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Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

古物商許可番号
第731269400017号
(広島公安委員会)

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昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
ここではサンデーソングブックであまりオンエアーしない昭和歌謡や
それらの和ジャズカヴァー中心にアップロードしていまして、
60歳以上の熟年層を対象にしています。
90年から店頭やヤフオク、eBay 等で販売してきた昭和歌謡の
レコードをカセットに録音して店頭BGMとして使ってましたが、
とある客人に「デジタルアーカイヴ化すべき」と勧められました。
リイシューの際にレコード会社に売ったり、人気盤は著名DJ達、
レア盤になると作家の方々本人達や記念館等に売ったケースも
多く「メンドイので再発CD音源でもいいか」も入ってますが、
友人達の協力のもと過去売ったレコードの音源をせっせと
デジタル化して整理してます。特に再入手困難な軽音楽、エロムード等
のアルバム内の1曲を求めてガムバッテみます。
中古レコード屋なのでレコード音源の場合は少々のノイズは
許容してますのでノイズに神経質な方は御遠慮ください。
基本情報としてアーティストプロフィールを記載しますが、販売当時の
商品説明や専門誌に書いた際のレヴューが見つかり次第、
追加アップデートしていきます。
昭和の音楽を愛する皆さんのリスニングライフを豊かにするために
御自由に利用して頂ければ幸いです。

Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.3 (1970)
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。

1970年 

沢 久美
沢久美 - ミミの甘い生活
7inch single : Polydor DR-1483
1970年1月5日リリース。

作詞 : 滝田順
作曲 : 信楽潤
編曲 : 早川博二

沢久美の本名は青木良子、1945年3月24日、東京生まれ。歌手、作詞家。
近年は塩沢企画芸能事務所の代表を務める。
都立戸山高等学校卒業後、飯田景応に師事。 1965年に劇団東芸に
入団し、『嗚門秘帳』などに主演した。
1966年にポリドールの専属作曲家・藤原秀行氏と契約。
1967年3月に「行っちゃ行っちゃイヤよ」でデビュー。
その後作詞家に転向。2015年、平浩二のデビュー45周年記念デビュー作
『愛・佐世保』のB面曲「ぬくもり」を作詞したが、1992年の Mr.Children
の作品『抱きしめたい』を盗作した疑いで告発された。

作詞を担当した滝田順は石原裕次郎「泣かせるぜ」を筆頭に、
浅丘ルリ子「丘は花ざかり」、西田佐知子「メリケン・ブルース」
他多数を手掛けた人気作詞家。

作曲は自身の「タリラリラン・ブルース」や三浦正弘とアロハ・ブラザーズ
「ラリラリ東京」、左 卜全「老人と子供のポルカ」等の
ナンセンスソングでお馴染みの信楽潤 (しがらき じゅん : 別名信楽順三)

アレンジは早川博二 (はやかわ ひろつぐ :
1925年1月15日 - 2004年4月15日)
日本の作曲家・編曲家、トランペット奏者。
主に歌謡曲および吹奏楽の分野を手がけた。
また早川博二&モダン・ポップス・オーケストラを指揮した。


信楽 潤
沢久美 - 私のきらいなもの
7inch single : Polydor DR-1483
1970年1月5日リリース。

作詞 : 滝田順
作曲 : 信楽潤
編曲 : 早川博二
佐良直美の「私の好きなもの」へのアンサーソング。

 
ピンキーとキラーズ - 土曜日はいちばん
7inch single : King Records BS-1130
1970年1月20日リリース。

作詩 : 岩谷時子
作曲 : いずみたく
編曲 : 渋谷毅

強めにエコーをかけてフロアー向けに立体感を与えている。
心地よいダンスチューンであるが、週休二日制になって
土曜日の意味合いが変ることを誰が当時予測できただろうか。

1967年に15歳で「甘ったれたいの」でビクターレコードから
ソロ歌手としてデビューした今陽子(ピンキー)が
キングレコードに移籍し、男性ヴォーカルのジョージ浜野、
エンディ山口、ルイス高野、パンチョ加賀美の4人と結成。
グループ名は、当時アメリカで流行っていた男女混合バンドの
スパンキー&アワ・ギャングをもじったもので、作曲家の
いずみたくが命名した。当時、今陽子はいずみたくの事務所に
所属しており、いずみは彼女を売り出すためグループに
することを考えて、ルイスたち男性陣を集めてピンキーとキラーズ
を結成させた。この頃の音楽業界では“大きな女性歌手は売れにくい”
というジンクスがあり、ルイスたちは高身長の今陽子 (167cm) に
不安を感じた。しかし陽子の歌声を聞いたルイスたちは彼女の声量が
すごく、リズム感の良さや英語歌詞も上手に歌えたことから
「これはモノになるぞ」と確信したという。

1969年1月、4枚目のシングル「涙の季節」が発売され
1位になり、続く「七色のしあわせ」が4位、「星空のロマンス」
が10位とオリコンのトップ10に入ったが、それ以降
トップ10からは遠ざかった。
その後デビューから4年で陽子がグループを脱退したが、
実はグループ結成の時点でルイスたち男性陣にはいずみから
陽子の処遇について事前に聞かされていた。
それは「ピンキーが20歳になったら、その時ピンキーとキラーズが
売れていても売れていなくても、この子はソロで活動させる」
という話だった。ただし陽子本人にはこの話は知らされていなかった。
このためルイスが人づてに聞いた話として、「『私(陽子)が
ピンキーとキラーズを脱退になったのは、自分の努力が
足りなかったせい』と裏事情を知るまで責任を感じていた」とのこと。

いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員 (第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄 (いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する (同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲 (演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲 (笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている) と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965 - 1969年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下に BLACK レーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。


いずみたく



渋谷 毅
 
ザ・ハーフ・ブリード - 恋の足あと
7inch single : Express EP-1203
1970年2月5日リリース。

訳詞 : 山上路夫
作詞作曲 : Buddy Buie, James Cobb, Emory Gordy
編曲 : 神谷重徳

アレンジャーの神谷重徳は日本屈指のプログレ・バンド
Love Live Life のギタリスト、シンセサイザー奏者。
この曲はアメリカの Classics IV の原題 “Traces” で1969年3月29日
をピークにビルボード全米2位を記録し、イージーリスニング音楽
チャートでも2位となり、Classics IV のシングルとしては
最高位を記録した。

フィフィ・ザ・フリーと共に脱ビートバンドにチャレンジした
和製ソフト・ロックの代表的存在。メンバー全員がハーフという
異色グループであった。1968年夏にアメリカン・スクール卒の
日系人を中心に結成された。米軍キャンプや都内のジャズ喫茶にも
出演していた。レコードデビューはGSブーム終焉に近い
1969年1月10日だった。本件はラストとなるセカンドシングルA面で
Classics IV のヒット "Traces" を日本語カヴァー
によるボサノヴァ曲の隠れた逸品。彼らのキャッチフレーズは
「日本初のソフト・ロック・グループ」だった。
マニアには日活映画『八月の濡れた砂』で彼らの演奏シーンが
観れることでも有名。

山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。


山上路夫


神谷重徳
ザ・ハーフ・ブリード - 白い風を見る日
7inch single : Express EP-1203
1970年2月5日リリース。

作詞 : 阿久悠
作曲 : 村井邦彦
編曲 : 神谷重徳

アレンジャーの神谷重徳は日本屈指のプログレ・バンド
Love Live Life のギタリスト、シンセサイザー奏者。
A面と同傾向のソフトなラブバラードにフルートと
ピアノでアクセントを付けている。
1970年という新たな時代に対して脱ビートは世界の潮流から
当然だったろう、戦争反対、平和、愛といったムーヴメントの
中で路線を模索している東芝の一つのリサーチとして
ボサや同傾向のソフトサウンドが洋楽カヴァーと邦楽オリジナルの
両A面スタイルで紹介された事が伺える。

作詞をしたのは昭和歌謡を代表する作詞家の阿久 悠。
阿久 悠 (あく ゆう : 1937年2月7日 - 2007年8月1日)
日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名は深田公之 (ふかだ ひろゆき)
淡路島 (兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原) 出身。
ペンネームの由来は、広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、
兼業禁止の会社にばれないよう“悪友”をもじった筆名として
使い始めた事から。深く考えずにつけたため、いずれは別の筆名に
するつもりだったが、仕事が途切れなかったので、独立後も使い続けた。
また多夢星人 (たむせいじん) の変名も使用した。
長男は作曲家の深田太郎で、阿久作詞・深田作曲の楽曲も存在する。
1959年に広告代理店・宣弘社 (現在の電通アドギア) へ入社する。
元々は映画の脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった
宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に
行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し
入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家の伊上勝が
課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」
と言われて、振られた仕事はCMの絵コンテ描きだったという。
絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で
必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のために
ここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの
仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ
方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の
後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を
書かせてもらえるものだと思っていたという。
また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』
で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、
上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを
活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家
として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、
1964年から放送作家としても活動。1966年に宣弘社を退職し、
放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を
書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。
また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。
作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズ
デビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年5月10日発売)
初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」
(1966年11月発売)。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」
(1967年11月5日発売)。このタイトルの由来は、曲の締め切りが
朝に迫っていたからだという。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、
1968年に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした
阿久の作詞作品となった。この頃より死去までオフィス・トゥー・ワンに所属する。

その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は
5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、
コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。
さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に
番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は
各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げる
というものであったが、このスタイルは「密室でタレントを選考する
過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と阿久が提案した
ものである。1977年、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」
というシリーズを手がけ『おはよう!こどもショー』のコーナーで歌われていた。
1980年代に入りニューミュージックの歌手が台頭し、彼等のつづった
叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である
松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。
以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。
この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」
としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。
直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、
1982年には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。
1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』は
その後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞
ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年、30年間にわたる作詞活動に対して、
日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年春、
紫綬褒章を受章。2000年10月、掌編小説集『詩小説』で
第7回島清恋愛文学賞を受賞。2001年に腎臓癌を患い、同年9月12日に
癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を
続けていたが、2007年8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区
西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、70歳没。同年3月に行われた
石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。
日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した
2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で
決定した。また、同年の第49回日本レコード大賞では特別功労賞、
第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。

村井邦彦 (むらい くにひこ、1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。

暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科
に進学し、在学中は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」
に所属した。大学3年時に、東京都港区赤坂でレコード店「ドレミ商会」を
開店した。1966年に大学を卒業し、グループ・サウンズ全盛期の1967年に
ヴイッキー・レアンドロスへ『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家となり、
1968年にテンプターズへヒット曲『エメラルドの伝説』を提供し、
ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」、赤い鳥に「翼をください」、
トワ・エ・モワに「虹と雪のバラード」を提供した。

1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの
日本国内における版権を獲得し、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立する。
1969年に自ら唄い発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、
当時、「(特にラジオで放送すると)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報
と紛らわしい」とされ、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を
受けているが、該当部分を除けば放送可能である。
1970年に川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と
共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立する。
1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツを設立し、
1977年に川添象郎とともにアルファレコードを設立した。

自身がプロデューサーとなり、従来ポップス曲を提供する裏方として
作家活動を主体としていた荒井由実をシンガーソングライターとして
デビューさせた。ティン・パン・アレーを見い出して、アーティストの
レコーディングの際にスタジオミュージシャンとして起用した。
1970年代末から1980年代前半にかけて、イエロー・マジック・オーケストラ
のアルバムを発売した。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点を
アメリカに移した。

作曲は東海林修に学んだところが多いと語る。映画音楽が好きで
ミシェル・ルグランに私淑する。『座頭市御用旅』など勝プロ作品の
音楽監督などを経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督を務めた。
市川崑監督『火の鳥』で映画プロデューサーを初めて手掛け、ルグランに
主題曲の作曲を依頼した。音楽監督は深町純が務めた。
発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は
代表取締役会長を務める。


阿久 悠


村井邦彦
 
団 次郎 - 甘い予感
7inch single : Columbia LL10121J
1970年2月20日リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲 : 村井邦彦
編曲 : 東海林 修
NETテレビ (現 テレビ朝日) 『特別機動捜査隊』
第435話「一郎とマリ」劇中歌

曲を手掛けた山上路夫、村井邦彦、東海林 修の3人は
洒落た名曲を多数リリースした有名プロダクションと
言ってもいいだろう。この3人は絶大な信頼関係で
次々と名曲を世に出している。
ビート時代の残り香漂うギターにはメジャーレーベルならではの
規制下といった感じはするが、仄かに聴こえるヴァイヴから
ラウンジマナーが感じられる。
資生堂の専属モデルの団 次郎は翌年に郷秀樹として
マットの隊員となりウルトラマンに変身する。
そしてその美声で主題歌をも歌いこなした。

団 次郎 (だん じろう : 1949年1月30日 - 2023年3月22日)
日本の俳優。芸名、団 次郎、団 次朗 (いずれも読み同じ)。
本名、村田秀雄 (むらた ひでお)。
京都府京都市出身。平安高等学校卒業。小唄の師匠である日本人の母と
イギリス系アメリカ人の父との間に生まれたハーフ。身長187cmの長身で、
1966年、母が知り合いである大映の三隅研次監督に頼み、勝新太郎
主演の『酔いどれ博士』に端役で出演する。同年に島屋と提携した
ピエール・カルダンのスーツを一度に3着購入するほどファッション
に対しての想いが強いこともあって、1967年3月に平安高等学校を
卒業するとただちに上京し、株式会社セントラルファッションに所属する。
同年5月に前田美波里と共演した資生堂サンオイルのテレビCM、
続いて同社の男性化粧品「MG5」のテレビCMでファッションモデル
として注目される。
1968年、日活映画『わが命の唄 艶歌』に出演。本作品の役名である
団 次郎を芸名とする。同年6月には日本クラウンより、「バラの恋」で
歌手デビュー。歌手活動を行っていたこともあり、俳優としては
細々と行っていたが1970年の「江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎」
への出演を皮切りに本格的に俳優としての活動を開始。
1971年、円谷プロのウルトラシリーズ『帰ってきたウルトラマン』
で主人公・郷秀樹を演じて人気となる。そのほか、日本現代企画制作
『スーパーロボット マッハバロン』(1974年)、
東映不思議コメディーシリーズ『ロボット8ちゃん』といった
特撮テレビドラマにもレギュラー出演した。『少年探偵団』では、
怪人二十面相を演じ、最終回では正体が演者の団その人という
奇抜な演出がなされている。俳優として低迷期を迎えた時期があったが、
舞台に活路を見出し、ミュージカルからストレートプレイまで
守備範囲も広く活動。福田陽一郎、坂東玉三郎、栗山民也らに
起用され、キャリアを積み重ねている。映画では、筒井康隆の戯曲を
映画化した『スタア』(1986年)で、プレイボーイのスター役を
印象的に演じた。1984年、姓名判断により「団 時朗」に改名。
2017年夏に肺がんの診断を受けてからも俳優として活動を
続けてきたが、2022年末に体調が悪化し2023年3月22日
午前4時14分に肺がんのため死去、74歳没。生涯独身だった。

東海林 修 (しょうじ おさむ、1932年9月6日 - 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。

その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日した
モダン・ジャズ・カルテットとの共演などで活躍していたところ、
渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインと
して同プロダクションに参入することになった。
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどの
グループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワの
デビュー・アルバム『或る日突然』(1969年)などの作品への
編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。
1970年、大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」
(スクール・メイツ)の音楽を担当。欧米のヒット曲や童謡メドレー
の編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。
演奏は宮間利之とニュー・ハードが担当した。1972年4月に
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の音楽監督に就任し、
1973年9月まで務めた。


山上路夫


村井邦彦


東海林 修
団 次郎 - 霧の中の孤独
7inch single : Columbia LL10121J
1970年2月20日リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲 : 村井邦彦
編曲 : 東海林 修

曲を手掛けた山上路夫、村井邦彦、東海林 修の3人は
洒落た名曲を多数リリースした有名プロダクションと
言ってもいいだろう。この3人は絶大な信頼関係で
次々と名曲を世に出している。
資生堂の専属モデル時代の団 次郎。
A面よりビートを強くした素晴しいダンスチューンだ。
テンポに応じて団 次郎も発声を強くして歌っている。
この躍動感を持って団 次郎は翌年に郷秀樹として
マットの隊員となりウルトラマンに変身する。しかも番組タイトル
は円谷英二によって命名された「帰ってきたウルトラマン」だった。
そしてその美声で主題歌をも歌いこなした。
君にも見え〜る ウルトラの星♪
因みに主題歌の作詞は、東京一 (あずま きょういち : 演出家、
プロデューサーの円谷一 つぶらや はじめの別名義)
作曲は、すぎやまこういち。

 
かまやつひろし - 二十才の頃 (When We Were Twenty Years Old)
LP : Monsieur / The World Of Hiroshi Kamayatsu
ムッシュー / かまやつひろしの世界
Philips FS-8075
1970年2月25日リリース。

作詩作曲 プロデュース : かまやつひろし
ヴォーカル : かまやつひろし+安井かずみ+なかにし礼

1970年と言えば我が国では若者の価値観とファッションにおいて
安定したヒッピーサイケ時代に入っており、若者達は自由と自発的な
行動に出るが平和ではなく、ベトナム戦争下で世情も厳しかった。
救急車のサイレンが「ピーポー」に変更された1970年は
1月14日に第3次佐藤栄作内閣発足、怒れる若者の時代だった。
70年安保闘争、ベトナム戦争反対の大きなうねり、ウーマンリブ、
ヒッピー、ロックが世界的に流行した。

3月15日から大阪万博がスタートし、3月24日にボクシング漫画
『あしたのジョー』で、矢吹丈との闘いの末敗れ死亡した「力石徹」の
追悼式が行われ、3月31日に赤軍派活動家による日航機よど号
ハイジャック事件が起き、4月26日にFM東京が本放送開始、
5月12日に広島で瀬戸内シージャック事件が発生、7月1日に丹頂が
男性化粧品「マンダム」を発売。チャールズ・ブロンソンが出演するCMで
一世を風靡する。翌年には社名を「マンダム」に変更、
8月2日に東京都内ではじめての歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施、
8月19日に全日空アカシア便ハイジャック事件が発生、
10月1日に国鉄が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを開始、
11月14日にウーマンリブの第一回大会開催、11月25日に作家の三島由紀夫らが
市谷の自衛隊に乱入し、割腹自殺する事件も起きた。

かまやつ ひろし / ムッシュかまやつ
(本名:釜萢 弘 かまやつ ひろし、1939年〈1月12日 - 2017年3月1日〉
日本のミュージシャン、俳優。通称「ムッシュ」。
ザ・スパイダースの元メンバーでもある。
1989年以降は、ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」が正式な
活動名である。東京府(現・東京都)出身。血液型はB型。
父はジャズシンガーのティーブ・釜萢。長男のTAROかまやつ
ことかまやつ太郎はアーティスト。ジャズシンガーの浅田陽子は母方の叔母、
ジャズ・トランペッターの森山久は義理の叔父(浅田の夫)。
フォーク歌手の森山良子は従妹、元・歌手の森山奈歩は従姪、
シンガーソングライターの森山直太朗は従甥にあたる。

ザ・スパイダースにゲストヴォーカルで参加した後、正式メンバーとして
ヴォーカルおよびリズムギターを担当、代表曲である「あの時君は若かった」
「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」
「フリフリ」「なんとなくなんとなく」などを作曲した。
1970年9月の最終シングル「エレクトリックおばあちゃん」は、
かまやつの作曲である。

1970年2月25日に本格的なソロアルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』
を発売。このアルバムは、当時は世界的にも珍しかった「一人多重録音」という
画期的な方法で制作された。また、音楽的にもさまざまなジャンルを融合した
実験的な作品であった。その反面、1970年4月に発売されたソロシングル
「どうにかなるさ」は、もともとザ・タイガースの岸部修三(現・一徳)と
岸部シロー兄弟のデュオアルバム『Sally & Shiro』のために書き下ろされた
曲のセルフカヴァーであったが、カントリーシンガーとしてのルーツに
回帰する意向も反映された。1970年代初頭のフォークブームに触発され、
主導権を奪ったフォークシンガーの吉田拓郎に接近し、吉田作品の「シンシア」、
「我が良き友よ」などを歌う[。「我が良き友よ」は90万枚を超えるセールスを
記録し代表曲とした。1975年のフォーライフ・レコード設立の際も参加を
希望したが、契約の問題などで参加できなかった。またウォッカ・コリンズ
へのゲスト出演や、タワー・オブ・パワーが演奏を務めた「ゴロワーズを
吸ったことがあるかい」を発表。ウォッカ・コリンズのリード・シンガー、
アラン・メリル、ザ・テンプターズのドラマーだった大口広司や、
作詞家の安井かずみらとともにイタリアンレストラン「キャンティ」常連組
の一人であった。 テレビアニメ作品『はじめ人間ギャートルズ』の
エンディングテーマとなった「やつらの足音のバラード」もよく知られ、
2004年にはスガシカオによってカバーされている。

安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 - 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9〜10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。

なかにし礼 (なかにし れい) 本名:中西 禮三 (なかにし れいぞう)
(1938年9月2日 - 2020年12月23日)
日本の小説家、作詞家。森田童子 (本名 中西美乃生 みのぶ) の叔父。
森田童子の父、中西正一は、なかにし礼の兄。
1938年9月2日、満洲国の牡丹江省牡丹江市 (現在の中華人民共和国
黒竜江省) に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、
渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは
家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな
影響を与えた。彼の兄の中西正一は立教大から学徒出陣として
陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
彼の兄の中西正一は、第二次世界大戦中に零戦のパイロットだった。
特別攻撃隊の生き残りで戦後は荒れた生活を送った。
なかにし礼は8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで
小学校時代は東京と青森 (青森市立古川小学校) で育ち、中学から
東京品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、
シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。
シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中に
ヒットメーカーになる。一浪して1958年に立教大学文学部英文科に
入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部
仏文科を卒業する (立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に
最初の妻と結婚する。元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の
深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を
手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルの
バーで『太平洋ひとりぼっち』 (映画1963年公開) を撮影中の
石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。その間、一女をもうけるも、
1966年に別居、1968年に離婚する。
石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の
歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1に作詞作曲した作品
(後の「涙と雨にぬれて」) を自ら石原プロに持ち込んだ。
それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」が
ヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の
執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、
NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。

兄の中西正一は、弟のなかにし礼が多額の借金を抱えて設立した
会社をいくつも倒産させた。その頃、なかにし礼の自宅には、
中西正一の家族である、正一の妻、長女、次女中西美乃生 (後の森田童子)
長男の家族が住み始めた。次女の中西美乃生は、1970年の日本の暴動時代、
17歳の時に友人が校内紛争に巻き込まれ、高校を中退した。
中西美乃生の15歳から19歳までの4年間、なかにし礼と中西正一の
家族は東京・中野のなかにし礼の自宅で同居していた。
なかにし礼は1971年に、いしだあゆみの妹の石田ゆりと再婚した。
つまり、いしだあゆみの義弟は、なかにし礼となる。
それで、1971年から1972年までの1年間、中西美乃生 (森田童子)
は石田ゆりと暮らしていた。兄の中西正一のゴルフ場開発の失敗により、
なかにし礼は6億円の借金を抱え、なかにし礼の会社も倒産していった。
なかにし礼は新婚生活の邪魔だったために、これを機に兄の家族と絶縁し、
追い出した。森田童子は、なかにし礼のことが好きだったが、
なかにし礼の家での生活は彼女にとってとても大変だった。

そんな時期、なかにし礼とその兄の中西正一 (森田童子の父) は、
京都から東京に来た銀座のナンバーワン若手ホステス堀川麗子
という田舎娘をスカウトした。この田舎娘は後の風吹ジュンである。
彼らは風吹ジュンのために芸能事務所「Adoプロモーション」設立し、
中西正一の友人でイラストレーターの前田亜土 (本名 : 前田正春、
後の森田童子のマネージャーで夫) を社長に迎えた。
事務所に所属するタレントの風吹ジュンは給料の安さに不満を抱いていた。
なかにし礼、中西正一、前田亜土は、風吹ジュンが事務所を
移籍しようとした1974年9月12日に拉致監禁事件を起こした。
彼らはヤクザを使って風吹ジュンを監禁し、事務所の異動を断念させた。
その後の裁判で風吹ジュンの事務所への移籍は認められたが、
その際に風吹ジュンの過去の経歴詐称が明らかになり
イメージダウンとなった。
中西美乃生 (森田童子) は20歳頃から歌を歌い始め、風吹ジュン誘拐事件
の翌年の1975年に22歳でデビュー。彼女の背景には多くの問題があり、
有名な、なかにし礼との関係を隠してデビューしたかったのである。

なかにし礼は若い頃から何度も繰り返した心臓疾患や離婚に加え、
1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して
全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を
肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。
1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、
2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の
照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』
『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と
向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。
2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや
核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は
若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
とも語っている。2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、
同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため
東京都内の病院で死去。82歳没。


安井かずみ


なかにし礼
 
ジュリアンズ - 目の中の海
7inch single : Denon CD-54
1970年2月リリース。

作詩 : 有馬美恵子
作曲 : 都倉俊一
編曲 : 馬飼野俊一
演奏 : シャルル・オンブル楽団

作曲は都倉俊一、編曲は馬飼野俊一、ワテらダブル俊一でーす!
んな事言うかあ! (笑)
対抗馬、村井邦彦と鈴木邦彦と加瀬邦彦で、邦彦トリオでっせ!
って、こらあっ! (おいでやす小田風に怒鳴ってください 笑)

都倉俊一は東京都出身。4歳のころからバイオリンを習う。
父都倉栄二が外交官であったことから、7歳の時にドイツに渡り
音楽の基礎を学び、12歳になり帰国。学習院中等科の同級生には
元総務大臣の鳩山邦夫、元日本郵政社長の長門正貢、元朝日新聞編集委員
の萩谷順などがいる。中学校卒業後に再びドイツに渡り、ビートキャッツ
というバンドで活動。18歳で再び帰国し、学習院大学法学部に入学。
学習院大学時代に都倉俊一はフォーク・グループのザ・パニック・メンに
ヴォーカリストとして参加、アリス結成前の谷村新司が在籍していた
ロック・キャンディーズとのカップリングシングルのB面「想い出の小径」
(Express EP-1120) が1968年9月1日リリースされた。
このグループが発展的にジュリアンズとなった。当初トリオとしてデビューし
1969年5月に「雨あがり / 古い椅子と少女」(Denon K447) をリリース。
本件はジュリアンズとしての2枚目でラストシングルのB面。
大学2年生の時から作曲家としての活動を始め、中山千夏の「あなたの心に」
で注目を集めた。さらに、都倉らしくない曲調の「天使になれない」
(歌:和田アキ子)も好評だった。1971年学習院大学法学部卒業。
1974年に大信田礼子と結婚し、1978年に離婚した。
1970年代前半は山口百恵、フィンガー5などを手掛けた。
また1972年からはキャニオンに移籍してきた山本リンダの「どうにもとまらない」
から「狙いうち」「きりきり舞い」「闇夜にドッキリ」他を阿久悠とのコンビで、
ファンクやボサのヒット曲を書いた。このコンビはその後もピンク・レディーの
「ペッパー警部」「UFO」「カルメン77」で大ヒットを連発した。
この頃、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の審査員も務めた。

馬飼野 俊一 (まかいの しゅんいち : 1946年10月16日生れ)
日本の作曲家、アレンジャー。
愛知県豊橋市出身。愛知県立豊橋商業高等学校卒業。
父はギタリスト・作曲家の馬飼野昇、弟は作曲家の馬飼野康二。
父はギタリストとして活動し、大津美子のバックバンドやご当地ソングの
作曲もしていた馬飼野昇。弟・馬飼野康二とともに、幼少時から
家族でタンゴバンドを組むなど音楽活動をしていた。
同郷の斉藤恒夫に師事し、「斉藤恒夫とニュー・タンゴ・メロディアンズ」の
フルート奏者として活動。1969年、ピーター「夜と朝のあいだに」の
編曲を担当し、編曲家デビューした。
1970年、和田アキ子の「笑って許して」で第12回日本レコード大賞
編曲賞を受賞した。また、天地真理の編曲で、一連の大ヒットを連発した。

シャルル・オンブル楽団 (Charles Ombre et son Orchestre) は、
日本コロムビアのディレクター谷川恰 (つとむ) が発案した楽団で、
筒美京平が指揮を務め、シャルル・オンブル楽団が演奏する。
谷川恰さんはナイアガラレーベルの日本コロムビア移籍に尽力し、
1975年から2年間、大瀧詠一さんを担当した。
谷川恰さん曰く「アーティストを"陰で支える"オーケストラ」ということで
最初は「シャドウ・オーケストラ」としようと思ったそうだが、
外国のレコードでは人の名前が入っているので、
同様に「チャールズ・シャドウ・オーケストラ」と名付けようと
考えたそうである。しかしここで、「シャドウ」と命名してしまうのは
当たり前すぎるので、フランス語が堪能なコロムビア社員の助けを
借りて、「Charles」=「チャールズ」=「シャルル」、
「Shadow」=「Ombre」とフランス語に翻訳する一工夫を施して、
「Charles Ombre Et Son Orchestre」
「シャルル・オンブルと彼の楽団」が誕生した。


都倉 俊一


馬飼野 俊一
 

ソニア・ローザ
ソニア・ローザ - 青いベッド
7inch single : Express EP-1207
1970年3月5日リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲編曲 : 鈴木邦彦

1970年の春3月5日に東芝とビクター、テイチクのボサ戦争勃発。
山上路夫&鈴木邦彦、山上路夫&村井邦彦でボサや同傾向のソフトサウンド
で流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝、そこへ橋本淳&筒美京平
のヒットメイカーコンビによって流行の最先端を走ろうとするビクター、
そしてモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが3月5日に一斉にボサチューンを
リリースした。

これは1970年6月5日にリリースされるソニア・ローザの
日本でのデビューアルバム (本国ブラジルでは既にデビュー済み)
に先行する形でリリースされた言わば彼女のお披露目的なシングルだ。
この曲は同じく1970年6月5日にリリースされる由紀さおりの
アルバム “あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力” (Express EP-7756)
にも収録され、そしてそれは東芝とビクターの第2期ボサ戦争へと繋がる。
サディスティックな愛に耐える女性を歌っているが
亡命同然で日本に来たソニア・ローザはこの日本の歌謡曲特有の
世界観に納得できたのだろうか、それを考えるとソニア・ローザの
プロ意識の高さに鳥肌がたつ。

ソニア・ローザはブラジル・サンパウロ出身。日本でのボサノヴァ普及に
貢献した女性歌手。クラブ・ラジオDJのDJ TAROは実子。
彼女は裕福な家庭に生まれ、父親のオラーヴォは有名な競馬騎手だった。
6歳の頃からギターをさわり始め、ジョアン・ジルベルトの曲を
覚えるなど音楽性を磨く。中学校卒業後作詞作曲も始め、18歳の時に
リオのポピュラー音楽コンクールに入賞し、1967年に国内大手の
コンチネンタル・レコードからLP「ア・ボッサ・ローザ・デ・ソーニャ」
を発売。10代でボサノヴァ歌手として頭角を現す。

しかし当時のブラジルのボサノヴァ市場は政治によって抑圧を受けていた。
1964年にアメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍は、
クーデターによってジョアン・ゴラールを失脚させ、軍事独裁体制を確立すると
親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された。
カステロ・ブランコによるブラジルの軍事独裁政権樹立と、それに伴う
強圧的な体制は、「リオの有閑階級のサロン音楽」的な傾向のあった
ボサノヴァを退潮させる要因となった。
セルジオ・メンデスやカエターノ・ヴェローゾなど決して少なくない
ボサノヴァ音楽家たちが、国外へ半亡命的な形で去り、
アメリカやフランス等のミュージックシーンに足跡を残した。
さらに愛や自然を歌う抽象的・享楽的な傾向のあったボサノヴァの歌詞も、
体制批判など政治的な内容を含んだものに変化したものがバイーア州民の
なかから現れはじめ、トロピカリア・ムーブメントと呼ばれた。
これらはボサノヴァのカテゴリーから外してとらえる批評家も多い。
軍事政権は1964年から1985年まで、その後長期間に渡ってブラジルを支配した。
このブラジル政治の歴史から、1960年代初頭の貧困時期から1964年に起こった
クーデターによる軍事政権樹立後もボサノヴァの歌詞は政権批判の暗喩や
サウダージ(ポルトガル語: saudade, サウダーデとも)と言われる
スローバラードで郷愁、憧憬、思慕、切なさ、と同様にブラジル国民の悲しみを
歌詞にして歌われている。
それは公民権運動の Bob Dylan "Blowin' in the Wind" や、
日米安保闘争の西田佐知子 "アカシアの雨がやむとき" のように
国民の連帯感によって政府への抗議ソングへと化していった。

ソニア・ローザはサンパウロでナイトクラブ「イチバン」を経営していた
小野リサの実父小野敏郎と知り合い、小野の推薦で大阪万博の招聘歌手として
1969年に日本へ渡った。当時ボサノヴァはブラジルでは下火に
なっていたが日本では好まれていた。テレビ番組「ミュージック・フェア」
に出演したことからサックスプレーヤー・渡辺貞夫クアルテットの
レコーディングに招かれ、渡辺と全国ツアー公演に参加することになった。
渡辺プロデュースで1970年に日本デビュー。ライブハウスで渡辺の
演奏のもとで歌声を披露していた。渡辺が登場できない日にピアノを
弾いていた大野雄二と意気投合。大野はTVテーマやCM音楽で
ソニアを数多く起用、アルバムも発表している。
テレビ番組「イレブンPM」や大橋巨泉のラジオ番組、
フジテレビ系「ナイト・ショー」にもレギュラー出演し、
テレビドラマ「遥かな坂」のテーマ曲や日本歌謡曲も手掛けた。

1971年、新宿のミュージック・レストラン「グリーン・グリーン」の
こけら落としショーに選ばれたのが縁で同店のオーナーと結婚したが、
その後別の実業家と再婚。80年代後半以降、子育てに専念していたが、
音楽性の再評価の高まりを受けて、2006年には実子・DJ TARO
プロデュースでアルバム「DEPOIS DO NOSSO TEMPO」をリリースし、
日本のミュージックシーンに復帰している。フェラーリ・テスタロッサを
愛車に、目黒の豪邸で夫と2人暮らしをしている。

山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。

曲を手掛けたのは奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ダイナマイツ「トンネル天国」
等多数の昭和の名曲を書いた鈴木邦彦さん。
鈴木邦彦 (すずき くにひこ : 1938年3月1日生れ)
東京府出身の作曲家、編曲家。妻は元歌手の小野階子 (おの しなこ)。
慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。
学生時代は慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。
母が所有していたピアノを独学で習得し、学生時代からジャズ・ピアニスト
として活動を始め、のちに「ザ・ヒットパレード」のバックバンドにも参加。
中村八大の影響でプロの作曲・編曲家を目指す。西ドイツ・ドルトムントで
開催された1966年世界体操競技選手権に日本代表専属のピアニスト
として参加。床運動の規定曲を作曲する。
プロの作曲家としてデビューまもない1968年に『天使の誘惑』が、
第10回日本レコード大賞を受賞する。メーカーから依頼されたことにより、
ハンドベルの普及版となるミュージックベルの開発に取り組む。
1971年4月、株式会社ベルミュージック並びに日本ミュージックベル協会
を設立。株式会社エンジェルミュージック、株式会社ウエディングベル設立。


山上路夫


鈴木邦彦
 
ソニア・ローザ - モーニング・コーヒー
7inch single : Express EP-1207
1970年3月5日リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲編曲 : 鈴木邦彦

1970年の春3月5日に東芝とビクター、テイチクのボサ戦争勃発。
山上路夫&鈴木邦彦、山上路夫&村井邦彦でボサや同傾向のソフトサウンド
で流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝、そこへ橋本淳&筒美京平
のヒットメイカーコンビによって流行の最先端を走ろうとするビクター、
そしてモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが3月5日に一斉にボサチューンを
リリースした。

これは1970年6月5日にリリースされるソニア・ローザの
日本でのデビューアルバム (本国ブラジルでは既にデビュー済み)
に先行する形でリリースされた言わば彼女のお披露目的なシングルだ。
そしてそれは東芝とビクターの第2期ボサ戦争へと繋がる。
こちらB面は心地よいダンスチューンに仕上げており、
硬いガットギターが効果的に空間を引き締め、軽やかに戯れる
フルートはリズムに応じて舞い上がっている。

 
荻野達也とバニーズ - 金色のほほ
7inch single : Liberty LP-1202
1970年3月5日リリース。

LP : 北風 / バニーズの世界
Liberty LTP-9039
1971年10月5日リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲 : 村井邦彦
編曲 : 渋谷毅

1970年の春3月5日に東芝とビクター、テイチクのボサ戦争勃発。
山上路夫&鈴木邦彦、山上路夫&村井邦彦でボサや同傾向のソフトサウンド
で流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝、そこへ橋本淳&筒美京平
のヒットメイカーコンビによって流行の最先端を走ろうとするビクター、
そしてモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが3月5日に一斉にボサチューンを
リリースした。

東芝移籍第1弾シングル。寺内タケシの元を離れ
荻野達也とバニーズとなって初のアルバムで1971年10月5日に
リリースした「北風」から先行シングルカット。
アルバムの帯に「実力派ロック・コーラス・グループの躍動!!」
と記載されているように、もはや時代はビートサウンドから
メロディー重視のソフトサウンドへと移行しており
所謂ソフトロックが流行の最先端であった事が伺える。

寺内タケシとブルージーンズ(第1次)を脱退した「エレキの神様」
寺内タケシによって1966年に結成され、同年12月にキングレコードから
「テリーのテーマ」でデビュー。1967年にシングル「レッツ・ゴー・シェイク」
を発表。さらにアルバム「レッツゴー運命」で第9回日本レコード大賞
編曲賞を受賞した。1967年から1968年にかけて「悪魔のベビー」
「太陽の花」を発表した。
しかしその後、寺内と他のメンバーの間で音楽性の行き違いによって
意見が対立し、寺内も「一人前になった」と実力を評価したこともあり、
バニーズを「独立」させ、寺内自身は「ブルージーンズを再興」する形で
離脱した。バニーズはこれを機に「荻野達也とバニーズ」を名乗り、
レコード会社も東芝(リバティレコード)に移籍した。
その後も、シングル、アルバムを出しながら活動を続たが、
1971年に解散している。後年、メンバーだった大石吾朗、黒澤博、鈴木義之
が寺内タケシとブルージーンズのライブに参加する形で、
バニーズとしての活動を再開した形となっている。

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。



山上路夫


村井邦彦


渋谷 毅
 
城千景 - 真夜中のピエロ
7inch single : Victor SV-2008
1970年3月5日リリース。

作詞 : 橋本淳
作編曲 : 筒美京平
演奏 : ビクター・オーケストラ

1970年の春3月5日に東芝とビクター、テイチクのボサ戦争勃発。
山上路夫&鈴木邦彦、山上路夫&村井邦彦でボサや同傾向のソフトサウンド
で流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝、そこへ橋本淳&筒美京平
のヒットメイカーコンビによって流行の最先端を走ろうとするビクター、
そしてモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが3月5日に一斉にボサチューンを
リリースした。

恐らく筒美京平先生から指導があったのだろう、宝塚女優の城千景は
弘田三枝子を模倣したようなパンチの効いた歌いまわしをしている。

宝塚女優の城千景 (じょう ちかげ) の3rdシングル。
本名は篠原智恵子、ニックネームはちえこちゃん。
東京都出身、白百合学園卒業。
宝塚歌劇団54期生 (1966年に宝塚音楽学校に入学し、1968年に卒業。
同年、宝塚歌劇団に入団し、『マイ・アイドル』で初舞台を踏んだ59人を指す)
この期には筑前琵琶演奏家の上原まり (元花組トップ娘役)、
そして歌劇団振付家の尚すみれ、新城まゆみ、
女優の順みつき (元花組トップスター)、奈緒ひろき (元星組娘役)、
矢代鴻 (元専科女役)らが入団。


筒美京平
 
増田多実 - 八つの想い出 (L'amour De Marronnier)
7inch single : Union US-650-J
1970年3月5日リリース。

作詞作曲 : 野村ゆたか
編曲 : 三保敬太郎

1970年の春3月5日に東芝とビクター、テイチクのボサ戦争勃発。
山上路夫&鈴木邦彦、山上路夫&村井邦彦でボサや同傾向のソフトサウンド
で流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝、そこへ橋本淳&筒美京平
のヒットメイカーコンビによって流行の最先端を走ろうとするビクター、
そしてモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが3月5日に一斉にボサチューンを
リリースした。

1970年に Union からシングル2枚リリースしてる女性。
ピンク・ピクルスの茶木みやこを彷彿させるような
落ち着いた歌声だが、どこかたどたどしくも聴こえる。
作詞作曲の野村ゆたかは吉幾三さんのアレンジャーの
野村豊さんじゃあないと思うが、正体不明。

三保 敬太郎 (みほ けいたろう : 1934年10月17日 - 1986年5月16日)
東京都出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、
レーシングドライバー、俳優、映画監督。妻はボーカリストの宮崎正子。
鮎川義介の懐刀で満州重工業開発理事や日本コロムビア社長などを
歴任した三保幹太郎の息子。高校時代から、ピアニストの守安祥太郎に
師事し、在学中の1950年に「クール・ノーツ」でプロデビュー。
慶應義塾大学卒業後は、トミー・パーマー・オーケストラなどで
ピアニストとして活動。1959年4月、前田憲男、山屋清とモダンジャズ3人の会
を結成。同年『モグラの唄』で芸術祭奨励賞受賞。
1961年、日本ジャズ界の作・編曲分野に大きく貢献し、2度目の
芸術祭奨励賞を受賞。1965年、日本テレビのテレビドラマ『ザ・レーサー』
(演出 早川恒夫、脚本 倉本聰、主演:鈴木やすし、長谷川明男、和田浩治、
斎藤チヤ子) に俳優として出演。1968年、寺尾聰らとともに
グループ・サウンズ『ザ・ホワイト・キックス』を結成。
シングル1枚(「アリゲーター・ブーガルー/愛のことば」:東芝)のみで解散。
一世を風靡したテレビ番組『11PM』のタイトル曲の作曲者でもあり、
死後の2000年に発売された「11PMのテーマ」が、オリコンシングル
チャート初登場92位となる。同チャートでの自身初のチャートイン記録となった。
福沢諭吉の曽孫でレーシングドライバーの福澤幸雄とは、福澤が慶應義塾
幼稚舎在学中からの仲であり、1969年には福澤の死を悼み、追悼盤を
発表している。また自身もレーシングドライバーであり、マカオグランプリに
1965年(ロータス・エラン)と1966年(マツダ)に参戦。
1967年、第6回シンガポールGPツーリング&サルーンカーレースでは、
クラス1(850cc以下)にて第3位に入賞した。
1986年、酒に酔って階段から転落し、その際の怪我が原因となり
5月16日に脳内出血により死去した。51歳没。


三保敬太郎
 
Astrud Gilberto - ストリート・サンバ (Street Samba)
7inch single : Verve Records DV-1031
1970年5月リリース。

LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

作詞 : 中村小太郎、渡辺貞夫、泉田エミイ
作曲 : 渡辺貞夫
編曲 : 山木幸三郎
泉田エミイのカヴァー。

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
オリジナルの泉田エミイの持つ透明感あるロリータヴォイスには
劣るものの、アストラッドのこのカヴァーヴァージョンも
少女の躍動感を見事に表現している。
シングルの裏ジャケットは所謂 Rev-Neg cover (Reverse-Negative cover :
サイケアンダーグラウンド市場のスラングでネガ写真の反転ジャケの意味)
にされており、日本ではサイケデリックムーヴメントの真っ只中での
リリースであった事が伺える。

アストラッド・ジルベルト / Astrud Gilberto
(アストルーヂ・ジウベルト : 1940年3月29日 - 2023年6月5日)
ブラジル出身の、ボサノヴァ、ジャズ、ポピュラー音楽の歌手。
1940年3月29日、アストラッドは、ブラジル・バイーア州サルヴァドールで
アストラッド・エヴァンジェリーナ・ワイナート(Astrud Evangelina
Weinert) としてブラジル人の母とドイツ人の父親の間に生まれ、
リオ・デ・ジャネイロで育った。
1959年にジョアン・ジルベルトと結婚し、1963年にアメリカ合衆国に移住。
同年3月、アストラッドはアルバム『ゲッツ/ジルベルト』に参加し、
ジョアン・ジルベルト、スタン・ゲッツ、アントニオ・カルロス・ジョビン
と共にレコーディングを行った(発売は翌1964年)。そのときまで彼女は
プロの歌手として歌ったことはなかったが、彼女の歌声にプロデューサーの
クリード・テイラーが目をつけ、彼女が英語で歌う「イパネマの娘」が
作られ、世界的にヒットした。「イパネマの娘」の大成功後、ソロ・デビュー
を果たし、ブラジルのボサノヴァとアメリカのジャズ・スタンダードの
架け橋的な存在となる。1970年代には自身で作曲をし、レコーディングを
行った。ジョアンとアストラッドは1960年代の半ばに離婚した。
彼女はボサノヴァの代表的な歌手という、海外における一定の評価もある反面、
英語で歌ったために、ブラジル国内ではあまり実績を残していない。
そのため、同国内における評価はあまり高くない。サンバ歌手で有名な
ベッチ・カルヴァーリョなどもその点を指摘したコメントを残している。
動物虐待や動物実験には批判的な姿勢を持っており、動物の権利を主張して
自らも反対運動に参画している。2023年6月5日、アメリカ合衆国
ペンシルベニア州フィラデルフィアの自宅にて死去、83歳没。

山木幸三郎 (やまき こうざぶろう : 1931年4月18日 - 2018年12月26日)
日本のミュージシャン・作曲家・編曲家。
宮間利之とニューハードのギタリスト。東京都出身。
1950年、17歳の頃よりプロ活動を始め、1951年に高見弘らと
ジャズコンボ「グレーシー5」を結成。1953年に宮間利之率いる
ジャイブ・エーセスに入団(1958年にジャイブ・エーセスから
宮間利之とニューハードへと改称)。
以来、ギタリスト兼作編曲家として長年にわたり活躍。


山木幸三郎
Astrud Gilberto - 愛した愛が好き (I Love Old Love)
LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

作詞 : 室生 恵
作曲 : 藤 あきら
編曲 : 山木幸三郎

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
彼女が滑舌の良い発声を好むドイツ系だという事もあるのだろう、
日本語における感情のウェイトの乗せ方がとても上手であり
躊躇いがちに歌うところは特に素晴しい。
作詞は、いしだ・あゆみ「ソー・ロング・ベイブ」を書いた室生 恵。
作曲した藤 あきらは不明。

Astrud Gilberto - 生命のかぎり (You, I And Love)
7inch single : Verve Records DV-1031
1970年5月リリース。

LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

作詞 : 西川ひとみ
作曲編曲 : 山木幸三郎

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
聴いていて溶けてしまいそうなほど美しいボサである。
仄かに感じる彼女のブレスは耳元で囁いてるようでもあり
エクスタシーを感じてしまう。
作詞家の西川ひとみは、エディ・稲垣の「熱い別れ」、
クレストフォー・シンガーズの「街角」、
ダニー飯田とパラダイスキングの「ロマンチカ・ラ・神戸」、
ディノの「好きよ好き好き」、ロス・インディオスの「ブエノス・ノーチェ東京」
等の作詞を手がけている。

Astrud Gilberto - 白い波 (White Waves)
7inch single : Verve Records DV-1032
1970年5月リリース。

LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

作詞 : 水木英二
作曲 : 渡辺貞夫
編曲 : 山木幸三郎
ユキとヒデのカヴァー。

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
夏の午後に美しい詩を聴きながら白昼夢で微睡む、そんな
流麗でリリカルなピアノに乗せて軽やかにアストラッドの
歌声が舞っている。

Astrud Gilberto - 愛と悲しみ (Love And Grief)
LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

作詞 : 西川ひとみ
作曲編曲 : 山木幸三郎

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
オリジナルのムーディーボサ、人生のドラマを垣間見るような
慈悲深い歌である。
作詞家の西川ひとみは、エディ・稲垣の「熱い別れ」、
クレストフォー・シンガーズの「街角」、
ダニー飯田とパラダイスキングの「ロマンチカ・ラ・神戸」、
ディノの「好きよ好き好き」、ロス・インディオスの「ブエノス・ノーチェ東京」
等の作詞を手がけている。

Astrud Gilberto - 恋のスノー・ドルフィン (Cupid's Song)
LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

作詞 : 小室 等, 泉田エミイ
作曲 : 渡辺貞夫
編曲 : 山木幸三郎
泉田エミイのカヴァー。

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
オリジナルより若干テンポを落としてるのか、パーカッションと
ピアノの心地よさが引き立っている。素晴しいアレンジである。

Astrud Gilberto - 男と女 (A Man & A Woman)
LP : Gilberto Golden Japanese Album
Verve Records MV 2004
1970年3月10日リリース。

訳詩 : 高英男
作詞 : Pierre Barouh
作曲 : Francis Lai
編曲 : 山木幸三郎
Pierre Barouh のカヴァー。

"ボサ・ノヴァの女王"アストラッド・ジルベルトが日本のために
録音した特別企画盤アルバムから。録音は1969年に東京で行われた。
まさかボサ・ノヴァの女王が高英男さんヴァージョンの詩で
歌ってくれるとは、シャンソンファンならずとも歌謡曲ファンも号泣だ。

 
長谷川きよし - 透明なひとときを
7inch single : Philips FS-1110
1970年3月25日リリース。

LP : Portrait Of Kiyoshi Hasegawa No.2
Philips FS-8101
1970年6月25日リリース。

作詩作曲 : 長谷川きよし
編曲 : 村井邦彦
Bass : 原田政長
Drums : ジミー竹内
Trombone : 鈴木弘
Vocals, Guitar : 長谷川きよし

長谷川きよし (はせがわきよし : 1949年7月13日生れ)
日本のシンガーソングライター、ギタリスト。
本名は長谷川 清志。東京都出身。東京教育大学附属盲学校
(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校) 卒業。
緑内障のため2歳半で失明し、全盲となる。
高校三年生のときシャンソン・コンクールに4位入賞。
1969年、「別れのサンバ」でデビュー。発売直後はあまり反響の
なかった曲ではあったが、深夜放送で流れるようになると、
フォーク世代の若者から支持され、大ヒットとなった。
デビュー当時からサンバやボサノヴァといったブラジル音楽を
取り入れた作風を得意としている事も特徴である。
超絶的なギター演奏と、濃密かつ透明度の高い声による
バラードで人気を博す。盲目である事やギタリストである事
などの共通点から日本のホセ・フェリシアーノと評された。

村井邦彦 (むらい くにひこ : 1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。

暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科
に進学し、在学中は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」
に所属した。大学3年時に、東京都港区赤坂でレコード店「ドレミ商会」を
開店した。1966年に大学を卒業し、グループ・サウンズ全盛期の1967年に
ヴイッキー・レアンドロスへ『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家となり、
1968年にテンプターズへヒット曲『エメラルドの伝説』を提供し、
ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」、赤い鳥に「翼をください」、
トワ・エ・モワに「虹と雪のバラード」を提供した。

1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの
日本国内における版権を獲得し、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立する。
1969年に自ら唄い発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、
当時、「(特にラジオで放送すると)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報
と紛らわしい」とされ、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を
受けているが、該当部分を除けば放送可能である。
1970年に川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と
共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立する。
1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツを設立し、
1977年に川添象郎とともにアルファレコードを設立した。

自身がプロデューサーとなり、従来ポップス曲を提供する裏方として
作家活動を主体としていた荒井由実をシンガーソングライターとして
デビューさせた。ティン・パン・アレーを見い出して、アーティストの
レコーディングの際にスタジオミュージシャンとして起用した。
1970年代末から1980年代前半にかけて、イエロー・マジック・オーケストラ
のアルバムを発売した。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点を
アメリカに移した。

作曲は東海林修に学んだところが多いと語る。映画音楽が好きで
ミシェル・ルグランに私淑する。『座頭市御用旅』など勝プロ作品の
音楽監督などを経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督を務めた。
市川崑監督『火の鳥』で映画プロデューサーを初めて手掛け、ルグランに
主題曲の作曲を依頼した。音楽監督は深町純が務めた。
発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は
代表取締役会長を務める。


村井邦彦
 

川原正美
川原正美とエキゾティック・サウンズ - Manha De Carnaval
LP : 恍惚 / エクスタシー
Columbia YS-10077-J
1970年3月25日リリース。
Also reissue album released in Feb 1975 as
The Union Exotic Sounds - Taboo - 禁断の美学 (Columbia KZ-7503)

Leader, Percussion : 川原正美
Bass : 寺川正興
Drums : 石川晶
Flute, Saxophone : 市原宏祐
Saxophone : Jake H. Concepcion
Trumpet : 羽鳥幸次
Vibraphone : 山下三夫

恐らく喘ぎ声は池玲子「恍惚の世界」でスキャットを担当した
ウィルビーズ ではなかろうか。
この手の音楽は体でビンビン感じてほしいざんす。
そのまんま行動に出たらオゲレツざんすよ、シェーッ!

日本を代表するラテン・ビッグバンドである有馬徹とノーチェクバーナ
の一員だったパーカッションプレイヤー川原正美のリーダーアルバム。
彼は1967年に The Modern Playing Mate (Union Records UPS-5152-J)
に参加し、同年に下記初のリーダーアルバムをリリースした。
川原正美とロス・ルンペロス - Latin Go Go (Takt TS 5007)
1970年3月25日にリリースされた本件このコンセプトアルバムは、
濃厚なラテン・サウンドに女性の喘ぎ声が絡む
和製エキゾチカ作品で、ジャズパーカッション奏者で
音楽監督を務めた川原正美は池玲子の「恍惚の世界」を
録音したことでも知られている。
長谷川きよしの名作ボサシングル「透明なひとときを」と
同じ日にリリースされ、方やクールなボサチューン、
そして本件はモロにベッドタイムミュージックの
悶々としたエロラテン。この両曲のコントラストを考えると
3月夜にクールネスを求める若者をターゲットにした Philips と
まだまだ3月夜はネットリと濃厚な時間をラテンでとエロ親父達を
ターゲットにしたコロムビアの違いが伺える。
こりゃコロムビアだけにラテンつってね (笑)

川原正美とエキゾティック・サウンズ - Mit-Day Lagoon
LP : 恍惚 / エクスタシー
Columbia YS-10077-J
1970年3月25日リリース。
Also reissue album released in Feb 1975 as
The Union Exotic Sounds - Taboo - 禁断の美学 (Columbia KZ-7503)

Leader, Percussion : 川原正美
Bass : 寺川正興
Drums : 石川晶
Flute, Saxophone : 市原宏祐
Saxophone : Jake H. Concepcion
Trumpet : 羽鳥幸次
Vibraphone : 山下三夫

恐らく喘ぎ声は池玲子「恍惚の世界」でスキャットを担当した
ウィルビーズ ではなかろうか。
この手の音楽は体でビンビン感じてほしいざんす。
そのまんま行動に出たらオゲレツざんすよ、シェーッ!


寺川正興
川原正美とエキゾティック・サウンズ - Nightingale
LP : 恍惚 / エクスタシー
Columbia YS-10077-J
1970年3月25日リリース。
Also reissue album released in Feb 1975 as
The Union Exotic Sounds - Taboo - 禁断の美学 (Columbia KZ-7503)

Leader, Percussion : 川原正美
Bass : 寺川正興
Drums : 石川晶
Flute, Saxophone : 市原宏祐
Saxophone : Jake H. Concepcion
Trumpet : 羽鳥幸次
Vibraphone : 山下三夫

恐らく喘ぎ声は池玲子「恍惚の世界」でスキャットを担当した
ウィルビーズ ではなかろうか。
この手の音楽は体でビンビン感じてほしいざんす。
そのまんま行動に出たらオゲレツざんすよ、シェーッ!


石川 晶
川原正美とエキゾティック・サウンズ - Emiliano Zapato
LP : 恍惚 / エクスタシー
Columbia YS-10077-J
1970年3月25日リリース。
Also reissue album released in Feb 1975 as
The Union Exotic Sounds - Taboo - 禁断の美学 (Columbia KZ-7503)

Leader, Percussion : 川原正美
Bass : 寺川正興
Drums : 石川晶
Flute, Saxophone : 市原宏祐
Saxophone : Jake H. Concepcion
Trumpet : 羽鳥幸次
Vibraphone : 山下三夫

恐らく喘ぎ声は池玲子「恍惚の世界」でスキャットを担当した
ウィルビーズ ではなかろうか。
この手の音楽は体でビンビン感じてほしいざんす。
そのまんま行動に出たらオゲレツざんすよ、シェーッ!


市原宏祐
 

寺尾 聡
寺尾聡 - 風もない午後のサンバ
LP : 二人の風船 恋人と一緒に聴いて下さい
Union UPS 5235-J
1970年4月1日リリース。

作詞 : 水島哲
作曲編曲 : 三保敬太郎

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に本件名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

寺尾 聰 (てらお あきら : 1947年5月18日生れ)
日本の俳優・ミュージシャン。
父は俳優の宇野重吉。妻は『西部警察』で共演した元モデルの星野真弓。
1979年秋の資生堂CM『微笑の法則』などに出演したが、
結婚を機に引退した。前妻は范文雀。『2丁目3番地』で共演し、
1973年に結婚するも、翌年離婚した。
劇団民藝の創設者である宇野の長男として生まれたが、この境遇に反発し
音楽に傾倒。1965年に奥島吉雄、林廉吉らが結成した
カレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースを担当した。
1966年に「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー、この曲と
2枚目の「この手のひらに愛を」が大ヒットするが、すぐにグループを脱退した。
1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスという
グループ・サウンズに参加、シングルを1枚出して解散。
同年には、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューを
果たす。石原軍団入りするきっかけは、当初宇野の主宰する劇団民藝に
一研修生として入団を希望したが、宇野本人から「たとえ研修生扱いでも
マスコミは親の七光りとして見るだろう」という理由で、
宇野と懇意だった石原を紹介されたという。

1967年3月、寺尾は父と同じ俳優の道へ進むためにサベージを脱退。
だが、完全に音楽から足を洗ったわけではなかった。
ジャズ・ギタリストの小西徹に師事し、ジャズを学び始めたことから、
ジャズ・ピアニストで作・編曲家としても著名な三保敬太郎(1934−1985)
と親交を持ち、寺尾(ベース)と三保(ピアノ)に、サベージ時代の仲間
林廉吉(ギター)、志村康夫(フルート)、河手政次(ドラム)、
そして紅一点のヴォーカリスト森野多恵子(のちの大空はるみ、TAN TAN)
の6人で『ザ・ホワイト・キックス』(WhiteとKickで白蹴る→シラける、
という意味)を結成。1968年5月に東芝のエキスプレス・レーベルから
「アリゲーター・ブーガルー」でデビューした。GSブームの真っ只中、
ジャズ・コンボ・スタイルのホワイト・キックスは異色グループとして
注目されるが、シングル1枚のみを残して解散。
しかし、寺尾と三保のコラボレーションはその後も続き、
1969年10月?1970年7月にかけてレコーディングされた寺尾の
初ソロ・アルバム『二人の風船/恋人と一緒に聴いて下さい』で結実する。
洗練された手法で定評のある三保敬太郎が、ほぼ全編にわたりアレンジ
を手がけたこのアルバムは、スタンダード・ジャズ/ボサノヴァ感覚
あふれる極上のイージーリスニング作品に仕上がっており、
現在でもソフト・ロック/ラウンジ系ファンたちから高い評価を
受けている名盤である。

三保 敬太郎 (みほ けいたろう : 1934年10月17日 - 1986年5月16日)
東京都出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、
レーシングドライバー、俳優、映画監督。妻はボーカリストの宮崎正子。
鮎川義介の懐刀で満州重工業開発理事や日本コロムビア社長などを
歴任した三保幹太郎の息子。高校時代から、ピアニストの守安祥太郎に
師事し、在学中の1950年に「クール・ノーツ」でプロデビュー。
慶應義塾大学卒業後は、トミー・パーマー・オーケストラなどで
ピアニストとして活動。1959年4月、前田憲男、山屋清とモダンジャズ3人の会
を結成。同年『モグラの唄』で芸術祭奨励賞受賞。
1961年、日本ジャズ界の作・編曲分野に大きく貢献し、2度目の
芸術祭奨励賞を受賞。1965年、日本テレビのテレビドラマ『ザ・レーサー』
(演出 早川恒夫、脚本 倉本聰、主演:鈴木やすし、長谷川明男、和田浩治、
斎藤チヤ子) に俳優として出演。1968年、寺尾聰らとともに
グループ・サウンズ『ザ・ホワイト・キックス』を結成。
シングル1枚(「アリゲーター・ブーガルー/愛のことば」:東芝)のみで解散。
一世を風靡したテレビ番組『11PM』のタイトル曲の作曲者でもあり、
死後の2000年に発売された「11PMのテーマ」が、オリコンシングル
チャート初登場92位となる。同チャートでの自身初のチャートイン記録となった。
福沢諭吉の曽孫でレーシングドライバーの福澤幸雄とは、福澤が慶應義塾
幼稚舎在学中からの仲であり、1969年には福澤の死を悼み、追悼盤を
発表している。また自身もレーシングドライバーであり、マカオグランプリに
1965年(ロータス・エラン)と1966年(マツダ)に参戦。
1967年、第6回シンガポールGPツーリング&サルーンカーレースでは、
クラス1(850cc以下)にて第3位に入賞した。
1986年、酒に酔って階段から転落し、その際の怪我が原因となり
5月16日に脳内出血により死去した。51歳没。


三保敬太郎
寺尾聡 - あなたのことが
LP : 二人の風船 恋人と一緒に聴いて下さい
Union UPS 5235-J
1970年4月1日リリース。

作詞作曲 : 寺尾聡
編曲 : 三保敬太郎

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に本件名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

寺尾聡 - The More I See You
LP : 二人の風船 恋人と一緒に聴いて下さい
Union UPS 5235-J
1970年4月1日リリース。

作詞 : Mack Gordon
作曲 : Harry Warren
Chris Montez のカヴァーヴァージョンをモチーフにしている。

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に本件名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

この曲は1945年の映画『Diamond Horseshoe』でDick Haymesに
よって発表され、オープニング クレジットおよび付随音楽の下で
序曲としても演奏された。インストゥルメンタル・ヴァージョンは、
20世紀フォックスの1946年のフィルム・ノワール『The Dark Corner』
の会話シーンで、ラジオの BGM として全編演奏された。
Chris Montez クリス・モンテスは、この曲の最も商業的に成功し、
よく知られたカヴァーヴァージョンを1966 年にリリースした。
彼のヴァージョンはビルボード・ホット 100 で全米16位を記録し、
イージー・リスニング・チャートでは4週間2位を記録した。

寺尾聡 - If You Leave Me
LP : 二人の風船 恋人と一緒に聴いて下さい
Union UPS 5235-J
1970年4月1日リリース。

作詞作曲 : 寺尾聡
編曲 : 三保敬太郎

Rick Henn 風にダイナミックなオーケストレーションを用いた
かっこいいジャズヴォーカルチューン。
決して音域が広くはないが、寺尾聡のクルーナーとしての
力量も伺える力作だ。

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に本件名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

寺尾聡 - いたずらな娘
LP : 二人の風船 恋人と一緒に聴いて下さい
Union UPS 5235-J
1970年4月1日リリース。

作詞 : 水島哲
作曲 : 寺尾聡
編曲 : 三保敬太郎

美川憲一はこの手のサウンドをリズム歌謡と称するが
西洋ではこれをジャズファンクと言う (笑)
1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に本件名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

 
山内賢 - 君のサンバ
7inch single : 東芝 TP-2261
1970年4月5日リリース。

作詩 : 和田純子
作曲 : 仁織勝博 (西郷輝彦)
編曲 : 小谷充

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に寺尾 聰の名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

仁織勝博というのが西郷輝彦のペンネームだ。
1966年の西郷輝彦主演の日活映画「この虹の消える時にも」で
共演した山内賢に、西郷輝彦がペンネームの仁織勝博で
楽曲提供したのが本件である。
素晴しいSSS だ (Triple S : Sunny Side Stroller 麗らかな
通りを散歩するような軽いダンスチューン)

山内 賢 (やまうち けん : 本名は藤瀬 賢晁 ふじせ のりあき
1943年12月9日 - 2011年9月24日)
日本の俳優・歌手・司会者。東京都出身。
玉川学園では、浜田光夫と同級生だった。俳優の久保明は実兄。
1955年『姿なき目撃者』で「久保賢」の芸名で子役としてデビューする。
その後、東宝作品に出演。1962年4月1日、日活と契約し芸名を
山内賢に改める。多くの日活映画に出演する。
第一作目は『雲に向かって起つ』(石原裕次郎主演)。1960年代にブーム
となる日活純愛・青春路線を支えた。和泉雅子との共演作が多く、
なかでも鈴木清順が監督した『悪太郎』『悪太郎伝 悪い星の下でも』は
代表作である。また舟木一夫とも多く共演した。
歌唱及びギターを得意としており、1962年には日活の俳優仲間であった
和田浩治、杉山俊夫、杉山元、木下雅弘とともにヤング・アンド・フレッシュ
というバンドを結成し、レコードをリリース、また彼らをフィーチャーした
映画も数本製作された。1966年には和泉雅子とのデュエット曲『二人の銀座』、
『東京ナイト』が大ヒットし、同名の映画も製作された。
日本映画の衰退とともに活動をテレビに移し歌手そしてドラマや司会などで
活躍する。1979年から6年にわたり放送された『あばれはっちゃくシリーズ』
の先生役や1983年、1997年、1998年放送のNHK『趣味講座』(釣り、登山)
などで人気を博す。2011年9月24日午前4時53分、肺炎のため
東京都新宿区の病院で死去。67歳だった。

小谷 充 (こたに みつる、1934年6月18日 - 1990年11月24日)
日本の作曲家・編曲家。ジャズピアニスト。兵庫県出身。
1990年11月24日、寝たばこが原因で自宅が火事となり、
逃げ遅れたことが原因で死去した。

主なお仕事
青江三奈 - 夜がわたしを誘惑するように (編曲)
石川さゆり - かくれんぼ (編曲)
石原裕次郎 - ブランデーグラス (作曲・編曲)
市川染五郎 - 野バラ咲く路 (編曲)
ヴィレッジ・シンガーズ - ノーチェ・デ・渋谷 (編曲)
北原ミレイ - 海猫 (編曲)
小林幸子 - やがて二十才になる女 (編曲)
ザ・ピーナッツ - 野いちご摘んで (編曲)
子門真人 - 空手バカ一代 (編曲)
じゅん&ネネ - 愛するってこわい (編曲)
じゅん&ネネ - みずいろの世界 (編曲)
新谷のり子 - さよならの総括 (編曲)
園まり - 最後の一時間 (編曲)
高田恭子 - みんな夢の中 (編曲)
ちあきなおみ - 四つのお願い (編曲)
ちあきなおみ - 無駄な抵抗やめましょう (編曲)
千賀かほる - 1972年のある日 (作曲・編曲)
トワ・エ・モワ - 或る日突然 (1969年版 : 編曲)
トワ・エ・モワ - 美しい誤解 (編曲)
トワ・エ・モワ - 虹と雪のバラード (1971年版 : 編曲)
トワ・エ・モワ - 空よ (編曲)
トワ・エ・モワ - トワ・エ・モワの子守唄 (編曲)
中山千夏 - 三日月に乗って (編曲)
藤圭子 - 新宿の女 (編曲)
藤圭子 - 女の真心 (作曲)
藤圭子 - 古都 (編曲)
布施明 - 愛は不死鳥 (編曲)
布施明 - バラ色の月 (編曲)
美空ひばり - なつかしい場面/恋夜曲 (編曲)
美空ひばり - 串本ぞめき (編曲)
美輪明宏 - 白呪 (アルバム全曲編曲)
八代亜紀 - 恋街ブルース (編曲)
八代亜紀 - なみだ恋 (編曲)
ヤング・フレッシュ - コンドールマン (編曲)
由美かおる - 二人の朝を (編曲)
和田アキ子 - 愛に証拠はいらない (作曲・編曲)


西郷輝彦


小谷 充
 
若林ケン - 悲しみの中で
7inch single : 東芝 TP-2264
1970年4月5日リリース。

作詞作曲 : もんて・みのわ
編曲 : 渋谷毅

1ヶ月前の3月5日に引き続き東芝とテイチクのボサ戦争第2ラウンド勃発。
先ずモダンジャズの貴公子、三保敬太郎によって独自の路線に
活路を見出そうとしていたテイチクが4月5日に寺尾 聰の名作アルバムを
リリースした。それに対して流行のイニシアティヴを取ろうとする東芝は
ボサや同傾向のソフトサウンドのシングル2枚をリリースした。

本件「チェリー・ブランディー / バラのおもかげ」でも知られる
若林ケンのレアシングル。作詞作曲をした「もんて・みのわ」
とは研ナオコの元夫の箕輪勇二の事。元々彼は研ナオコの
バックバンドのマネージャーをしており、コンサート企画
会社の社長だった人物だ。
本件はB面曲だが女性のパヤパヤスキャット&コーラスを配した
ラウンジ系ボサで当時としては両A面といった洒落た
カップリングだった事が解る。
恐らくこのベースは寺川正興氏と思われる。

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。


渋谷 毅
 
司 美智子 - 甘い夢のサンバ
7inch single : Minoruphone KA-326
1970年4月21日リリース。

作詞 : 阿見宏介
作曲 : 寺田ひさし
編曲 : ありた あきら (小杉仁三)
演奏 : ミノルフォンオーケストラ
名作「あなたっていいわ」の司 美智子によるセカンドシングル。

1970年だというのに1960年代初頭の常磐ハワイアンセンターや
リゾートホテルのステージで歌うようなノリのダンスチューンである。

司 美智子 (つかさ みちこ : 本名は西森章江。1946年8月26日生れ)
は日本の女優。高知県高知市出身。別名義 : 司みち子、司美知子。
映画出演
野良猫ロック 暴走集団'71、ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴、
性教育ママ、濡れた賽ノ目 他
テレビ出演
キイハンター、人造人間キカイダー、プレイガール、
アイフル大作戦、バーディー大作戦 他

作詞は文化放送の放送作家でもある阿見宏介。
作曲をした寺田ひさしは知念昌美「星たちが眠るまで」
で昭和歌謡マニアには知られる作家。

編曲は小杉仁三。昔持っていた小杉さんの写真が紛失したので
小杉さんの画像掲載は諦めた。小杉さんは日本クラウンと専属契約
していた時期があり、その時期にクラウン以外で活動した際には
ありたあきらの別名を使用していた。
例えば、ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」(編曲 ありた・あきら」)
小杉さんが編曲を手掛けた歌謡曲は多数ある。小林旭
「恋の山手線」(作曲:浜口庫之助)から美川憲一
「柳ヶ瀬ブルース」(作曲:宇佐英雄)他挙げれば切がない。
小杉仁三は昭和歌謡を代表するアレンジャーである。

 

沢田駿吾
沢田駿吾とモダン・サウンズ - 別れのサンバ
LP : 白い蝶のサンバ - ギター・イン・ブルーナイト
Royal Records RS-1106
1970年4月リリース。

作曲 : 長谷川きよし
編曲 : 竹田喬
長谷川きよしの名曲カヴァー。

矢吹健「どこが悪いの」、村田英雄「花の宴」等の
作曲でも知られる竹田喬がアレンジを担当してる。

本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』(1944年アメリカ映画)を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送(現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。

 
小林啓子 - 恋人中心世界
7inch single : King Records BS-1216
1970年5月1日リリース。

作詞 : 小平なほみ
作曲編曲 : 中村八大
演奏 : オールスターズ・レオン
NHK・TV「ステージ101」オリジナル・ソング

小林啓子 (こばやし けいこ : 1946年12月10日生れ)
日本のフォーク歌手、ラジオパーソナリティ、女優。
東京都生まれ。作家の小林信彦は従兄弟。
聖心女子学院初等科・中等科・高等科を卒業後、聖心女子学院
英語専攻科在学中からプロ活動を開始。
1968年、TBSラジオ・MBSラジオ『雪印 チーズパーティーNo.1』の
テーマソング『ふとした時に』(作詞・井上頌一/作曲・吉村英世)を、
石岡宏とデュエットで発表。
1969年、キングレコードより『こわれた愛のかけら』でデビュー。
同年結成されたNHKのヤング101に第一期生として加入して、
NHK総合テレビジョンの音楽番組『ステージ101』に1970年1月10日の
第一回放送から出演した。番組のオリジナルソングの一つである
本件『恋人中心世界』を歌い人気を博した。在籍中の1970年5月に
発表したソロ・シングル『比叡おろし』(作詞作曲 : 松岡正剛)がヒット。
70年代の森山良子と並んで「日本のジョーン・バエズ」と称された。
ヤング101には1971年4月まで在籍した。1977年に発表された3作目の
ソロ・アルバム『ちょっと気分をかえて』は、高橋幸宏の兄で、
当時小林の夫だった高橋信之のプロデュースによって制作された。


中村八大
 
千賀かほる - 恋は翼にのって
LP : 青春のシルエット=千賀かほるの世界
Columbia ALS-5118
1970年5月1日リリース。

作詞:吉岡治
作曲編曲:河村利夫

千賀かほる (ちが かおる : 1948年9月25日生れ)
日本の女性歌手。鹿児島県大島郡知名町出身。本名:村上千賀子。
神戸市の高校を中退後、日本歌劇学校を経てOSK日本歌劇団に入団した。
1969年に『真夜中のギター』でデビュー。同曲で第11回日本レコード大賞
新人賞を受賞した。この曲はフォークソングの名曲として親しまれ、
後世まで多くのアーティストにカバーされている。

作詩は童謡「おもちゃのチャチャチャ」や石川さゆり「天城越え」他
日本を代表する作詞家の吉岡 治さん。
吉岡 治 (よしおか おさむ : 1934年2月19日 - 2010年5月17日)
日本の作詞家、放送作家である。
日本作詩家協会副会長。旧筆名は「吉岡オサム」。
1934年2月19日、山口県出身。東京都で育った。文化学院卒業。
1953年に詩人のサトウハチローの門を叩き、弟子となる。
作詞家としてのデビューは『鳩笛ならそか』(1956年)。
1965年の松竹映画『悦楽』(大島渚監督)の主題歌
『悦楽のブルース』(歌:島和彦) の作詞を手掛けて以降、本格的に
作詞家として活動し歌謡曲、童謡、アニメソングなど幅広いジャンル
の作品を世に送り出した。
美空ひばり『真赤な太陽』, 千賀かほる『真夜中のギター』
石川セリ『八月の濡れた砂』, 五木ひろし『細雪』, 大川栄策『さざんかの宿』
キング・トーンズ(山下達郎)『LET'S DANCE BABY』etc etc
放送作家としても活動し、1968年から1971年にかけて東京放送にて
放送されていたラジオ番組『夜のバラード』の番組構成と詩を担当していた。
2009年のインタビューにで、長らくファンの間で謎であった『キャプテン翼』
のオープニング曲「燃えてヒーロー」内の「チャンバ」の意味が明かされ、
バーチャンの言い換えであったことが判明した。2010年5月17日、入院先の
東京都内の病院で急性心筋梗塞のため逝去。76歳没。

作曲編曲はコロムビアの作曲家でサックス奏者の河村利夫さん。
河村利夫氏は、作曲家、編曲家、ソプラノ琴、ベース琴、ミニ琴などの楽器の
考案者としても知られ、邦楽の分野では合奏の新しい分野を開拓、
筝曲界の新時代のサウンドを作り出す編曲で知られている。
武蔵野音楽大学卒業後、ベニーグッドマンに魅せられジャズ界に入る。
内山平五郎モダンジャズクインテッド、平野快次ドンシックステッド、
福原彰グループ、 その他数多くのバンドを経て、
河村利夫イーストダンディーズを結成。
後にコロムビアレコード専属作曲家契約。
代表作『真夜中のギター』レコード大賞新人賞受賞。第2回古賀賞受賞。
「哀愁のアルトサックス」ではコロムビアゴールデンディスク賞受賞。
「琴世界をまわる」(全20巻)アルバムの受賞。
その他数多くの受賞を受けている。


吉岡 治


河村利夫
 
中山千夏 - 冷たい雨
LP : おりじなる・ふぁーすと・あるばむ
Victor SJX-34
1970年5月5日リリース。

作詩 : 中山千夏
作曲 : 都倉俊一
演奏 : ビクター・オーケストラ

Cathy Young (Mainstream Records) 辺りのアシッド臭を
漂わすヒッピーサイケムーヴメント真っ只中のナイスアルバムから。
中山千夏の嬌声的なスキャットに合せるギターのオブリガード
が素晴しい、それをみてフルートとピアノは気持ちよく
空間に彩を与えている。極上のアンサンブルをバックに
中山千夏が解き放たれていくフリーボサの傑作。

中山 千夏 (なかやま ちなつ : 1948年7月13日生れ)
日本の作家。元歌手、元女優、元司会者、元テレビタレント、
元声優、元参議院議員。50年に及ぶ芸歴と多彩な活動歴を持つ。
1948年、熊本県山鹿市生まれ。のち宮崎に、更に4歳時には
大阪府布施市(現・東大阪市)に転居。
芸術座での『がめつい奴』(三益愛子主演)に出演、一躍「名子役」として
脚光を浴び、芸能活動の便宜上、小学5年生の時に東京へ転居し、
中央区立泰明小学校に転入する。
以来、女優として舞台、テレビ、ラジオで活躍。
芸能活動の傍ら、中央区立明石中学校(現・中央区立銀座中学校)を経て
麹町学園女子高等学校卒業。ロシア文学専攻を志望し、上智大学を
受験したが失敗。成人すると共に活動分野が広がり、テレビタレント、
歌手として、また数多くのエッセイや小説の作家として活動した。
デビュー前の小学1年生の時、大阪で開かれた毎日音楽コンクールに
出場し、「ないしょばなし」を歌って優勝。子役時代にはドラマの
主題歌や副主題歌を歌い、中にはSPレコードで発売されたものもある。

高校時代、NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』では多くの
挿入歌を歌い、その作曲家・宇野誠一郎の指導を得て、
ヴォイストレーニングを受けた。当時は主としてNHKで子ども番組の
主題歌や『みんなのうた』などで活躍し、舞台でもいくつかの
東宝ミュージカルに出演した。
歌謡曲の歌手としての本格的なデビューは、1969年9月にビクターレコード
より発表されたポップス「あなたの心に」(自作詞 / 作曲:都倉俊一)。
当年度レコード大賞新人賞にノミネートされるほどのヒット(オリコン2位)
となった。さらに1970年代、時の女性解放運動(ウーマン・リブ)に
参画した後、反差別・反戦などの市民運動に取り組み、1980年には
参議院選挙に出馬して当選、1期を務めた。その後は著作活動のかたわら、
人権や反戦の市民運動を続けている。
作曲家の佐藤允彦 と1971年結婚、1978年離婚。

都倉俊一は東京都出身。4歳のころからバイオリンを習う。
父都倉栄二が外交官であったことから、7歳の時にドイツに渡り
音楽の基礎を学び、12歳になり帰国。学習院中等科の同級生には
元総務大臣の鳩山邦夫、元日本郵政社長の長門正貢、元朝日新聞編集委員
の萩谷順などがいる。中学校卒業後に再びドイツに渡り、ビートキャッツ
というバンドで活動。18歳で再び帰国し、学習院大学法学部に入学。
学習院大学時代に都倉俊一はフォーク・グループのザ・パニック・メンに
ヴォーカリストとして参加、アリス結成前の谷村新司が在籍していた
ロック・キャンディーズとのカップリングシングルのB面「想い出の小径」
(Express EP-1120) が1968年9月1日リリースされた。
このグループが発展的にジュリアンズとなった。当初トリオとしてデビューし
1969年5月に「雨あがり / 古い椅子と少女」(Denon K447) をリリース。
その後デュオとなりジュリアンズは2枚目で終了する。
大学2年生の時から作曲家としての活動を始め、中山千夏の「あなたの心に」
で注目を集めた。さらに、都倉らしくない曲調の「天使になれない」
(歌:和田アキ子)も好評だった。1971年学習院大学法学部卒業。
1974年に大信田礼子と結婚し、1978年に離婚した。
1970年代前半は山口百恵、フィンガー5などを手掛けた。
また1972年からはキャニオンに移籍してきた山本リンダの「どうにもとまらない」
から「狙いうち」「きりきり舞い」「闇夜にドッキリ」他を阿久悠とのコンビで、
ファンクやボサのヒット曲を書いた。このコンビはその後もピンク・レディーの
「ペッパー警部」「UFO」「カルメン77」で大ヒットを連発した。
この頃、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の審査員も務めた。


都倉俊一
中山千夏 - 私のうたはどこにあるの
LP : おりじなる・ふぁーすと・あるばむ
Victor SJX-34
1970年5月5日リリース。

作詩 : 中山千夏
作曲 : 前田憲男
演奏 : ビクター・オーケストラ

明け透けに演歌調の発声する際にどこかスノッブに歌う日吉ミミ
とは異なり中山千夏は特徴のある歌い方をする女性で、
どちらかと言えば諭すような歌い方をしている。
転調するアレンジによって不思議な感じのするフリーボサであるが
低音では、ふっとドロロンえん魔くんのエンディングテーマの
名曲「妖怪にご用心」を想起させる。

前田憲男 (まえだ のりお 本名:前田 暢人 まえだ のぶひと、
1934年12月6日 - 2018年11月25日)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。
大阪府出身。小学校教師であった父より、幼少より読譜を学ぶ。
大阪府立桜塚高等学校卒業と同時に、プロのジャズピアニストとして
活動を開始。ピアノ・指揮法とも独学で習得する。1955年に上京、
名門ジャズバンド「西條孝之介とウエスト・ライナーズ」などのメンバー
として活躍。以後、様々なバンドに参加する一方、数多くのテレビ番組の
テーマ音楽を手がける。特に、テレビ番組で共演し、共に昭和9年生まれの
芸能人の会「昭和九年会」のメンバーでもある大橋巨泉とは親交も深く、
巨泉が出演した番組のテーマ音楽の大半を手がけている。
1970年にはTBS系列以外のフジテレビ・日本テレビ・NETテレビ→全国朝日放送
東京12チャンネル→テレビ東京が「打倒!レコード大賞」を合言葉に創設した、
日本歌謡大賞のテーマソング『日本歌謡大賞讃歌』の編曲や
テレビ朝日『題名のない音楽会』やフジテレビ『シオノギ・ミュージックフェア』
などあらゆる音楽番組でも活躍していた。

またビッグバンド向けのアレンジも数多く手がけるほか、
東京フィルハーモニー交響楽団のポップス部門音楽監督として、
編曲・指揮を担当していた。晩年は荒川康男(B)・猪俣猛(Drs) との
ピアノトリオ「WE3」の他、「前田憲男とウインド・ブレーカーズ」
を中心に活動していた。以前はこれに加えて佐藤允彦・羽田健太郎との
ユニット「トリプルピアノ」でも活動していたが、メンバーの1人である
羽田の死去により、2008年4月4日のサントリーホールでの公演を最後に
活動を終了している。また、独学で取得した独自の音楽理論を持つ事で
知られており、2003年からは大阪芸術大学音楽学科教授を務めていた。
1981年に東京音楽祭「最優秀編曲賞」、1983年に第20回日本レコード大賞
「最優秀編曲賞」・ジャズ界の最高位に価する「南里文雄賞」、
2008年にレコード大賞「功労賞」、2015年に第6回岩谷時子賞・特別賞を受賞。
晩年までライブを中心に音楽活動を続けてきたが、2018年11月25日、
肺炎のため東京都内の病院で死去。83歳没。
訃報は2日後の同月27日に所属事務所により発表された。


前田憲男
 

ルート No.1
ルートNo.1 - 大学ノート・サンバ
Seven Seas HIT-776
1970年6月1日リリース。

作詩 : 山上路夫
作曲編曲 : すぎやまこういち

パーカッション : 里見洋
リードギター : 古賀修
ベース : 中野健二
オルガン : 西信行 (Pre タローとアルファベッツ)
ドラムス : 中村伸次
ヴォーカル : 東信行
ヴォーカル : マーガレット・スー(元スクール・メイツ)
ヴォーカル : 中村知子 (元スクール・メイツ)
ヴォーカル : 吉沼満子 (元スクール・メイツ)

ルートNo.1は里見洋率いる福岡のGSである
レオ・ビーツの後身だ。ナンセンスボサの隠れた名作。
本来ならば彼らはその後のメンタイロックに影響を与える
立ち居地にいた。

1966年11月に結成され福岡を中心に活躍していた
里見洋とロス・カンターノスというラテンバンドがスタート。
そして福岡に来ていた布施明(話題づくりのためで、実際には
渡辺プロの社員)によってグループは発掘された。
1967年7月に彼らは上京して渡辺プロと契約した。
因みにロス・カンターノス以前にリーダーの里見洋はクニ河内らと
サンライズというラテンバンドを結成していた。
当時福岡を本拠地にする西鉄ライオンズにちなみレオ・ビーツと
グループは改名され、先ずはジャズ喫茶での仕事を始めた。
ラテン系ブラスロックを得意とした彼らは同年11月にキング傘下の
セブンシーズからボサノヴァビートを強調した「霧の中のマリアンヌ」
でデビューリリースに至った。彼らの演奏能力は高い評価を
得ており、渡辺プロやキングレコードの歌手 木の実ナナや奥村チヨ
らのレコードやステージ上でのバッキングバンドとして重宝されていた。
彼らはライヴなどではハードなサイケチューンを演奏したり、
ポールリビアとレイダースをカヴァーする流行に敏感なGSだった。
しかしGS期に彼らが単独でリリースした二枚のシングルは
売れることもなく低迷した。そこで彼らはムードコーラスグループ
として再出発をし、1968年8月にムードコーラス曲「別れの歌」を
リリースし、同じ路線の「君に幸せを」をリリースして惨敗に終わる。

しかし演奏能力の高いこのバンドは諦めず次のタイミングを図っていた。
渡辺プロの所属であったマーガレット・スーらスクール・メイツ
出身の女性ヴォーカル3人がレオ・ビーツにそのまま加わり
本件グループである「ルートNo.1」と彼らは再改名された。
マーガレット・スー はジュ・テーム (モア・ノン・プリュ) /
マイ・ラヴ・マイ・ソング (Union UP-44) でも有名。
1970年に彼らはまたもやセブンシーズから「恋の手ほどき」で再デビュー
するに至った。このルートNo.1はセルメン系のラテンサウンドに
躍動感溢れるハーモニーコーラスをブレンドする高いクオリティー
を持つものの、当時のリスナーからの反応は乏しく、またもや
新しい路線でも僅かシングル3枚のリリースで終わった。
我が国のジャズシーンでは民謡とボサのクロスオーヴァー化が進んで
いたのだが、残念な事に歌謡曲シーンではアヴァンギャルド (古い価値観
を壊して新しい価値観を創る行為) はアングラ (アンダーグラウンドソング)
と呼ばれ、深夜に勉強している学生達に一息いれさせる意味合いの
需要として扱われていた。それはまるでゴミ分別するようにコミックソングや
ナンセンスソングを嘲笑するような市場の傾向があったためだ。

本件シングル「大学ノート・サンバ」は名曲「ワン・ノート・サンバ」
のパロディーであり、「ホイサッサ」という音頭系ナンセンス・シラブル
を掛け声にして優雅でブルジョア的な学生生活を唄っている。
有名大学の名で綴った駄洒落を有効的に用いて「校内粉砕」という
キーワードコーラスをリフレインさせる事で学生運動を暗喩している。
この奇妙な詩は作詩家山上路夫が喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができず、青山学院大学第二経済学部を中退した自身の
大学生活への憧れと怨念が絡まっているように見受けられる。
またこの優雅なイージーリスニングボサを作曲した、すぎやまこういちも
当初は音楽大学への進学を望んでいたが、音楽大学に入学できるほど
にピアノが弾けなかったことから断念し、東京大学理科II類に進学。
しかし学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。3年次、自由な
時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ傍系進学。
しかし、教官が(授業にあまり出ない)すぎやまの顔を覚えていた
ために、テストを受けさせてもらえないなどしたため1年留年して
卒業したという経歴から大学に対する強いコンプレックスを持っていた。

その後ルートNo.1はメンバーを再編しヴォーカルに元ヤンガーズの窪孝や
オルガンに元アダムスの土谷守らが参加し、演歌濃度の高い
歌謡曲とプログレロックの融合という、とてつもなくハイブリッドな
ムードコーラスグループ「里見洋と一番星」へと奇策的に昇華した。
アートロックからプログレロックへと発展していく1970年代初頭の
次代の息吹を大きく吸い込んだムードコーラスグループだが
彼らはフォルムを気にせず奇妙なモンスターフィギュアを工作してしまった。
熱いロック魂を持つ人とムーディーな歌謡曲の心を持つ人が
何か釈然としない矛盾を感じながらも同じ終着点に向かうために
列車に乗車したが、よく見ると運転士がちょび髭を生やした
ラテン系のオッサンだったというところか。
特に「ミツコの運命」ではムード歌謡とアートロック(プログレロック前夜の
へヴィーサイケ期の総称) の融合を試みたが、その際にヴァニラ・ファッジの
1967年の有名カヴァー“You Keep Me Hanging On” (オリジナルは
モータウンの The Supremes の1966年ヒット曲) をモチーフにしていた。
このアイディアは1973年に桂智恵がリリースした「南国土佐を後にして」
(Union Records US-799) でも同様のアートロック/プログレロック的な
アプローチがされておりアレンジャーを務めたセッションドラマーの原田良一
(亀井信夫とスペイスメン、ザ・スウィング・ウエスト)のセンスが発揮されていた。

しかしこの奇妙な融合物「里見洋と一番星」は歌謡曲側からも
ロック側からも評価されることもなく、ついには1973年に渡辺プロ
との契約もうち切られてしまい、彼らはばつ悪く融解することになった。
しかし、倒れても倒れても起き上がる不屈の戦士であった彼らは
レオビーツ以来の一番星の残党が中心になってコーラス系
歌謡ポップグループの「ブルージャッカス」を結成した。
彼らは1974年にフィリップスから「理想の女」で再々デビューした
のだが、そのシングルだけで終わってしまった。
結局のところ、彼らはメンタイロックの種子は蒔いたが
メンタイロックに影響を与えることなく消え去った。うふふふ


山上路夫


すぎやまこういち
 
ヒロとミコ - 雲の悲しみ
7inch single : Express EP-1234
1970年6月5日リリース。因みに赤盤。

作詞 : 阿南裕憲
作曲 : 松原弘明
編曲 : 青木望
松原弘明、美津子から成る兄妹のデュエット

福岡RKBラジオの深夜番組「ユー・アンド・ミー」から出てきた
二人組で当時の福岡県地区では頻繁にオンエアーされていた。
兄妹ならではの二人の掛け合いが素晴しい。
舟をこぐお兄ちゃん、寂しそうなお下げの妹、
昭和のワンシーンとはいえ、悲哀感がえげつないジャケだ。

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
アレンジャーの青木望さんは当時 ジ・オフ・コース他収録の
アルバム「海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu」で幾つかの
ボサチューンを手掛けているが、東芝 Express はそのアルバムと
ソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」(デビューアルバムにて
渡辺貞夫と共演) を連番でリリースしている。さらに由紀さおり
のアルバム「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで本件シングルと同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。そこに奇しくも Victor が同じ日にシングル
沢たまき “東京プレイマップ”(Victor SV-2033) で独自のセクシー路線
にて大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

青木 望 (あおき のぞみ : 1931年3月2日生れ)
日本の作曲家、編曲家。JASRAC会員。
クリスチャンの家系であり、幼少期から母親のオルガン演奏に合わせ
賛美歌を毎週歌っていた。これが好きだったといい、
後に青木は「私の音楽の原点だった」と回想している。
少年時代から音楽に親しみ、ヴァイオリンが得意であったという。
旧制東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)在学中、
知人に誘われてバンド活動を始める。そこでステージ演奏の魅力に
摂りつかれたことで学校を中退し、15歳でプロのミュージシャン
としてデビュー。様々なバンドを転々としながら活動する。
当初は、自分が所属するバンドのために作曲・編曲をはじめたが、
外部からも頼まれるようになり、放送やレコーディングが多くなると
演奏家より稼げるようになったため、作・編曲家に転向した。

以降は、編曲家としての活動を主にしている。
歌謡曲、フォークソング系の作品を多く手掛け、アニメーションや
特撮ドラマの主題歌などの編曲作品も多い。声楽家・鮫島有美子の
アルバム『ともしび〜鮫島有美子 ロシア民謡をうたう』では
演奏指揮も行うなど、幅広い音楽活動を行っている。
1978年、テレビアニメ『銀河鉄道999』の音楽を担当。以前より
ディズニー・アニメのような音楽を書いてみたいと常々思っていた
ことから、知人のディレクターの依頼を快諾したという。
また、1979年の映画版で原作者の松本零士の意向も受けながら
完成したスコアは松本を唸らせるものとなり、オーケストラによる
実際の劇伴は話題を呼んだ。その後、松本零士原作のアニメーション作品
には複数回参加しており、2023年、死去した松本を偲ぶ「銀河鉄道999
シネマ・コンサート −特別追悼公演−」開催の際は
インタビューに応じている。


青木 望
 

ジ・オフ・コース
ジ・オフ・コース - Graduate
LP : 海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu
Express EP-7750
1970年6月5日リリース。

作詞作曲 : Joan Wigness
編曲 : 青木 望

本件は1970年6月5日にリリースされたアルバムだが1969年にヤマハ主催で
行われた第一回合歓作曲コンクールの入賞曲を集めたアルバムで
デビュー前のオフコースの音源という事になる。
主にヤマハの講師達の作曲による楽曲を、東芝所属のアーティストが
レコーディングしたもの。イヴェントは1969年 (昭和44年) 11月23日に
ヤマハミュージックキャンプホールで行われている。
このコンクールは、ニューミュージック全盛期にアマチュアミュージシャンの
登竜門として知られたヤマハ主催の音楽コンテスト「ポプコン」のルーツと
されている。アルバムには黛ジュン、由紀さおり、シューベルツ、
トワ・エ・モア、ザ・ワイルド・ワンズ、牧麗子、ジ・オフ・コースの曲を収録。
全体的に万博系ソフトロックと和ボサで構成されたニューミュージック前夜的
な内容。ブックレットには選考に携わった中村八大先生らの座談会も
掲載している。

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
当時、東芝 Express はこのアルバムとソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」
(デビューアルバムにて渡辺貞夫と共演) を連番でリリースして、
さらに由紀さおり「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。そこに奇しくも Victor が同じ日にシングル
沢たまき “東京プレイマップ”(Victor SV-2033) で独自のセクシー路線
にて大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

オフコースの始まりは神奈川県横浜市の聖光学院高校に
在学中だった小田和正、鈴木康博、地主道夫らが結成した
フォーク・グループから端を発する。1970年にシングル『群衆の中で』
でデビュー、当初はアコースティック・ギターを中心とした
フォークソング的な曲を歌っていたが、1975年の『眠れぬ夜』が
スマッシュヒットとなった以外は長年ヒット曲に恵まれなかった。

1964年12月、高校2年のクリスマス・パーティーでバンドの
生演奏をしたことがきっかけとなり、翌年の文化祭(聖光祭)の
ステージに立つことを目指しメンバーの中から小田和正、鈴木康博、
地主道夫、須藤尊史の4人でグループが結成される。
1965年11月3日、聖光学院文化祭に出演。高校卒業後、鈴木康博は
東京工業大学制御工学科に、小田和正は東北大学建築科にそれぞれ進学、
離ればなれになる。しかし、休日に鈴木が車に機材を積み込んで
仙台まで行って練習は続けられた。
1966年8月17日、「第1回 FOLK SONGの…」開催(横浜勤労会館)
1967年3月27日、「第2回 FOLK SONGの…」開催(横浜勤労会館)
コンサートの後、彼らは名前のなかったこのグループに“THE OFF? COURSE”
と命名する。彼らの音楽活動を支援し、コンサートのためにいつも中心と
なって動く聖光野球部OB会“オフコース(OF COURSE)”に敬意を表して
その名をもらった。大学時代、自主コンサートを毎年開催するほか、
聖光学院時代の友達から頼まれて演奏したり、他の大学の文化祭に
呼ばれるなど、3人は活発な演奏活動を続けた。1968年4月4日「第3回
FOLK SONGの…」開催(神奈川県立青少年センター)。
大学三年になった彼らにとって、解散コンサートのつもりで開催された。
1969年7月20日、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)
仙台地区予選(仙台西花苑)にフォーク部門から出場、第2位。
8月31日、宮城県予選(宮城県民会館)に出場、第1位を獲得。
9月、東北地区本選大会(仙台電力ホール)に出場、第1位を
獲得し全国大会へ進出する。
11月2日、LMC全国グランプリ大会(新宿厚生年金会館大ホール)第2位
1969年11月2日、新宿厚生年金会館大ホールで開催された
第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国グランプリ大会で
フォーク部門第2位を取ったオフコースはこのコンテストですべてを
総括するつもりだったが、もう少し続けていこうという気持ちに駆られ、
今後の身の振り方を決めかねていたが、この入賞がきっかけで1位の
赤い鳥など他の入賞グループと一緒に各地でのコンサートに招かれ、
多少忙しくなってきた。それでもまだ、プロとしてやっていく気持ちは
まだ固まっていなかった。そんな中、ヤマハからレコードを出さないか
という話が舞い込んできた。ヤマハは当時、ミュージシャンのプロモートを
手掛けはじめ、赤い鳥とともにオフコースもその対象に挙げられた。
レコード会社も東芝音楽工業と決まり、レコーディングは行われた。

発端は、レコードを出さないかという話に「やってもいいな」と軽い気持ちで
応じたこと。デビューシングルはAB面とも、ヤマハの作曲コンクールに
応募してきたアマチュアの作品に作詞家の山上路夫が詞をつけたものだった。
レコーディング・メンバーは小田和正、鈴木康博、地主道夫の3人で、
このメンバーでの唯一のシングル。演奏はすべてスタジオ・ミュージシャンが
担当し、オフコースは歌うだけだった。レコーディングが終わると、ヤマハは
オフコースを売り出そうとしたが、小田と地主は卒業論文の追い込みの
最中だった。そのため、テレビやラジオの“新曲コーナー”や“今週の歌”
といったヤマハから仕事のオファーが来るたび、3人は断った。
結局、自分達のコンサートを活動の中心に据えていたメンバーと意見が合わず、
ヤマハとの関係はこのシングルで終了する。シングルがリリースされた
当時を小田は、「レコードを売りたいとかって意識は、まったくなかった。
それからしばらく、オフコースのレコードはチャートに出なかったし。
だから、レコードが売れてる人達と同じフィールドにいるという意識も
なかったんだ。チャート誌とか、それは自分達と関係ない世界って気がしてた。
初めてチャートで30位とか入ってきた時、あ、同じ世界にいたのかって、
そんなことだったから」と振り返っている。
1970年4月5日、シングル『群衆の中で ? 陽はまた昇る』でデビュー。
10月、小田・鈴木の聖光学院の後輩だった小林和行がベーシストとして加入。
11月14日、赤い鳥と「8人の音楽会」開催(大手町サンケイホール)。


Joan Wigness


青木 望

牧 麗子


フォー・セインツ
牧麗子とフォー・セインツ - 小ちゃな恋
LP : 海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu
Express EP-7750
1970年6月5日リリース。

作詞作曲 : 太田 忍
編曲 : 青木 望

後にアクション系パンチラ女優として有名になる牧麗子の
初々しいボサチューン。なんか凄い甘え声で歌っているのが笑える。
間奏部で聴こえるフレンチホルンがよいアクセントになっている。
本件は1970年6月5日にリリースされたアルバムだが1969年にヤマハ主催で
行われた第一回合歓作曲コンクールの入賞曲を集めたアルバムで
主にヤマハの講師達の作曲による楽曲を、東芝所属のアーティストが
レコーディングしたもの。イヴェントは1969年 (昭和44年) 11月23日に
ヤマハミュージックキャンプホールで行われている。
このコンクールは、ニューミュージック全盛期にアマチュアミュージシャンの
登竜門として知られたヤマハ主催の音楽コンテスト「ポプコン」のルーツと
されている。アルバムには黛ジュン、由紀さおり、シューベルツ、
トワ・エ・モア、ザ・ワイルド・ワンズ、牧麗子、ジ・オフ・コースの曲を収録。
全体的に万博系ソフトロックと和ボサで構成されたニューミュージック前夜的
な内容。ブックレットには選考に携わった中村八大先生らの座談会も
掲載している。

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
当時、東芝 Express はこのアルバムとソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」
(デビューアルバムにて渡辺貞夫と共演) を連番でリリースして、
さらに由紀さおり「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。そこに奇しくも Victor が同じ日にシングル
沢たまき “東京プレイマップ”(Victor SV-2033) で独自のセクシー路線
にて大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

牧れい (まき れい : 1949年6月21日生れ)
日本の女優・歌手。東宝に所属していた。
芸名は本名の「宮内恵子」→「牧麗子」→「牧れい子」→「牧れい」
と変更している。長野県飯田市松尾町出身。
2歳の時に愛知県名古屋市へ移住した。高校在学中にオール東宝ニュータレント
6期生として東宝俳優養成所に入所。東宝専属となり、本名の宮内恵子でデビュー。
それ以降東宝の青春女優として活躍するが、退社後の1969年に牧麗子と
改名してスキャット・ポップスと銘打ったデビュー曲「夕焼けは知らない」で
歌手デビューし、大人のムードを持った本格的な歌手として活動を再開。
「エキゾチックな顔立ちと古典的な雰囲気を兼ね備え、ボーイッシュで
さわやかな色気」と評される。

この後も歌手活動と並行し、1980年代後半まで様々なテレビドラマに出演した。
『スーパーロボット レッドバロン』『ザ・スーパーガール』などでは、
激しいアクションを演じている。本人も自信過剰になりアクションが
エスカレートしていったが、この時期に捻挫を繰り返したことから足首が固まる
後遺症が出ており、後年もジムに通って柔軟性を維持しなければ
ならないという。『ウルトラセブン』では当初、第9話「アンドロイド0指令」
に登場するアンドロイド少女ゼロワンには牧がキャスティングされていた。
また別の時期に円谷プロの撮影現場を見学した際に『トリプルファイター』
でのレギュラーを依頼されたが実現せず、その後『緊急指令10-4・10-10』
での出演へ至った。『スーパーロボット レッドバロン』では、ミニスカートを
翻しながら戦うパンチラアクションで人気を博した。擬斗を担当した高倉英二は、
牧について男性スタッフ・キャストの前でも平気で着替えるなど「少年」の
イメージであり、殺陣をつける際も遠慮はなかったと述べている。
『スーパーロボット レッドバロン』で共演した潮哲也は、演技をめぐり論争に
なることがよくあったと述べている。微笑ましく思い返すこともあるが、
当時は互いに真剣さゆえのぶつかり合いであったのではないかと述懐している。
東宝の新人女優だった頃、よく藤圭子と間違えられたということで、
その藤も週刊平凡の企画で牧に会った時に顔を見合わせて「そっくり」を
連発していた。牧いわく「前川清さんにもそう言われた」とのこと。

フォー・セインツは、1968年から1972年に活動し、2006年に活動を
再開した日本のフォークグループ。1960年代後半に一世を風靡した
カレッジ・フォーク・グループの草分け的存在。
成蹊高等学校の文化祭で結成された。ラジオ番組『フォーク・ビレッジ』で
実力派として注目され、1968年のデビュー・シングル「小さな日記」が
大ヒット。しかし直後に加賀一兄が脱退。
後に、レコード会社の移籍に伴い、フォー・クローバースと改名するが、
1973年に解散。のちにメンバーであった荒木生徳は、荒木しげるとして
俳優に転身した。


太田 忍

トワ・エ・モワ
トワ・エ・モワ - しあわせが通りすぎないうちに
LP : 海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu
Express EP-7750
1970年6月5日リリース。

作詞 : 安井かずみ
作曲 : 山添 貢
編曲 : 山屋 清

本件は1970年6月5日にリリースされたアルバムだが1969年にヤマハ主催で
行われた第一回合歓作曲コンクールの入賞曲を集めたアルバムで
主にヤマハの講師達の作曲による楽曲を、東芝所属のアーティストが
レコーディングしたもの。イヴェントは1969年 (昭和44年) 11月23日に
ヤマハミュージックキャンプホールで行われている。
このコンクールは、ニューミュージック全盛期にアマチュアミュージシャンの
登竜門として知られたヤマハ主催の音楽コンテスト「ポプコン」のルーツと
されている。アルバムには黛ジュン、由紀さおり、シューベルツ、
トワ・エ・モア、ザ・ワイルド・ワンズ、牧麗子、ジ・オフ・コースの曲を収録。
全体的に万博系ソフトロックと和ボサで構成されたニューミュージック前夜的
な内容。ブックレットには選考に携わった中村八大先生らの座談会も
掲載している。

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
当時、東芝 Express はこのアルバムとソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」
(デビューアルバムにて渡辺貞夫と共演) を連番でリリースして、
さらに由紀さおり「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。そこに奇しくも Victor が同じ日にシングル
沢たまき “東京プレイマップ”(Victor SV-2033) で独自のセクシー路線
にて大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

1968年末にスクールメイツのメンバーだった
山室 (現・白鳥) 英美子と、歌手志望だった芥川澄夫の
二人で結成された。
渡辺プロダクションより、「或る日突然」(東芝音楽工業)で
1969年5月10日にデビューしこれが大ヒットとなった。
以後、日本放送協会の『あなたのメロディー』から生まれた「空よ」、
1972年札幌オリンピック のテーマ曲である「虹と雪のバラード」、
「誰もいない海」「初恋の人に似ている」「地球は回るよ」「愛の泉」
など数多くのヒット曲を出し、1960年代後半から1970年代前半
にかけて流行した和製ラウンジ系ポップの先駆けとなった。

安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 - 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9〜10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。

山屋清 (やまや きよし) 1932年3月29日生まれ。山梨県甲府市出身。
1956年-1957年、原信夫とシャープス&フラッツにて
演奏・作曲・編曲をする。
1959年、三保敬太郎・前田憲男氏と「モダンジャズ三人の会」を結成、
第14回芸術祭奨励賞受賞。
1965年、第7回日本レコード大賞にて編曲賞受賞。
1966年、東京ユニオンオーケストラのバンドリーダーとなる。


山添 貢


安井かずみ


山屋 清
 
由紀さおり - 青いベッド Long Black Hair
LP : あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力
Express EP-7756
1970年6月5日リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲 : 鈴木邦彦
編曲 : 渋谷毅

1970年の春3月5日にリリースされたソニア・ローザの
日本でのデビューシングル (Express EP-1207) に使われた歌のカヴァー。
因みにソニア・ローザのほうは作曲者の鈴木邦彦がアレンジをしてる。

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
当時東芝 Express は ジ・オフ・コース他のボサチューン収録の
アルバム「海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu」(Express EP-7750)
とソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」(Express EP-7751 デビューアルバム
にて渡辺貞夫と共演) を連番でリリースしている。さらに本件、由紀さおり
のアルバム「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。そこに奇しくも Victor が同じ日にシングル
沢たまき “東京プレイマップ”(Victor SV-2033) で独自のセクシー路線
にて大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

由紀さおり (ゆき さおり : 1946年11月13日生れ)
本名・旧芸名:安田 章子 (やすだ あきこ)、
日本の歌手、タレント、女優、ナレーター。
田辺エージェンシー・安田音楽事務所所属。
ひばり児童合唱団出身。洗足学園第一高等学校を経て、
洗足学園短期大学英文科卒業。
群馬県桐生市に生まれたが、3歳で横浜市へ移る。
少女時代から姉の安田祥子と共に本名の「安田章子」名義で
童謡歌手として活躍。1965年にキングレコードから
本名名義で「ヒッチハイク娘」にて歌謡曲の歌手としてデビューするが、
ヒットに恵まれず停滞の時代に入る。
童謡歌手時代からの仕事であるCM曲やテレビ・ラジオ主題歌の
吹き込みや、「大人の世界を歌えるように」という修行の
意味合いもあったキャバレー・ナイトクラブへの出演を
行いながら雌伏の時を過ごす。

1969年、東芝音楽工業より「夜明けのスキャット」で
現在の芸名で再デビューし150万枚の大ヒットとなった。
1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる
大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。
国際的な知名度が高く、2011年に世界50ヵ国以上で
CD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付の
iTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールド
ミュージックで1位獲得するなど、世界的に高く評価されている
歌手である。シンガー・ソング・コメディアンを自称。
姉は声楽家の安田祥子で、二人で録音することや、
同じステージに立つこともある。

山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。

曲を手掛けたのは奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ダイナマイツ「トンネル天国」
等多数の昭和の名曲を書いた鈴木邦彦さん。
鈴木邦彦 (すずき くにひこ : 1938年3月1日生れ)
東京府出身の作曲家、編曲家。妻は元歌手の小野階子 (おの しなこ)。
慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。
学生時代は慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。
母が所有していたピアノを独学で習得し、学生時代からジャズ・ピアニスト
として活動を始め、のちに「ザ・ヒットパレード」のバックバンドにも参加。
中村八大の影響でプロの作曲・編曲家を目指す。西ドイツ・ドルトムントで
開催された1966年世界体操競技選手権に日本代表専属のピアニスト
として参加。床運動の規定曲を作曲する。
プロの作曲家としてデビューまもない1968年に『天使の誘惑』が、
第10回日本レコード大賞を受賞する。メーカーから依頼されたことにより、
ハンドベルの普及版となるミュージックベルの開発に取り組む。
1971年4月、株式会社ベルミュージック並びに日本ミュージックベル協会
を設立。株式会社エンジェルミュージック、株式会社ウエディングベル設立。

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。


山上路夫


鈴木邦彦


渋谷 毅
由紀さおり - 男と女 Un Homme Et Une Famme
LP : あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力
Express EP-7756
1970年6月5日リリース。

作曲 : Francis Lai
編曲 : 渋谷毅

甘い声のスキャットによるハルシオン効果が強い、気だるく
微睡んだカヴァーヴァージョン。盛り上がりを見せるエンディング
までは、もはやリフレイン効果で陶酔を誘ったミニマムサイケや
サイケデリックラウンジのゾーンである。

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
当時東芝 Express は ジ・オフ・コース他のボサチューン収録の
アルバム「海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu」(Express EP-7750)
とソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」(Express EP-7751 デビューアルバム
にて渡辺貞夫と共演) を連番でリリースしている。さらに本件、由紀さおり
のアルバム「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。そこに奇しくも Victor が同じ日にシングル
沢たまき “東京プレイマップ”(Victor SV-2033) で独自のセクシー路線
にて大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

 
沢たまき - 東京プレイマップ
7inch single : Victor SV-2033
1970年6月5日リリース。

作詞 : 伊藤アキラ
作編曲 : 小谷充
演奏 : ビクター・オーケストラ
プレイガール エンディングテーマ

作編曲はキューティーハニー、藤圭子、トワ・エ・モワ、
じゅん&ネネ、まんが日本昔ばなし他多くの楽曲を手掛けた
昭和歌謡を代表するアレンジャーの小谷充さん。
この特徴あるベースは寺川正興さんだと思われる。
フルートは宮沢昭さんだろうか?

1970年の梅雨時期6月5日の東芝とビクターの第2期ボサ戦争勃発。
当時東芝 Express は ジ・オフ・コース他のボサチューン収録の
アルバム「海と空と太陽の祭典 New Pops in Nemu」(Express EP-7750)
とソニア・ローザ「ボサ・ノバの新星」(Express EP-7751 デビューアルバム
にて渡辺貞夫と共演) を連番でリリースしている。さらに由紀さおり
のアルバム「あなたと夜と音楽と: 由紀さおりの魅力」(Express EP-7756)
までセットで同じ1970年6月5日にリリースさせており
ボサと同傾向のソフトサウンドのパッケージ化をして一斉に市場促進を
展開していた事が伺える。
そこに奇しくも Victor が同じ日に本件シングルで独自のセクシー路線で
大人をターゲットにしたボサノヴァチューンをリリースした。

沢たまき、日本の歌手、女優、政治家。歌手や女優などの芸能活動の後、
政界に転身し参議院議員を務めた。神奈川県川崎市出身。
ラジオ番組「大学勝ち抜き歌合戦」での優勝を機に、
山脇学園短期大学在学中の1956年にテイチクより歌手デビュー。
このジャズ・シンガー時代に、TBSのプロデューサーと
熱い討論をしたというエピソードがある。

1966年にビクターへ移籍。移籍第一弾『ベッドで煙草を吸わないで』
が大ヒットする。1969年から1974年まで東京12チャンネルで
放映された「プレイガール」への出演(沢村たまき=オネエ役)など、
女優としても活躍。異色なところでは、「独占!おとなの時間」(テレビ東京系)
など主に深夜番組の司会で活躍。また、「クイズダービー」では、
五月みどりの後を受けて2代目2枠レギュラー解答者を担当した。
正答率は3割5分7厘(平均3勝6敗〜4勝5敗ペース)と
決して悪くはなかったものの、歴代ワースト6位の17連敗を記録した。

小谷 充 (こたに みつる、1934年6月18日 - 1990年11月24日)
日本の作曲家・編曲家。ジャズピアニスト。兵庫県出身。
1990年11月24日、寝たばこが原因で自宅が火事となり、
逃げ遅れたことが原因で死去した。

主なお仕事
青江三奈 - 夜がわたしを誘惑するように (編曲)
石川さゆり - かくれんぼ (編曲)
石原裕次郎 - ブランデーグラス (作曲・編曲)
市川染五郎 - 野バラ咲く路 (編曲)
ヴィレッジ・シンガーズ - ノーチェ・デ・渋谷 (編曲)
北原ミレイ - 海猫 (編曲)
小林幸子 - やがて二十才になる女 (編曲)
ザ・ピーナッツ - 野いちご摘んで (編曲)
子門真人 - 空手バカ一代 (編曲)
じゅん&ネネ - 愛するってこわい (編曲)
じゅん&ネネ - みずいろの世界 (編曲)
新谷のり子 - さよならの総括 (編曲)
園まり - 最後の一時間 (編曲)
高田恭子 - みんな夢の中 (編曲)
ちあきなおみ - 四つのお願い (編曲)
ちあきなおみ - 無駄な抵抗やめましょう (編曲)
千賀かほる - 1972年のある日 (作曲・編曲)
トワ・エ・モワ - 或る日突然 (1969年版 : 編曲)
トワ・エ・モワ - 美しい誤解 (編曲)
トワ・エ・モワ - 虹と雪のバラード (1971年版 : 編曲)
トワ・エ・モワ - 空よ (編曲)
トワ・エ・モワ - トワ・エ・モワの子守唄 (編曲)
中山千夏 - 三日月に乗って (編曲)
藤圭子 - 新宿の女 (編曲)
藤圭子 - 女の真心 (作曲)
藤圭子 - 古都 (編曲)
布施明 - 愛は不死鳥 (編曲)
布施明 - バラ色の月 (編曲)
美空ひばり - なつかしい場面/恋夜曲 (編曲)
美空ひばり - 串本ぞめき (編曲)
美輪明宏 - 白呪 (アルバム全曲編曲)
八代亜紀 - 恋街ブルース (編曲)
八代亜紀 - なみだ恋 (編曲)
ヤング・フレッシュ - コンドールマン (編曲)
由美かおる - 二人の朝を (編曲)
和田アキ子 - 愛に証拠はいらない (作曲・編曲)


小谷 充
 
朱由美子 - 私の小さな恋
7inch single : Elec Records EB-1005
1970年リリース。
(よしだたくろう - イメージの詩 EB-1004 1970年5月20日以降のリリース)

作詞 : ゴトウシンキチ
作曲 ; 金谷昇
補作 : 高部伸夫
演奏 : 沢田駿吾とエレックオーケストラ

エレックレコードの最初のフォークシンガーとしてスカウトされ
レコードデビューした朱由美子 (あけ ゆみこ) は土居まさる「カレンダー」
でもコーラスを務めた初期の女性歌手。本件B面の「他にいい人できたのかしら」
は高橋文雄・マロンファイブ (Elec Records EB-1003 1970年4月)
のカヴァー曲。よしだたくろう - イメージの詩 (Elec Records EB-1004)
が1970年5月20日にリリースされたが、本件は朱由美子のセカンドシングル
で2色刷りの見開きジャケットに歌詞と楽譜掲載のサンプル盤しか
見つかっていない。彼女は浅沼勇監修のボーカル教室という33回転シングルで
「ベッドでたばこをすわないで」のカヴァーを残している。
作詞のゴトウシンキチ、作曲の金谷昇、この二人については不明。
補作の高部伸夫は朱由美子のデビューシングル「涙がほしい」
(Elec Records EB-1002) でも青山哲男と一緒に書いている人物で
丸山圭子の1977年アルバム "花紋様" に収録された「母のない子」
の作詩を担当している。
因みに朱由美子の娘さんはカントリー歌手の坂本愛江 (よしえ)、
ご主人はコロナCMソングを歌った東芝EMIのカントリーシンガー坂本孝昭。
坂本愛江は機動戦士ガンダムサンダーボルトの劇中歌シンガーに抜擢された。

演奏は土居まさる「カレンダー」同様に沢田駿吾。
沢田駿吾、本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』 (1944年アメリカ映画) を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送 (現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。


沢田駿吾
 

太田幸雄とハミングバード
太田幸雄とハミングバード - 洒落た関係 = Like Marries Like
LP : 夜を盗む男たち
Crown GW 6012
1970年6月リリース。

作詩 : 万里村ゆき子
作曲 : 太田幸雄
編曲、指揮 : 東海林修
Chorus : 太田幸雄とハミング・バード
演奏 : フローラルポップス ‘70
Voice, Bass : 有田京示
Voice, Drums : 藤本晃
Voice, Guitar : 伊藤弘章
Voice, Piano : 太田幸雄

和製トロピカーナとでも言うべきか、どこかコミカルな
感じさえする陽気なサンバチューンだ。
太田幸雄とハミングバードはピアニストの太田幸雄を中心に
1957年に結成された4人組ジャズバンドで、ダンスブームで
盛り上がっていた福岡市の繁華街・中洲で活躍した。

太田幸雄は1925年8月14日、日本統治時代の朝鮮釜山府で生れた。
1944年に釜山公立第一商業学校を卒業し、愛知県立工業専門学校
(現・名古屋工業大学) に入学するため愛知県名古屋市へ単身移住。
電気科に進学したが戦時中であり、軍需工場での勤労動員に励んだ。
終戦後、音楽への情熱冷めぬ太田幸雄は戦前からピアノの指導者として
有名だった井口基成に師事し、クラシックの基礎を学んだ。
1946年に九州配電株式会社 (現・九州電力) に就職し、釜山から
引き揚げていた両親と共に福岡県福岡市へと移り住んだ。
戦後再び大衆音楽として広がりを見せたビッグバンドによる
スウィングジャズだが、演奏の場の殆どが進駐軍クラブか
日本人向けの小さなダンスホールだった。当時娯楽の少なかった時代、
ビッグバンドジャズによるダンスパーティーは格好の社交場であり、
需要の高まりと共にピアノを弾くことができた太田幸雄は、演奏へ
駆り出されるようになる。占領統治の時代、各地の米軍キャンプや
焼け残った日本の接収施設に作られた進駐軍クラブで多くの日本人
ミュージシャン達が演奏していた。しかし基本的に進駐軍クラブでは
日本人の立ち入りが禁止されていた、所謂オフリミットである。
進駐軍クラブのダンスに必要不可欠なのは、バンド演奏やレコードなどの
音楽だった。中でも大きな需要だったジャズバンドは、1947年に開始された
演奏の格付け審査によって優劣を判定され、そのランクで出演料が
決められるという格式の高いものだった。

当時の福岡には約12組のジャズバンドが存在しミュージシャンの数は
150名を越えていた。大名町米空軍将校クラブで演奏していた
山田竜太郎バンドは特に高い格付けで人気を博していた。巨大な日本家屋を
改築したこの将校クラブにはダンスフロアやバーが作られており、
庭には大銀杏の傍の野外ステージもあった。戦前に満州でトランペット奏者
として名を馳せた山田竜太郎が自身のバンドに引き抜いたミュージシャンは、
引揚げ者や陸海軍軍楽隊の復員者が多かった。このバンドのピアニストには
満州生れで当時18歳の穐吉敏子 (あきよし としこ) が在籍しており、
その日本人離れしたピアノの腕前はミュージシャン達の間でも有名だった。
しかし1948年8月、穐吉敏子は更に腕を磨くために上京してしまった。
同じ時期に大名将校クラブの演奏も山田竜太郎バンドから深見俊次と
ホット・ショット・スウィング・バンドに引き継がれた。このバンドは
リーダーの深見俊次を始め、山田竜太郎バンドから移籍したメンバーを
中心に結成されており、ヴァイオリン4本のストリングスが特徴だった。
深見俊次は海軍軍楽隊出身のサックス奏者で、彼が穐吉敏子の抜けた
ピアニストの後釜としてスカウトした人物が太田幸雄だった。
1953年1月、大名将校クラブで火災が発生し、クラブは焼失してしまう。
その後、バンドは芦屋基地を経て1960年にキャバレー月世界の
専属楽団となる。また深見俊次が渡辺プロダクション九州支社長を
務めた頃は、ザ・ピーナッツや布施明、森進一ら渡辺プロ所属の
歌手が九州公演をする際の演奏を担当した。

作詞を担当した万里村ゆき子は以下の作品が有名。
ザ・カーナビーツ「恋をしようよジェニー」(作詞)
ザ・ワイルドワンズ「昨日に逢いたい」(作詞)
鹿内孝「情熱」(作詞)
酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」(作詞)
ジャッキー吉川とブルーコメッツ
「何処へ」(作詞・作曲)
「マリアの泉」(作詞)
「すみれ色の涙」(作詞) ※後に岩崎宏美がカバー
ジュディ・オング「ふたりの季節」(補作詞・作曲)
高田恭子「あじさいいろの日々」(作詞)
まがじん「愛の伝説」(作詞)
前野曜子・リッキー&960ポンド「告白・アイ・ラブ・ユー」(作詞)
松原智恵子「ブルー・レディー」(作詞)
森山良子「さよならの夏」(作詞)

編曲指揮を手掛けたのは村井邦彦のパートナーでもある東海林 修。
東海林 修 (しょうじ おさむ、1932年9月6日 - 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。

その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日した
モダン・ジャズ・カルテットとの共演などで活躍していたところ、
渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインと
して同プロダクションに参入することになった。
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどの
グループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワの
デビュー・アルバム『或る日突然』(1969年)などの作品への
編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。
1970年、大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」
(スクール・メイツ)の音楽を担当。欧米のヒット曲や童謡メドレー
の編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。
演奏は宮間利之とニュー・ハードが担当した。1972年4月に
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の音楽監督に就任し、
1973年9月まで務めた。


万里村ゆき子


東海林 修
太田幸雄とハミングバード -
メランコリーの好きなひとに = To Your Melancholy Smile
LP : 夜を盗む男たち
Crown GW 6012
1970年6月リリース。

作詩 : 万里村ゆき子
作曲 : 太田幸雄
編曲、指揮 : 東海林修
Chorus : 太田幸雄とハミング・バード
演奏 : フローラルポップス ‘70
Voice, Bass : 有田京示
Voice, Drums : 藤本晃
Voice, Guitar : 伊藤弘章
Voice, Piano : 太田幸雄

シックなボサバラードをユニゾンで歌うのだが
途中で何故かレターメンになりたがっている。
太田幸雄とハミングバードはピアニストの太田幸雄を中心に
1957年に結成された4人組ジャズバンドで、ダンスブームで
盛り上がっていた福岡市の繁華街・中洲で活躍した。

太田幸雄とハミングバーズ (太田幸雄とハミングバード) -
スティーヴマックィーンみたいな奴 = Steve McQueen The Man
7inch single : Panam PW-514

LP : 夜を盗む男たち
Crown GW 6012
1970年6月リリース。

作詩 : 万里村ゆき子
作曲 : 太田幸雄
編曲、指揮 : 東海林修
Chorus : 太田幸雄とハミング・バード
演奏 : フローラルポップス ‘70
Voice, Bass : 有田京示
Voice, Drums : 藤本晃
Voice, Guitar : 伊藤弘章
Voice, Piano : 太田幸雄

かっこいいベースラインを持つスキャットファンクだ。
太田幸雄とハミングバードはピアニストの太田幸雄を中心に
1957年に結成された4人組ジャズバンドで、ダンスブームで
盛り上がっていた福岡市の繁華街・中洲で活躍した。

太田幸雄とハミングバーズ (太田幸雄とハミングバード) -
恋の四月 恋の九月 = April Love September Love
7inch single : Panam PW-514

LP : 夜を盗む男たち
Crown GW 6012
1970年6月リリース。

作詩 : 万里村ゆき子
作曲 : 太田幸雄
編曲、指揮 : 東海林修
Chorus : 太田幸雄とハミング・バード
演奏 : フローラルポップス ‘70
Voice, Bass : 有田京示
Voice, Drums : 藤本晃
Voice, Guitar : 伊藤弘章
Voice, Piano : 太田幸雄

太田幸雄とハミングバードはピアニストの太田幸雄を中心に
1957年に結成された4人組ジャズバンドで、ダンスブームで
盛り上がっていた福岡市の繁華街・中洲で活躍した。

 

岡崎広志


伊集加代子
岡崎広志、伊集加代子 - ひかりのなかに
日産ローレル2000GX 非売品ソノシート
1970年6月リリース。

作詞 : 山上路夫
作曲 : 渋谷毅

完璧なバカラック サウンドを用いて配布された非売品ソノシート。
日産ローレル2000GXは、日産初のピラーレス2ドアハードトップボディ。
ハードトップシリーズの最上級車2000GX は
SUツインキャブを装備していたスポーツグレードの車だった。

11PMテーマソング “サバダバ サバダバー”の
作者でお馴染みの岡崎広志 (現:岡田愛詩) 、
奥さんはヴォーカリストの田井聖子。
これはヴォーカリスト、サックス・プレイヤーである
岡崎広志はこれ以前にフォー・シンガーズを結成していた。
結成当初は岡崎広志、大久保計利、西城慶子、団洋子の
4人から成る男女混声コーラス・グループ。
団洋子は元々ソノシート時代からシルヴィ・ヴァルタンの
日本語の声を担当していた声優でもあった。
その後、西城慶子の病気療養による一時活動休止により
女性1名が欠員となり、オーディションで選出された伊集加代子が
西城慶子に代わりメンバーとなった。1965年 - 1967年活動。
1977年にアルバム「ウェルカム・バック!」をリリースしたが、
この時のレコーディングメンバーは岡崎、大久保、伊集の3人と、
後にシンガーズ・スリーのメンバーとなった尾形道子の4人だった

伊集 加代 (いしゅう かよ : 1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。

山上路夫 (やまがみ みちお : 1936年8月2日生れ)
日本の作詞家、実業家。文化功労者。
ビクター音楽出版株式会社専属を経て、フリーとなる。
東京府(現在の東京都)出身。喘息で闘病生活を送る思春期をすごし、
学生生活を送ることができなかった。青山学院大学第二経済学部を中退した。
21歳のときに作詞家になることを決意した。
作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、
明治製菓(現在の明治)アルファチョコレートのCMソングとして
制作した「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が
歌うと大ヒットした。翌年の第40回選抜高等学校野球大会では、
選手入場行進曲に選ばれた。
その後は、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲はいずみたく)、
ドラマ『水戸黄門』主題歌「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲は木下忠司)、
赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲は平尾昌晃)、
GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲はすぎやまこういち)、
アグネス・チャン「ひなげしの花」(1972年、作曲は森田公一)、
CMソング「バーモントカレー」の歌(1973年、作曲はいずみたく)、
野口五郎「私鉄沿線」(1975年、作曲は佐藤寛)、
ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)
など、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の
作詞を手掛けた。又、日本大学習志野高等学校の応援歌「歓喜のうたごえ」
の作詞をしたこともある。山上の作風はヒューマニズムに満ちているものが多い。
1969年に村井邦彦とともにアルファミュージックを創業するなど、
音楽出版事業にも参画した。

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。


山上路夫


渋谷 毅
 
木元泉 & 大橋巨泉とサラブレッズ - お願いがあるの
7inch single : Philips FS-1142
1970年7月5日リリース。

作詞 : 一谷伸江
作曲 : 杉原淳
編曲 : 大柿隆一 (大柿隆)
Vocals : 木元泉
Chorus : 大橋巨泉
Bass, Chorus : 根市タカオ
Drums, Chorus : 池貝まさとし
Piano, Chorus : 中島一郎
Tenor Saxophone, Chorus : 杉原淳

ジャズ評論家で奥さんがジャズシンガーのマーサ三宅
だったので、巨泉さんはセンスも歌心もある。
ナイアガラの滝に訪れた事がある人なら皆が驚愕の体験をした。
ナイアガラの滝が所在するナイアガラフォールズ市に入った時から
瀑水の飛沫を人々は浴び続ける。そして遂にナイアガラの滝を
一望できる高台のスポットに足を踏み入れるが、達成感を味わう暇もなく
唖然とする。そこには巨大な大橋巨泉さんのパネルが待ち構えているのだ。
そう、それは映画「猿の惑星」のエンディングで主人公は
猿達から逃げのびて海岸に到着した。そこで砂に埋もれた
自由の女神を見つけて彼は「ここは地球だったのか」と愕然する。
同様にナイアガラの滝の高台に到達した日本人は
「ここは日本だったのか」と愕然とし、やがて失笑する。
大橋巨泉氏が開業した土産店OK・ギフト・ショップ ナイアガラ店は
今は無い、しかし強烈なインパクトと共に人々の記憶の中で生き続ける。
それが私にとっての巨泉さんであり、その猛烈なバイタリティに
笑いが込み上げる巨泉さんの愛すべきキャラクターだ。

木元泉は1949年3月8日生れの女性シンガー。
広島市出身出身、広島市立鈴峰女子短期大学外国学部卒。
木本いず美, きもといづみ, きもといずみ, 木元泉などの表記がある。
1969年9月、大橋巨泉とザ・サラブレッズの2代目ヴォーカル
として芸能界デビュー。日本テレピ「11PM」「ゲバゲバ90分」、
TBSラジオ「巨泉プラス1」などにレギュラー出演。
大橋巨泉とザ・サラブレッズのメンバーは、大橋巨泉 (コーラス)、
杉原淳 (テナーサックス)、根市タカオ (ベース)、
池貝まさとし (ドラム)、中島一郎(ピアノ)。
1971年「きもといづみ」に改名。1978年にジャズ ピアニストで
作曲家の佐藤允彦の協力のもと、東郷輝久、島すみえと
ヴォーカルグループ「ITSイッツ」を結成。「イッツ・ワンダーランド」
が1981年スウィングジャーナルディスク大賞(製作企画賞)を受賞。
1980年から1983年までにJVCから3枚のアルバムをリリースした。
解散後、ジャズシンガーとして歌う中、自分のアイデンティティを
考えるようになる。そして日本最古の音楽「雅楽」と出会う。
日本の精神文化の素晴らしさと強さを知り、雅楽と西洋音楽の
融合を考える。1995年広島の厳島神社1400年祭の時、
ついにディナーショーで発表。1999年第一回世界平和音楽祭
“オーガスト・イン・ヒロシマ”のため、原爆で祖父母をなくした
自身の悲しい体験を胸に、核廃絶と世界平和の願いを込めた
CD“雅”(みやび)を発表。邦楽と西洋音楽の融合グループ「YAMATO」結成。

大橋巨泉 (おおはしきょせん : 1934年3月22日 - 2016年7月12日)
日本のテレビタレント、放送作家、元参議院議員。
テレビ司会者のほか、競馬評論家、ジャズ評論家、時事評論家
としての活動も行い、馬主でもあるなど、日本のマルチタレントの
先駆けとなった。実業家・芸能プロモーターとしてオーケープロダクション
(旧・大橋巨泉事務所) を創業し、取締役会長を務めたほか、
海外でお土産物屋「オーケーギフトショップ」を経営する
オーケーギフトショップグループの取締役社長を務めた。
オーケーエンタープライズ所属。東京府東京市本所区 (現:東京都墨田区)
両国生まれ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松 (岐阜県出身)。
実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を
経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは
店同士取引があり、幼い萩本と巨泉はその当時からの知り合いである。
早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサート
の司会者として活動していた。最初の妻であるジャズシンガーの
マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に
勤務するも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。
ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家から
テレビ司会者に進出、弁舌家のタレントとして人気を得る。
この方面では、同じく放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、
彼と2人で日本テレビ『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。

放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という
表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。
新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、
ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。
当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にも
かかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの
進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは
巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。
その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、
巨泉がメイン司会を務めることになった。

木元泉 & 大橋巨泉とサラブレッズ - どこかでだれかに
7inch single : Philips FS-1142
1970年7月5日リリース。

作詞 : 大橋巨泉
作曲 : 杉原淳
編曲 : 渋谷毅
Vocals : 木元泉
Chorus : 大橋巨泉
Bass, Chorus : 根市タカオ
Drums, Chorus : 池貝まさとし
Piano, Chorus : 中島一郎
Tenor Saxophone, Chorus : 杉原淳

渋谷毅 (しぶや たけし : 1939年11月3日生れ)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家。東京都生まれ。
東京芸術大学音楽学部作曲科中退。妻は同じくピアニストの清水くるみ。
1939年東京都生まれ。芸大付属高校2年の時、エロール・ガーナー
を聴いてジャズに興味を持つ。同い年のジャズ・ピアニスト、
プーさんこと菊地雅章とは高校三年間を共にしている。
東京芸術大学在学中よりジョージ川口とビッグ4、沢田駿吾グループ
などでピアニストとして活動。1963年の暮れから1964年の春に
かけて原信夫とシャープスアンドフラッツに在籍。
浅川マキ、金子マリ、木村充揮、酒井俊、小川美潮、小沢健二
などのヴォーカリストのギグやジャム、レコーディングに参加。


渋谷 毅
 
江美早苗 - 蒼い風の中で
7inch single : Philips FS-1144
1970年7月5日リリース。

作詞 : ふじこうのすけ
作曲 : 都倉俊一
編曲 : 大柿隆 (大柿隆一)
演奏 : フィリップス・スタジオ・オーケストラ
彼女の5枚目のシングル。

江美早苗 (えみ さなえ : 本名は神田恵美 かんだ えみ、
1951年3月15日 - 1988年3月5日)
日本の作詞家、元女優・歌手である。
女優・歌手時代の芸名は江美早苗。
作詞家としてのペンネームは中里 綴 (なかさと つづる)
作詞家としての別名に神田エミ (かんだ えみ) がある。
日本音楽著作権協会の全信託会員であり、没後についても
同協会が音楽著作権を管理している。元夫に殺害された。
1951年3月15日、島根県松江市に生まれる。実家は老舗旅館であり、
4人兄弟の末っ子であった。6歳からバレエを習い始め、小学2年生に
なった1958年、西野バレエ団に入団する。1966年3月、松江市内の
中学校卒業後、4月、島根県立松江北高等学校に進学するも、
親の反対を押し切り同校を中途退学して東京に移り、同バレエ団で活躍、
やがて金井克子、由美かおる、奈美悦子、原田糸子と並ぶ5人娘と
呼ばれるようになる。江美早苗の名で、1967年に同バレエ団の
メンバーで結成されたダンスグループ「レ・ガールズ」に参加、
8月4日に放映開始した音楽バラエティ番組『レ・ガールズ』(日本テレビ)
にレギュラー出演、1968年3月16日に公開された劇場用映画
『ミニミニ突撃隊』や9月15日に公開された『初恋宣言』に
レ・ガールズのメンバーとともに出演する。1968年にはフィリップスレコード
と歌手として専属契約し2月5日、シングルレコード『涙でかざりたい』で
ソロ歌手としてデビューした。1971年1月31日に放送開始した長寿番組
『新婚さんいらっしゃい!』の初代司会に満19歳で抜擢され、月亭可朝、桂三枝
との3人でスタートを切った。7月11日の放送分を最後に同番組を降板、
翌週からの2代目司会梓みちよに交代した。6月16日に公開された
映画『呪いの館 血を吸う眼』(監督:山本迪夫)は、女優としての江美の
代表作とされる。10月に発売されたシングル『ふたりの歓び』を最後に
歌手活動を終えている。合計7枚のシングルを発表した。この間に、通信教育を
受け、日本放送協会学園高等学校(現在のNHK学園高等学校)を卒業した。
1972年春、満21歳で引退し、同バレエ団を退団して郷里の松江市に戻る。

1973年9月、東京に戻り、作詞家としての再スタートを切る。
1974年6月には、田山雅充が結成したグループ「赤い花」のデビューシングル
「赤い花みつけた」のB面曲『今愛の中で』(作曲:田山雅充)に
中里綴の名で歌詞を提供している。1975年には、田山の新しいデュオ
たやまと夕子に『暮れそで暮れない黄昏どきは』を提供している。
1975年、南沙織が当時のキャニオンレコード(現在のポニーキャニオン)
のディレクターであった屋代に作詞の相談に訪れたことがきっかけとなり、
『暮れそで暮れない黄昏どきは』を『人恋しくて』と改題、南沙織の
8月1日発売のシングルとして、CBSソニーレコードから発売された。
南は、本作によって第17回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、同曲で
『第26回NHK紅白歌合戦』に5回目の出場を果たしている。その後も多く
田山と組み、田山の翌1976年2月26日に発売されたソロデビューシングル
「春うらら」では、補作詞でクレジットされている。
以降、作詞家としての地位を築き、1978年5月5日に発売された伊藤咲子
のシングル「寒い夏」につづき、7月5日に発売された伊藤のアルバム
『おるごおる』の全曲作詞を務めた。
1980年代にかけて、沢田聖子、中森明菜、堀ちえみらの楽曲の作詞を
手がけた。作詞家としての再出発以来8年の同棲生活を経て1981年3月、
元フィリップスレコード社員で音楽プロデューサーとして独立していた
14歳年上の男性と結婚するも、1985年12月協議離婚している。
1986年3月以降に発表された楽曲について、神田エミの名を使用するように
なった。同名義では、1986年、少年隊のミュージカル『ミュージカルPLAYZONE
“MYSTERY”』の6曲の作詞を手がけ、同ミュージカルで組んだ作曲家の
井上堯之と組んで、萩原健一の『GIMME YOUR LOVE』を手がけている。

1988年3月5日、復縁を要求してつきまとい、かねてからストーカー行為
を行っていた元夫が、東京都品川区上大崎の自宅マンションに
バスルームの窓を破壊して侵入し、刃渡り20センチメートルの
牛刀および登山ナイフで全身22か所を滅多刺しにされ致命的な傷害を受けた。
元夫は離婚後もしつこくつきまとったり嫌がらせ電話をかけたりしていたため、
江美は大崎署に相談していた。近くの病院に運ばれたが、3月5日19時5分、
死去した。満36歳没。

曲を書いた都倉俊一は東京都出身。4歳のころからバイオリンを習う。
父都倉栄二が外交官であったことから、7歳の時にドイツに渡り
音楽の基礎を学び、12歳になり帰国。学習院中等科の同級生には
元総務大臣の鳩山邦夫、元日本郵政社長の長門正貢、元朝日新聞編集委員
の萩谷順などがいる。中学校卒業後に再びドイツに渡り、ビートキャッツ
というバンドで活動。18歳で再び帰国し、学習院大学法学部に入学。
学習院大学時代に都倉俊一はフォーク・グループのザ・パニック・メンに
ヴォーカリストとして参加、アリス結成前の谷村新司が在籍していた
ロック・キャンディーズとのカップリングシングルのB面「想い出の小径」
(Express EP-1120) が1968年9月1日リリースされた。
このグループが発展的にジュリアンズとなった。当初トリオとしてデビューし
1969年5月に「雨あがり / 古い椅子と少女」(Denon K447) をリリース。
その後デュオとなりジュリアンズは2枚目で終了する。
大学2年生の時から作曲家としての活動を始め、中山千夏の「あなたの心に」
で注目を集めた。さらに、都倉らしくない曲調の「天使になれない」
(歌:和田アキ子)も好評だった。1971年学習院大学法学部卒業。
1974年に大信田礼子と結婚し、1978年に離婚した。
1970年代前半は山口百恵、フィンガー5などを手掛けた。
また1972年からはキャニオンに移籍してきた山本リンダの「どうにもとまらない」
から「狙いうち」「きりきり舞い」「闇夜にドッキリ」他を阿久悠とのコンビで、
ファンクやボサのヒット曲を書いた。このコンビはその後もピンク・レディーの
「ペッパー警部」「UFO」「カルメン77」で大ヒットを連発した。
この頃、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の審査員も務めた。


都倉俊一
 
森山加代子 - 火遊びのサンバ
7inch single : Denon CD-79
1970年8月1日リリース。

作詞 : なかにし礼
作曲編曲 : 鈴木邦彦
演奏 : デノン・オーケストラ

森山 加代子 (もりやま かよこ : 1940年3月23日 - 2019年3月6日)
北海道函館市出身の日本の歌手。ニックネームは「かよチャン」。
1958年夏、札幌のジャズ喫茶『ロータリー』で歌っていたところを、
マナセプロダクション社長の曲直瀬正雄にスカウトされ、同年秋に上京。
翌年には、いきなり水原弘率いる『水原弘とブルーソックス』の
専属ヴォーカル・シンガーとなり、1959年12月には「日劇ウエスタン
カーニバル」に初出場する。1960年6月、イタリアの歌手ミーナ(英語版)
の「月影のナポリ」(Tintarella di luna) の日本語カヴァーで東芝レコード
からデビュー。「月影のナポリ」はザ・ピーナッツも競作として歌っていたが
森山盤は50万枚を売り上げ、いきなりの大ヒット。

そして、当時はデビューした年に出場するのはまず不可能と言われていた
NHK紅白歌合戦にも、異例の早さで同年の『第11回NHK紅白歌合戦』に
初出場を決めた。
続く「メロンの気持」「月影のキューバ」も、競作乍ら森山盤が群を抜き、
1960年代前半に洋楽のカヴァー曲(和製ポップス)を中心としたヒット曲を連発。
さらに「じんじろげ」「パイのパイのパイ」など、コミカルなイメージを
ベースとした面白ナンセンスな歌謡曲でも数多くのヒットソングを飛ばす。
特に1961年リリースの作詞:渡舟人、作曲:中村八大による「じんじろげ」は、
その年の流行語にもなった。

作詞はその壮絶な人生を背景に業の深い詩で
昭和歌謡を代表する作詞家だった、なかにし礼。
なかにし礼 (なかにし れい) 本名:中西 禮三(なかにし れいぞう)
(1938年9月2日 - 2020年12月23日)
日本の小説家、作詞家。森田童子 (本名 中西美乃生 みのぶ)の叔父。
森田童子の父、中西正一は、なかにし礼の兄。
1938年9月2日、満洲国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国
黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、
渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは
家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな
影響を与えた。彼の兄の中西正一は立教大から学徒出陣として
陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
彼の兄の中西正一は、第二次世界大戦中に零戦のパイロットだった。
特別攻撃隊の生き残りで戦後は荒れた生活を送った。
なかにし礼は8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで
小学校時代は東京と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学から
東京品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、
シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。
シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中に
ヒットメーカーになる。一浪して1958年に立教大学文学部英文科に
入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部
仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に
最初の妻と結婚する。元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の
深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を
手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルの
バーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の
石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。その間、一女をもうけるも、
1966年に別居、1968年に離婚する。
石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の
歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1に作詞作曲した作品
(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。
それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」が
ヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の
執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、
NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。

兄の中西正一は、弟のなかにし礼が多額の借金を抱えて設立した
会社をいくつも倒産させた。その頃、なかにし礼の自宅には、
中西正一の家族である、正一の妻、長女、次女中西美乃生(後の森田童子)
長男の家族が住み始めた。次女の中西美乃生は、1970年の日本の暴動時代、
17歳の時に友人が校内紛争に巻き込まれ、高校を中退した。
中西美乃生の15歳から19歳までの4年間、なかにし礼と中西正一の
家族は東京・中野のなかにし礼の自宅で同居していた。
なかにし礼は1971年に、いしだあゆみの妹の石田ゆりと再婚した。
つまり、いしだあゆみの義弟は、なかにし礼となる。
それで、1971年から1972年までの1年間、中西美乃生(森田童子)
は石田ゆりと暮らしていた。兄の中西正一のゴルフ場開発の失敗により、
なかにし礼は6億円の借金を抱え、なかにし礼の会社も倒産していった。
なかにし礼は新婚生活の邪魔だったために、これを機に兄の家族と絶縁し、
追い出した。森田童子は、なかにし礼のことが好きだったが、
なかにし礼の家での生活は彼女にとってとても大変だった。

そんな時期、なかにし礼とその兄の中西正一(森田童子の父)は、
京都から東京に来た銀座のナンバーワン若手ホステス堀川麗子
という田舎娘をスカウトした。この田舎娘は後の風吹ジュンである。
彼らは風吹ジュンのために芸能事務所「Adoプロモーション」設立し、
中西正一の友人でイラストレーターの前田亜土(本名 : 前田正春、
後の森田童子のマネージャーで夫)を社長に迎えた。
事務所に所属するタレントの風吹ジュンは給料の安さに不満を抱いていた。
なかにし礼、中西正一、前田亜土は、風吹ジュンが事務所を
移籍しようとした1974年9月12日に拉致監禁事件を起こした。
彼らはヤクザを使って風吹ジュンを監禁し、事務所の異動を断念させた。
その後の裁判で風吹ジュンの事務所への移籍は認められたが、
その際に風吹ジュンの過去の経歴詐称が明らかになり
イメージダウンとなった。
中西美乃生 (森田童子) は20歳頃から歌を歌い始め、風吹ジュン誘拐事件
の翌年の1975年に22歳でデビュー。彼女の背景には多くの問題があり、
有名な、なかにし礼との関係を隠してデビューしたかったのである。

なかにし礼は若い頃から何度も繰り返した心臓疾患や離婚に加え、
1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して
全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を
肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。
1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、
2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の
照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』
『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と
向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。
2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや
核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は
若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
とも語っている。2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、
同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため
東京都内の病院で死去。82歳没。

作曲は奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ダイナマイツ「トンネル天国」等
多数の昭和の名曲を書いた鈴木邦彦。
鈴木邦彦 (すずき くにひこ : 1938年3月1日生れ)
東京府出身の作曲家、編曲家。妻は元歌手の小野階子 (おの しなこ)。
慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。
学生時代は慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。
母が所有していたピアノを独学で習得し、学生時代からジャズ・ピアニスト
として活動を始め、のちに「ザ・ヒットパレード」のバックバンドにも参加。
中村八大の影響でプロの作曲・編曲家を目指す。西ドイツ・ドルトムントで
開催された1966年世界体操競技選手権に日本代表専属のピアニスト
として参加。床運動の規定曲を作曲する。
プロの作曲家としてデビューまもない1968年に『天使の誘惑』が、
第10回日本レコード大賞を受賞する。メーカーから依頼されたことにより、
ハンドベルの普及版となるミュージックベルの開発に取り組む。
1971年4月、株式会社ベルミュージック並びに日本ミュージックベル協会
を設立。株式会社エンジェルミュージック、株式会社ウエディングベル設立。


なかにし礼


鈴木邦彦
 
可愛和美 - 雨あがりの恋
7inch single : Denon CD-83
1970年8月25日リリース。

作詞 : 山口あかり
作曲 : 小田啓義
編曲 : 田辺信一

可愛和美 (かあい かずみ 本名:額田 和代、1950年3月10日生れ)
日本の歌手。熊本県出身。熊本女子短期大学中退。
当初は本名の額田和代名義でアニメソング歌手として
活動していたが、1969年2月に渡辺プロダクションと契約し
同年10月に日本コロムビアの Denon レーベルから
歌謡曲歌手としてデビュー。
その後、フジテレビ系列の子供番組「ひらけ!ポンキッキ」の
初代おねえさん(1973年4月?1975年3月)を経て、1978年に
かあいかづみ名義で男性4人組のジャズ・コーラス・グループ
クレスト・フォー・シンガーズに加入。

作曲はジャッキー吉川とブルー・コメッツのメンバーの小田啓義さん。
小田啓義 (おだ ひろよし : 1939年12月23日)
キーボーディスト、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、
ジャッキー吉川とブルー・コメッツのメンバーでオルガン・ピアノ担当。
学校法人玉川学園農学部中退。日本音楽家著作協会会員、
日本作曲家協会コンサート委員。父親は、映画監督の小田基義。
小学校の時からクラシックピアノ、高校の時からジャズピアノを勉強する。
1961年、当時のブルー・コメッツのマネージャーにスカウトされ、
鹿内孝のバックバンドとして米軍のキャンプなどで活躍する。
その後田代久勝とウエスタンキャラバンに移籍するが、1964年に
ブルー・コメッツに復帰し、「甘いお話」、「白い恋人」、「すみれ色の涙」
などの(主としてB面の)作曲なども手がける。
その中で次々とヒット曲を生み出し、ブルー・コメッツの全盛期を築いた。
1972年のバンド再編後も残り続け、1984年に脱退するまで活躍する
こととなる。また、この頃になるとバンド活動と並行して
プロデューサーとしても活動し、コスミック・インベンション
などをプロデュースしている。ブルー・コメッツ脱退後は個人活動をする中で、
1985年、ダン池田に代わりビッグバンド「ニューブリード」を継承、
小田啓義とニューブリードのバンドマスターとして第36回NHK紅白歌合戦
を指揮した(しかし、翌1986年に同じブルー・コメッツのメンバー
だった三原綱木にバンドマスターの座を継承した事で
三原綱木とザ・ニューブリードとなり現在に至る)。
また、NHK文化センター「趣味の作曲講座」の講師を担当し活躍した。

編曲は石坂浩二の金田一耕助シリーズの音楽でも
有名な田辺信一。元々ジャズ畑の人間であり、慶應ライトミュージック
ソサイエティ出身。歌謡曲でも多くの作曲・編曲をしており以下はその一部。
浅田美代子「じゃあまたね」「想い出のカフェテラス」(編曲)
いしだあゆみ「待っている女」(作曲・編曲)
梓みちよ「愛はルフラン」(編曲)
麻生よう子「午前零時の鐘」(編曲)
小川ローザ「風が落した涙」(作曲)
川崎麻世「暗くなるまで待って」(編曲)
川田正子「花言葉あげます」(編曲)
グラシェラ・スサーナ「さよならの鐘」(編曲)
香坂みゆき「まわれ恋の風車」(編曲)
西城秀樹「明日への愛 - グッド・バイ・ガールズ」(作曲・編曲)
酒井ゆきえ・ピンポンパンちびっこ合唱隊「海のだいかぞく」(編曲)
ジローズ「青春のわかれ道」(編曲)
ズー・ニー・ヴー「可愛いあなただから」(編曲)
高田みづえ「潮騒のメロディー」(編曲)
ハイファイセット「フィーリング(愛のフィーリング)」(編曲)
ヒデとロザンナ「愛の奇跡」(作曲)
フォーリーブス「男と女の紙芝居・三幕」「どうして…」(編曲)
前野曜子「愛のテーマ(獄門島)」(作曲)
みなみらんぼう「ウィスキーの小瓶」(編曲)


小田啓義
 
藤巻潤 - ストックホルムの白い夜
7inch single : Daiei Records G-2
1970年8月リリース。

作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
演奏 : 大映レコーディング・オーケストラ

ストックホルムを題材にした和製北欧ボサ!(なんじゃそりゃ 笑!)
偶然だとは思うがアメリカの Mainstream Records のサイケバンド
Stone Circus が1969年にシングルカットもしたアルバム1曲目の
名曲 "What Went Wrong" にクリソツ (死語) な曲である。
筒美先生ならありえるリサーチかも。。。
イントロでリズムを刻んでいるオートハープも効果的だ。
藤巻 潤氏は大映俳優だが当時TBSの人気ドラマ「ザ・ガードマン」の
清水隊員として人気を博しており、同ドラマがKLMオランダ航空と
タイアップしていた。放送当時が高度経済成長期であったこともあり、
当時では珍しかったヨーロッパを中心とした海外ロケを頻繁に行っており、
視聴者他を北欧旅行へ誘おうとした企画だったのだろう。
意外と知られていないが藤巻 潤氏の姉の智弥子さんが
極真カラテ創始者の大山倍達先生と結婚されたので藤巻 潤氏は
ゴッドハンドの義弟となる。私的にはアデランスのCMに
出演されていた藤巻氏を見て「ぎゃあああああっ!」と驚いた。

藤巻 潤 (ふじまき じゅん : 1936年3月28日生れ)
日本の俳優・歌手。東京府東京市日本橋出身。旧芸名は藤巻 公義。
極真カラテ弐段。息子は俳優の藤巻裕己。
姉は大山智弥子。明治学院大学文学部英文科中退。
劇団俳優座の養成所を経て、第11期ニューフェイスとして大映に入社。
川口浩や本郷功次郎に続くスターと期待され、端整な顔立ちと
日本人離れした肉体美をセールスポイントに活躍した。
大映テレビ室が制作したテレビドラマ『ザ・ガードマン』で人気を得る。
1975年の映画『けんか空手 極真無頼拳』では極真カラテを修行した
経験を活かし、同じく極真カラテの黒帯である千葉真一が扮する
大山倍達と戦う空手家を演じている。


筒美京平
 

安井かずみ
安井かずみ - わるいくせ
LP : 安井かずみのえるぴい "Zu Zu"
Polydor MR-3129
1970年9月1日リリース。

作詞 : 安井かずみ
作曲 : 村井邦彦
編曲 : クニ河内

何かその後に生活用品のCMで使われたようなメロディーラインに
安心を覚えてしまうのは私だけだろうか?
典型的なラウンジボサだがグリッサンドやギターの
オブリガード、ピアノ、サックス、フルートと
アンサンブルの主張が結構つよく、それは彼女のヴォーカルの
弱さを補おうとしたアレンジなのかも知れない。
しかし逆説的にはその素人っぽい安井かずみの歌声が
灰汁が抜けた感じで妙に心地よい。

安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 - 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9〜10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。

村井邦彦 (むらい くにひこ : 1945年3月4日生れ)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。
ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、
赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で
知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」
「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」
「虹と雪のバラード」などがある。

クニ河内 (クニ かわち : 1940年7月7日生れ)
日本のミュージシャン。本名は河内邦夫 (かわち くにお)。
実弟は作曲家のチト河内。代表曲に「透明人間」、
提供楽曲に「そっとおやすみ」などがある。
福岡県福岡市出身。1964年、24歳の年に弟のチト河内らとサンライズを結成。
1967年にザ・ハプニングス・フォーと改名し、同年「あなたが欲しい」で
デビューした。平行して作曲家としても活動し、布施明にヒット曲
「そっとおやすみ」を提供した。1970年にはアルバム『切狂言』を、
クニ河内とかれのともだち名義で発表した (ジョー山中、石間秀樹も参加)。
1972年の解散後は、作曲家・編曲家としてカルメンマキ、伊東きよ子ら
多くのミュージシャンに楽曲を提供した。1977年に、東京都目黒区に
音楽事務所 Kunimusic を設立。テレビ番組『ワンツー・どん』、
『うたって・ゴー』 (共にNHK教育) では、「クニおじさん」や
「クニさん」の呼び名で出演した。1980年以降は、THE ALFEE、中島みゆき、
所ジョージなどポニーキャニオンの歌手の編曲を多く担当した。
それと並行して先述の教育番組出演に加えて子供向けの歌の創作にも
力を入れており、NHKの『おかあさんといっしょ』に
「コケコッコ体操」・「魔法使いの子守唄」、
『みんなのうた』に「ドラキュラのうた」・「少年海賊団の唄」など、
日本テレビの『ロンパールーム』に「ものまねたいそう」
「とんでけ!あかいたましろいたま」、『新・ロンパールーム』に
「ロンパランポン」、フジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』に
「ペンギン・ポン!」・「こまります」、そして『ピンポンパン』に
「ザ・しりとり」と、当時放送されたほとんどの幼児向け番組に
楽曲を提供した。Kunimusic は2000年代に北海道帯広市岩内町に移転させ、
クニ河内は帯広の自宅を拠点に音楽活動を続けている。Kunimusic には
木琴・マリンバ奏者で、クニ河内の妻である野田美佳も在籍している。


村井邦彦


クニ河内
安井かずみ - 過ぎゆく日々は
LP : 安井かずみのえるぴい "Zu Zu"
Polydor MR-3129
1970年9月1日リリース。

作詞 : 安井かずみ
作曲 : 加瀬邦彦
編曲 : クニ河内

物悲しいボサバラードに少女っぽさを残した安井かずみの
アンニュイな歌声が上手くフィットしている。
彼女が書いたこの女性の心情風景には、とても男性が
触れてはいけない少女から女性へと変わっていく際の
切ない受動性が垣間見れる。それは仰々しく語れば
命を育む女性として受け入れなければいけない様々な
感情を母性が包み込んでいく緩やかな時間なのだろう。
決して音域が広くはない安井かずみだが、その素人っぽさが
この才女の等身大の声なのだとして聴き入ってみると、
当時31歳の安井かずみには良い意味で世間離れをした
浮遊感を内包している事が解る。
エンディングで突如現れるギターオブリガードに鳥肌がたった。

加瀬邦彦 (かせ くにひこ : 1941年3月6日 - 2015年4月20日)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。
1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県
茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の
先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、
当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならず
プライベートでも親交を深めるようになる。
慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド
ザ・トップビーツを結成する。その後ホリプロに所属し、清野太郎、
かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。1963年には
事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、
寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズ
に加入した。1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが
前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは
演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが
出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった
加瀬はブルージーンズを脱退した。所属していたホリプロはそれでも、
加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも
申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズ
を結成、渡辺プロダクションに移籍する。
得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの
要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の
音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。
1994年に食道癌の手術をしたことを著書で明かしていた。2014年には
下咽頭癌を発症し、手術後は自宅療養していた。2012年4月21日、
ももいろクローバーZの横浜アリーナでのライブ公演『ももクロ春の一大事
2012 横浜アリーナ まさかの2DAYS?』の1日目に百田夏菜子 with
ザ・ワイルドワンズとして参加。加瀬が百田の為のソロ曲として
作詞・作曲した「渚のラララ」を披露した。
2015年4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した。74歳没。
呼吸用のチューブが塞がれた状態で発見された。
通夜は同月27日に葬儀委員長をザ・ワイルドワンズのメンバーが務め
護国寺で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、高木ブー、中村あゆみ、
モト冬樹、エド山口、江木俊夫らが参列した。
翌28日葬儀・告別式が営まれ、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、
つのだ☆ひろなど関係者300人が参列。仕事の都合で葬儀に参列できなかった
加山は音声メッセージで加瀬を哀悼した。
同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた。


加瀬邦彦
 
萩本欽一 - あ〜ねむいなあ〜 (深夜放送の為のボサ・ノバ)
7inch single : 東芝 TP-2320
1970年9月5日リリース。

作詞 : 小泉紀子
作曲 : 小泉宏
編曲 : 川口真
松竹映画「俺は眠たかった!! 」主題歌。「おれはねたかった!!」と読む。

ナンセンスボサの名曲。よく聴くと印象的な「あ〜ねむいなあ〜」の
エコーがかかったコーラストラックと本編のリードヴォーカルのトラックを
ミックスダウンしているが、女性コーラスも参加しており
伊集加代子のように聴こえる。作曲はジャズピアニストの小泉宏さん。
編曲はウルトラマンタロウの主題歌でもお馴染み川口真さん。

コント55号の萩本欽一が『手』に続き、製作・監督・脚本・音楽・主演
するシュールなコメディ映画。撮影は『涙の流し唄 命預けます』の小杉正雄。
ベッド会社に勤めるが様々な事情で常に睡魔と戦う萩本が住むアパートの
隣人で革命家ゲバラを心酔する超変わり者秋山役の石立鉄男が共演している。

小泉 宏 (こいずみひろし) ジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。
国立音楽高等学校卒業後、ダン池田とニューブリードに在籍。
ピアニストであると同時に、アレンジャーとしての才能を認められる。
また、NHK、フジテレビなどで数多くの人気番組、舞台、コンサートなどで
コンサートマスターを努める傍ら、レコーディングアレンジャーとして
数々の楽曲制作に携わる。雑誌「月刊 Piano」では、10年以上続いている
人気コーナー「ジャズ名曲ストーリー」のピアノレッスン&コラム連載を担当。
この他にも YAMAHAをはじめとする数々の音楽スクールで講師として
招聘されている。華麗なるピアニストとしてビックバンドからカルテット、
コンボ、ソロとしてステージに出演。古き良きジャズのエッセンスを
再現しつつ、小泉流のスイング感溢れるおしゃれでモダンな独自の
ピアノを奏でるジャズピアニストである。

川口 真 (かわぐち まこと、本名:川口眞弘 かわぐちまさひろ
1937年11月5日 - 2021年10月20日)日本の作曲家、編曲家。
兵庫県神戸市出身。幼少期は岡山県倉敷市、岡山市育ち。
岡山県立岡山操山高等学校を卒業後、東京芸術大学に進学した。
東京芸術大学音楽学部楽理科に2年在籍したのち、作曲科へ転科。
在学中から越路吹雪のバックバンド「クレール・ド・シャルム」の
ピアニストとして活動。その傍らでいずみたくの事務所で編曲の
アルバイトも行っており、ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』で
編曲家としてデビュー。そのまま本業となったため、大学は4年で中退。

1966年、ザ・ベンチャーズが作曲した「二人の銀座」(歌:和泉雅子・山内賢)
の編曲を担当。川口は「北国の青い空」などザ・ベンチャーズ作曲の
編曲を担当している。1969年に「人形の家」(弘田三枝子)で本格的に
作曲家としてデビュー。ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」
(作詞:なかにし礼、作曲:村井邦彦)、「おかあさん」(作詞:松岡弘子、
補作詞・作曲:松崎由治)の編曲も評判となる。
1970年「手紙」(由紀さおり)をヒットさせ、「真夏のあらし」(西郷輝彦)で
第12回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。1970年代前半には
尾崎紀世彦「さよならをもう一度」(1971年)、金井克子「他人の関係」、
夏木マリ「絹の靴下」(1973年)、布施明「積木の部屋」(1974年)など、
数多くの楽曲の作曲・編曲を担当した。
晩年は日本作曲家協会顧問、日本作編曲家協会理事を歴任。
2021年10月20日、敗血症のため横浜市青葉区の病院で死去。83歳没。


小泉 宏


川口 真
 
ペギー葉山 - とてもとても
7inch single : King Records BS-1269
1970年10月20日リリース。

作詞作曲 : 平岡精二
編曲 : 若松正司
演奏 : オールスターズ・レオン

古典的なボサリズムにシャンソンスタイルの低音を効かせた
ヴォーカルで歌う素晴しい王道ボサチューンなんですよ。
色っぽく女性の感情のブレを表現するブレスは、強弱をつけて
喘ぎ声へと昇華させているんですよ。
ウルトラの母が見事な夜のテクニックを駆使していたと
想像して、過去どれだけの男が「マン」になったかと思い
ウルトラマンの名前の本当の意味に気づいたんですよ。
あ〜い、とぅいまてぇ〜ん!

ペギー葉山 (本名:森 シゲ子 もり シゲこ)、
旧姓:小鷹狩 シゲ子(こたかり シゲこ)、1933年11月9日 - 2017年4月12日)
日本の女性歌手、タレント。社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。
東京都新宿区出身。青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。
1952年にキングレコードよりレコードデビュー。
タレントとしての活動も多くこなし、知られているものでは
NHK紅白歌合戦の紅組司会(1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」)
や「歌はともだち」(NHK)の司会に、「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)
のしつけコーナー、「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母の
人間体である緑のおばさんとしても知られる。

作詞作曲を担当したのはジャズミュージシャンの平岡精二さん。
平岡精二 (ひらおか せいじ : 1931年8月13日 - 1990年3月22日)
日本のジャズミュージシャン、作詞家、作曲家、編曲家。日本作曲家協会会員。
1931年8月13日、東京府東京市 (現在の東京都) に生まれる。
実業家であり三味線奏者で東明節 (とうめいぶし) の創始者として知られる、
平岡?こと初代平岡吟舟 (1856年 - 1934年) の孫であり、
?の次男、二代目平岡吟舟 (本名・平岡次郎) の次男である。
シロフォン奏者・平岡養一 (1907年 - 1981年)、フィギュアスケーターの
平岡露子 (1913年 - 2012年) の兄妹は父のいとこ。
初代東明柳舟 (本名・高橋楊子 : 1882年 - 1949年) は、?の次女であり、
平岡精二からは伯母に当たる。
幼少期、木琴を習い、第二次世界大戦後、青山学院高等部在学中の
15歳のころ、村上一徳 (1913年 - 1963年) による村上一徳とサーフライダーズ
に参加、プロとしてデビューする。1951年、ゲイ・セプテットに加入、
1954年、青山学院大学経済学部を卒業し、ヴィブラフォン奏者として
一本立ちする。1956年6月、平岡精二カルテットを結成、
その後、平岡精二シックステットに発展、平岡精二クインテットを結成する。
渋みのある音色、抑揚の激しい歌で人気を博す。トランペット、アルトサックス、
マリンバなども演奏する。1958年ペギー葉山に『爪』を提供。
1964年、青山学院を舞台としたペギー葉山の代表曲『学生時代』を
作詞・作曲・編曲、平岡精二クインテットが演奏した。
山下毅雄の映画音楽等でマリンバを多く演奏したのが、平岡である。
山下と出逢うきっかけは、親戚の養一の家の近くに山下が住んでいた
ことだという。

編曲を担当したのは「NHKみんなのうた」でもお馴染み
若松正司 (わかまつまさし) さん。
作曲を服部正、指揮を高階正光に師事し1955年のNHKのオーケストラ
番組の編曲担当をきっかけに恒常的にレギュラー番組を担当。
以後、NHKみんなのうたなどNHKの番組を中心に幅広く活動。
1993年に第23回日本童謡賞受賞。日本大学習志野高校の応援歌を
作曲した。(作詞:山上路夫)
作曲家の若松歓は息子にあたる。ヤマハ音楽振興会理事や
日本作曲家協議会監事、日本童謡協会常任理事などを歴任した。


平岡精二


若松正司
 

よしだたくろう
よよしだたくろう - 灰色の世界T
LP : よしだたくろう 青春の詩
Elec Records ELEC-2001
1970年11月1日リリース。

作詞作曲 : よしだたくろう
編曲 : 沢田駿吾

ファーストアルバムから秀逸なボサチューン。拓郎さんの声、若っ!
今作の制作にあたり、当時エレックレコードの専務兼プロデューサー
だった浅沼勇は、自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト
第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックスを起用した。
浅沼はマックスを起用した理由について、「拓郎のフォークの荒削りな
良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンド
が必要と考えた」と述べている。
スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを
専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと
綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的な
レコーディングであった。また、ジャズ・ギタリストの
沢田駿吾クィンテットも起用した。

沢田駿吾、本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』 (1944年アメリカ映画) を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送 (現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。


沢田駿吾
よしだたくろう - 雪
LP : よしだたくろう 青春の詩
Elec Records ELEC-2001
1970年11月1日リリース。

作詞作曲 : よしだたくろう
編曲 : 沢田駿吾


 

サンドラ・アレキサンドラ
サンドラ・アレキサンドラ - いいじゃないの幸せならば
LP : サンドラと12人の侍たち Sandra & Her 12 Samurai
Columbia JDX-45
1970年11月25日リリース。

作詞 : 岩谷時子
作曲 : いずみたく
編曲 : 半間厳一
佐良直美のカヴァー。

Sandra Alexandra は本名を Cissandra Durkin と言う。
ニュー・ジャージー州のストックトン大学を卒業後に
サンフランシスコ音楽大学に入りクラシックピアノを学んでた。
その後、アメリカで流行していた R&B に触発されて
ハスキー・ヴォイスのヴォーカリストとして人気を博し、
Vee-Jay Records の屋台骨を支えてきた Calvin Carter の
プロデュースで Uni Records からソウルシンガーとして
デビューし、2枚のアルバムをリリースした。同時に女優としても
カルトなブラックアダルトムービー「Black Hooker」に出演した
才能豊かな黒人女性シンガー。そんな彼女が何の縁があってか
所謂カタコト日本語で歌謡曲をセクシーにカヴァーしたアルバムと
アルバムからのシングルカットを1枚リリース。
アルバムタイトルも「サンドラと12人の侍たち」って
股間膨らませた日本男児が「お願いしまあっす」と12人並んで
列つくってたんじゃないだろうなあ!

アレンジを担当したのは和ボサの名作、堀内美紀『水晶の瞳』の編曲や
『怪獣王子』の作曲でも有名な半間巖一さん。
半間 巖一 (はんま げんいち) 作曲家、編曲家。
戦後のジャズ全盛期、中央大学在学中に学生バンド結成、
ジャズコンで競い合い、プロの資格も取得。
当時、日本を代表する音楽誌「スイングジャーナル」の日本JAZZ人気投票
第1位に選ばれる。NHK 出演の折に見出され海外放送を皮切りに
ラジオ時代の『紅白歌合戦』第1回から参加。のちに音楽責任者を務める
ことになる。NHKラジオ日曜 朝9時に放送されていた『音楽夢くらべ』では、
即興のピアノ伴奏を11年間担当(幼少の吉永小百合が2回出演し、
ともに天才賞を戴いた)。『世界の音楽』『立体音楽堂』『花の星座 』に出演。
NHKオールスターズ オーケストラの専属 作編曲家に。
代表作「ヴィヴァ NHK」は、『紅白歌合戦』でも演奏される。
数々の一流バンドに在籍、著名歌手 有名バンドに関わり、
作編曲(美空ひばり 江利チエミ フランク永井 坂本九
原信夫とシャープスアンドフラッツ 来日時にレコーディングした
ポール・アンカほか)が認められ地位を確立する。
TV時代に入り、NHKや民放の看板音楽番組も数知れず担当。
博覧会のために『EXPO '70 大阪万博 エレクトロニクス噴水の音楽』
『沖縄海洋博 アクアポリスの音楽』を手掛ける。
歌舞伎とジャズの結び付き、東宝歌舞伎『長谷川一夫 沓掛時次郎
舞踏・春夏秋冬』『石橋(しゃっきょう)』
1970 - 1990年代『TBS 日本レコード大賞』音楽監督。


半間巖一 (左は八代亜紀)
サンドラ・アレキサンドラ - ブルーライト・ヨコハマ
LP : サンドラと12人の侍たち Sandra & Her 12 Samurai
Columbia JDX-45
1970年11月25日リリース。

作詞 : 橋本淳
作曲 : 筒美京平
編曲 : 半間厳一
いしだあゆみのカヴァー。

 

横田 年昭
横田年昭とビート・ジェネレーション - Ofelia
LP : Flute Adventure: Le Soleil Etait Encore Chaud
= 太陽はまだ暑く燃えていた…
London Records SKK(L)3005
1970年12月1日リリース。

作曲 : 横田年昭
Alto Flute, Bass Flute, Indian Flute : 横田年昭
Electric Guitar : 水谷公生
Guitar : 中牟礼貞則, 村上信幸
Bass : 佐藤きにお,寺川正興
Drums : アントニオ石田
Percussion : 鳴島英治, ラリー寿永, ペドロ梅村
Piano : 市川秀男

Buzzy Feiten, Neil Larsen, Fred Beckmeier らの Full Moon ですら
1972年だった事を鑑みても、日本のジャズロックシーンから
1970年に産み落とされたこのユニットが、いち早くラテン・クロスオーヴァー
に着手しフュージョンを完成させた事は大きな意味がある。
島国日本には世界の潮流を意識しつつも、破壊と構築を繰り返しながら
新しいモノを創ろうとした機運が高度経済成長期にあった。
それはその後、海外の熱心なフュージョンファン達が「日本のミュージシャン達
は世界トップのテクニックを持っている」との認識に至ったのも
海外のファンが日本産のレコードを聴いて、日本のミュージシャン達の
感性が豊かでチャレンジ精神が旺盛だった事を理解したからだ。

横田年昭 (1944年2月4日 - 2023年9月26日)
1944年東京生まれ。17歳でプロ入り、
自己のグループ「ビート・ジェネレーション」
「原始共同体」を結成して10年。
その後「猪俣猛とサウンドリミテッド」のソロ・フルーティスト
として活躍した、日本のジャズフルーティストの草分け。
その後、美しく壮大に広がる海を前にした伊豆稲取に工房をかまえ、
鳥や野の花などに恵まれた自然を友に、笛作り、竹楽器作りに
いそしんでいた。横田の作る笛は、日本の笛、主に尺八、横笛、
弥生笛、その他本人独自のアイディアによるもので、数種類にも及ぶ。
これらの楽器を演奏活動に使い、1976年には日本人として
初めてパリ・オランピア劇場にて「日本の春夏秋冬」と題し公演した。

横田年昭とビート・ジェネレーション - Samba de Orfeu
LP : Flute Adventure: Le Soleil Etait Encore Chaud
= 太陽はまだ暑く燃えていた…
London Records SKK(L)3005
1970年12月1日リリース。

作曲 : Luiz Bonfa
Alto Flute, Bass Flute, Indian Flute : 横田年昭
Electric Guitar : 水谷公生
Guitar : 中牟礼貞則, 村上信幸
Bass : 佐藤きにお,寺川正興
Drums : アントニオ石田
Percussion : 鳴島英治, ラリー寿永, ペドロ梅村
Piano : 市川秀男
Luiz Bonfa のカヴァー。

横田年昭とビート・ジェネレーション - Reza
LP : Flute Adventure: Le Soleil Etait Encore Chaud
= 太陽はまだ暑く燃えていた…
London Records SKK(L)3005
1970年12月1日リリース。

作曲 : Edu Lobo
Alto Flute, Bass Flute, Indian Flute : 横田年昭
Electric Guitar : 水谷公生
Guitar : 中牟礼貞則, 村上信幸
Bass : 佐藤きにお,寺川正興
Drums : アントニオ石田
Percussion : 鳴島英治, ラリー寿永, ペドロ梅村
Piano : 市川秀男
Edu Lobo のカヴァー。

 
太田とも子 - ねむいのは悲しいからさ
7inch single : United Artists HIT-774
1970年12月リリース。

作詞 : ちあき哲也
作曲 : 宇崎竜童
編曲 : ありたあきら (小杉仁三)

ついにヤンキー系作家の、ちあき哲也と宇崎竜童のコンビで
ボサ歌謡を書いた。しかも歌うは梶芽衣子の妹。

太田とも子 (おおた ともこ : 1949年7月7日)
東京都出身の女優・歌手。本名は太田知子。
荒木一郎にスカウトされ、デビュー当時は「有沢とも子」名義だったが、
後に「太田とも子」に改名した。
梶芽衣子の実妹。声質も似てる。有沢とも子名義でも1969年に
RCA からシングル2枚リリースしている。
抱きしめて / あなたの面影 (RCA JRT-1009) 1969年2月
両曲作詞作曲:荒木一郎 編曲:川口真

恋のおとずれ / 愛のおののき (RCA JRT-1023) 1969年5月
両曲作詞:なかにし礼 作曲:鈴木邦彦 編曲:川口真

お姉さんと同じく、女優をやっていた時期もあった。
東京都目黒区にあった私立女子高の洗足学園第一高等学校在学中に
荒木一郎に見出され、1968年2月に「モダン企画」と契約。
荒木一郎に約1年間師事する傍ら、佐藤恵子バレエスタジオでも
研修を受ける。有沢とも子名義でRCAから2枚のシングルで
デビューした後、KING 傘下の United Artists に移籍し、
再び太田とも子(本名と同じ)に改名。
同年、小沢啓一監督の『女の警察・乱れ蝶』に歌手役で出演したが、
劇中で歌った「影を慕いて」は未発表となった。
1970年から1971年までに同レーベルでシングル3枚リリース。

はじめに愛があった / とおく群衆を離れて (United Artists HIT-765) 1970
作詞 : 阿久悠,作曲 : 宇崎竜童,編曲:森岡賢一郎
作詞 : ちあき哲也,作曲 : 宇崎竜童,編曲:高田弘

恋はまっさかさま / ねむいのは悲しいからさ (United Artists HIT-774) 1970
作詞 : ちあき哲也,作曲 : 宇崎竜童,編曲:高田弘
作詞 : ちあき哲也,作曲 : 宇崎竜童,編曲:ありたあきら (小杉仁三)

甘い嘘 / 誰のために愛するの (United Artists 780) 1971
1970年12月録音。
作詞作曲 : 中村泰士,編曲:高田弘
作詞 : 橋本淳,作曲 : 中村泰士,編曲:森岡賢一郎

作詞を担当したのは矢沢永吉作品でも有名な、ちあき哲也。
ちあき哲也 (ちあき てつや : 本名は小林千明 こばやし ちあき
1948年6月11日 - 2015年5月10日)
神奈川県藤沢市出身の作詞家。別名:千明 哲也 (ちあき てつや)。
関東学院大学卒業後、浜口庫之助に師事。作品を認められ、作詞家デビュー。
胆管がんで闘病していたが、2015年5月10日午前9時18分に
東京都内の病院で死去。66歳没。生涯独身であった。
同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた。

宇崎竜童 (うざき りゅうどう : 1946年2月23日生れ)
日本の歌手、作曲家、俳優、映画監督。
京都府京都市伏見区生まれ。東京育ち。
1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、
1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に
宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の
合間にソロとしても活動する。
妻は作詞家の阿木燿子。「作詞・阿木、作曲・宇崎」のコンビで
商業主義的な歌謡曲界においても、数多くの楽曲をヒットさせると共に
山口百恵の全盛期を支えた。

明大付属中野中学・高校時代はブラスバンド部に所属し、
明治大学時代は軽音楽クラブに所属しトランペットを担当していた。
大学の軽音楽部で同い年の阿木燿子と知り合い作曲活動を始める。
大学卒業後、内田洋行に就職したが性に合わず1か月で退社した。
その後、義兄の経営する大橋プロでマネージャーを務め、
バンド「ミルク」時代の松崎しげるをスカウトし2年間マネジメント
を担当するが、ここも後に退社した。大橋プロ在籍時には、1969年に
阿木作詞・宇崎作曲のコンビで手掛けた、ジュリー(鍵山珠里)と
バロンのシングル『ブルー・ロンサム・ドリーム』でプロ作家デビュー。
全日本歌謡選手権11代チャンピオン・大橋恵子のデビュー・シングル
『愛の教室』(1971年2月)の作曲も手掛けた。
コンサートに飛び入り参加したのがきっかけでレコード会社から
声がかかった。1973年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成。
シングル「知らず知らずのうちに」でデビューした。このバンド名は
前年1972年に思いついていたが当時のバンドに提案したところ
逆に解散のきっかけになっていたものである。
同時に歌謡曲の作曲家としての活動も目立つようになった。
山口百恵に1976年「横須賀ストーリー」1977年「イミテイション・ゴールド」
1978年「プレイバックPart2」1979年「しなやかに歌って」
1980年「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向こう側」など
数多くの楽曲を提供しヒットさせ、彼女の全盛期を支えた。


ちあき哲也


宇崎竜童
 
 
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