が他の非和声音とは異なる。
持続低音は和音を元に引き戻す強い和声上の効果がある。
ドローンを使用して演奏する楽器として、次のものがある。
鍵盤楽器:ハルモニウム
擦弦楽器:ハーディー・ガーディー、ヨウヒッコ
撥弦楽器:シタール、マウンテン・ダルシマー、ストラム・スティック、大正琴
吹奏楽器:フルス (ひょうたん笛)
昭和歌謡を代表する作詞家なかにし礼は1971年に
いしだあゆみの妹の元歌手、石田ゆりと再婚。という事は、なかにし礼
の姪である森田童子 (本名 : 中西美乃生 なかにしみのぶ) と
いしだあゆみは親戚になった。1971年から1972年までの1年間、
デビュー前の中西美乃生 (森田童子) は
なかにし礼宅で石田ゆりと同居していたので、いしだあゆみは
学生時代の森田童子を知っていたのだ。
いしだあゆみ (1948年3月26日生れ)
日本の女優、歌手、元フィギュアスケート選手。
イザワオフィス所属。身長163cm。
本名・別名義:石田良子 (いしだよしこ)。
大阪府池田市出身。4人姉妹の次女として長崎県佐世保市で生まれた。
実家は大阪府池田市で3代続いた喫茶店「フジヤ」とパン屋を営み、
商店街”サカエマチ1番街”で育つ。
5歳からフィギュアスケートを始め、選手として活躍したほか、
児童劇団でも活動し、「ともだち劇場」で泉田行夫の指導を受けた。
1961年には梅田コマ劇場で初舞台を踏む。
1962年、14歳で上京していずみたくに師事。4月20日にソノブックス社
よりソノシート『夢みる恋 (原題:Walkin' Back To Happiness)』が
本名の石田良子名義でリリースされ、その後も数枚のソノシートが
発売された。1964年4月に現在のいしだあゆみに改名し
日本ビクターから『ネェ、聞いてよママ』でアイドル歌手として
デビューした。同年から翌1965年にかけては『七人の孫』に
森繁久彌の孫役で出演するなど、劇団出身の演技力を活かして
歌手と女優の二足のわらじで芸能活動を開始した。
芸名について、永六輔は自著『芸人その世界』で「名づけ親と
いうことになっているのは『いしだあゆみ』……」と述べているが、
永は自身が芸名の名付け親か否かについては明記せずぼかしている。
いしだ自身は「あゆみ」の芸名について、永がラジオパーソナリティ
を務める『土曜ワイドラジオ TOKYO 永六輔その新世界』の
ゲストコーナー「乙女探検隊が行く?関東新地図」に出演した際に
「お世話になった方の娘さんの名前からいただいた」と述べ、
永が名付け親という説を否定している。
デビューから4年間は23枚のシングルを発表したものの、
歌手としては2枚目のシングル『サチオ君』が5万枚程度の
売上を記録したのが最高で、大きなヒット曲に恵まれず
いしだはこの期間、テレビドラマや他の仕事が忙しく歌手
としての宣伝に協力できなかったと述べている。
その後、歌手活動に専念しイメージチェンジを図るため
1968年6月に日本コロムビアへ移籍。同年12月に発売した
シングル『ブルー・ライト・ヨコハマ』が翌1969年初頭から
大ヒットし、同年2月10日にはオリコンチャート週間1位に
ランクイン。累計150万枚を超える売上を記録する
ミリオンセラーとなった。同年の年間チャート第3位にも
ランクインし、歌手としてのいしだのイメージを確立した。
いしだは同年末の『第20回NHK紅白歌合戦』に初出場を
果たし「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌唱。紅白歌合戦では
他にも1973年の第24回、1993年の第44回と合計3回歌唱している。
作曲を手がけた筒美京平にとっても、自身が手掛けた楽曲で
初のオリコン週間1位を獲得し、筒美は本楽曲で第11回
日本レコード大賞作曲賞を受賞した。「ブルー・ライト・ヨコハマ」
はいしだの代表曲となっただけでなく、筒美京平の出世曲ともなった。
また横浜のご当地ソングとして長く歌い継がれ、市民に
愛される楽曲となり、多くの歌手によってカバーされている。
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筒美京平 |
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土居まさる - カレンダー
7inch single : Elec Records EB-1001
7inch EP : Elec Records EA-1001
1969年4月リリース。
作詞 : のなかみやこ
作曲 : 三嶋清正
編曲 : 沢田駿吾
ファーストシングル。演奏は沢田駿吾クインテット、
コーラスは「涙がほしい」の朱由美子。
エレックは1969年に設立され、当初は通信教育用の音源制作を
やっていたが、初の公式流通盤が文化放送の人気DJだった
土居まさるの歌手デビュー作が本件「カレンダー」で、これが
深夜放送を中心にヒットした。
因みにこの曲は2008年に「青葉城恋唄」でも有名な、
さとう宗幸 (佐藤宗幸) がCD 『決定版 さとう宗幸』 で
カヴァーをしている。CALENDAR (with 庄子眞理子)
土居まさる、日本のアナウンサー (文化放送からフリー)、
ディスクジョッキー、タレント、司会者。
本名は平川巌彦 (ひらかわよしひこ)。1940年8月22日生れ。
愛知県出身で、後に静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現在の伊豆市)
で育つ。1999年1月18日、膵頭部 (すいとうぶ) がんのため
渋谷区神宮前の自宅で死去。58歳没 (享年 60)。
静岡県立沼津東高等学校、立教大学経済学部卒業。
1964年4月、文化放送にアナウンサーとして入社。
入社後はプロ野球中継の実況アナウンサーとして活躍していた。
1965年8月、『真夜中のリクエストコーナー』のパーソナリティ
を務めた。同番組は日本初の若者向けラジオ深夜放送と言われる。
その後は『東京ミッドナイト』『電話リクエスト ハローポップス』
『ハローパーティー』『セイ!ヤング』のパーソナリティを務めた。
スポーツ アナウンサー出身らしい速いトークとリスナーに
「ヤァヤァヤァ! 君は起きているかい? 今夜もビャーっと
行こう!!」と語り掛ける口調、特徴的な言葉を発する
スタイルで人気を博す。エレックレコードから「カレンダー」
で歌手デビューもした。
1969年からは文化放送と資本的に関係のあるフジテレビの
番組の『スター千一夜』『テレビナイトショー』『お昼の
ゴールデンショー』に出向という形で司会を担当した。
沢田駿吾、本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』 (1944年アメリカ映画) を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送 (現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。
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沢田駿吾 |
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牧美佐緒 - 人魚のサンバ
7inch single : Columbia P-1004
1969年4月リリース。
作詞 : 中村小太郎
作曲 : 田辺信一
演奏 : ケニー・ウッド・オーケストラ
コーラス : シンガーズスリー
牧美佐緒は大阪府大阪市出身、北稜中学校卒。
宝塚歌劇団46期生で愛称はコンちゃん。
この期には女優の上月晃 (元星組トップスター)、
古城都 (元月組トップスター)、山吹まゆみ、
東京宝塚劇場支配人の甲にしき (元花組トップスター)
らが入団。初舞台は1960年4月「春の踊り」
最後の公演は1972年3月東京星組「ノバ・ボサ・ノバ」 (マール役)
退団は1972年4月30日付
ヒデとロザンナ「愛の奇跡」の作曲でも有名な田辺信一の作品。
田辺信一 (たなべ しんいち、1937年10月2日 - 1989年4月29日)
日本の作曲家、編曲家。岡山県総社市出身。作曲家・編曲家として
多数の楽曲を制作、石坂浩二の金田一耕助シリーズの音楽を担当した。
他にも歌謡曲の作曲としても知られる。
元々ジャズ畑の人間であった (慶應ライトミュージックソサイエティ出身)。
ケニー・ウッド・オーケストラとは名アレンジャーの森岡賢一郎
が率いていた楽団である(ケニー=賢一郎、ウッド=森岡のもじりである)。
また彼はスマイリー小原とスカイライナーズでは首藤邦彦、鈴木庸一と
共にピアノも担当していた。
伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
シンガーズ・スリー
1967年に4人組の男女混声コーラス・グループであった
フォー・シンガーズの解散により、その女性メンバーであった
団洋子、伊集加代子と、尾形道子(藤村道子)の3人により
1967年に結成された女性コーラス・グループがシンガーズ・スリーだ。
元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの日本語の声を担当
していた団洋子だが、結成後間もなく結婚して渡米したため
メンバーは伊集と尾形の2人プラス1人という形で活動を継続。
加入メンバーは井上知子、福田まゆみと変わり、その後は
再び井上がメンバーとして復帰し、伊集、藤村、井上の
3人に戻っている。
ちなみに、1977年6月に発売されたシリア・ポールの
アルバム「夢で逢えたら」では、コーラスのクレジットに
「シンガーズ・スリー」と記されているが、この時のメンバーは
1987年6月に発売されたCDのライナーノートによると、
伊集と和田夏代子、鈴木宏子の3人で、以前とは異なる
メンバーであった。これによれば、井上の復帰後にもメンバーの
変更があったということになるが、伊集本人が語った1986年当時
のインタビュー記事によれば、「10年ちょっと前に一応
シンガーズ・スリーという名前はやめましょうっていう感じで」、
シンガーズ・スリーは正式に解散ということがあったと述べていて、
最後のメンバーは伊集、藤村、井上の3人だったとしている。
1977年12月発売の大瀧詠一さんのアルバム『NIAGARA CALENDAR』
のライナーノートには、コーラスのクレジットとして
「Orange Blossoms(シンガーズ・スリー改め)」と記されていて、
そのメンバーは「夢で逢えたら」と同じ伊集、和田、鈴木の3人である。
また大瀧さん関連のアルバムで「オシャマンベ・キャッツ」と
記されているコーラス・グループも、同じこの3人である。
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森岡賢一郎
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シンガーズスリー |
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クラウディア・ラロ |
クラウディア・ラロ - オー・ソレミオ・ホンダ
ソノシート : 本田技研工業株式会社 Lo-D HT-464
1969年リリース。
作詞 : 酒井睦雄
作曲 : 小林亜星
当時この酒井睦雄&小林亜星のコンビはCMソング業界では
定評の有るヒットメーカーであった。
「オー・ソレ・ミオ」とはナポリ語で、「私の太陽」という意味で
かの有名なカンツォーネ (ナポリ民謡) の
「オー・ソレ・ミオ ('O sole mio)」は19世紀後半に作曲された。
何がいいたいのかと言うとブラジル人シンガーのクラウディアは、
このキャッチーな作詞を手掛けた酒井睦雄氏の意図であろう
「おーそれ見よ ホンダ」の説明を受け理解してたのだろう。
わざわざブラジル人女性に意味不明なナポリ語もどきの歌を
歌わした酒井睦雄氏の作戦勝ちといえよう。
当時、クラウディアが声高らかに歌うこの歌は印象的だった。
エンディングで聴かせる高速スキャットがスピードアップを
煽るのでドライヴ中には要注意っす。
本名 Maria das Gracas Rallo
ブラジル人シンガーのクラウディア・ラロ
クラウディア・ラロは1948年5月10日生まれ。
彼女は非常に早くからキャリアをスタートし、わずか9歳のときに
番組で歌い始めた。彼女はMG州ジュイス・デ・フォーラの
ラジオ・ソシエダーデで特集され、その街は彼女が育った街であり
彼女の声は当時から非常に力強かった。彼女は首都サンパウロに移り
いくつかの新入生プログラムで、いつも講堂で歌った。
1960年、サンパウロのテレビ番組でエリス・レジーナと
ジャイール・ロドリゲスの「オー・フィノ・ダ・ボッサ」を
何度か歌った。1969 年、クラウディアは第1回フルミネンセ歌謡祭
に出場し、エドゥアルド・ラーゲとアレシオ・デ・バロスの
Razao de Paz para nao Cantar で1位を獲得した。
その後、彼女は非常に名誉ある歌手としていくつかの国を旅し
日本、ギリシャ、メキシコ、ベネズエラのフェスティヴァル
に出演した。彼女はブラジル国内よりも海外で多くの賞を
受賞しており、彼女は国内の歌手というよりも国際的な歌手
であると言われていた。
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小林亜星 |
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中村晃子 - ローマの灯
7inch single : King Records BS-991
1969年5月1日リリース。
LP : アッコはうたう ヒット・アルバム第2集
King Records SKD 31
1970年2月1日リリース。
作詞 : 石井志都子
作曲 : 佐香裕之
編曲 : 森岡賢一郎
演奏 : オールスターズ・レオン
中村晃子 (なかむら あきこ : 1945年1月3日生れ)
日本の歌手、女優、声優。千葉県習志野市出身。
本名同じ。愛称はアッコ。血液型はO型。
身長163cm、B85・W60・H88。ベルグコーポレーション所属。
兄1人弟1人の真ん中で、母の村山雪子 (東光子) は
三浦環門下のオペラ歌手。レコードも出す芸能人だったが、
戦争で歌手活動を志半ばで中止していた。
父は警察官で、晃子の芸能界入りに反対していた。
習志野市立第一中学校、昭和学院高等学校卒業。
1962年、高校在学中に第2回ミス・エールフランス
コンテストに応募して最終審査まで進んだことがきっかけで、
松竹大船撮影所からお呼びがかかり、同撮影所の奨学生制度の
一人として同年に銀幕デビュー。その後、1964年5月に松竹と
正式に契約を結んだ。多数の映画に出演し、1965年?1966年は
田村正和とコンビで売り出すも、互いに芽が出ずパッと
しない存在だったが、その後同年『望郷と掟』『炎と掟』や
ザ・ドリフターズの映画などに出演。当時は外車が好きで
オペルなどを乗り継いだ。1965年に『青い落葉』にて
レコードデビュー。1967年には『虹色の湖』をリリース。
グループ・サウンズ全盛の時期にあって、女性ソロ・シンガー
として80万枚を売り上げた。この曲は彼女の最大のヒットで
チャート3位まで上昇した。当時はミニスカートや
ミリタリー・ルックのファッションだった。
続く1968年の『砂の十字架』もヒットを記録。
1968年末には、『虹色の湖』で第19回NHK紅白歌合戦に
初出場。へそ出しルックで歌っていたために、NHKには
なかなか出演できなかったという。
また、アメリカドラマ『かわいい魔女ジニー』の声優も担当した。
佐香裕之 (さこう ひろゆき) の書いた代表曲と言ってもよいだろう。
佐香裕之が書いた曲は1968年から1969年に集中して
リリースされている。
葉村エツコ「でも好きよ」、日野てる子「海はきらい」、
小川知子「だから許して」、松本ルミ 「雨にぬれても / 恋ひとり」等。
編曲は名アレンジャーの森岡賢一郎。
指揮を平井哲三郎、高階正光、ピアノをポール・ヴィノグラドフ、
作曲を團伊玖磨にそれぞれ師事。「君といつまでも」「恋のしずく」
「ブルー・シャトウ」「今日でお別れ」で日本レコード大賞編曲賞
を受賞。作・編曲の傍ら、映画やテレビ番組の音楽監督・プロデューサー
として活動。主な作品に、映画音楽「若大将シリーズ」「宇宙からの
メッセージ」「山下少年物語」「典子は、今」など。往年の歌謡曲に
しばしばクレジットされている、ケニー・ウッド・オーケストラとは、
彼が率いていた楽団である(ケニー=賢一郎、ウッド=森岡のもじりである)。
またスマイリー小原とスカイライナーズでは首藤邦彦、鈴木庸一と
共にピアノも担当していた。
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森岡賢一郎 |
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ピンキーとキラーズ - 青空にとび出せ
7inch single : King Records BS-1010
1969年5月20日リリース。
作詩 : 岩谷時子
作曲編曲 : いずみたく
ピンキーとキラーズの6枚目のシングル。
彼女たちが主演のTBSドラマ「青空にとび出せ!」
(1969年3月- 9月放送) の主題歌。
1967年に15歳で「甘ったれたいの」でビクターレコードから
ソロ歌手としてデビューした今陽子(ピンキー)が
キングレコードに移籍し、男性ヴォーカルのジョージ浜野、
エンディ山口、ルイス高野、パンチョ加賀美の4人と結成。
グループ名は、当時アメリカで流行っていた男女混合バンドの
スパンキー&アワ・ギャングをもじったもので、作曲家の
いずみたくが命名した。当時、今陽子はいずみたくの事務所に
所属しており、いずみは彼女を売り出すためグループに
することを考えて、ルイスたち男性陣を集めてピンキーとキラーズ
を結成させた。この頃の音楽業界では“大きな女性歌手は売れにくい”
というジンクスがあり、ルイスたちは高身長の今陽子 (167cm) に
不安を感じた。しかし陽子の歌声を聞いたルイスたちは彼女の声量が
すごく、リズム感の良さや英語歌詞も上手に歌えたことから
「これはモノになるぞ」と確信したという。
1969年1月、4枚目のシングル「涙の季節」が発売され
1位になり、続く「七色のしあわせ」が4位、「星空のロマンス」
が10位とオリコンのトップ10に入ったが、それ以降
トップ10からは遠ざかった。
その後デビューから4年で陽子がグループを脱退したが、
実はグループ結成の時点でルイスたち男性陣にはいずみから
陽子の処遇について事前に聞かされていた。
それは「ピンキーが20歳になったら、その時ピンキーとキラーズが
売れていても売れていなくても、この子はソロで活動させる」
という話だった。ただし陽子本人にはこの話は知らされていなかった。
このためルイスが人づてに聞いた話として、「『私(陽子)が
ピンキーとキラーズを脱退になったのは、自分の努力が
足りなかったせい』と裏事情を知るまで責任を感じていた」とのこと。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
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いずみ たく |
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ピンキーとキラーズ - ニャーオン
7inch single : King Records BS-1010
1969年5月20日リリース。
作詩 : 永六輔
作曲編曲 : いずみたく
ナンセンスボサの隠れた逸品。
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伊集 加代子 |
伊集加代子 - 男と女 (A Man And A Woman)
(Un Homme Et Une Femme)
LP : スキャットエレガンス
Philips FS-8048
1969年5月25日リリース。
作詞 : Pierre Barouh
作曲 : Francis Lai
演奏 : 山屋 清とネオ・ロマネスク・サウンズ
Pierre Barouh のカヴァー。
伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
フォー・シンガーズは。岡崎広志、大久保計利、西城慶子、団洋子
の4人から成る男女混声コーラス・グループ。
団洋子は元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの
日本語の声を担当していた声優でもあった。
その後、西城慶子の病気療養による一時活動休止により女性1名が
欠員となり、オーディションで選出された伊集加代子が
西城慶子に代わりメンバーとなった。1965年 - 1967年活動。
1977年にアルバム「ウェルカム・バック!」をリリースしたが、
この時のレコーディングメンバーは岡崎、大久保、伊集の3人と、
後にシンガーズ・スリーのメンバーとなった尾形道子の4人だった。
シンガーズ・スリーは1967年のフォー・シンガーズ解散後、
その女性メンバーであった団洋子、伊集加代子と、
尾形道子(藤村道子)の3人により1967年に結成された
女性コーラス・グループ。
結成後間もなく、団が結婚して渡米したため、メンバーは伊集と尾形
の2人プラス1人という形で活動を継続。
加入メンバーは井上知子、福田まゆみと変わり、その後は
再び井上がメンバーとして復帰し、伊集、藤村、井上の3人に
戻っている。ちなみに、1977年6月に発売されたシリア・ポールの
アルバム「夢で逢えたら」では、コーラスのクレジットに
「シンガーズ・スリー」と記されているが、この時のメンバーは
1987年6月に発売されたCDのライナーノートによると、
伊集と和田夏代子、鈴木宏子の3人で、以前とは異なる
メンバーであった。これによれば、井上の復帰後にもメンバーの
変更があったということになるが、伊集本人が語った1986年当時
のインタビュー記事によれば、「10年ちょっと前に一応
シンガーズ・スリーという名前はやめましょうっていう感じで」、
シンガーズ・スリーは正式に解散ということがあったと述べていて、
最後のメンバーは伊集、藤村、井上の3人だったとしている。
1977年12月発売の大瀧詠一さんのアルバム『NIAGARA CALENDAR』
のライナーノートには、コーラスのクレジットとして
「Orange Blossoms(シンガーズ・スリー改め)」と記されていて、
そのメンバーは「夢で逢えたら」と同じ伊集、和田、鈴木の3人である。
また大瀧さん関連のアルバムで「オシャマンベ・キャッツ」と
記されているコーラス・グループも、同じこの3人である。
山屋清 (やまや きよし) 1932年3月29日生まれ。山梨県甲府市出身。
1956年-1957年、原信夫とシャープス&フラッツにて
演奏・作曲・編曲をする。
1959年、三保敬太郎・前田憲男氏と「モダンジャズ三人の会」を結成、
第14回芸術祭奨励賞受賞。
1965年、第7回日本レコード大賞にて編曲賞受賞。
1966年、東京ユニオンオーケストラのバンドリーダーとなる。
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山屋 清 |
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伊集加代子 - スカボロー・フェア (Scarborough Fair)
LP : スキャットエレガンス
Philips FS-8048
1969年5月25日リリース。
演奏 : 山屋 清とネオ・ロマネスク・サウンズ
イギリスのトラディショナルソング。
Simon & Garfunkel のカヴァーヴァージョンから。
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山屋清とネオ・ロマネスク・サウンズ - 白い十字架
7inch single : Philips FS-1088
1969年リリース。
伊集加代子 - 白い十字架 (Kleiner Prinz)
LP : スキャットエレガンス
Philips FS-8048
1969年5月25日リリース。
作曲 : Henry Arland
スキャット : 伊集加代子
演奏 : 山屋 清とネオ・ロマネスク・サウンズ
Henry Arland のカヴァー。
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伊集加代子 - 黒いオルフェ (Manha De Carnaval)
LP : スキャットエレガンス
Philips FS-8048
1969年5月25日リリース。
作詞作曲 : Louiz Bonfa
演奏 : 山屋 清とネオ・ロマネスク・サウンズ
Louiz Bonfa のカヴァー。
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伊集加代子 - 夜明けのスキャット
LP : スキャットエレガンス
Philips FS-8048
1969年5月25日リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲 : いずみたく
演奏 : 山屋 清とネオ・ロマネスク・サウンズ
由紀さおりのカヴァー。
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伊東ゆかり - 愛するあした
7inch single : King Records BS-1015
1969年6月1日リリース。
作詞 : 安井かずみ
作曲編曲 : 東海林修
伊東ゆかり主演の日活映画「愛するあした」の主題曲。
伊東ゆかり (いとうゆかり : 1947年4月6日生れ)
日本の女性歌手・女優。 本名:伊東信子 (いとうのぶこ)。
東京都品川区出身。父親は沖縄県出身。
関東学園女子高等学校 (現・関東国際高等学校) 卒業。
1960年代から1970年代に掛けて一世を風靡した
和製ポップス歌手の一人。歌手として音楽番組への出演や
コンサート活動のほか、女優業もおこなう。
幼少期から進駐軍キャンプで唄い始め、11歳のとき (1958年6月)
「かたみの十字架 / クワイ河マーチ (映画『戦場にかける橋』
テーマソング」) でキングレコードより本格デビュー。
その後、一時芸能活動を休止するが、渡辺プロダクションに
移籍し活動を再開。ポップスを得意とした中尾ミエ、園まりと
三人で “スパーク3人娘” を結成。『シャボン玉ホリデー』や
『歌え!一億』に出演し、知名度を全国区にした。
1967年にリリースした「小指の想い出」は爆発的なヒットとなり、
その後も長く歌い継がれている。
その後も「恋のしずく」「朝のくちづけ」「知らなかったの」と
立て続けにヒット曲を飛ばした。この頃、巨人軍選手の柴田勲との
交際が話題となり、一時は柴田との結婚話まで浮上した。
1969年には映画『愛するあした』に主演、
同年第20回NHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。
1970年、シングル「結婚」を最後に渡辺プロダクションから独立。
1971年に「誰も知らない」がヒットするものの、
大手プロダクションの後ろ盾を失った厳しさや、結婚・出産・離婚
の経験。さらには “スパーク3人娘” の自然解散や “新三人娘”
“花の中三トリオ” 等の後輩歌手が台頭してきたために、
その後は一時的に低迷する。しかし、1977年から1981年まで
メイン司会を務めたTBSの音楽番組『サウンド・イン"S"』が
一つの転機となり、“大人の歌手” として再評価されるようになる。
この番組は彼女が得意とする洋楽を中心とした構成で、時には自らも
ゲストとデュエットしつつ、エンディングで世良譲のピアノにのせ
スタンダード・ナンバーを歌い上げていた。
前夫は歌手で俳優の佐川満男で、その間に生まれた実娘が
歌手の宙美(親権は伊東が持っている)。
歌手生活60周年を迎えた2013年4月20日には、渋谷の
大和田さくらホールにてコンサートを開催。
MJQ (マンハッタン・ジャズ・クインテッド) の
デビッド・マシューズをプロデューサーに迎え、
歌手生活60周年記念アルバム『メモリーズ・オブ・ミー』を
同年4月3日にリリースした。
安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 - 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9〜10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。
作曲を手掛けたのは村井邦彦のパートナーでもある東海林 修。
東海林 修 (しょうじ おさむ : 1932年9月6日 - 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。
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安井かずみ
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東海林 修 |
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奥村チヨ - 誰もいない
LP あなたとチヨと...
東芝 TP-7318
1969年6月1日リリース。
作詞 : なかにし礼
作曲 : 大六和元
編曲 : 川口真
菅原洋一のラテン歌謡名作のカヴァー。
妖艶なルックスとフェロモンヴォーカルで昭和の殿方達から
熱烈なラヴコールを受けた奥村チヨ。
奥村チヨ (おくむら チヨ : 1947年2月18日生れ)
本名は金野智代 (こんのちよ、旧姓・奥村)
夫は浜圭介。麻生祐未は姪にあたる。
千葉県野田市で生まれ、3歳から大阪府池田市で育つ。
夙川学院高等学校在学中に知人が応募したオーディションに
合格し、1回限りで小野薬品のドリンク剤「リキ・ホルモ」の
CMソング「昨日、今日、明日」を歌い好評を得て、卒業後の
1965年に東芝レコードから「あなたがいなくても / 私を愛して」
でデビューする。和製シルヴィ・ヴァルタンとして売り出され、
蠱惑的な魅力と甘えた雰囲気の歌唱で耳目を集める。
黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と称し、「ごめんネ…ジロー」
(1965年)、「北国の青い空」(1967年)などをヒットさせる。
1969年 - 1970年に発表して51万枚を販売した「恋の奴隷」を
初めに「恋狂い」と「恋泥棒」の「恋3部作」が広く高評を得て、
人気歌手の地位を確立する。コケティッシュな雰囲気がいっそう
官能的になり、初めてNHK紅白歌合戦に出演するが、「恋の奴隷」
の歌詞の一部がNHKの内部規則に抵触するために、「恋泥棒」を歌った。
作詞はその壮絶な人生を背景に業の深い詩で
昭和歌謡を代表する作詞家だった、なかにし礼。
なかにし礼 (なかにし れい) 本名:中西 禮三 (なかにし れいぞう)
(1938年9月2日 - 2020年12月23日)
日本の小説家、作詞家。森田童子 (本名 中西美乃生 みのぶ) の叔父。
森田童子の父、中西正一は、なかにし礼の兄。
1938年9月2日、満洲国の牡丹江省牡丹江市 (現在の中華人民共和国
黒竜江省) に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、
渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは
家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな
影響を与えた。彼の兄の中西正一は立教大から学徒出陣として
陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
彼の兄の中西正一は、第二次世界大戦中に零戦のパイロットだった。
特別攻撃隊の生き残りで戦後は荒れた生活を送った。
なかにし礼は8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで
小学校時代は東京と青森 (青森市立古川小学校) で育ち、中学から
東京品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、
シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。
シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中に
ヒットメーカーになる。一浪して1958年に立教大学文学部英文科に
入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部
仏文科を卒業する (立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に
最初の妻と結婚する。元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の
深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を
手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルの
バーで『太平洋ひとりぼっち』 (映画1963年公開) を撮影中の
石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。その間、一女をもうけるも、
1966年に別居、1968年に離婚する。
石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の
歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1に作詞作曲した作品
(後の「涙と雨にぬれて」) を自ら石原プロに持ち込んだ。
それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」が
ヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の
執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、
NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。
兄の中西正一は、弟のなかにし礼が多額の借金を抱えて設立した
会社をいくつも倒産させた。その頃、なかにし礼の自宅には、
中西正一の家族である、正一の妻、長女、次女中西美乃生 (後の森田童子)
長男の家族が住み始めた。次女の中西美乃生は、1970年の日本の暴動時代、
17歳の時に友人が校内紛争に巻き込まれ、高校を中退した。
中西美乃生の15歳から19歳までの4年間、なかにし礼と中西正一の
家族は東京・中野のなかにし礼の自宅で同居していた。
なかにし礼は1971年に、いしだあゆみの妹の石田ゆりと再婚した。
つまり、いしだあゆみの義弟は、なかにし礼となる。
それで、1971年から1972年までの1年間、中西美乃生 (森田童子)
は石田ゆりと暮らしていた。兄の中西正一のゴルフ場開発の失敗により、
なかにし礼は6億円の借金を抱え、なかにし礼の会社も倒産していった。
なかにし礼は新婚生活の邪魔だったために、これを機に兄の家族と絶縁し、
追い出した。森田童子は、なかにし礼のことが好きだったが、
なかにし礼の家での生活は彼女にとってとても大変だった。
そんな時期、なかにし礼とその兄の中西正一 (森田童子の父) は、
京都から東京に来た銀座のナンバーワン若手ホステス堀川麗子
という田舎娘をスカウトした。この田舎娘は後の風吹ジュンである。
彼らは風吹ジュンのために芸能事務所「Adoプロモーション」設立し、
中西正一の友人でイラストレーターの前田亜土 (本名 : 前田正春、
後の森田童子のマネージャーで夫) を社長に迎えた。
事務所に所属するタレントの風吹ジュンは給料の安さに不満を抱いていた。
なかにし礼、中西正一、前田亜土は、風吹ジュンが事務所を
移籍しようとした1974年9月12日に拉致監禁事件を起こした。
彼らはヤクザを使って風吹ジュンを監禁し、事務所の異動を断念させた。
その後の裁判で風吹ジュンの事務所への移籍は認められたが、
その際に風吹ジュンの過去の経歴詐称が明らかになり
イメージダウンとなった。
中西美乃生 (森田童子) は20歳頃から歌を歌い始め、風吹ジュン誘拐事件
の翌年の1975年に22歳でデビュー。彼女の背景には多くの問題があり、
有名な、なかにし礼との関係を隠してデビューしたかったのである。
なかにし礼は若い頃から何度も繰り返した心臓疾患や離婚に加え、
1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して
全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を
肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。
1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、
2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の
照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』
『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と
向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。
2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや
核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は
若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
とも語っている。2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、
同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため
東京都内の病院で死去。82歳没。
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なかにし礼 |
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麻里圭子, 横田年昭とリオ・アルマ - 裸足のままで
7inch single : Victor SV-850
1969年6月5日リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
演奏 : ビクター・オーケストラ
岡田可愛が主演したスポ根ドラマ「サインはV」の
主題歌でも有名なユニット。
麻里圭子 (まり けいこ : 1947年8月1日生れ)
歌手、女優、フラワーデザイン講師。
以前はJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに所属していた。
東京都中野区出身。幼少期に日本舞踊を習っていたことから、
漠然と芸能界を志す。私立麹町学園女子中学校在学中にモデルとして
芸能活動を開始し映画にエキストラ出演したこともあった。
ビクターのオーディション後、演歌「命をかけて」で歌手デビュー。
本人ブログ曰く:“圭子は42年8月15日に演歌歌手で
デビューそんな中、赤坂プリンスホテル旧舘のロビーで、
週刊プレイボーイの取材で、8月にデビューした3人の
新人女性歌手と巨泉との対談が在り、巨泉さんに、まだ完全に
タレントとして出来上がっていない圭子を気にって頂き
フジTVのディレクターに、合わせて頂き、巨泉さんの推薦により
ビートポップスの初代マスコットガールでレギュラーにして
頂きました。圭子がその後ポップス路線に変更出来たのも、
巨泉さんの助言が、在ったからなのです!!”との事。
1967年に演歌歌手としてデビュー。新人歌手の披露イベントで
大橋巨泉に気に入られたことにより、1968年に大橋が司会を務める
フジテレビ洋楽専門音楽番組『ビートポップス』に出演し
初代マスコットガールになった。
大橋の進言により、演歌からポップスに転向した。
そして『銀色のお月さま』『月影のランデブー』などが
ヒットした後、テレビドラマ『サインはV』の主題歌を担当した。
1969年、TBSラジオ「トクホン ニューヒットパレード」のDJ、
日本テレビ歌謡番組「ヒットスコープ」の司会、
1970年、NET(現・テレビ朝日)深夜番組「23時ショー」の
カバーガールを務めた。
1971年に『ゴジラ対ヘドラ』で女優として出演。
後年のインタビューに明かしたところによれば、
1970年の晩夏に東宝にて同作品の監督の坂野義光による面接を
経たものであり、ロケの際には富士山の二合目にも赴いたが、
寒さとの戦いだったという。
また、同作品の主題歌「かえせ! 太陽を / ヘドラをやっつけろ」
のレコーディングについては、あらかじめ坂野が前者の作曲家の
眞鍋理一郎宅へ連れていってくれたことから彼のピアノ演奏で
練習できたほか、スタジオにて歌い終わった後には
後者の作曲家のすぎやまこういちが訪れ、歌の上手さを
褒めてくれたという。
1971年にはプティ・マミ名義での活動もあり。
1972年、麻里ケイコに改名後、引退。
横田年昭 (1944年2月4日 - 2023年9月26日)
1944年東京生まれ。17歳でプロ入り、
自己のグループ「ビート・ジェネレーション」
「原始共同体」を結成して10年。
その後「猪俣猛とサウンドリミテッド」のソロ・フルーティスト
として活躍した、日本のジャズフルーティストの草分け。
その後、美しく壮大に広がる海を前にした伊豆稲取に工房をかまえ、
鳥や野の花などに恵まれた自然を友に、笛作り、竹楽器作りに
いそしんでいた。横田の作る笛は、日本の笛、主に尺八、横笛、
弥生笛、その他本人独自のアイディアによるもので、数種類にも及ぶ。
これらの楽器を演奏活動に使い、1976年には日本人として
初めてパリ・オランピア劇場にて「日本の春夏秋冬」と題し公演した。
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横田年昭
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筒美京平 |
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大橋巨泉 - 巨泉のスター百面相
7inch single : Victor BX-100
1969年7月5日リリース。
作詞 : 井上ひさし
作曲編曲 : 筒美京平
テレビ番組『巨泉のスター百面相』(フジテレビ)主題歌。
ナンセンスボサの名曲。
ジャズ評論家で奥さんがジャズシンガーのマーサ三宅
だったので、巨泉さんはセンスも歌心もある。
ナイアガラの滝に訪れた事がある人なら皆が驚愕の体験をした。
ナイアガラの滝が所在するナイアガラフォールズ市に入った時から
瀑水の飛沫を人々は浴び続ける。そして遂にナイアガラの滝を
一望できる高台のスポットに足を踏み入れるが、達成感を味わう暇もなく
唖然とする。そこには巨大な大橋巨泉さんのパネルが待ち構えているのだ。
そう、それは映画「猿の惑星」のエンディングで主人公は
猿達から逃げのびて海岸に到着した。そこで砂に埋もれた
自由の女神を見つけて彼は「ここは地球だったのか」と愕然する。
同様にナイアガラの滝の高台に到達した日本人は
「ここは日本だったのか」と愕然とし、やがて失笑する。
大橋巨泉氏が開業した土産店OK・ギフト・ショップ ナイアガラ店は
今は無い、しかし強烈なインパクトと共に人々の記憶の中で生き続ける。
それが私にとっての巨泉さんであり、その猛烈なバイタリティに
笑いが込み上げる巨泉さんの愛すべきキャラクターだ。
大橋巨泉 (おおはしきょせん : 1934年3月22日 - 2016年7月12日)
日本のテレビタレント、放送作家、元参議院議員。
テレビ司会者のほか、競馬評論家、ジャズ評論家、時事評論家
としての活動も行い、馬主でもあるなど、日本のマルチタレントの
先駆けとなった。実業家・芸能プロモーターとしてオーケープロダクション
(旧・大橋巨泉事務所) を創業し、取締役会長を務めたほか、
海外でお土産物屋「オーケーギフトショップ」を経営する
オーケーギフトショップグループの取締役社長を務めた。
オーケーエンタープライズ所属。東京府東京市本所区 (現:東京都墨田区)
両国生まれ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松 (岐阜県出身)。
実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を
経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは
店同士取引があり、幼い萩本と巨泉はその当時からの知り合いである。
早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサート
の司会者として活動していた。最初の妻であるジャズシンガーの
マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に
勤務するも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。
ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家から
テレビ司会者に進出、弁舌家のタレントとして人気を得る。
この方面では、同じく放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、
彼と2人で日本テレビ『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。
放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という
表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。
新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、
ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。
当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にも
かかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの
進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは
巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。
その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、
巨泉がメイン司会を務めることになった。
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筒美京平 |
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由紀さおり - 結婚します (I Will Get Married)
LP : 夜明けのスキャット
Express EP 7718
1969年7月10日リリース。
作詞 : 岩谷時子
作曲 : いずみたく
編曲 : 渋谷毅
天然少女かといったキャンディーヴォーカルの
持ち主で、和製ブロッサム・ディアリーと言えば
本人は照れるだろうか。
由紀さおり (ゆき さおり : 1946年11月13日生れ)
本名・旧芸名:安田 章子 (やすだ あきこ)、
日本の歌手、タレント、女優、ナレーター。
田辺エージェンシー・安田音楽事務所所属。
ひばり児童合唱団出身。洗足学園第一高等学校を経て、
洗足学園短期大学英文科卒業。
群馬県桐生市に生まれたが、3歳で横浜市へ移る。
少女時代から姉の安田祥子と共に本名の「安田章子」名義で
童謡歌手として活躍。1965年にキングレコードから
本名名義で「ヒッチハイク娘」にて歌謡曲の歌手としてデビューするが、
ヒットに恵まれず停滞の時代に入る。
童謡歌手時代からの仕事であるCM曲やテレビ・ラジオ主題歌の
吹き込みや、「大人の世界を歌えるように」という修行の
意味合いもあったキャバレー・ナイトクラブへの出演を
行いながら雌伏の時を過ごす。
1969年、東芝音楽工業より「夜明けのスキャット」で
現在の芸名で再デビューし150万枚の大ヒットとなった。
1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる
大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。
国際的な知名度が高く、2011年に世界50ヵ国以上で
CD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付の
iTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールド
ミュージックで1位獲得するなど、世界的に高く評価されている
歌手である。シンガー・ソング・コメディアンを自称。
姉は声楽家の安田祥子で、二人で録音することや、
同じステージに立つこともある。
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いずみたく
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渋谷 毅 |
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長谷川きよし - 別れのサンバ
7inch single : Philips FS1087
1969年7月25日リリース。
LP : 一人ぼっちの詩
Philips FS-8050
1969年8月25日リリース。
作詞作曲 : 長谷川きよし
編曲 : 村井邦彦
当時の深夜族が愛好した名曲。
このクールネスが日本の高度経済成長期の
夜には必要だった。このモーレツ時代の若者達は
激務とクールダウンの使い分けを覚えていかずには
戦えなかったと言う事だ。
長谷川きよし (はせがわきよし : 1949年7月13日生れ)
日本のシンガーソングライター、ギタリスト。
本名は長谷川 清志。東京都出身。東京教育大学附属盲学校
(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校) 卒業。
緑内障のため2歳半で失明し、全盲となる。
高校三年生のときシャンソン・コンクールに4位入賞。
1969年、「別れのサンバ」でデビュー。発売直後はあまり反響の
なかった曲ではあったが、深夜放送で流れるようになると、
フォーク世代の若者から支持され、大ヒットとなった。
デビュー当時からサンバやボサノヴァといったブラジル音楽を
取り入れた作風を得意としている事も特徴である。
超絶的なギター演奏と、濃密かつ透明度の高い声による
バラードで人気を博す。盲目である事やギタリストである事
などの共通点から日本のホセ・フェリシアーノと評された。
村井邦彦 (むらい くにひこ : 1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。
暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科
に進学し、在学中は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」
に所属した。大学3年時に、東京都港区赤坂でレコード店「ドレミ商会」を
開店した。1966年に大学を卒業し、グループ・サウンズ全盛期の1967年に
ヴイッキー・レアンドロスへ『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家となり、
1968年にテンプターズへヒット曲『エメラルドの伝説』を提供し、
ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」、赤い鳥に「翼をください」、
トワ・エ・モワに「虹と雪のバラード」を提供した。
1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの
日本国内における版権を獲得し、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立する。
1969年に自ら唄い発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、
当時、「(特にラジオで放送すると)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報
と紛らわしい」とされ、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を
受けているが、該当部分を除けば放送可能である。
1970年に川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と
共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立する。
1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツを設立し、
1977年に川添象郎とともにアルファレコードを設立した。
自身がプロデューサーとなり、従来ポップス曲を提供する裏方として
作家活動を主体としていた荒井由実をシンガーソングライターとして
デビューさせた。ティン・パン・アレーを見い出して、アーティストの
レコーディングの際にスタジオミュージシャンとして起用した。
1970年代末から1980年代前半にかけて、イエロー・マジック・オーケストラ
のアルバムを発売した。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点を
アメリカに移した。
作曲は東海林修に学んだところが多いと語る。映画音楽が好きで
ミシェル・ルグランに私淑する。『座頭市御用旅』など勝プロ作品の
音楽監督などを経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督を務めた。
市川崑監督『火の鳥』で映画プロデューサーを初めて手掛け、ルグランに
主題曲の作曲を依頼した。音楽監督は深町純が務めた。
発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は
代表取締役会長を務める。
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村井邦彦 |
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久美かおり - 髪がゆれている
7inch single : Columbia P-67
1969年8月1日リリース。
作詞 : 山上路夫
作曲編曲 : 村井邦彦
1969年7月12日公開の東宝映画
「ザ・タイガース ハーイ! ロンドン」の主題歌。
男性とデュエットで歌っており、制作サイドは「ジュリーと歌ってる」
みたいにしたかったそうだが、この歌ってる男性は村井邦彦である。
因みに2014年4月16日にリリースされたCDには
ボーナストラックで久美かおり一人で歌うヴァージョンを
収録している。
久美かおり (くみ かおり : 本名・深町陽子、1948年2月4日生まれ)
日本の元歌手、元女優。 渡辺プロダクションに1967年から
1970年まで所属していた。「くちづけが怖い」で
第10回日本レコード大賞・新人賞(女性)を受賞。
ザ・タイガースの主演映画全て(3作)でヒロイン役を務めた
ことでも知られる。東京都渋谷区出身。
東洋音楽大学付属高等学校 (現在の東京音楽大学付属高等学校)
2年生の時、ジャズシンガーを志し、マーサ三宅 (大橋巨泉の元夫人)
に師事する。ホテルニューオータニなどでジャズを歌っていた
ところ平尾昌晃に認められたことがきっかけで、
渡辺プロダクションに所属する。
東海林修に師事しながら、渡辺プロダクションが経営していた
ミュージック・スポット「メイツ」で活動。
1967年12月に公開された植木等主演の映画『日本一の男の中の男』
に白鳥英美子や平山みきとともに「メイツガールズ」として出演する。
1968年2月、映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』の
ヒロイン・シルビイ役に抜擢され、注目される。
またこの頃、『題名のない音楽会』(NETテレビ)に出演したり、
映画『100発100中 黄金の眼』の主題歌やレナウンの
コマーシャルソングを歌った。
同年7月に日本コロムビアから『くちづけが怖い』でレコードデビューし、
梢みわ、浅尾千亜紀と共に次世代の「ナベプロ3人娘」として
当時期待された。同年12月には第10回日本レコード大賞の
新人賞(女性部門)を受賞した際、『くちづけが怖い』の歌唱披露時に
思わず感極まり涙をこらえ、特に1番目の歌詞が殆ど歌えなくなる
シーンがあった。
しかし、1969年7月公開の映画『ザ・タイガース ハーイ!ロンドン』
の撮影を最後に芸能活動を休業し、翌1970年3月に芸能界を引退した。
その後はニッポン放送でアシスタント・ディレクターとして
月曜日から金曜日まで生番組『カメ・カメ・ポップス』を担当。
1973年に作曲家・編曲家の溝淵新一郎と結婚した。
引退後は表舞台に出ることはないが、1982年に一度だけ沢田研二の
ラジオ番組『NISSANミッドナイトステーション 夜は気ままに』(TBSラジオ)
に出演しており、「芸能界一番の思い出は、ザ・タイガースと共に、
映画『ザ・タイガース ハーイ!ロンドン』の撮影でイギリス
ロンドンへ行ったこと」だと明かした。
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山上路夫
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村井邦彦 |
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浅丘ルリ子 |
浅丘ルリ子 - シャム猫を抱いて
LP : 心の裏窓
Teichiku Records SL-17
1969年8月5日リリース。
作詞 : 阿久悠
作曲 : 三木たかし
編曲 : 高見弘
演奏 : テイチク・レコーディング・オーケストラ
1969年8月5日にリリースされた芸能生活15周年記念アルバム、
横尾忠則のデザインでお馴染みの名作アルバムから人気の1曲。
出来のよいサンバチューンだ。因みに帯は掛帯っす。
浅丘ルリ子 (あさおかルリこ : 本名は浅井信子 あさい のぶこ)、
1940年7月2日生れ、日本の女優。血液型はA型。前夫は石坂浩二。
カラント (舞プロモーション関連) 所属。満洲国新京市 (現・長春)
に4人姉妹の次女として生まれる。
父の浅井源治郎は満洲国経済部大臣秘書官を経て1943年に
タイのバンコクへ軍属として転居。終戦後に一家はチャオプラヤー川
の岸辺にあったバンバートン (バーンブァトーン Bang Bua Thong)
抑留所へ強制収容されるが翌1946年には引き揚げが始まる。
しかし軍属を最優先として先に出港したその船は沈没してしまい
一家は命拾いした。やがて大洗港の近くに住む親戚を頼り、まもなく
館山の引き揚げ寮へ入寮。信子が小学校3年生の時に父が代議士秘書
の職を得て一家で東京神田鍛冶町の借家に落ち着く。
実妹のクラスメートに星由里子がいた。家庭は大変貧しかった。
しかしながら、母が毛布を裁断し染めることに依ってコートに
仕立ててくれたりと創意工夫に満ちた生活を送っていた。
読売新聞に連載されていた北条誠の小説 (挿絵は中原淳一)『緑はるかに』
を水の江瀧子プロデュース・井上梅次監督で映画化するに当たって
ヒロインのルリコ役を募集しているのを千代田区立今川中学校在学中の
1954年夏に知り、両親賛成のもと応募、11月23日に面接が行われ
約3,000人の中から中原淳一が浅丘のメイクを見て「この子だ」と言い、
強力な推薦によって選ばれ銀幕デビュー。芸名は、『緑はるかに』の
ヒロインのルリコと、本人の本名から「浅」の1字をとり、『緑はるかに』
のイメージから「丘」という字をつけて、「浅丘ルリ子」となった。
彼女のヘアースタイル「ルリコカット」が当時の女性たちの間で
大流行し、瞳の大きな美少女として脚光を浴びる。しかし学校を
長期欠席しての撮影だったため、PTAと生徒会が奉祝の花輪を
出したことで一時物議を醸した。
多忙のため、菊華高等学校 (現・杉並学院高等学校) は中退している。
映画『緑はるかに』は1955年に公開された。私生活では、1960年頃に
一時小林旭と事実婚の関係にあったが、1961年8月に別離。
この頃より生活が荒むものの石原裕次郎に励まされ持ち前の
根性で再起する。1961年、世界一周早回りと国際親善をかねた
「美しい東洋親善使節団」日本代表となった。
また1964年には「夕陽の丘」でレコードデビューした。
日活の看板女優として数多くの映画に出演し、人気を博した。
映画出演本数は150本以上。
日本映画全盛期の日活アクション映画における代表的な
ヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の
三大アクション・シリーズや、石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ
『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、
『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)など多数の作品でヒロイン役を演じた。
作詞をしたのは昭和歌謡を代表する作詞家の阿久 悠。
阿久 悠 (あく ゆう : 1937年2月7日 - 2007年8月1日)
日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名は深田公之 (ふかだ ひろゆき)
淡路島 (兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原) 出身。
ペンネームの由来は、広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、
兼業禁止の会社にばれないよう“悪友”をもじった筆名として
使い始めた事から。深く考えずにつけたため、いずれは別の筆名に
するつもりだったが、仕事が途切れなかったので、独立後も使い続けた。
また多夢星人 (たむせいじん) の変名も使用した。
長男は作曲家の深田太郎で、阿久作詞・深田作曲の楽曲も存在する。
1959年に広告代理店・宣弘社 (現在の電通アドギア) へ入社する。
元々は映画の脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった
宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に
行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し
入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家の伊上勝が
課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」
と言われて、振られた仕事はCMの絵コンテ描きだったという。
絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で
必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のために
ここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの
仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ
方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の
後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を
書かせてもらえるものだと思っていたという。
また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』
で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、
上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを
活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家
として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、
1964年から放送作家としても活動。1966年に宣弘社を退職し、
放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を
書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。
また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。
作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズ
デビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年5月10日発売)
初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」
(1966年11月発売)。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」
(1967年11月5日発売)。このタイトルの由来は、曲の締め切りが
朝に迫っていたからだという。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、
1968年に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした
阿久の作詞作品となった。この頃より死去までオフィス・トゥー・ワンに所属する。
その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は
5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、
コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。
さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に
番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は
各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げる
というものであったが、このスタイルは「密室でタレントを選考する
過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と阿久が提案した
ものである。1977年、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」
というシリーズを手がけ『おはよう!こどもショー』のコーナーで歌われていた。
1980年代に入りニューミュージックの歌手が台頭し、彼等のつづった
叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である
松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。
以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。
この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」
としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。
直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、
1982年には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。
1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』は
その後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞
ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年、30年間にわたる作詞活動に対して、
日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年春、
紫綬褒章を受章。2000年10月、掌編小説集『詩小説』で
第7回島清恋愛文学賞を受賞。2001年に腎臓癌を患い、同年9月12日に
癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を
続けていたが、2007年8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区
西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、70歳没。同年3月に行われた
石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。
日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した
2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で
決定した。また、同年の第49回日本レコード大賞では特別功労賞、
第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。
三木たかし (みき たかし : 本名は渡邊 匡 わたなべ ただし
1945年1月12日 - 2009年5月11日)
日本の作曲家。歌手・女優の黛ジュン (本名: 渡邊順子) は実妹にあたる。
渡辺たかし名義の作品も存在する。東京都生まれ。父桂次郎は仕事が長続き
しないため、貧困家庭であった。借金取りが訪れると妹と押入れに籠もり、
紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。「さくらの唄」(唄: 美空ひばり)を
10代で作っている。1960年代半ばごろに歌手を志して作曲家の船村徹に
弟子入りするも船村から「君は作曲家の方が向いている」と言われ方向転換する。
1967年、当時の売れっ子作詞家であったなかにし礼の推薦を受け、
泉アキの「恋はハートで」で作曲家デビューを果たす。1968年、妹の黛ジュンに
提供した「夕月」が66万枚のヒット。オリコンチャート最高位2位を記録した。
1969年、「禁じられた恋」(作詞: 山上路夫、歌唱: 森山良子)が
8週連続チャート1位の大ヒットとなる。自身の作品が初めて
同年の『NHK紅白歌合戦』で歌唱された。1971年、歌手の松平マリ子
(旧名: 梅木マリ) と結婚する (その後離婚)。1976年から1977年にかけて、
阿久悠とのコンビで西城秀樹に「君よ抱かれて熱くなれ」から「ボタンを外せ」
まで7作品連続して楽曲を提供する。また1977年、石川さゆりが歌った
「津軽海峡・冬景色」(作詞: 阿久悠) が大ヒットとなり、
第19回日本レコード大賞・中山晋平賞(後の作曲賞)を受賞した。
この両者に明らかなように、作風はかなり幅広い。
1982年から1984年にかけて、盟友である荒木とよひさとのコンビで、
テレビ朝日系『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の企画ユニット「わらべ」に、
「めだかの兄妹」や「もしも明日が…。」などの楽曲を提供する。
なお、「めだかの兄妹」は1983年のオリコン年間シングル第3位に、
「もしも明日が…。」は1984年オリコンシングル年間シングル第1位を
記録した。1984年から1986年にかけては、荒木とのコンビで
テレサ・テンに提供した「つぐない」(1984年)、「愛人」(1985年)、
「時の流れに身をまかせ」(1986年)がいずれも有線放送を中心に
大ヒットした。3年連続で全日本有線放送大賞、および日本有線大賞を
受賞する。1988年、日本テレビ系アニメ『それいけ!アンパンマン』に、
オープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」とエンディングテーマ曲
「勇気りんりん」(共に作詞: やなせたかし(同アニメの原作者でもある)
を提供する。なお、「アンパンマンのマーチ」は2011年までに着うた配信で
ミリオンセラーを達成し、近年では小学校の音楽の教科書に載るなど
童謡としても親しまれている。2004年からは日本作曲家協会理事長を務め、
また日本レコード大賞制定委員や事務局長も務めた。2005年、紫綬褒章を
受章する。同年、第47回日本レコード大賞の吉田正賞を受賞した。
2006年、下咽頭がんで声帯の一部を切除、その後声を失ってしまう。
2009年1月13日、『NHK歌謡コンサート』で黛ジュンと30年ぶりに
兄妹出演を果たした。自身作曲の「さくらの花よ 泣きなさい」を
黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、
これが三木の生涯最後のテレビ出演となった。
2009年5月11日午前6時5分、岡山県岡山市の病院にて死去。64歳没。
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阿久 悠
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三木たかし |
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浅丘ルリ子 - 別れましょう
LP : 心の裏窓
Teichiku Records SL-17
1969年8月5日リリース。
作詞 : 阿久悠
作曲 : 三木たかし
編曲 : 高見弘
演奏 : テイチク・レコーディング・オーケストラ
1969年8月5日にリリースされた芸能生活15周年記念アルバム、
横尾忠則のデザインでお馴染みの名作アルバムから人気の1曲。
スキャットをサックスが追走し、歌中では気のきいた
ギターオブリガードが自由に遊んでる。
セカンドヴァースでは浅丘ルリ子が「裸足で・・・」の
ところで意図的に「はあ〜っ」とため息交じりに歌ってる。
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ヒデと- 真夜中のボサ・ノバ
7inch single : Columbia P-74
1969年8月25日リリース。
LP : ふたりの関係
Columbia JDX-46
1970年11月25日リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲 : 筒美京平
冒頭で「Reza (祈り)」のスキャットを応用しており
ロザンナは意図的にブレスを強調し
ガールヴォーカルをため息っぽく聴かせてる。
特に「ブルーなぁ ブルーなぁ ボサノバ」という発声は
素晴しい。ロザンナは1950年7月3日生まれなので
当時20歳である。この人の魅力はイタリア生まれなのに
歌い方にカンツォーネの影響が感じられず、むしろジェラートを
欲しがる少女っぽさが残る声質である事だろう。
声楽研究家諸氏がボーイソプラノを尊ぶように
ジャズ/ポピュラーシーンではロリータヴォイスを尊ぶ。
同様にポップミュージックシーンでキッズポップが愛好される。
これは穢れの無い純潔を求める哺乳類の本能から来るものだ。
先ず「ユキとヒデ」の経緯から。
アン真理子 (本名 佐藤ユキ) 日劇のダンサー兼コーラス員としてデビュー。
その後、平岡精二クインテット等のソロ歌手となる。
1966年、水木英二 (日活ニューフェース) の芸名で俳優活動をしつつ
ソロ歌手として『東京ロマンチックガイ』(東芝レコード、1962年)で
デビューした出門ヒデと、日劇のダンサー兼コーラス員としてデビュー後
平岡精二クインテット等のソロ歌手だった佐藤ユキ (後のアン真理子) が結成した
ボサノヴァ・デュオが「ユキとヒデ」だった。
1966年、東京ヒルトンホテルのスター・ヒル・プラザに出演
していたときに、出門ヒデと「ユキとヒデ」を結成。
翌1967年、デビューシングルをリリース。
ユキとヒデとしての活動と平行して、佐藤ユキ (後のアン真理子) は
ソロ歌手藤ユキ (ふじ ユキ) としても活動。
結局、佐藤ユキ (後のアン真理子) はデビューシングルの
後に「ユキとヒデ」を脱退した。
2枚目のシングル「スノー・ドルフィン・サンバ」で
矢野育子 (2代目ユキ) にメンバーチェンジした。
矢野育子は三枝伸とデイ&ナイツに参加したのち、
ユキとヒデの2代目ユキとなった。
1968年の恐らく8月から9月には実質的に「ユキとヒデ」は
解散していた。と同時にヒデこと出門英は後に妻となる
イタリア出身のロザンナ・ザンボンとの男女デュオ「ヒデとロザンナ」
を結成する準備をしていた。このロザンナはは1950年7月3日に
イタリア・ヴェネト州スキオで生れた歌手。
1967年、日本で彼女の兄フラビアーノ・ザンボンが所属する
カサノヴァ7の編曲をしていた叔父ブルーノ・ダラポッサの勧めで、
音楽学院を卒業と同時にグループ歌手として17歳で来日。
と言うことはヒデと出会えたのは夏以降になる。
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筒美京平 |
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秋本薫 |
秋本薫とオールスターズ - いそしぎ (The Shadow Of Your Smile)
LP : Bossa Nova・眠られぬ夜のために
Polydor SMR-1035
1969年8月リリース。
作曲 : Johnny Mandel
編曲 : 早川博二
The Shadow Of Your Smile は、1965年の映画『いそしぎ』の
テーマ曲として書かれたポピュラー・ソングである。
英語では別名「Love Theme from The Sandpiper」
(いそしぎの愛のテーマの意) と呼ばれ、
日本語では「いそしぎのテーマ」、
あるいは単に「いそしぎ」とも呼ばれる。
作曲はジョニー・マンデル (Johnny Mandel)、
作詞はポール・フランシス・ウェブスター (Paul Francis Webster)
である。映画『いそしぎ』では、ジャック・シェルドン
(Jack Sheldon) のトランペット・ソロで演奏され、
後にトニー・ベネット (Tony Bennett) の歌でマイナー・ヒットとなった
(このヴァージョンも作曲者マンデル自身が編曲・指揮を担当した)。
この曲は、1965年のアカデミー歌曲賞、および、1966年の
グラミー賞最優秀楽曲賞に選ばれた。作曲者 Johnny Mandel は
熊本県民謡の五木の子守唄の「おどま盆ぎり盆ぎり」を
耳にしてそれをヒントにして作曲したと言っているらしい。
それ故か、日本人に馴染みやすいメロディーである。
アレンジは早川博二 (はやかわ ひろつぐ :
1925年1月15日 - 2004年4月15日)
日本の作曲家・編曲家、トランペット奏者。
主に歌謡曲および吹奏楽の分野を手がけた。
また早川博二&モダン・ポップス・オーケストラを指揮した。
秋本 薫 (あきもと かおる) テナーサックス奏者。
1933年10月2日生れ、大阪出身。
レスター・ヤング、スタン・ゲッツ、ソニー・ロリンズ、
ジョン・コルトレーン等を研究し、独自のエキサイティングな
ブローによる演奏スタイルを確立した。
美空ひばりや石原裕次郎等タレントのヒット曲のソリスト
としての参加は膨大な数になる。メインは Polydor だが
レコード各社からインストルメンタルのソリストとして
アルバムの発売150枚以上あり、今でも日本一の記録となっている。
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秋本薫とオールスターズ - 白い夜霧のブルース (It's A Lonesome Old Town)
LP : Bossa Nova・眠られぬ夜のために
Polydor SMR-1035
1969年8月リリース。
作詞 : Charles Kisco
作曲 : Harry Tobias
編曲 : 早川博二
1930年にベン・バーニー楽団 (Ben Bernie and His Orchestra)
がレコーディングし大ヒットした「It's A Lonesome Old Town」
という曲がオリジナルである。
日本では1961年に発売された、ビリー・ヴォーン楽団演奏の
邦題「白い夜霧のブルース」が有名。
レス・ポールやメアリー・フォード、ナット・キング・コール、
フランク・シナトラ、ブレンダ・リーらがカヴァーした
スタンダード曲である。
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秋本薫とオールスターズ - ムーン・リヴァー (Moon River)
LP : Bossa Nova・眠られぬ夜のために
Polydor SMR-1035
1969年8月リリース。
作詞 : Johnny Mercer
作曲 : Henry Mancini
編曲 : 早川博二
Capitol Records の共同設立者としても有名な
Johnny Mercer が作詞、映画音楽の巨匠 Henry Mancini 作曲。
1961年公開の映画『ティファニーで朝食を』で、主演女優の
Audrey Hepburn オードリー・ヘプバーンが劇中で歌った曲である。
映画とともにこの曲も大人気となり、ヘプバーンの声の入っていない
曲が同年にシングルで発売され12月25日に全米最高位11位となり
アカデミー歌曲賞を受賞している。また、グラミー賞では
最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞した。
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秋本薫とオールスターズ - そよ風と私 (The Breeze And I)
LP : Bossa Nova・眠られぬ夜のために
Polydor SMR-1035
1969年8月リリース。
作詞 : Al Stillman
作曲 : Ernesto Lecuona y Casado
編曲 : 早川博二
キューバの作曲家 Ernesto Lecuona エルネスト・レクオーナの
ピアノ組曲「アンダルシア」からとられたもので、
1940年 Al Stillman アル・スティルマンの英語詩によって
ポピュラーソングへと生まれ変わった。
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道 志郎 |
道志郎とオールスターズ - おいしい水 (Agua De Beber)
LP : Bossa Nova・眠られぬ夜のために
Polydor SMR-1035
1969年8月リリース。
Also released in 1969 as
LP : エレクトーン / 黒いオルフェ
Polydor SLJM-1427
1969年リリース。
作曲 : Antonio Carlos Jobim
編曲 : 道志郎
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
ヤマハ製電子オルガンのエレクトーンの開発に
携わった第一人者のリーダーアルバム。
先ず西洋では聴けないスタイルのアレンジで
なんとエレクトーン演奏にワウギターを
効果的に配したボサファンクチューンに仕上げている。
道 志郎 (みち しろう : 本名は平岡通博 ひらおか みちひろ
1924年12月18日 - 2016年11月11日)
日本のオルガン奏者。日本演奏連盟会員。兵庫県西宮市生まれ。
学習院高等科を卒業し、東京大学に入学。
大学卒業後に一時農林省 (現・農林水産省) に在勤した。
電子オルガンを中心に、演奏、作編曲、指導面に活躍。
特に日本楽器 (現・ヤマハ) 製電子オルガン、エレクトーンの
開発にあたっては、その初期段階から深く関わり、
製品完成後はその普及に牽引役として国内外に活動を行った。
NHK、各民放で多くの番組にレギュラー出演し、ステージ活動では
全国的に多くのコンサート、 また、サントリー大・小ホール等で
リサイタルを数多く開催している。
現在まで発売されたLP、カセット約160枚。
著書、曲集約150冊。
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麻里圭子 - 大根足のサンバ
LP : フォーク・ソングを歌う "Sings Folk Songs"
Victor SJX-23
1969年8月リリース。
作詞 : 北山修
作曲 : 加藤和彦
編曲 : 近藤進
曲を書いたのはフォークルの名コンビ。
大根足を嘆く娘の可愛らしいサンバだが
私的には大根足はぜんぜんOKである。
むしろ中途半端にスリムな娘がO脚であるほうが云々
と個人的な趣向をここで論じてはいけない (笑)
麻里圭子 (まり けいこ : 1947年8月1日生れ)
歌手、女優、フラワーデザイン講師。
以前はJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに所属していた。
東京都中野区出身。幼少期に日本舞踊を習っていたことから、
漠然と芸能界を志す。私立麹町学園女子中学校在学中にモデルとして
芸能活動を開始し映画にエキストラ出演したこともあった。
ビクターのオーディション後、演歌「命をかけて」で歌手デビュー。
本人ブログ曰く:“圭子は42年8月15日に演歌歌手で
デビューそんな中、赤坂プリンスホテル旧舘のロビーで、
週刊プレイボーイの取材で、8月にデビューした3人の
新人女性歌手と巨泉との対談が在り、巨泉さんに、まだ完全に
タレントとして出来上がっていない圭子を気にって頂き
フジTVのディレクターに、合わせて頂き、巨泉さんの推薦により
ビートポップスの初代マスコットガールでレギュラーにして
頂きました。圭子がその後ポップス路線に変更出来たのも、
巨泉さんの助言が、在ったからなのです!!”との事。
1967年に演歌歌手としてデビュー。新人歌手の披露イベントで
大橋巨泉に気に入られたことにより、1968年に大橋が司会を務める
フジテレビ洋楽専門音楽番組『ビートポップス』に出演し
初代マスコットガールになった。
大橋の進言により、演歌からポップスに転向した。
そして『銀色のお月さま』『月影のランデブー』などが
ヒットした後、テレビドラマ『サインはV』の主題歌を担当した。
1969年、TBSラジオ「トクホン ニューヒットパレード」のDJ、
日本テレビ歌謡番組「ヒットスコープ」の司会、
1970年、NET(現・テレビ朝日)深夜番組「23時ショー」の
カバーガールを務めた。
1971年に『ゴジラ対ヘドラ』で女優として出演。
後年のインタビューに明かしたところによれば、
1970年の晩夏に東宝にて同作品の監督の坂野義光による面接を
経たものであり、ロケの際には富士山の二合目にも赴いたが、
寒さとの戦いだったという。
また、同作品の主題歌「かえせ! 太陽を / ヘドラをやっつけろ」
のレコーディングについては、あらかじめ坂野が前者の作曲家の
眞鍋理一郎宅へ連れていってくれたことから彼のピアノ演奏で
練習できたほか、スタジオにて歌い終わった後には
後者の作曲家のすぎやまこういちが訪れ、歌の上手さを
褒めてくれたという。
1971年にはプティ・マミ名義での活動もあり。
1972年、麻里ケイコに改名後、引退。
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北山 修
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加藤和彦 |
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トワ・エ・モワ - 美しい誤解
7inch single : Express EP-1174
1969年9月10日リリース。
作詞 : 安井かずみ
作曲 : 村井邦彦
編曲 : 東海林修
セカンドシングル。
南沙織の「美しい誤解」は同名異曲。
1968年末にスクールメイツのメンバーだった
山室 (現・白鳥) 英美子と、歌手志望だった芥川澄夫の
二人で結成された。
渡辺プロダクションより、「或る日突然」(東芝音楽工業)で
1969年5月10日にデビューしこれが大ヒットとなった。
以後、日本放送協会の『あなたのメロディー』から生まれた「空よ」、
1972年札幌オリンピック のテーマ曲である「虹と雪のバラード」、
「誰もいない海」「初恋の人に似ている」「地球は回るよ」「愛の泉」
など数多くのヒット曲を出し、1960年代後半から1970年代前半
にかけて流行した和製ラウンジ系ポップの先駆けとなった。
安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 - 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9〜10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。
村井邦彦 (むらい くにひこ : 1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。
暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科
に進学し、在学中は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」
に所属した。大学3年時に、東京都港区赤坂でレコード店「ドレミ商会」を
開店した。1966年に大学を卒業し、グループ・サウンズ全盛期の1967年に
ヴイッキー・レアンドロスへ『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家となり、
1968年にテンプターズへヒット曲『エメラルドの伝説』を提供し、
ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」、赤い鳥に「翼をください」、
トワ・エ・モワに「虹と雪のバラード」を提供した。
1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの
日本国内における版権を獲得し、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立する。
1969年に自ら唄い発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、
当時、「(特にラジオで放送すると)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報
と紛らわしい」とされ、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を
受けているが、該当部分を除けば放送可能である。
1970年に川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と
共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立する。
1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツを設立し、
1977年に川添象郎とともにアルファレコードを設立した。
自身がプロデューサーとなり、従来ポップス曲を提供する裏方として
作家活動を主体としていた荒井由実をシンガーソングライターとして
デビューさせた。ティン・パン・アレーを見い出して、アーティストの
レコーディングの際にスタジオミュージシャンとして起用した。
1970年代末から1980年代前半にかけて、イエロー・マジック・オーケストラ
のアルバムを発売した。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点を
アメリカに移した。
作曲は東海林修に学んだところが多いと語る。映画音楽が好きで
ミシェル・ルグランに私淑する。『座頭市御用旅』など勝プロ作品の
音楽監督などを経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督を務めた。
市川崑監督『火の鳥』で映画プロデューサーを初めて手掛け、ルグランに
主題曲の作曲を依頼した。音楽監督は深町純が務めた。
発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は
代表取締役会長を務める。
東海林 修 (しょうじ おさむ : 1932年9月6日 - 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。
その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日した
モダン・ジャズ・カルテットとの共演などで活躍していたところ、
渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインと
して同プロダクションに参入することになった。
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどの
グループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワの
デビュー・アルバム『或る日突然』(1969年)などの作品への
編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。
1970年、大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」
(スクール・メイツ)の音楽を担当。欧米のヒット曲や童謡メドレー
の編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。
演奏は宮間利之とニュー・ハードが担当した。1972年4月に
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の音楽監督に就任し、
1973年9月まで務めた。
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安井かずみ
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村井邦彦
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東海林 修 |
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村岡 実 |
村岡実とニュー・ヒット・サウンズ - 涙の季節
LP : 尺八 / ブルー・ライト・ヨコハマ
Denon CD-5008
1969年リリース。
Drums 石川晶
Piano 佐藤允彦
Guitar 沢田駿吾
Shakuhachi 村岡実
ピンキーとキラーズのカヴァー。
モダン尺八の第一人者である村岡実が石川晶、佐藤允彦、沢田駿吾
など一流のジャズ・ミュージシャンらと共に作り上げた
昭和歌謡ヒット曲のカヴァー集アルバムから。
昭和初期、服部良一は本格的なジャズの作曲・編曲でヒット曲を連発した。
彼が和製ポップスのヒントとしたのは『民謡』だった。
佐々紅華 (さっさ こうか)、服部良一たち昭和初期にジャズの影響を
受けて新しい音楽を作っていた作曲家たちは、単にコピーするのではなく、
日本的な音楽を作ることが頭にあった。その時、日本的な素材として
民謡が取り上げられた。そのような状況だったので我が国の
流行歌は『民謡』と『ジャズ』のミクスチュアー的な要素を含んでいた。
ここで行われたのは昭和歌謡とボサノヴァの融合であり
ジャズクロスオーヴァーの領域で和と洋の融合 (Fusion フュージョン)だ。
逆説的にこれは日本のジャズミュージシャンたちによるアイデンティティの
確立であり、1960〜70年代にかけて、日本のジャズマンは盛んに
日本独自の表現を模索していった。
これは日本のジャズミュージシャンたちによるアイデンティティの
確立であり、1960〜70年代にかけて、日本のジャズマンは盛んに
日本独自の表現を模索していった。
特に和楽器とジャズの融合は西洋人達にとってアヴァンギャルドな
表現であり、既成の芸術観念や形式を否定する先端的な芸術と
大きな評価が西洋人達から与えられた。
村岡 実 (むらおか みのる : 1924年 - 2014年1月2日)
宮崎県出身の尺八奏者。演歌やポピュラーを演奏し、現代邦楽や
ジャズとのセッションに取り組んだ同じ尺八奏者の山本邦山ともども、
その活動は和楽器が世間に広く受け入れられる要因となった。
1960年代後半より登場した「モダン尺八」を最初に導入した
中心人物でもある。1962年に宮田耕八朗、横山勝也と共に
東京尺八三重奏団を結成する。1963年に東京尺八三重奏団は
2回目の演奏会を開催したが、これを聴いた邦楽関係者への影響は
非常に大きく、演奏会主催の東京音楽社事務所や村岡実の自宅に
集まって夜を徹した話し合いの末、三木稔の発案によって
日本音楽集団結成の運びとなった。
しかし、村岡はポピュラー音楽の路線を想定していたため、
日本音楽集団との方針の違いから1965年の第2回演奏会を前に
日本音楽集団を退団し、東京尺八三重奏団も解散となる。
美空ひばりの「柔」の演奏をしたことが縁となって、
北島三郎や村田英雄の伴奏を務めるようになる。
1970年には、和太鼓、筝、琵琶を取り入れたジャズバンドとして
アルバム『Bamboo』を発表している。
2014年1月2日多臓器不全のため死去。
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ビリー・バンバン |
ビリー・バンバン - ミドリーヌ
7inch single : Seven Seas HIT-752
1969年10月1日リリース。
LP : ビリー・バンバンのえるぴい ミドリーヌ
King Records SKD-23
1969年10月1日リリース。
作詩作曲 : 菅原進
編曲 : 青木望
演奏 : オールスターズ・レオン
ファーストアルバムからシングルカットされた彼らの名曲、
シングルとアルバムを1969年10月1日に同時リリース。
フランス語セリフを挿入し、軽い目眩を感じさせる美しいボサ。
アレンジは青木望さんで、1970年6月5日にリリースされる
企画アルバム「海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu」
(Express EP-7750) で同傾向のボササウンドを多数手掛ける事になる。
ビリー・バンバン (Billy BanBan) は、東京都国立市出身の
兄弟2人組による日本のフォークユニット。
兄:菅原 孝 (すがわら たかし : 1944年8月7日生れ)
ヴォーカル・コントラバス担当。慶應義塾大学中退。
弟:菅原 進 (すがわら すすむ : 1947年9月21日生れ)
ヴォーカル・ギター担当。青山学院大学中退。
特色として、弁舌さわやかな兄の孝と、口下手な弟の進という
対照的な2人のコンビとなっている。また、一般人の長兄がおり
3人兄弟の次男と三男の兄弟デュオである。
1965年6月、浜口庫之助が主催するミュージックカレッジで
歌、リズム、作曲を学ぶ。1966年、当時青山学院大学の学生であった
進が友人達四人組のバンドとして結成。翌1967年にメンバーチェンジ
が行われ、孝とパーカッションのムッシュ中野(後のせんだみつお)
の三人組のバンドとなる。
1968年5月、孝と進による兄弟デュオとしてビリーバンバンを再編成。
1969年1月、『白いブランコ』でメジャーデビュー。20万枚を超える
売上となり、一躍フォークシンガーの代表的存在として人気を得る。
この曲は当初「星空のハプニング」のB面曲として発表される
予定であったが、ニッポン放送のディレクター井村文彦のアドバイス
により、発表直前にA面とB面が入れ替えられたというエピソードがある。
レコーディングで曲の冒頭にトランペットが勝手に入れてあり、
これに怒った進がスタッフに抗議したという話がある。
一方の孝は、与えられた曲を歌えばいいという考えで
特に何も言わず、進のフォローに回ることが多かった。
その後人気は低迷するが1972年テレビドラマ『3丁目4番地』(日本テレビ)
の主題歌である「さよならをするために」が約80万枚の大ヒット、
その年の『第23回NHK紅白歌合戦』にも出場。当時のフォークシンガーは、
自分の手で作詞・作曲をして、それを歌うという風潮が強く、
石坂浩二作詞、坂田晃一作曲の曲に対して進は躊躇しレコーディングを
当日にすっぽかしたという逸話が残っている(後に進は本当はいい曲
だったと語っている)。この頃から、お互いの考え方に違いが生じ始め、
1976年に解散。孝は司会者として、進は歌手・作曲家として
己の道を行くこととなる。
青木 望 (あおき のぞみ : 1931年3月2日生れ)
日本の作曲家、編曲家。JASRAC会員。
クリスチャンの家系であり、幼少期から母親のオルガン演奏に合わせ
賛美歌を毎週歌っていた。これが好きだったといい、
後に青木は「私の音楽の原点だった」と回想している。
少年時代から音楽に親しみ、ヴァイオリンが得意であったという。
旧制東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)在学中、
知人に誘われてバンド活動を始める。そこでステージ演奏の魅力に
摂りつかれたことで学校を中退し、15歳でプロのミュージシャン
としてデビュー。様々なバンドを転々としながら活動する。
当初は、自分が所属するバンドのために作曲・編曲をはじめたが、
外部からも頼まれるようになり、放送やレコーディングが多くなると
演奏家より稼げるようになったため、作・編曲家に転向した。
以降は、編曲家としての活動を主にしている。
歌謡曲、フォークソング系の作品を多く手掛け、アニメーションや
特撮ドラマの主題歌などの編曲作品も多い。声楽家・鮫島有美子の
アルバム『ともしび〜鮫島有美子 ロシア民謡をうたう』では
演奏指揮も行うなど、幅広い音楽活動を行っている。
1978年、テレビアニメ『銀河鉄道999』の音楽を担当。以前より
ディズニー・アニメのような音楽を書いてみたいと常々思っていた
ことから、知人のディレクターの依頼を快諾したという。
また、1979年の映画版で原作者の松本零士の意向も受けながら
完成したスコアは松本を唸らせるものとなり、オーケストラによる
実際の劇伴は話題を呼んだ。その後、松本零士原作のアニメーション作品
には複数回参加しており、2023年、死去した松本を偲ぶ「銀河鉄道999
シネマ・コンサート −特別追悼公演−」開催の際は
インタビューに応じている。
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青木 望 |
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郷 希理沙 |
郷 希理沙 - チンジャラ
7inch single : Harvest Records YA-16
1969年11月1日リリース。
作詞 : 多 忠克
作曲編曲 : 山田隼人
演奏 : グリーンポップス・オーケストラ
ナンセンスボサの傑作。外れそうで外れまいとする絶妙な音感を
駆使してエコーヴォーカルは意図的に大きな振れ幅を持って
シュールにアングラ歌謡とモダンボサの境界線を淡々と進んでいく。 "Break-in"風にギミックを挿入しテンポチェインジさせるアレンジも
秀逸である。
作詩は多 忠克 (おおのただかつ) となっているが、この名は
1828年から1896年まで生きた有名な雅楽家である。
なので洒落の効いたペンネームである。因みにB面「ドカン天国」
も作詩は酷使夢想 (こくしむそう 国士無双) となっており
恐らく両者は同一人物だろう。作曲編曲は梢みわ「恋のバイカル」
でもお馴染み山田隼人 (やまだはやと)
郷 希理沙 (ごう きりさ) は1947年2月27日生れ。
本名は中村政江、神奈川県厚木市出身。
高校生時代の1964年8月にTTB (テレビタレントビューロー) を卒業し
そのままNAC (新東宝ニホンアーチストセンター) 専属のタレント
になった。翌年にPTC (太平洋テレビ) 専属となり、18歳から19歳
までに1966年7月ニッポン放送の「25時の恋人」火木土曜日に、
1966年8月毎日放送で毎週土曜日にディスクジョッキーとして
出演していた。そして桜美林学園短期大学卒業。その後ミノルフォンと
契約し郷 希理沙と名乗り 想い出のかけら / つめたくしないで
(Minoruphone KA-240) で1968年にデビューした。その後本件シングル
を22歳でリリースしたのだが、1971年に「松井きりさ」と改名し
以下の2枚の御当地ソングをリリースした。
蒲田ブルース / 悪いお酒ネ (Columbia SAS-1526) 1971年。
伊那ブルース / ロックおんど・いな (Columbia SAS-2040) 1972年。
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スマイリー小原 - マナ・マナ
7inch single : CBS/Sony SONA 86081
1969年11月21日リリース。
作曲 : Piero Umiliani
編曲 : 森岡賢一郎
曲中でスマイリー小原氏が「サッチモ」と言って
ルイ・アームストロングを真似る遊び心がナイスだ。
Mahna Mahna マナ・マナはイタリア映画作曲家 Piero Umiliani
(ピエロ・ウミリアーニ) の1968年の『フリーセックス地帯を行く
天国か地獄か』主題曲カヴァー。このドキュメンタリー映画の内容は
スウェーデンのフリーセックスの性文化に焦点をあてたもので、
エクスプロイテーション映画だった。(興行成績をあげるため
センセーショナルな時事問題やタブーとされる題材をあえて
取り上げている低俗な作品群を指す)
この曲の元の題は「スウェーデンのサウナ万歳」(Viva la sauna svedese)
といい、スウェーデンの娘たちが集団でサウナに入るシーンに使用された。
演奏しているのは Marc 4というバンド(イタリア放送協会の管弦楽団
4人のスタジオ・ミュージシャン)であり、イタリアの歌手・作曲家である
Alessandro Alessandroni (アレッサンドロ・アレッサンドローニ ) と
その妻のジュリアが歌っている。1968年に米国でリリースされた
映画サントラアルバムにもこの曲は含まれている。「マナ・マナ」は
意味のある歌詞を持たず、イアンボスのリズムを持つスキャット風の
無意味な音節のみからなる。
1968年から翌年にかけて、「マナ・マナ」は多くの国でヒットした。
米国では Billboard Hot 100のシングルチャート55位、
『キャッシュボックス』誌の1969年10月号で44位だった。
『ビルボード』の Adult Contemporary チャートでも12位だった。
カナダではRPM誌で1969年10月11日のシングルチャート22位、
翌週の Adult Contemporary チャートで5位につけた。
英国では最初のシングルは1969年に Pye International レーベルから
出されたが (7N 25499)、アーティストクレジットはない。
同年のジョルジオ・モロダーによるカヴァーヴァージョンは
The Great Unknowns 名義で Major Minor Records MN 658
でリリースされた。
1969年アメリカの子供向け番組「セサミ・ストリート」の
第1シーズン中の寸劇において2人のマペットの少女
(声はフランク・オズとロレッタ・ロング) のところに
奇妙な男のマペット(ジム・ヘンソンが演じる)がやってきて
「マナ・マナ」と歌い、少女達に自分について歌うように促す。
このナンセンスソングは「セサミ・ストリート」でよく使われる
ようになった。我が国では NHK教育で「セサミ・ストリート」は
放送されており日本ではセサミ・ストリートから広く普及した。
スマイリー小原 - マナ・マナは1969年11月21日リリース
されており、「セサミ・ストリート」の影響下で制作されている。
1969年11月30日の『エド・サリヴァン・ショー』で『マナ・マナ』は
3人組の新しい、より精巧に作られたマペットのキャラクターによって
上演された。男のマペットはマナ・マナ (Mahna Mahna) という名前、
2人の女のマペットはスナウス(The Snowths、Snout「豚の鼻」と
Mouth「口」のかばん語。鼻が口を兼ねているため)とされた。
すべてフランク・オズによって演じられた。
1968年から翌年にかけて世界的に普及した「マナ・マナ」という
不思議とコミカルでナンセンスなショートワードは当時の日本の人気番組
となった「ゲバゲバ」に反映された。1969年10月7日から1970年3月31日、
および1970年10月6日から1971年3月30日まで日本テレビ系列局で
放送されていた日本テレビ製作のバラエティ番組「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」
である。このナンセンスな「ゲバゲバ」という言葉を
ミステリ雑誌「ヒッチコック・マガジン」の編集長で「オヨヨ」シリーズ等、
パロディ性に富んだエンターテインメント作品でも有名な小説家、評論家、
コラムニストの小林信彦が命名した。
これは当時の学生運動など国家権力に対する実力闘争を表す言葉として
多用されていた「ゲバルト (ドイツ語:Gewalt、暴力の意)」
に由来している。小林信彦のネーミング料は当時の金で10万円。
ただし小林信彦はこの番組のコンセプトである「ストーリーはまったくなく、
ひたすらサイト・ギャグでつないでいく」方法に違和感を覚え、
テレビの仕事から離れることになった。
スマイリー小原 (スマイリーおはら : 1921年1月2日 - 1984年4月30日)
日本のジャズミュージシャン。小原真澄名義での活動もあった。
本名栗原照夫。神奈川県中郡秦野町 (現在の秦野市) 生まれ。
横浜市中区山手育ち。1941年、映画俳優にな試験を受け合格。
大船撮影所で大坂志郎と同期になる。
1942年、明治大学経済学部を繰り上げ卒業。召集され中国戦線へ。
1945年、敗戦時、ソ連軍の捕虜となりラーゲリ強制収容所へ。
収容所で楽劇団を作る。
1947年、帰国。バンドを作り、米軍を演奏して回る。
バンド「ブルー・ノート・セブン」を結成。11年間、米軍相手に
演奏するが、日本人と思われず「スマイリー・オハラ」という
アイルランド人として活動していた。「スマイリー」はニコニコして
いることから、「オハラ」は本名の栗原がアメリカ人に
なじまないため「なじみのある苗字」に変えた。
1958年、渡辺プロダクションに入り、スマイリー小原と
スカイライナーズを結成。バンドリーダーと指揮者をつとめる。
テレビ番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」、
「クイズ・ドレミファドン!」(初期のみ)などにレギュラー出演し、
日本人離れした陽気なキャラクターと、ダンスを織り交ぜた
前向き指揮スタイルで人気を博す。また、「ドドンパ」「ツイスト」
などのリズムを流行させる。
1982年、バンド解散。その後は喫茶店やクラブを経営していた。
1984年4月30日、死去。63歳没。バンドマスターの後輩に
あたるダン池田によれば、葬儀には芸能人はほとんど参列しておらず、
寂しい葬儀であったという。
編曲は名アレンジャーの森岡賢一郎。
指揮を平井哲三郎、高階正光、ピアノをポール・ヴィノグラドフ、
作曲を團伊玖磨にそれぞれ師事。「君といつまでも」「恋のしずく」
「ブルー・シャトウ」「今日でお別れ」で日本レコード大賞編曲賞
を受賞。作・編曲の傍ら、映画やテレビ番組の音楽監督・プロデューサー
として活動。主な作品に、映画音楽「若大将シリーズ」「宇宙からの
メッセージ」「山下少年物語」「典子は、今」など。往年の歌謡曲に
しばしばクレジットされている、ケニー・ウッド・オーケストラとは、
彼が率いていた楽団である(ケニー=賢一郎、ウッド=森岡のもじりである)。
またスマイリー小原とスカイライナーズでは首藤邦彦、鈴木庸一と
共にピアノも担当していた。
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森岡賢一郎 |
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岡田恭子 - どんなふうに
7inch single : Philips FS-1102
1969年11月25日リリース。
作詞 : 安井かずみ
作曲編曲 : 東海林修
Director : 渡辺忠孝
岡田恭子は兵庫県神戸市出身の声優、歌手、タレント。
1965年3月、第1回渡辺新人スカウトコンテストに出場し、
関西地区1位を獲得。中学卒業後の1966年に上京し、
渡辺家に滞在しながら駒沢女子高等学校、東京音楽院に学んだ。
同年、NHK-FMのドキュメンタリーシリーズ
寺山修司ラジオドラマ「コメット・イケヤ」で盲目の少女を
演じた演技が好評を博し、イタリアで賞を受賞した。
その後「夜のヒットスタジオ」で前田武彦とともにDJを務め、
CX「女の劇場」などに出演。 1969年には「ひみつのアッコちゃん」
などのテーマソングを歌い多くの人に知られるようになり、
童謡の世界にも関わった。1977年には純民謡2枚組アルバム
『36曲フォーク・ヒット大集合』をリリースした。
安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 - 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9〜10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。
東海林 修 (しょうじ おさむ : 1932年9月6日 - 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club (明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。
その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日した
モダン・ジャズ・カルテットとの共演などで活躍していたところ、
渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインと
して同プロダクションに参入することになった。
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどの
グループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワの
デビュー・アルバム『或る日突然』(1969年)などの作品への
編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。
1970年、大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」
(スクール・メイツ)の音楽を担当。欧米のヒット曲や童謡メドレー
の編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。
演奏は宮間利之とニュー・ハードが担当した。1972年4月に
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の音楽監督に就任し、
1973年9月まで務めた。
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安井かずみ
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東海林 修 |
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ピオニーズ |
ピオニーズ - パッパ・パパラ (Pappa-Papala)
7inch single : Polydor DP-2051
1969年11月リリース。
作詞 : 林 春生, 森 尚明
作曲編曲 : すぎやま こういち
北崎美知子、田熊由美による女性フォーク・デュオ。
ニッポン放送が後援し1969年3月9日に大妻講堂で行われた
イヴェント Students' Festival 38 Let's Enjoy Country And Folk Music!
のパンフレットに PEONIES ギター・田熊由美 ギター・北崎美知子
とプリントされており、それが1969年11月にリリースされた
本件デビューシングルの前の参加であった事が確認できる。
そのイヴェントの司会が金子洋明、森山良子とクレジット
されているので佐瀬寿一氏のインタビューと重なる。
佐瀬寿一氏は「およげ!たいやきくん」「いっぽんでもにんじん」
「パタパタママ」以外でも山口百恵「赤い衝撃」や
キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」、そして畑中葉子の
問題作「後から前から」の作曲家として有名で、オールジャンル
で多作な作家である。
佐瀬寿一は日本大学芸術学部在籍中にビートルズのコピーバンドを
やっており、ニッポン放送の『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』
(1966年 - 1972年) に出演していた。この番組にはビリー・バンバン、
ブレッド&バター、ジャックス、遠藤賢司とかが出ていた。
この番組ディレクターだった金子洋明がやってた
ミュージカル・ステーション主催のコンサートの前座に
出たりしていたが、そこにピオニーズという女性デュオがいて、
彼女らも自作自演だがすごくいい声してたので「今度曲書くから
歌ってみない?」と誘った。佐瀬寿一が曲書いて持って行ったら
とても好評で、レコードにしたいとなった。
それが「消えた想い出」(1969年日本グラモフォン=ポリドール)で、
佐瀬寿一の書いた初めてのレコードとなった。
当時佐瀬寿一は大学2年か3年のときで、まだ10代だった。
詞は『バイタリス』のスタッフの人に手を加えてもらった。
佐瀬寿一は1969年、大学在学中にピオニーズのこのファースト
シングルA面作品「消えた想い出」で作詞・作曲家デビュー。
このとき印税か買取のどちらにするかと聞かれ、結局3万円の
買取契約にしたものの、割と売れたので後悔したという。
実際当時のラジオの深夜放送で「消えた想い出」は
よくオンエアーされていた。
佐瀬寿一氏は1980年以降に「茅 蔵人(かや くらんど)」の
別名義でも楽曲制作をしている。
なお、茅蔵人は「火薬の島 (kayaku-island)」の意で、
大爆発するようにと名付けたという。
すぎやまこういち (本名:椙山 浩一 読みは同じ)、
(1931年4月11日 - 2021年9月30日)
日本の作曲家・編曲家・指揮者。日本作編曲家協会 (JCAA) 常任理事、
日本音楽著作権協会 (JASRAC) 評議員、日本カジノ学会理事、
日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。
名義にひらがなを使用しているのは、「誰もが分かるように」したため。
位階は従四位。当初は音楽大学への進学を望んでいたが、音楽大学に
入学できるほどにピアノが弾けなかったことから断念し、
東京大学理科II類に進学。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。
3年のとき、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ
傍系進学。しかし、教官が授業にあまり出ないすぎやまの顔を
覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため
1年留年して卒業。卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイト
をしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を
音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、
引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後、
芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。
1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」
と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。
次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる
『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組
はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に
集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが
難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、
ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集に
ナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て
放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード
芸能界を変えた男・渡辺晋物語』としてドラマ化された。
当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、
すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。
また、1964年から2010年までの長年に渡り、正月・元日の
看板番組になっていた大型バラエティ番組『新春かくし芸大会』も
すぎやまと渡辺の2人が主導する形で制作・放送されていた。
1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても
精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も
始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、
自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように
苦慮するようになり、また JASRAC とフジテレビが著作権料の
支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家
としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月に
フジテレビを退社した。退職後、フリーのディレクターとして
フジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から
作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、
彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。
1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く
手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』
のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し
『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表
(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。
自ら「B面の王者」を自称しており、「花の首飾り」や「学生街の喫茶店」
のように当初はシングルB面ながらラジオでのオンエアなどで
徐々に人気が出てロングセラーになったという例がいくつかある。
インタビューでは「(9歳下の)筒美京平さんは狙ってヒットを
打てるすごい作曲家だが、自分は頑固なんで時流に乗った曲作りは
できなくて」と語っている。『ザ・ヒットパレード』で音楽を担当した
宮川泰とは同い年(学年は宮川が早生まれのため一つ上)だが、
作曲家になる勉強のために宮川の書いた譜面を参考にしていたため
宮川泰を「師匠」と呼んでいた。
ポップスやクラシックを多く作曲しているが、少数でありながら
現代音楽、実験音楽も作曲している。また、ジャズに関しては
親交のあった色川武大によると著書にて「すぎやまさんはジャズ嫌い」
と書かれているが、実際はドラクエのカジノの音楽などジャズ調の
曲も多く作曲している。
また、演歌について「演歌こそ日本民族の音楽である、という
権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から
始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を
築いたと断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を
歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は
少ないのではないか」と否定的な見解を自著に記している。
ただし、風来のシレンシリーズでは演歌調の曲も作曲している。
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すぎやま こういち |
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園まり |
園まり - ただひとりのあなた
LP : 恋の宴は果てしなく
Polydor MR-3083
1969年12月25日リリース。
作詞 : 川内康範
作曲編曲 : 宮川泰
園まり (その まり : 本名は薗部毬子 そのべ まりこ)、
1944年4月12日生れ。日本の歌手、女優。神奈川県横浜市出身。
1954年10歳で安西愛子に師事しコーラスグループ“杉の子子ども会”
を経て、キング児童合唱団へ入団。1956年、本名の薗部毬子名義で
キングレコードから「つゆの玉ころり」で童謡歌手としてデビュー。
同時に岸惠子、有馬稲子と共にミシンの広告モデルとしても活動。
元々はクラシックの歌手を目指していたが、1960年11月
NET『あなたをスターに』で優勝。1961年4月渡辺プロダクション
に入社。1962年5月「鍛冶屋のルンバ」でレコードデビュー。
7月フジテレビ『レッツゴー三人娘』で中尾ミエ、伊東ゆかり
と『スパーク3人娘』を結成。『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)
などに出演。
洋楽の日本語カヴァー「マッシュ・ポテト・タイム」「太陽はひとりぼっち」
「女王蜂」「花はどこへ行った」がヒット。
1964年「何も云わないで」がNHK”きょうのうた”で放送され、
歌謡曲の初ヒットとなる。その後「逢いたくて逢いたくて」
「夢は夜ひらく」「何んでもないわ」「愛は惜しみなく」 等の
ヒットも記録し、園まり節と呼ばれる歌唱法でヒット。
また、「夢は夜ひらく」は藤圭子歌唱によるヴァージョンも存在する。
これら3作は同名タイトルで日活で映画化された。『NHK紅白歌合戦』には
1963年から1968年まで6回連続出場(1963年の「キューティ・パイ・メドレー」
と1964年の「夢みる想い」は、中尾・伊東と三人娘で歌唱)。
1966年から1967年マルベル堂のブロマイド売り上げ女性歌手第1位
とアイドル人気も高かった。
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宮川 泰 |
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伊集 加代子
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すぎやまこういち |
カコ&こういち (伊集加代子&すぎやまこういち) - 男の子と女の子の唄
7inch single : Denon CD-47
1969年12月リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲 : すぎやまこういち
演奏 : シャルル・オンブル楽団
シャルル・オンブル楽団 (Charles Ombre et son Orchestre) は、
日本コロムビアのディレクター谷川恰 (つとむ) が発案した楽団で、
筒美京平が指揮を務め、シャルル・オンブル楽団が演奏する。
谷川恰さんはナイアガラレーベルの日本コロムビア移籍に尽力し、
1975年から2年間、大瀧詠一さんを担当した。
谷川恰さん曰く「アーティストを"陰で支える"オーケストラ」ということで
最初は「シャドウ・オーケストラ」としようと思ったそうだが、
外国のレコードでは人の名前が入っているので、
同様に「チャールズ・シャドウ・オーケストラ」と名付けようと
考えたそうである。しかしここで、「シャドウ」と命名してしまうのは
当たり前すぎるので、フランス語が堪能なコロムビア社員の助けを
借りて、「Charles」=「チャールズ」=「シャルル」、
「Shadow」=「Ombre」とフランス語に翻訳する一工夫を施して、
「Charles Ombre Et Son Orchestre」
「シャルル・オンブルと彼の楽団」が誕生した。
伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
すぎやまこういち (本名:椙山 浩一 読みは同じ)、
(1931年4月11日 - 2021年9月30日)
日本の作曲家・編曲家・指揮者。日本作編曲家協会 (JCAA) 常任理事、
日本音楽著作権協会 (JASRAC) 評議員、日本カジノ学会理事、
日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。
名義にひらがなを使用しているのは、「誰もが分かるように」したため。
位階は従四位。当初は音楽大学への進学を望んでいたが、音楽大学に
入学できるほどにピアノが弾けなかったことから断念し、
東京大学理科II類に進学。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。
3年のとき、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ
傍系進学。しかし、教官が授業にあまり出ないすぎやまの顔を
覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため
1年留年して卒業。卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイト
をしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を
音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、
引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後、
芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。
1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」
と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。
次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる
『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組
はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に
集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが
難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、
ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集に
ナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て
放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード?芸能界
を変えた男・渡辺晋物語?』としてドラマ化された。
当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、
すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。
また、1964年から2010年までの長年に渡り、正月・元日の
看板番組になっていた大型バラエティ番組『新春かくし芸大会』も
すぎやまと渡辺の2人が主導する形で制作・放送されていた。
1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても
精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も
始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、
自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように
苦慮するようになり、また JASRAC とフジテレビが著作権料の
支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家
としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月に
フジテレビを退社した。退職後、フリーのディレクターとして
フジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から
作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、
彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。
1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く
手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』
のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し
『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表
(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。
自ら「B面の王者」を自称しており、「花の首飾り」や「学生街の喫茶店」
のように当初はシングルB面ながらラジオでのオンエアなどで
徐々に人気が出てロングセラーになったという例がいくつかある。
インタビューでは「(9歳下の)筒美京平さんは狙ってヒットを
打てるすごい作曲家だが、自分は頑固なんで時流に乗った曲作りは
できなくて」と語っている。『ザ・ヒットパレード』で音楽を担当した
宮川泰とは同い年(学年は宮川が早生まれのため一つ上)だが、
作曲家になる勉強のために宮川の書いた譜面を参考にしていたため
宮川泰を「師匠」と呼んでいた。
ポップスやクラシックを多く作曲しているが、少数でありながら
現代音楽、実験音楽も作曲している。また、ジャズに関しては
親交のあった色川武大によると著書にて「すぎやまさんはジャズ嫌い」
と書かれているが、実際はドラクエのカジノの音楽などジャズ調の
曲も多く作曲している。
また、演歌について「演歌こそ日本民族の音楽である、という
権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から
始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を
築いたと断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を
歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は
少ないのではないか」と否定的な見解を自著に記している。
ただし、風来のシレンシリーズでは演歌調の曲も作曲している。
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筒美京平 |
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【Index】【戻る】【続く】 |