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昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
ここではサンデーソングブックであまりオンエアーしない昭和歌謡や
それらの和ジャズカヴァー中心にアップロードしていまして、
60歳以上の熟年層を対象にしています。
90年から店頭やヤフオク、eBay 等で販売してきた昭和歌謡の
レコードをカセットに録音して店頭BGMとして使ってましたが、
とある客人に「デジタルアーカイヴ化すべき」と勧められました。
リイシューの際にレコード会社に売ったり、人気盤は著名DJ達、
レア盤になると作家の方々本人達や記念館等に売ったケースも
多く「メンドイので再発CD音源でもいいか」も入ってますが、
友人達の協力のもと過去売ったレコードの音源をせっせと
デジタル化して整理してます。特に再入手困難な軽音楽、エロムード等
のアルバム内の1曲を求めてガムバッテみます。
中古レコード屋なのでレコード音源の場合は少々のノイズは
許容してますのでノイズに神経質な方は御遠慮ください。
基本情報としてアーティストプロフィールを記載しますが、販売当時の
商品説明や専門誌に書いた際のレヴューが見つかり次第、
追加アップデートしていきます。
昭和の音楽を愛する皆さんのリスニングライフを豊かにするために
御自由に利用して頂ければ幸いです。
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Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.1 (1962-1967)
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
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1962年 |
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梓みちよ - ボッサ・ノバでキッス (Eso Beso)
7inch single : King Records EB-7176F
1962年11月リリース。
作詞 : 水島哲
作曲 : Joe Sherman-Neil Sherman
編曲 : 宮川泰
Paul Anka - Eso Beso (That Kiss!) のカヴァー。
ボサノヴァ (ボサノバ) の世界的な流行の中でも
このシングルで日本にボサノヴァが紹介されたのは
異例の早さであった。ボサノヴァ(Bossa Nova、ボッサ・ノーヴァ、
直訳:「新しい感覚」)は、ブラジル音楽のジャンルのひとつ。
ボッサ(Bossa)と略されることもあり、日本ではボサノバと
表記されることも多い。「ブラジルが発明した世界的に有名な
ポピュラー音楽」とも賞賛され、サンバ音楽のなかの一つの
表現方法なので、大儀としてサンバの進化過程で生れた「新しい感覚」
という位置づけになる。ジョアン・ジルベルトの試行錯誤の末
完成に近づいていったギターアルペジオによる表現は
ブラジル本国ではリオやサンパウロに住むヨーロッパ系移民など
一部の知的なファン層にしかその存在は知られておらず、
アメリカ西海岸のジャズミュージシャン達を経由して世界中に広まった。
それ故にボサノヴァをジャズの一種とする見方もあるが、
少なくとも本来のボサノヴァはサンバの一種として
定義されるべきである。
Sherman 兄弟が書いた Paul Anka - Eso Beso (That Kiss!) は
1962年10月20日にリリースされ11月3日をピークに全米19位の
大ヒットとなった。それを考えると、梓みちよの“ボサノバ娘”の
キャッチフレーズを使ったプロモーション作戦、
そのカヴァー曲「ボッサ・ノバでキッス」でのデビューというのは
世界同時発売並みの速攻であった。
「こぶし」を使って歌っているが、ハングル語の歌に聞こえるから
不思議だ。デビューシングルで力んでいるようでもある。
1970年に国鉄が行った個人旅行客の増加を目的に始めた
日本の美しさの再発見キャンペーン「ディスカバリージャパン」がヒットし、
70年代に韓国の女性歌手の李 成愛 (イ・ソンエ) が
東芝から「演歌の源流を探る」のシリーズアルバムをリリースしていったが、
李 成愛は日本的な演歌の歌唱ではなく、ねばりがないのが特徴で、
サラリとした歌い方だった。恐らくそれは意図的な戦略として所謂演歌の
こぶしを強調せずに韓国流に表現したかったのだろう。
演歌のこぶしとは、歌の中で音を一瞬だけ上下させるヴォーカルテクニックだ。
母音を2回入れるときにブレをつくることで「こぶし」になり、
例えば「あなたに会いたくて」という歌詞の「あなたに」の箇所を「こぶし」を
効かせて歌う場合は、伸ばす際に「に」の母音である「い」を2回歌う。
「あなたにいぃー会いたくて―」と変える歌唱方法である。
そして「こぶし」から派生し昭和歌謡曲の歌唱方法で良く使われた
得体の知れぬ強調表現「パンチの効いた」というのがある。
「パンチの効いた」とは迫力があり、相手に強い印象や感動、刺激を
与えるさまを意味する慣用句だ。現代用語の「エッジ」を効かせた歌い方
とは異なる「パンチの効いた」歌い方とは、語尾のイントネーションで
「う〜おっ」や「お〜うっ」ひどい時は「お〜いっ」や「〜い〜〜〜っよ」
と強調することだ。例えば杉良太郎の名作「君は人のために死ねるか」を
鼻歌で歌っていて語尾に気持ちよく「あいつの名はああ、ポリースマンっよ」
と存在しない「っよ」を入れてしまう。これが無意識のうちに出したパンチ、
神の左ストレートである。話が若干横にそれたが、本件この歌で無意識のうちに
「パンチの効いた」歌い方で「う〜おっ」や「お〜うっ」を強調している
梓みちよだが、良く聴いているとこの「パンチ」という迫力は韓国語の
イントネーションである語頭(最初の文字)が平音で始まる場合に、
最初の音を低く2番目の音を高く発音することが正体である事が解る。
一息で発音される部分はとりあえずずっと低く発音し、切れ目のところで
クイッと上げて発音する歌唱法で、それが迫力「パンチ」となったのだろう。
この歌唱法は普及し、特にGS期でビートサウンドを歌う女性歌手に
求められた。そしてそれで成功を収めたのは弘田三枝子である。
私個人的には宮川泰先生の奥様と懇意にさせて頂いていたので
宮川先生の生前にこの作品についてお話を伺わせて
頂けていたらと思う。ただしこのシングルはアメリカから
輸入してきた流行のダンス音楽「ボサノヴァ」の日本初紹介であり、
本当の意味でギターアルペジオによる感傷的な表現によって日本の
作家やミュージシャン達が覚醒し、和ボサをダンスミュージック
から深夜のリラクゼーションミュージックへと昇華させる
前の段階である。先ずは「千里の道も一歩から」といったとこ。
梓みちよ (あづさ みちよ : 1943年6月4日 - 2020年1月29日)
歌手、女優。本名は林 美千代 (はやし みちよ)
日本統治下の朝鮮釜山市生まれ。福岡県福岡市博多区出身。
福岡女学院中学校・高等学校2年中退。
宝塚音楽学校中退 (入学時の同期には紺 早千子こと堀内美紀がいた)。
1960年代から1970年代を中心にヒットを飛ばし
アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。
1960年、福岡女学院高校を2年で中退して宝塚音楽学校に入学。
同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、
上京し契約する (同校は中退) 約1年間のレッスンを経て、
1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズで
キングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、
歌手として本格的に活動を始める。
芸名の名付け親は渡辺プロダクション創業者の渡辺晋。
「梓弓のようにしなやかで強くなって欲しい」の意味で
名付けられたという。
1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として
発表された「こんにちは赤ちゃん」 (作詞・永六輔、作曲・中村八大)
が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。
また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、
人気歌手としての地位を得た。また同曲は翌1964年3月の
第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用された。
更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた
学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前で
この歌を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の
天覧歌謡曲となる。しかしその後は歌手として人気が一時低迷、
1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』まで7年連続出場していた
紅白歌合戦も翌1970年に落選、1973年まで4年間出演出来なかった。
1971年に俳優の和田浩治と結婚したが、翌1972年に離婚している。
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宮川 泰 |
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梓みちよ - 恋のゆきどまり (He Who Laughs Last)
7inch single : King Records EB-7176F
1962年11月リリース。
作詞 : あらかはひろし
作曲 : Jack Keller-Carole King
編曲 : 宮川泰
Freda Payne - He Who Laughs Last のカヴァーでこの曲は
Freda Payne のシングル "(Desafinado) Slightly Out Of Tune"
(Antonio Carlos Jobim-Newton Mendonca が書いた"Desafinado"
の英語ヴァージョン) のB面として1962年9月にリリースされた。
梓みちよのデビューシングルのB面。
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1963年 |
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小林 旭 - アキラでボサ・ノバ
7inch single : Columbia SA-1056
1963年2月リリース。
作詞 : 水島哲
作曲 : 狛林正一
演奏 : 河辺公一とスイング・ジャイアンツ
日活映画「唄う暴れん坊」主題歌。
1963年2月に発表されたノリの良いラテン歌謡で、この曲は
洋楽カヴァーではない、和製ボサノヴァ第1号となる。
実際には陽気なサンバであり、常磐ハワイアンセンターや
リゾートホテルのステージで歌うようなノリのダンスチューンである。
作曲は狛林正一 (こまばやし しょういち) でこの人は当時
コロムビアで小林 旭や美空ひばりのヒット曲を書いていた。
当時の映画はエンターテインメントの中心で
映画俳優のトップクラスになればテレビ俳優と違って
ステージで歌える事が必須だった。
石原裕次郎と並ぶ日活のスターだった小林 旭は1958年(昭和33年)、
日本コロムビアより「女を忘れろ」で歌手デビューした。
第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、
ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名される。
その後、美空ひばりと雑誌での対談をきっかけに交際を始める。
結婚などはまだ考えていなかったが、ひばりの意を汲んだ父親代わりの
山口組三代目・田岡一雄から強引に頼まれ拒めず、1962年(昭和37年)
5月29日、ひばりとともに会見を開き婚約発表した。
同年11月5日、日活国際ホテルで挙式した。「(結婚生活では)ひばりは
懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』
で述懐している。小林とひばりは、ひばりの母の反対で戸籍上は
入籍していない事実婚で、戸籍上はひばりは生涯独身であった。
そんな頃の美空ひばりのエピソードがある、当時美空ひばりが
九州から大阪へ移動する際に、広島の芸能プロモーターから
「広島で1本ショーをやって欲しい」と田岡さんの事務所へ
オファーがあった。そのオファーは許諾されたがスケジュールの
都合で横川のキャバレーでナイトショーが行われる事になり
私の友人の父親が美空ひばりの食事を用意した。
ここで美空ひばりの葛藤はキャバレーショー云々ではなく
プロとしてお客さんを楽しませる事ができる箱 (会場) なのか
音響設備なのかだった。当然プロとして依頼を受ければ
歌に自信のある美空ひばりなら当然の事で、彼女の楽隊も
納得できる音響設備を横川のキャバレーに用意させた。
このレコードがリリースされた当時の小林 旭は、美空ひばりと
結婚生活を送っていた時期で、小林 旭もプロ中のプロ。
ツイスト、ドドンパ、音頭にボサノヴァ、何を歌っても
アキラ節である、全ての音楽を自分の中に落としこめる
リズム感を持った一流のエンターテイナーであった。
私のような広島出身者にとって小林 旭さんは日活のマイトガイ
ではなく『仁義なき戦い』シリーズの天政会二代目会長の
武田明 (モデル服部武さん) であり、神戸の明石組を相手に啖呵を切る
「ほうかあ、ほいじゃあ言うとったるがのお、広島極道はイモかも
しれんが、旅の風下に立ったことは一遍もないんで。
神戸のモンいうたらネコ一匹通さんけん、オドレらよう覚えとけや」
これである、この名台詞は広島がんぼ (広島の暴れ者) の心意気を
語った有名なシーンで、小林 旭さんんが『仁義なき戦い』シリーズ
で残した数ある名台詞の中でもトップだ。
私は山下達郎さんから大瀧詠一さんのエピソードをよく伺っていたので
いつか大瀧詠一さんに会った時には小林 旭さんの話を聴きたく思って
たのもあり、大瀧さんの急逝はとてもショックだった。
小林 旭 (1938年11月3日生れ)
日活時代の愛称は「マイトガイ」、1972年(昭和47年)に東映に移籍。
1973年(昭和48年)より映画『仁義なき戦い』シリーズの
『仁義なき戦い 代理戦争』、『仁義なき戦い 頂上作戦』、
『仁義なき戦い 完結篇』の武田明役で出演。
『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』などの
東映実録映画や1978年(昭和53年)、『多羅尾伴内』のリメイク作に
出演した。
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梓みちよ - 恋はボッサ・ノバ (Blame It On Bossa-Nova)
7inch single : King Records EB-7192
1963年3月リリース。
作詞 : Cynthia Weil
作曲 : Barry Mann
Eydie Gorme のカヴァー。
この曲はボサノヴァがアメリカでブームになっていた頃に制作された。
大瀧詠一さんの「恋はメレンゲ」の元ネタとしても有名。
デビューシングルと比べてソフィスティケイトされた
サウンドに仕上がっている。
この曲はその後、麻丘めぐみも「恋はボサノバ」としてカヴァーし
1974年4月25日に発売された彼女の5枚目のアルバム『白い部屋』に
収録された。
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神楽坂浮子 - 浮子のボサノバ (Desafinado)
7inch single : Victor PV-36
1963年5月5日リリース。
訳詞 : 渡 舟人
作詞作曲 : Newton Mendonca and Antonio Carlos Jobin
編曲 : 竹村次郎
1963年に発売した7インチ・レコード「涙の紅バラ」の
B面に収録されたボサノヴァ名曲の日本語カヴァー。
Joao Gilberto - Desafinado がオリジナルではあるが
1962年9月にリリースされた Freda Payne のシングル
"(Desafinado) Slightly Out Of Tune"
Antonio Carlos Jobim-Newton Mendonca
が書いた"Desafinado" の英語ヴァージョンを
日本語訳にしたと思われる。お座敷芸者独自の
解釈で聴く者の意識をヘテロトピア異空間へと誘う。
訳詞をした渡 舟人 (わたり ふなんど) は
坂本九「戦場に陽は落ちて」、「月夜に歩けば」
平尾昌晃「バルコニーに座って〜Sittin' in」
山下敬二郎「ダイアナ」等の訳詞を手掛けた事でも有名。
渡 舟人は本名が柴崎宗佑である。
和ボサ名盤、木村ヨシコ 「リオの夜」の作詞を担当した
ホセ柴崎は作渡 舟人の変名の一つ。タカオ・カンベも同一人物。
編曲は編曲の神様、竹村次郎で当時19歳。
竹村次郎は歌手のコンサートの際のビッグバンド用の編曲を
数多くこなし、大の阪神タイガースファンであり、
阪神タイガース関連の歌の作曲も行った。
彼は作曲家というより編曲家の仕事が多く、日本レコード大賞受賞の
都はるみの「北の宿から」、大川栄策の「さざんかの宿」などを手掛けた。
後に大手芸能事務所サンミュージックの役員や顧問を務め、
同社所属歌手を中心に歌唱レッスンなどをしていた。
神楽坂浮子 (かぐらざか うきこ) は日本の芸者歌手。
1938年(昭和13年)1月15日、東京都深川で生まれる。
本名は大野景子。中学生の頃からスポーツ万能で陸上の選手を
していたが、高校入学直後に文化放送の「ものまねコンクール」
に出場し合格したことが歌手になるきっかけとなった。
レコードを出す直前に、神楽坂はん子の歌が好きだという
理由から高校を中退して神楽坂で芸者の見習いに入る。
そして、はん子の曲も多く作曲していた作曲家古賀政男の門下と
なり直接歌の指導を受け、1954年、『私なんだか変テコリン』で
ビクターから歌手デビュー。
1956年『十九の春』が大ヒットし、プロ歌手の仲間入りを果たす。
1958年には『三味線フラ』がヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場。
その後も『三味線フラ・フープ』や『三味線ドドンパ』といった
ニューリズムの日本調歌謡のヒットを次々と飛ばし、
その美貌から多くの映画にも出演した。
1961年にも『東京の下町娘』で紅白歌合戦に2回目の出場を
したりと順調な歌手生活を送っていたが、1963年に25歳で
一般人男性と結婚。間もなく長男を出産し仕事をセーブした。
金銭感覚のズレから数年後に離婚。
昭和40年代に入ると東芝に移籍し、日本調歌謡や俗曲などを発売した。
懐メロブームで『なつかしの歌声』などのテレビ番組に出演し
自身のヒット曲を披露したり、地方公演にも出演したりした。
1974年に再婚し長女を出産したが、間もなく2度目の離婚。
1979年には芸能界から完全に引退した。
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渡 舟人 (ホセ柴崎)
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竹村次郎 |
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中尾ミエ - 月夜にボサノバ
7inch single : Victor PV-37
1963年5月5日リリース。
作詞作曲 Bert Howard
訳詞 : 池すすむ
編曲 : 森岡賢一郎
月夜にボサノバ:“Fly Me To The Moon”の日本語変名カヴァー。
奇しくも神楽坂浮子の「浮子のボサノバ」Victor PV-36 の連番で
もう一つの洋楽ボサノヴァのカヴァーがリリースされた。
オリジナルは1954年 アメリカの女性シンガー Felicia Sanders が
最初に録音した曲でタイトルは「In Other Words」3/4拍子の曲だった。
1962年には、作曲家のJoe Harnellが、オリジナルの3/4拍子を4/4拍子の
ボサノヴァ調に変えたインストを発表し、ビルボードチャートに
13週間連続ノミネートされ、一般的に知られるようになる。
1962年にフランク・シナトラが「Fly Me To The Moon」という
タイトルで4拍子のボサノヴァジャズ風にアレンジして歌い大ヒットした。
森山加代子も「月へ帰ろう」のタイトルで1963年11月に
シングル (東芝 JP-5259) をリリース。
そちらはみナみかズみ (安井かずみ) 訳詞、渋谷毅の編曲。
編曲は名アレンジャーの森岡賢一郎。
指揮を平井哲三郎、高階正光、ピアノをポール・ヴィノグラドフ、
作曲を團伊玖磨にそれぞれ師事。「君といつまでも」「恋のしずく」
「ブルー・シャトウ」「今日でお別れ」で日本レコード大賞編曲賞
を受賞。作・編曲の傍ら、映画やテレビ番組の音楽監督・プロデューサー
として活動。主な作品に、映画音楽「若大将シリーズ」「宇宙からの
メッセージ」「山下少年物語」「典子は、今」など。往年の歌謡曲に
しばしばクレジットされている、ケニー・ウッド・オーケストラとは、
彼が率いていた楽団である(ケニー=賢一郎、ウッド=森岡のもじりである)。
またスマイリー小原とスカイライナーズでは首藤邦彦、鈴木庸一と
共にピアノも担当していた。
中尾ミエ (1946年6月6日生れ) 本名は中尾美禰子 (なかお みねこ)
福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。
6人兄弟。実家は書店を経営していた。
父親が事業に失敗し1958年に一家で上京、以降は千葉県市川市で育った。
精華学園中学校時代に東宝の募集に行くが、背が小さいからダメと
渡辺プロダクションを紹介される。しかし、すぐには契約してもらえず
毎日通って粘り、平岡精二のバンドに預けられ、代々木のキャンプなどで
歌った。当時はスタンダード・ナンバーを歌っていた。
1961年に渡辺プロと契約。園まり・伊東ゆかりらと
スパーク3人娘を結成。ザ・ピーナッツの後継として期待され、
クレージーキャッツ主演の『シャボン玉ホリデー』などに出演し
一時代を築く。確かな歌唱力で人気を博しアメリカンポップ系を
得意とする。16歳にしてリリースしたデビュー曲『可愛いベイビー』が
大ヒットし一躍スターの座に。両親のために家を建ててあげたいと
夢を持って芸能界へ入ったが、20歳の若さで都内に一軒家を購入し
両親へプレゼントした。その後自宅ローンも完済し、25歳になると
再度ローンを組んで両親の家の隣へ中尾自身の自宅を建て、
2023年もその家を建て替えずに何度も内外装リフォームしながら
生活している。60歳からは自宅の隣に自己所有のアパートを
建てて経営する大家でもある。
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森岡賢一郎 |
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ダーク・ダックス |
ダーク・ダックス - ボッサ・ノバ No.8
7inch single : King EB-7204
1963年5月リリース。
作詞 : 永六輔
作曲 : 中村八大
編曲 : 松原雅彦
演奏 : ブルー・コーツ・オーケストラ
ジャズピアニストでもある中村八大先生が流行音楽に着手。
ビッグバンドを従えて歌うノリの良いラテン歌謡で、この曲は
実際には陽気なサンバであり常磐ハワイアンセンターや
リゾートホテルのステージで歌うようなノリのダンスチューンである。
のっけからヤンヤンコーラスで聴く者を破顔させる
非スタイリッシュな和ボサの名作。
ダークダックス、メンバー全員、慶應義塾大学経済学部出身。
同大学の男声合唱団ワグネルソサエティのメンバーたちが、
1951年のクリスマスパーティーで「ホワイト・クリスマス」の
合唱を披露したことがきっかけで結成。
この時、パクさんこと高見澤宏が入学する前だったので
メンバーは3人だった。結成当時は JAZZ・黒人霊歌を中心に
活動していたが、のちにオリジナル楽曲やロシア民謡、山の歌、
唱歌など幅広いジャンルの楽曲をレパートリーとするようになった。
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中村八大 |
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1964年 |
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朝丘雪路 - うい・う・のん
7inch single : 東芝 TR-1130
1964年9月リリース。
作詞 : 藤本義一
作曲 : 南安雄
読売テレビドラマ「可愛い悪女たち」主題歌
藤本義一さんも凄い歌詞を書くなあと感心するが
雪路さんのコケティッシュな甘え声によって世の殿方達が
興奮して高値の売買を繰り広げてきた名盤である。
1963年11月23日早朝、世界の放送史上画期的な実験、
太平洋を越えたテレビの宇宙中継が行われ、我が国では
今か今かとその第一報を待ち構えていた。
当時は「衛星中継」と言わず「宇宙中継」と呼んでいた。
午前5時28分、モニターテレビに史上初めて太平洋を越えてきた
映像が鮮やかに映し出された。ところが、この歴史的な電波に
乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報だった。
中継のアナウンスは「この電波でこのような悲しいニュースを
お送りしなければならないのは誠に残念です」と伝え、
その衝撃は全国に広がった。
1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を
遊説中のジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に
銃撃され死亡した。世に言うケネディ大統領暗殺事件である。
日本時間、1963年11月23日の午前5時28分にテレビの
宇宙中継こと衛星中継で初めて報道された。
この歴史的大事件が理由で、アメリカでは市場の自粛ムードに
包まれた。音楽業界ではラブソングやハッピーソングの類を
メジャーレーベル達が発売をキャンセルし、リリースの回収に
追われた。それが理由で1964年にリリース予定だった
メジャーレーベルで録音されていた多くの曲は後年になって
そのままの古臭いアレンジ、または録音技術が急速に進歩
していた時期なので新しいアレンジに変えて再録音して
リリースとなった。それ故にアメリカで流行の兆しを
みせていたボサノヴァやダンスミュージックも多くが
発売キャンセルとなった。当然ながら1964年に入ってから
本来ならリリースされる筈だったアメリカの曲の日本盤シングル
の多くも販売中止となっている。
所謂俗語であるアメリカン・ポップスを先進国アメリカから
仕入れる方式の安易な洋楽カヴァー (洋楽カバー) 産業は
一時的に終焉し、もとよりヨーロッパ音楽市場の開拓路線
だった King Records キングはイタリアのカンツォーネの
輸入強化や国内シャンソン・シンガーへの依存が高まった。
我が国ではアメリカ経由のボサノヴァムーヴメントであったので
少なからずともアメリカ市場の影響を受けて洋楽カヴァーの
ボサノヴァのリリースは無くなった、当然ながら和製ボサもだ。
それ故にアメリカの音楽市場との協調路線をとる日本の
メジャーレーベル達はジャズ喫茶隆盛時代から続く所謂深夜族に
対応すべくボサノヴァ路線から独自のお色気ラウンジ路線へと
活路を開いていく。
朝丘雪路 (1935年7月23日 - 2018年4月27日)
日本の女優、タレント、舞踊家、歌手、司会者。
本名:加藤雪会 (かとう ゆきえ)、旧姓・勝田。
東京市京橋区 (現・東京都中央区) 築地生まれ。
元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水。
夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。
日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名を持つ。
山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年同校を卒業し、
宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は31人中8位。
同期の39期生には女優の真帆志ぶき (元雪組男役トップスター)、
東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組に在籍し娘役として活動。
1955年8月31日に宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は
月組公演『黄色いマフラー』。料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘
して生まれる。芸事を好んだ母の勧めで、3歳より日本舞踊を
花柳三之輔に師事。妾腹(非嫡出子)ではあるが父の伊東深水に
溺愛され育つ。泰明小学校へは養育係とともに人力車で
通学しており、養育係は登校から下校までの間、彼女を車屋と学校で
待っていた。深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていた。
それを見聞きしていた友人で阪急東宝グループの創設者である
小林一三に「このような浮世離れした生活をさせていては、
娘さんがだめになる」と意見されたこともあり、深水は渋々ながらも、
朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承したという。
1966年4月から『11PM』の金曜日のホステスを16年間務め、
大橋巨泉との名コンビで人気を集めた。
1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうける。
1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取る)。
1973年津川雅彦と再婚。1974年3月真由子を出産。
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1966年 |
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芦野 宏 |
芦野宏 - サニーと僕としあわせと
ソノシート : ダットサンサニー非売品
1966年4月23日リリース。
作詞:岩谷時子
作曲:中村八大
日産自動車ダットサンサニー1000の非売品ソノシート
ホノボノボサの決定盤! (死語)
さすが中村八大先生。ケネディ大統領暗殺事件後に
長く続いていた自粛ムードの被害を受けていたボサノヴァを
大衆車であるサニーの販売に合せた非売品ソノシートで
流布させた。しかもホノボノとした家族向け。
芦野宏 (あしのひろし : 1924年6月18日 - 2012年2月4日)
日本のシャンソン歌手、声楽家。本名:羽鳥 廣。
1924年6月18日、山形県村山市出身。
東京音楽学校 (現・東京芸術大学) 声楽科卒業後、高等学校の
音楽教師を経てシャンソン歌手に転向。
1953年に『虹のしらべ』(NHKラジオ第一放送)に出演して
デビューを果たす。
1956年に渡欧し、フランス・パリのオランピア劇場にアジア人
として初出演を果たし、1960年にはフランス国営放送(RTF)
のテレビ番組にてワンマンライブショーを行った。
日本に於ける1950年代後半から1960年代前半にかけての
シャンソン・ブームの立役者のひとりでもあり、『NHK紅白歌合戦』
には1955年から10年連続出場を果たしている。
また、俳優としてもテレビドラマ『コメットさん』(1967年 TBS)
や映画『天使の誘惑』(1968年 松竹)に出演している。
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中村八大 |
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朝丘雪路 - 別れのボサノバ
7inch single : Crown CW-525
1966年6月10日リリース。
LP : ふり向いてもくれない
Crown LW-5134
1966年8月1日リリース。
作詞作曲 : 米山正夫
編曲 : 小杉仁三
演奏 : クラウン・オーケストラ
「朝丘雪路、熱くボサノヴァを唄う!」とキャッチコピーを
書きたくなるようなサウンドだ。
ビートルズが1966年6月29日に日本に初上陸した。
それに触発され1967年春からグループ・サウンズ
所謂 GS が大ブームとなる。
ビートルズ来日前夜の1966年6月10日にシングルリリース
された「別れのボサノバ」はビッグバンドを配した
ビートチューンで、我が国の当時の大衆音楽としては
かなり最先端のサウンドである。
曲を手掛けた米山正夫は日本コロムビア専属。
別名に勝沼久、Jason Albert がある。生涯に1000曲以上を作曲し、
美空ひばりの「リンゴ追分」など昭和のヒット曲を数多く手がけた。
1963年にはクラウンレコード創設と共に同社の専属になり、
西郷輝彦「涙をありがとう」、美樹克彦「花はおそかった」、
水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」、小林旭「赤いトラクター」、
同じくヤンマーの『ヤン坊マー坊天気予報』のテーマ曲として
お馴染みの「ヤン坊マー坊の唄」、美川憲一「おんなの朝」など
多くのヒット作品を残した。
編曲は小杉仁三。昔持っていた小杉さんの写真が紛失したので
小杉さんの画像掲載は諦めた。小杉さんは日本クラウンと専属契約
していた時期があり、その時期にクラウン以外で活動した際には
ありたあきらの別名を使用していた。
例えば、ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」(編曲 ありた・あきら」)
小杉さんが編曲を手掛けた歌謡曲は多数ある。小林旭
「恋の山手線」(作曲:浜口庫之助)から美川憲一
「柳ヶ瀬ブルース」(作曲:宇佐英雄)他挙げれば切がない。
小杉仁三は昭和歌謡を代表するアレンジャーである。
朝丘雪路 (1935年7月23日 - 2018年4月27日)
日本の女優、タレント、舞踊家、歌手、司会者。
本名:加藤雪会 (かとう ゆきえ)、旧姓・勝田。
東京市京橋区 (現・東京都中央区) 築地生まれ。
元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水。
夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。
日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名を持つ。
山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年同校を卒業し、
宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は31人中8位。
同期の39期生には女優の真帆志ぶき (元雪組男役トップスター)、
東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組に在籍し娘役として活動。
1955年8月31日に宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は
月組公演『黄色いマフラー』。料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘
して生まれる。芸事を好んだ母の勧めで、3歳より日本舞踊を
花柳三之輔に師事。妾腹(非嫡出子)ではあるが父の伊東深水に
溺愛され育つ。泰明小学校へは養育係とともに人力車で
通学しており、養育係は登校から下校までの間、彼女を車屋と学校で
待っていた。深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていた。
それを見聞きしていた友人で阪急東宝グループの創設者である
小林一三に「このような浮世離れした生活をさせていては、
娘さんがだめになる」と意見されたこともあり、深水は渋々ながらも、
朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承したという。
1966年4月から『11PM』の金曜日のホステスを16年間務め、
大橋巨泉との名コンビで人気を集めた。
1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうける。
1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取る)。
1973年津川雅彦と再婚。1974年3月真由子を出産。
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米山正夫 |
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1967年 |
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浜口庫之助
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伊集 加代子 |
浜口庫之助 & 伊集加代子 - Driving Love
7inch EP : Driving Bossa Nova -爆走-
Seven Seas PP-127
1967年1月リリース。
作曲 : 浜口庫之助
編曲 : 沢田駿吾
演奏 : 沢田駿吾クインテット+2
コーラス : 浜口庫之助, 伊集加代子
東宝映画「爆走」のテーマで映画公開に先駆けて
リリースされた、言わば映画のプロモーション的な扱い。
しかし政治的な犠牲となった世界のボサノヴァシーンの中で
1967年初頭に我が国でこの作品が生み出された意味は大きい。
ボサノヴァ生産地のブラジルでは1961年に就任した
ジョアン・ゴラール (通称・ジャンゴ) 大統領による左派政権の
失敗によってインフレが加速しブラジル国民は貧困に苦しむみ
暴動期に入った。
その一方1963年には、ジョアン・ジルベルトがアメリカの
ジャズ・サックス奏者スタン・ゲッツと共演した
ボサノヴァ・アルバム『ゲッツ/ジルベルト』が制作され
アメリカで大ヒットした。特にこの中でジョアンの当時の妻
アストラッド・ジルベルトが英語詞で歌った「イパネマの娘」は
爆発的な売り上げを記録しアメリカの大衆にボサノヴァを浸透させた。
しかしゲッツのジャズ・アドリブパートが大きくフィーチャーされた
構成であることや「イパネマの娘」のシングル盤ではジョアン・ジルベルト
のポルトガル語歌唱の部分がカットされてしまったこともあり、
アメリカの大衆は「ボサノヴァはジャズの一種でゲッツが創りあげた」
「ボサノヴァを代表する歌手はアストラッド」という極端な
誤解をしてしまった。しかしアストラッド・ジルベルトは
その独特な歌唱スタイルから聴衆にアピールする力があり
アメリカでの音楽活動のなかでボサノヴァとジャズ・スタンダードの
橋渡し的存在となった。またケニー・ドーハムやハンク・モブレー、
バド・シャンク、ジーン・アモンズ、ミルト・ジャクソン、
ポール・デスモンド、ズート・シムズ、チャーリー・バード、
ハービー・マンらのジャズ・ミュージシャンも
ボサノヴァ・アルバムを発表した。
しかし1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件があって
アメリカ音楽市場の自粛の影響をモロに受けた日本の
洋楽カヴァー市場、そして未成熟だった日本のボサノヴァ産業は
突如として空白期を迎えた。
1964年にアメリカ合衆国が支援するカステロ・ブランコ将軍は
クーデターによってジョアン・ゴラールを失脚させ、
軍事独裁体制を確立すると親米反共政策と、外国資本の導入を柱に
した工業化政策が推進された。
カステロ・ブランコによるブラジルの軍事独裁政権樹立と
それに伴う強圧的な体制は「リオの有閑階級のサロン音楽」的な
傾向のあったボサノヴァを退潮させる要因となった。
セルジオ・メンデスやカエターノ・ヴェローゾなど決して
少なくないボサノヴァ音楽家たちが国外へ半亡命的な形で去り、
アメリカやフランス等のミュージックシーンに足跡を残した。
上記のような政治的な背景でボサノヴァは混迷期から徐々に
音楽市場で復活し始めていたのだが政治的背景の違いと
需要のターゲットの違いから本国ブラジルと日本での
ボサノヴァは異なる成長をしていく。
このブラジル政治の歴史から、1960年代初頭の貧困時期から
1964年に起こったクーデターによる軍事政権樹立後も
ボサノバの歌詞は政権批判の暗喩や、サウダージ(ポルトガル語:
Saudade, サウダーデとも)と言われるスローバラードで郷愁、憧憬、
思慕、切なさ、と同様にブラジル国民の悲しみを歌詞にして
歌われている。それは公民権運動の Bob Dylan "Blowin' in the Wind"
や、日米安保闘争の西田佐知子 "アカシアの雨がやむとき" のように
国民の連帯感によって政府への抗議ソングへと化していった。
しかし日本では高度経済成長の側面を物語るように
当初はダンスミュージックとして紹介されたボサノヴァだったが
深夜のリラクゼーションを与える音楽として成長していく。
東宝映画「爆走」は1967年2月4日に劇場公開された。
「他人の顔」の勅使河原宏が監督し、「紀ノ川」の成島東一郎が
撮影したインディレース長編記録映画。
1966年10月8日と9日に富士スピードウェイで行なわれた
インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース、
通称インディレースを中心に構成されている。
ロミ山田が原宿族と呼ばれるスピード狂の若者たちに
インタビューして現代におけるスピードの意味を聞く。
その後、羽田に降り立つレーサーたち、彼等の練習風景、
修理に取り組むメカニックたち、盛大な開会式などの描写が続き、
いよいよ決勝レースを迎える。この部分は120人のスタッフと
26台のカメラを駆使して撮影された。
選手は主に、ジャッキー・スチュアート、グラハム・ヒル、
ジム・クラーク、マリオ・アンドレッティー、
ビリー・フォスター、クリス・エーモンらが登場する。
音楽 : 浜口庫之助, ナレーション : 小沢昭一
浜口庫之助 (はまぐち くらのすけ : 1917年7月22日 - 1990年12月2日)
日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。
兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。
パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。
1917年、兵庫県神戸市に生まれる。浜口の父は建設会社を経営する実業家で、
家庭環境は非常に裕福だった。家族の多くが音楽好きで兄弟はチェロ、
ギター、ウクレレなどを嗜んだ。浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、
5歳の時には楽譜を読めるようになった。
小学2年の時に一家は東京へ引っ越した。東京府立第四中学校に進学した
浜口は旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)入学を
目指し勉学に励んだが受験に失敗し、1935年、早稲田大学高等予科
(現・早稲田大学高等学院)に入学するが翌年に中退した。
1936年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、
ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを
掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。
この夢は翌1937年になって実現しかけたが、日中戦争の開戦が近い
という情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した。
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが社会人として働くには
学歴が必要だと悟り退社。1939年に青山学院高等商学部に入学した。
当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、
大学内で立教大学や慶應義塾大学など他大学の学生と
一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した。
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で
農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。
浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に
歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。
太平洋戦争終結後捕虜となり、1946年5月に引き揚げ。東京でバンドを組み、
進駐軍を相手に演奏を行った。その後灰田勝彦の誘いを受けて灰田が
メンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなったり、
自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を
結成して音楽活動を続ける。「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として
1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。
1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術を
お見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を
演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと
認識するようになりバンドを解散、歌手活動を停止し作詞家・作曲家へ転向。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、
作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」
のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで
数々のヒット曲を生み出すようになった。また「有難や節」を題材にした
日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1963年、妻、邦子と死別。この年公開された映画「拝啓天皇陛下様」
には、容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演した。
1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、
ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子を
スターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞・作曲賞
を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を
世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを
得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女をもうけた。
晩年の1987年には島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」が大ヒットした。
1989年テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当した。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から
叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」
という思いから辞退した。1990年12月2日、喉頭癌のため東京都豊島区の
癌研究会附属病院にて死去、73歳没。クリスチャンであったため、葬儀は
東京都千代田区飯田橋の富士見町教会で営まれた。
伊集 加代 (いしゅう かよ、1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
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沢田駿吾 |
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堀内美紀 |
堀内美紀 - 水晶の瞳
7inch single : King Records BS-581
1967年2月1日リリース。
作詞 : 保富康午
作曲 : 若松正司
編曲 : 半間巌一
1967年2月1日にリリースされたデビューシングルのB面。
昭和歌謡という怪物は世界中の流行音楽のエッセンスを
食いながら大きく成長していく。そんな昭和歌謡の成長過程で
ついに美しくも完成度の高い和製ボサノヴァの作品が出現した。
これには隔世の感がする。歌謡曲然とした愛憎リリックスを
堀内美紀によるウエットな艶声に抑制の効いた歌唱法で聴かせる。
特に女性語の終助詞「〜よ」を忠告/命令文 + 「よ」に交差させる
60年代特有のトリッキーな表現法で歌っており、それでかつ時折
聴かせる小さなブレスからは軽やかなフェミニンが感じられる。
サンバ・カンサォンをベースにし、スタンダードなボサノヴァリズム
にブレンドされたフルートはフローラルな香りをまとわせて宙に舞う。
仄かに冷たさを落とし込むピアノとメランコリックなアルペジオギター
のマリアージュは、歌われている女性の心情風景である
冷たい水晶と哀しい涙との対比を見事に表現している。
堀内美紀は神奈川県鎌倉市出身、フェリス女学院卒。
宝塚歌劇団48期生 (1960年に宝塚音楽学校に入学) で芸名は
紺 早千子 (こん・さちこ・ニックネームはジャッキー) だった。
この48期生は入学時には77人がいたが、2人が中退。
そのうちの一人が後に梓みちよとして芸能界にデビューする。
彼女は1962年には紺 早智子名義でNHKドラマ「海の記憶」、1963年に
関西テレビドラマ「裸の恋人」そして1964年にNHKドラマ「泉はかれず」
に出演しており宝塚在籍中にもドラマ女優として活躍していた。
1964年から1966年まで月組に在籍そして1966年に宝塚を退団し、
芸名を堀内美紀とした。歌手デビュー当時に上月晃を好きな歌手に
挙げており、本人はシャンソン歌手志望だった。
加山雄三の若大将シリーズの、ヒロイン澄ちゃんこと星 由里子は
熱烈な宝塚歌劇のファンで、芸能界入りのきっかけは宝塚だった。
星 由里子は1958年5月の東宝劇場月組公演「ブロードウェイ・シンデレラ」
に因んだ、宝塚シンデレラ娘で1位になり、その後に宝塚音楽学校には
行かずに、東宝映画との専属契約を結んだ。
その時の2位は月組の娘役になった紺 早智子(後の堀内美紀)で、
宝塚現役時代に、シンデレラ娘コンテストの2位になったのが
凄く悔しかったと言っている。
1968年にはTBSドラマ「泣いてたまるか 家つき、カーつき、ババアつき」、
日本テレビのドラマ「東京バイパス指令」に堀内美紀名義で出演しており、
その美貌から歌手と女優の仕事を続けていた。
ドラマ出演としては1980年のTBS「四季・奈津子」が最後に
確認されている。その後、堀内美紀は当初の志望だったシャンソン歌手
として活躍をする。
曲を書いたのは「NHKみんなのうた」でもお馴染み
若松正司 (わかまつまさし) さん。
作曲を服部正、指揮を高階正光に師事し1955年のNHKのオーケストラ
番組の編曲担当をきっかけに恒常的にレギュラー番組を担当。
以後、NHKみんなのうたなどNHKの番組を中心に幅広く活動。
1993年に第23回日本童謡賞受賞。日本大学習志野高校の応援歌を
作曲した。(作詞:山上路夫)
作曲家の若松歓は息子にあたる。ヤマハ音楽振興会理事や
日本作曲家協議会監事、日本童謡協会常任理事などを歴任した。
アレンジを担当したのはアイ・ジョージ『紅子のバラード』の編曲や
『怪獣王子』の作曲でも有名な半間巖一さん。
半間巖一さんは堀内美紀『愛が死んでも』『エヴァの恋人』
『ミスティ東京』でもアレンジを担当した。
因みに、1970年のサンドラ・アレキサンドラのアルバム
サンドラと12人の侍たち Sandra & Her 12 Samurai (Columbia JDX-45)
でもアレンジをされている。
半間 巖一 (はんま げんいち) 作曲家、編曲家。
戦後のジャズ全盛期、中央大学在学中に学生バンド結成、
ジャズコンで競い合い、プロの資格も取得。
当時、日本を代表する音楽誌「スイングジャーナル」の日本JAZZ人気投票
第1位に選ばれる。NHK 出演の折に見出され海外放送を皮切りに
ラジオ時代の『紅白歌合戦』第1回から参加。のちに音楽責任者を務める
ことになる。NHKラジオ日曜 朝9時に放送されていた『音楽夢くらべ』では、
即興のピアノ伴奏を11年間担当(幼少の吉永小百合が2回出演し、
ともに天才賞を戴いた)。『世界の音楽』『立体音楽堂』『花の星座 』に出演。
NHKオールスターズ オーケストラの専属 作編曲家に。
代表作「ヴィヴァ NHK」は、『紅白歌合戦』でも演奏される。
数々の一流バンドに在籍、著名歌手 有名バンドに関わり、
作編曲(美空ひばり 江利チエミ フランク永井 坂本九
原信夫とシャープスアンドフラッツ 来日時にレコーディングした
ポール・アンカほか)が認められ地位を確立する。
TV時代に入り、NHKや民放の看板音楽番組も数知れず担当。
博覧会のために『EXPO '70 大阪万博 エレクトロニクス噴水の音楽』
『沖縄海洋博 アクアポリスの音楽』を手掛ける。
歌舞伎とジャズの結び付き、東宝歌舞伎『長谷川一夫 沓掛時次郎
舞踏・春夏秋冬』『石橋(しゃっきょう)』
1970 - 1990年代『TBS 日本レコード大賞』音楽監督。
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若松正司
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半間巖一 (左は八代亜紀) |
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ヘレン・メリル |
ヘレン・メリル - 信じていたい
LP : Bossa Nova In Tokyo
Victor SJET-7932
1967年リリース。
Recorded March 26 and 31, 1967 at Victor Studios, Tokyo.
作詞 : 塚田茂
作曲 : 宮川泰
編曲 : 前田憲男、渡辺貞夫
プロデューサー : Yoshihisa Honda
演奏 : 渡辺貞夫 Quintet And Strings
西田佐知子のカヴァー。
ウォッカ・コリンズのアラン・メリルの母だからといって
友達のお母ちゃん的に聴いたら大間違いである。
アラン・メリルの母君はアメリカを代表する
フィメールシンガーなのだから。大人のフェロモンが
悶々と漂い、ナベサダクインテットが心地よい
サポートをしている。
昭和初期、服部良一は本格的なジャズの作曲・編曲でヒット曲を連発した。
彼が和製ポップスのヒントとしたのは『民謡』だった。
佐々紅華 (さっさ こうか)、服部良一たち昭和初期にジャズの影響を
受けて新しい音楽を作っていた作曲家たちは、単にコピーするのではなく、
日本的な音楽を作ることが頭にあった。その時、日本的な素材として
民謡が取り上げられた。そのような状況だったので我が国の
流行歌は『民謡』と『ジャズ』のミクスチュアー的な要素を含んでいた。
ここで行われたのは昭和歌謡とボサノヴァの融合であり
ジャズクロスオーヴァーの領域である。
これは日本のジャズミュージシャンたちによるアイデンティティの
確立であり、1960〜70年代にかけて、日本のジャズマンは盛んに
日本独自の表現を模索していった。
このアルバムは1967年3月26日と31日に東京で録音され、
前田憲男と渡辺貞夫がアレンジを手掛けている。
ヘレン・メリル (Helen Merrill) はアメリカ合衆国の女性ジャズ歌手。
本名はイェレナ・アナ・ミルチェティッチ(Jelena Ana Mil?eti?)。
そのハスキーな歌声は、しばしば「ニューヨークのため息」と評される。
ニューヨーク生まれ。両親はクロアチア人移民だった。
14歳でブロンクス区のジャズクラブで歌うようになり
1946年から1947年にかけて、レジー・チャイルズ・オーケストラ
というビッグバンドの一員として活動。1948年、クラリネット奏者の
アーロン・サクス(Aaron Sachs)と結婚するが、1956年に離婚。
2人の長男のアラン・メリルは、後に元ザ・テンプターズの大口広司と
共にウォッカ・コリンズで活動したシンガーソングライター、
ギタリスト、また英国でのアイドルバンド、アローズの時代1975年の
世界的大ヒット曲「アイ・ラヴ・ロックン・ロール」
(I Love Rock 'n' Roll) の作詞・作曲家、パフォーマーでもある。
1960年11月、初の日本公演を行う。1963年にも日本を訪れ
山本邦山等と共演。1966年頃、UPI通信社のアジア総局長
ドナルド・ブライドンと2度目の結婚し、それを機に日本に移住。
以後、渡辺貞夫との共演盤『ボサ・ノヴァ・イン・トーキョー』、
猪俣猛とウエストライナーズとの共演盤『オータム・ラヴ』、
佐藤允彦と共に制作したビートルズのカヴァー集
『ヘレン・メリル・シングス・ビートルズ』、そして当時やはり
日本在住だったゲイリー・ピーコックとの共演盤『スポージン』等を発表。
その後、ブライドンと離婚し、1972年にはアメリカに帰国して
音楽活動を停止するが、1976年にはジョン・ルイスとの
共演盤『ジャンゴ』を発表し、活動再開した。
前田憲男 (まえだ のりお 本名:前田 暢人 まえだ のぶひと、
1934年12月6日 - 2018年11月25日)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。
大阪府出身。小学校教師であった父より、幼少より読譜を学ぶ。
大阪府立桜塚高等学校卒業と同時に、プロのジャズピアニストとして
活動を開始。ピアノ・指揮法とも独学で習得する。1955年に上京、
名門ジャズバンド「西條孝之介とウエスト・ライナーズ」などのメンバー
として活躍。以後、様々なバンドに参加する一方、数多くのテレビ番組の
テーマ音楽を手がける。特に、テレビ番組で共演し、共に昭和9年生まれの
芸能人の会「昭和九年会」のメンバーでもある大橋巨泉とは親交も深く、
巨泉が出演した番組のテーマ音楽の大半を手がけている。
1970年にはTBS系列以外のフジテレビ・日本テレビ・NETテレビ→全国朝日放送
東京12チャンネル→テレビ東京が「打倒!レコード大賞」を合言葉に創設した、
日本歌謡大賞のテーマソング『日本歌謡大賞讃歌』の編曲や
テレビ朝日『題名のない音楽会』やフジテレビ『シオノギ・ミュージックフェア』
などあらゆる音楽番組でも活躍していた。
またビッグバンド向けのアレンジも数多く手がけるほか、
東京フィルハーモニー交響楽団のポップス部門音楽監督として、
編曲・指揮を担当していた。晩年は荒川康男(B)・猪俣猛(Drs) との
ピアノトリオ「WE3」の他、「前田憲男とウインド・ブレーカーズ」
を中心に活動していた。以前はこれに加えて佐藤允彦・羽田健太郎との
ユニット「トリプルピアノ」でも活動していたが、メンバーの1人である
羽田の死去により、2008年4月4日のサントリーホールでの公演を最後に
活動を終了している。また、独学で取得した独自の音楽理論を持つ事で
知られており、2003年からは大阪芸術大学音楽学科教授を務めていた。
1981年に東京音楽祭「最優秀編曲賞」、1983年に第20回日本レコード大賞
「最優秀編曲賞」・ジャズ界の最高位に価する「南里文雄賞」、
2008年にレコード大賞「功労賞」、2015年に第6回岩谷時子賞・特別賞を受賞。
晩年までライブを中心に音楽活動を続けてきたが、2018年11月25日、
肺炎のため東京都内の病院で死去。83歳没。
訃報は2日後の同月27日に所属事務所により発表された。
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渡辺貞夫
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前田憲男 |
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ヘレン・メリル - 夢は夜ひらく
LP : Bossa Nova In Tokyo
Victor SJET-7932
1967年リリース。
Recorded March 26 and 31, 1967 at Victor Studios, Tokyo.
作詞 : 富田清吾, 中村泰士
作曲 : 曽根幸明
編曲 : 前田憲男、渡辺貞夫
プロデューサー : Yoshihisa Honda
演奏 : 渡辺貞夫 Quintet And Strings
園まりのカヴァー。
感情のウェイトを置く部分が微妙にズレる事から
異様な浮遊感を醸し出している。
原曲は、東京少年鑑別所(練馬少年鑑別所、通称ネリカン)
で歌われていた俗曲を採譜・補作し、曽根が自ら「藤原伸」名義で
1966年に歌った『ひとりぽっちの唄』テイチクSN-301
作詞:川上貞次(曽根のペンネーム))である。
その後、歌詞・曲名を新たにつけかえ、
園まりが歌うことになった。
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沢田駿吾 |
沢田駿吾と彼のグループ - 君こそわが命
LP ギターの全て〜小指の思い出
King Records SKK 346
1967年6月20日リリース。
作曲 : 猪俣公章
編曲 : 沢田駿吾
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 広瀬三貴男
Drums : 日野元彦
Piano : 世良譲
Flute : 宮沢昭
Tenor Saxophone : 西条孝之介
水原弘のカヴァー。
叙情的なメランコリックギターで幕を開け
タイトなリズムで猪俣公章作品をボサに仕上げた傑作カヴァー。
軽やかな宮沢昭のフルートも心地よい。
本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』(1944年アメリカ映画)を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送(現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。
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ユキとヒデ - 白い波
7inch single : Polydor SDP-2006
1967年7月5日リリース。
作詞 : 水木英二 (出門英)
作曲編曲 : 渡辺貞夫
1963年のヒット曲 Ruby And The Romantics "Our Day Will Come"
をベースに書かれたのが良く解る。この曲の大ヒットにより
世界中にその亜流が増殖したが、本件では渡辺貞夫の演奏
によるフルートと思われるが、そのアレンジがアメリカの
フラワームーヴメント期のカヴァーアレンジに似ており
流行の直輸入といったサウンドにしている。
アン真理子, 出門英
アン真理子 (本名 佐藤ユキ) 日劇のダンサー兼コーラス員としてデビュー。
その後、平岡精二クインテット等のソロ歌手となる。
1966年、水木英二 (日活ニューフェース) の芸名で俳優活動をしつつ
ソロ歌手として『東京ロマンチックガイ』(東芝レコード、1962年)で
デビューした出門ヒデと、日劇のダンサー兼コーラス員としてデビュー後
平岡精二クインテット等のソロ歌手だった佐藤ユキが結成した
ボサノヴァ・デュオ。
1966年、東京ヒルトンホテルのスター・ヒル・プラザに出演
していたときに、出門ヒデと「ユキとヒデ」を結成。
翌1967年、デビューシングルをリリース。
2人は生年月日がまったく同じという設定だった(実際にはヒデが3歳上)。
1967年1月、ラジオ番組『どこか遠くへ』(TBSラジオ)開始。
初代アシスタントを務めた。
ユキとヒデとしての活動と平行して、ソロ歌手藤ユキ(ふじ ユキ)
としても活動。前者デュオはポリドールだが、
後者ソロではビクター所属であった。
佐藤ユキ (アン真理子) は2枚目のシングル「スノー・ドルフィン・サンバ」
で矢野育子(2代目ユキ)にメンバーチェンジした。
矢野育子は三枝伸とデイ&ナイツに参加したのち、ユキとヒデの
2代目ユキとなる。その後、「捨てられた人形」(1971.5.25発売、キャニオン)
でソロデビュー。
1968年、解散。同年、ヒデは「ヒデとロザンナ」を結成した。
1968年、ユキとヒデ解散。藤ユキ名義の活動は続行。
(ヒデは同年、ヒデとロザンナを結成)
1969年、ソロ名義もアン真理子と改称、再デビューを果たす。
アン真理子、佐藤由紀 (さとうゆき) 名義で作詞家として活動した。
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渡辺貞夫 |
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ユキとヒデ - 長い夜
7inch single : Polydor SDP-2006
1967年7月5日リリース。
作詞 : 水木英二 (出門英)
作曲編曲 : 渡辺貞夫
1968年11月2日に公開された日活映画
『BG、ある19才の日記 あげてよかった!』の挿入歌。
ただしクレジットロールでは「ヒデとロザンナ」と誤植されている。
注視すべきは「長い夜」は渡辺貞夫が作者であり、
渡辺貞夫が Takt 時代に書いた曲の版権が曖昧であることだ。
ヒデとロザンナが1968年10月15日にリリースしたデビューシングル
A面「愛の奇跡」、B面「何にも言えないの」も一緒にこの映画の
挿入歌で使われているがこの2曲にはコロムビアレコードと
クレジットされてるが、本件ポリドール音源のユキとヒデ「長い夜」
にはレコード会社はクレジットされず3曲まとめるように
左端に唄 ヒデとロザンナ とクレジットされている。
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ユキとヒデは当初佐藤ユキ (アン真理子)と出門英が結成し、
このデビューシングルを1967年7月5日にリリースした。
しかし1967年10月15日にリリースしたセカンドシングル
スノー・ドルフィン・サンバ / 恋のスノー・ドルフィン
(Polydor SDP-2015) の時には佐藤ユキ (アン真理子) は脱退し
三枝伸とデイ&ナイツのメンバーだった矢野育子が2代目ユキ
としてユキとヒデを継続させた経緯がある。
ブラジル日系二世で当時16歳の泉田エミイが渡辺貞夫セクステット
をバックに歌って1967年10月12日にソノシートの朝日ソノラマ K-19
でリリースした渡辺貞夫作品「キューピッヅ・ソング」(後に Takt TS-301
で1968年3月25日にシングルとしてリリースされる) をユキとヒデは
タイトルを「恋のスノー・ドルフィン」と変えてリリースした。
しかしこの映画が公開された1968年11月2日の前に、
恐らく8月から9月には実質的にユキとヒデは解散していた。
と同時にヒデこと出門英は後に妻となるイタリア出身の
ロザンナ・ザンボンとの男女デュオ「ヒデとロザンナ」を
結成する準備をしていた。このロザンナはは1950年7月3日に
イタリア・ヴェネト州スキオで生れた歌手。
1967年、日本で彼女の兄フラビアーノ・ザンボンが所属する
カサノヴァ7の編曲をしていた叔父ブルーノ・ダラポッサの勧めで、
音楽学院を卒業と同時にグループ歌手として17歳で来日。
と言うことはヒデと出会えたのは夏以降になる。
ヒデとロザンナはユキとヒデの1967年のデビュー曲「白い波」を
アレンジを変えて1968年夏に録音しており、そのトラックは
1971年11月10日にリリースされたアルバム Duet! Duet! Duet!
(Columbia JDX-57) に再アレンジを施して流用した。しかも1977年の
アルバム「追想」(Reprise Records L-10094R) にも収録されている。
これで解るように渡辺貞夫が Takt 時代に書いた曲の版権が
とても曖昧なので、本件日活映画に挿入されたユキとヒデの音源を
意図的にヒデとロザンナとクレジットさせたかった人物が
今は亡きヒデさんだったのではと私は推測している。
日活映画『BG、ある19才の日記 あげてよかった!』
BG (ビジネス・ガール) たちが悩むセックスのモラルを鋭くつき、
真実の愛の姿を描いた異色の青春大作。
才賀明と山崎巌が、週刊女性に投書された身上相談をヒントに
シナリオを執筆し、丹野雄二が監督昇進第一作のメガホンをとった。
鎬木敬子役の主演は西恵子、その彼氏三木順造役が和田浩治、
上司の加納守人が二谷英明、太田雅子(梶芽衣子)、浜川智子、
青島幸男、関口宏、藤江リカ、長門裕之らが出演した。
大都会のネオンに彩られ、今日もオフィス・レディたちが華やかな
嬌声をあげながら帰途についていた。日東ゴムでタイピストとして
働いている鎬木敬子は、恋人の三木順造とのデートで身体を求められた。
順造をはねのけた敬子は、家路を急ぎながら「決してあの人が嫌いじゃない、
でも結婚するまでは処女をあげたくない」と自分に言い聞かせていた。
ところが妹の敏子から「姉さんはズレてんのね」と言われ、呆然と
するのだった。タイピストという女性ばかりの職場では、同僚たちが
連日セックス談議に花を咲かせていたが、敬子は「やはり私には
出来ない。この頃は三木さんへの関心も薄れてきている。何故だろう」
と自問自答するのだった。ある日、敬子は出勤途中の電車で痴漢に
襲われた。その場を助けてくれた中年の神士は、上役の加納守人部長
だった。数日後、和気あいあいとした加納一家の自家用車に
乗せてもらった敬子は、加納夫人理津子の倖せそうな顔と、
三木のいらぬヤキモチから、加納に強く惹かれている可不解な
女心を知り、愕然とした。それからの敬子は、加納を
意識しはじめるようになり…。
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浜口庫之助 & 伊集加代子 - マシュ・ケ・ナダ
7inch single : Seven Seas HIT-711
1967年7月20日リリース。
LP : 僕だって歌いたい!
Seven Seas SET-61
1967年8月20日リリース。
作詞作曲 : Jorge Ben
編曲 : 前田憲男
演奏 : New Latin Rock Band
Jorge Ben のカヴァー。
1967年1月にリリースした
Driving Bossa Nova -爆走- (Seven Seas PP-127) では
沢田駿吾の編曲で沢田駿吾クインテットが演奏と
クレジットされてたが、こちらは前田憲男の編曲、
New Latin Rock Band 名義のスタジオバンドとなってる。
御存知 Jorge Ben 1963年リリースの名作カヴァーだが、
1966年にセルジオ・メンデスのアルバム『Sergio Mendes & Brasil'66 』
に収録された女性コーラス入りのカヴァーが大ヒットし
世界的に有名になったので、本件浜口庫之助 & 伊集加代子
によるスキャットカヴァーのヴァージョンはセルメンを親とする。
そして時系列で判明できるが、これが我が国で最初の
Mais Que Nada マシュ・ケ・ナダの歌モノのカヴァーである。
先ずは我が国のジャズシーンにボサノヴァを紹介した先駆者の
渡辺貞夫氏が1967年3月8日、29日に録音、1967年6月15日に
リリースしたアルバム Bossa Nova '67 (Victor SJV-274) に収録された
Mais Que Nada が本邦初のカヴァーだった。
この音源は1967年6月15日に同時リリースした
4曲 EP (Victor SVC-259) にも収録されている。
渡辺貞夫クインテットが Sadao Watanabe & Bossanova として
1967年10月12日にリリースしたソノシート (朝日ソノラマ K-19)
にもMais Que Nada が収録されているが録音時は不明。
話を戻して本件、浜口庫之助 & 伊集加代子ヴァージョンが
1967年7月20日リリースなので録音は1967年6月から7月初頭
といったとこか。なのでその後の日本のボサノヴァ音楽の市場形成を
鑑みてもこの歌モノカヴァー作品がここでリリースされた
意味は大きい。
我々、中古レコード業界の名言「前田の仕事に駄作無し」
とはこの事だ。
浜口庫之助 (はまぐち くらのすけ : 1917年7月22日 - 1990年12月2日)
日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、
作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」
のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで
数々のヒット曲を生み出すようになった。また「有難や節」を題材にした
日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1963年、妻、邦子と死別。この年公開された映画「拝啓天皇陛下様」
には、容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演した。
1965年「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、
ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子を
スターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞・作曲賞
を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を
世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを
得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女をもうけた。
晩年の1987年には島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」が大ヒットした。
1989年、テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当した。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から
叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」
という思いから辞退した。1990年12月2日、喉頭癌のため東京都豊島区の
癌研究会附属病院にて死去、73歳没。クリスチャンであったため、葬儀は
東京都千代田区飯田橋の富士見町教会で営まれた。
伊集 加代 (いしゅう かよ、1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
前田憲男 (まえだ のりお 本名:前田 暢人 まえだ のぶひと、
1934年12月6日 - 2018年11月25日)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。
大阪府出身。小学校教師であった父より、幼少より読譜を学ぶ。
大阪府立桜塚高等学校卒業と同時に、プロのジャズピアニストとして
活動を開始。ピアノ・指揮法とも独学で習得する。1955年に上京、
名門ジャズバンド「西條孝之介とウエスト・ライナーズ」などのメンバー
として活躍。以後、様々なバンドに参加する一方、数多くのテレビ番組の
テーマ音楽を手がける。特に、テレビ番組で共演し、共に昭和9年生まれの
芸能人の会「昭和九年会」のメンバーでもある大橋巨泉とは親交も深く、
巨泉が出演した番組のテーマ音楽の大半を手がけている。
1970年にはTBS系列以外のフジテレビ・日本テレビ・NETテレビ→全国朝日放送
東京12チャンネル→テレビ東京が「打倒!レコード大賞」を合言葉に創設した、
日本歌謡大賞のテーマソング『日本歌謡大賞讃歌』の編曲や
テレビ朝日『題名のない音楽会』やフジテレビ『シオノギ・ミュージックフェア』
などあらゆる音楽番組でも活躍していた。
またビッグバンド向けのアレンジも数多く手がけるほか、
東京フィルハーモニー交響楽団のポップス部門音楽監督として、
編曲・指揮を担当していた。晩年は荒川康男(B)・猪俣猛(Drs) との
ピアノトリオ「WE3」の他、「前田憲男とウインド・ブレーカーズ」
を中心に活動していた。以前はこれに加えて佐藤允彦・羽田健太郎との
ユニット「トリプルピアノ」でも活動していたが、メンバーの1人である
羽田の死去により、2008年4月4日のサントリーホールでの公演を最後に
活動を終了している。また、独学で取得した独自の音楽理論を持つ事で
知られており、2003年からは大阪芸術大学音楽学科教授を務めていた。
1981年に東京音楽祭「最優秀編曲賞」、1983年に第20回日本レコード大賞
「最優秀編曲賞」・ジャズ界の最高位に価する「南里文雄賞」、
2008年にレコード大賞「功労賞」、2015年に第6回岩谷時子賞・特別賞を受賞。
晩年までライブを中心に音楽活動を続けてきたが、2018年11月25日、
肺炎のため東京都内の病院で死去。83歳没。
訃報は2日後の同月27日に所属事務所により発表された。
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前田憲男 |
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朱里エイコ - マシュ・ケ・ナダ
7inch single : King Records BS-7168
1967年8月1日リリース。
作詞作曲 : Jorge Ben
編曲 : 森岡賢一郎
Jorge Ben のカヴァー。
このシングルは1964年に弱冠18歳で渡米しアメリカの一流ホテルや
ナイトクラブのステージを経験した朱里エイコが日本に帰国して
活動を始めた頃のリリースだ。
Jorge Ben の1963年リリースの名作カヴァーで
我が国のカヴァーとしては1967年7月20日にリリースされた
浜口庫之助 & 伊集加代子 - マシュ・ケ・ナダ (Seven Seas HIT-711)
に続いて本件シングルは2番目の歌モノカヴァーのリリースとなる。
因みに浜口庫之助 & 伊集加代子のヴァージョンは
1967年8月20日リリースの浜口庫之助のアルバム「僕だって歌いたい!」
(Seven Seas SET-61) に収録された。
ただし浜口庫之助 & 伊集加代子のヴァージョンはスキャットによる
カヴァーヴァージョンなので、歌詞をつけて歌ったカヴァーは
本件の朱里エイコが初めてとなる。
スペイン語の「Mas Que Nada(最高)」と言う意味と混同されているが
「マシュ・ケ・ナダ(Mas Que Nada)」は当時のサンパウロの
スラングで「まさか」「なんてこった」「やなこった」等と言う意味。
編曲は名アレンジャーの森岡賢一郎。
指揮を平井哲三郎、高階正光、ピアノをポール・ヴィノグラドフ、
作曲を團伊玖磨にそれぞれ師事。「君といつまでも」「恋のしずく」
「ブルー・シャトウ」「今日でお別れ」で日本レコード大賞編曲賞
を受賞。作・編曲の傍ら、映画やテレビ番組の音楽監督・プロデューサー
として活動。主な作品に、映画音楽「若大将シリーズ」「宇宙からの
メッセージ」「山下少年物語」「典子は、今」など。往年の歌謡曲に
しばしばクレジットされている、ケニー・ウッド・オーケストラとは、
彼が率いていた楽団である(ケニー=賢一郎、ウッド=森岡のもじりである)。
またスマイリー小原とスカイライナーズでは首藤邦彦、鈴木庸一と
共にピアノも担当していた。
朱里エイコは本名:田辺栄子 (たなべ えいこ) 東京都出身
(1946年3月19日 - 2004年7月31日)
1946年3月19日に、舞踏家兼振付師で『エド・サリヴァン・ショウ』
に出演経験がある朱里みさをを母に、オペラ歌手を父に
「朱里みさを舞踏団」として巡業中の北海道札幌市で生まれる。
生後間もなく家庭内暴力で両親が離婚し、巡業から戻った1949年秋から
東京で育った。母は舞踏団を率いて全国巡業や渡米巡業などでして忙しく
叔父宅に預けられ、母と住んだのはかなり大きくなってからという。
1964年に日本人の海外渡航が自由化されると、11月に18歳で
単身渡米し、ボブ・アルシルバーに師事する。ハリウッドから
プロデューサーのトーマス・ポールが来日した際、多数の応募者から
オーディションに合格し、ダウンタウンのエルコース・ホテルで
初舞台を経験する。この年から2年間の契約で、ラスベガスやリノ、
レイク・タホ、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなど
アメリカ各地の一流ホテルやナイトクラブで活動する。
無名の新人であるため、アメリカのランキング上位40曲が
歌唱できることを常に求められる。
ラスベガスではサラ・ヴォーンと同じ舞台を経験する。
1966年9月に帰国してリサイタルを日生劇場で開催する。
以後レコード発売やワンマンショー開催など活動するも
人気を博さず、ショーを観た芸能関係者は「彼女の持ち味が
生かされるほど、当時の日本は進んでいなかった」とのちに語る。
1969年に再び単身渡米する。以前と違う自分を試すため
グループに所属せず単独のエンターテイナーとして勝負することを
決心し、ホテルと契約、バンドの編成、バンドメンバーの
給与支払いなどのすべてを自身で担い、ラスベガスの
リヴィエラ・ホテルなどで活動する。
1970年1月にラスベガスでショーが大成功し、
2月にEiko Shuri and her bandとして「サハラ・ホテル」で
2か月間ロングラン公演し、ネバダ、ニューヨーク、
ロサンゼルス、ハワイでワンマンショーを開催する。
1971年2月に一時帰国し、ワーナー・パイオニアと契約する。
アメリカで活躍した経験を基に日本で再び活動を始めると、
1972年1月に発売した「北国行きで」が大ヒットして
第23回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、デビュー8年目で
日本国内の人気を得た。1972年10月のショーを最後に
アメリカから帰国する。
1972年3月と5月に交通事故で頸部外傷を患い、心身が不安定
な状態となる。1973年2月14日に福島県郡山市の
「朱里エイコリサイタル」で、歌唱中に歌詞を間違えて途中から
失声する。公演は途中打ち切りとなり、エイコはそのまま
楽屋から失踪し、翌日以降の福島市といわき市の公演が
キャンセルとなった。
1975年にマネジャーの渥美隆郎と結婚すると、安易な職域結婚
として週刊誌などの芸能マスコミが批判的に報じる。
アメリカで10年以上生活したエイコは、気兼ねなく会話して
信頼できるパートナーと共に仕事することに違和感がなかった。
アメリカで鍛えた歌唱力とダンスに加え、三味線やピアノを
演奏しながら歌い、得意の玉乗りを披露するなど、
ステージ構成や行動力が話題となる。
1975年3月28日に渡米し、4月1日から半年間、ニューオリンズ、
プエルトリコ、ラスベガスなど各地でワンマンツアーを開催する。
ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソンなどの
番組に出演し、ツアー初日のショーをABCが放送した。
4月に発売した「AH SO!」は、三味線を演奏しつつ歌うと
観客が「AH SO!」と掛け声するなど、公演で好評となる。
6月に、ショーを見たタワー・オブ・パワーがジョイント
レコーディングを企画する。ロサンゼルスのワーナースタジオで
彼らの作品を中心にたびたび打ち合わせを重ね
『愛のめざめ I'm Not A Little Girl Anymore』と
『絶体絶命 Buring My Bridges Behind Me』の2曲を10月から
約1か月半を費やしてレコーディングし、日本とアメリカで発売した。
1976年3月に、フラミンゴ・ラスベガスでショーを見た
コメディアンのレイカルド・デュオからカーネギー・ホール出演を
打診される。6月19日に、日本人女性で初めてカーネギーホール
で公演したレイカルド・デュオとのジョイントリサイタルは
超満員となる。
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森岡賢一郎
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浜口庫之助 & 伊集加代子 - 男と女のテーマ - Un Homme Et Une Femme
LP : 僕だって歌いたい!
Seven Seas SET-61
1967年8月20日リリース。
作詞 : Pierre Barouh
作曲 : Francis Lai
編曲 : 前田憲男
演奏 : New Latin Rock Band
Pierre Barouh のカヴァー。
前田憲男 (まえだ のりお 本名:前田 暢人 まえだ のぶひと、
1934年12月6日 - 2018年11月25日)
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。
大阪府出身。小学校教師であった父より、幼少より読譜を学ぶ。
大阪府立桜塚高等学校卒業と同時に、プロのジャズピアニストとして
活動を開始。ピアノ・指揮法とも独学で習得する。1955年に上京、
名門ジャズバンド「西條孝之介とウエスト・ライナーズ」などのメンバー
として活躍。以後、様々なバンドに参加する一方、数多くのテレビ番組の
テーマ音楽を手がける。特に、テレビ番組で共演し、共に昭和9年生まれの
芸能人の会「昭和九年会」のメンバーでもある大橋巨泉とは親交も深く、
巨泉が出演した番組のテーマ音楽の大半を手がけている。
1970年にはTBS系列以外のフジテレビ・日本テレビ・NETテレビ→全国朝日放送
東京12チャンネル→テレビ東京が「打倒!レコード大賞」を合言葉に創設した、
日本歌謡大賞のテーマソング『日本歌謡大賞讃歌』の編曲や
テレビ朝日『題名のない音楽会』やフジテレビ『シオノギ・ミュージックフェア』
などあらゆる音楽番組でも活躍していた。
またビッグバンド向けのアレンジも数多く手がけるほか、
東京フィルハーモニー交響楽団のポップス部門音楽監督として、
編曲・指揮を担当していた。晩年は荒川康男(B)・猪俣猛(Drs) との
ピアノトリオ「WE3」の他、「前田憲男とウインド・ブレーカーズ」
を中心に活動していた。以前はこれに加えて佐藤允彦・羽田健太郎との
ユニット「トリプルピアノ」でも活動していたが、メンバーの1人である
羽田の死去により、2008年4月4日のサントリーホールでの公演を最後に
活動を終了している。また、独学で取得した独自の音楽理論を持つ事で
知られており、2003年からは大阪芸術大学音楽学科教授を務めていた。
1981年に東京音楽祭「最優秀編曲賞」、1983年に第20回日本レコード大賞
「最優秀編曲賞」・ジャズ界の最高位に価する「南里文雄賞」、
2008年にレコード大賞「功労賞」、2015年に第6回岩谷時子賞・特別賞を受賞。
晩年までライブを中心に音楽活動を続けてきたが、2018年11月25日、
肺炎のため東京都内の病院で死去。83歳没。
訃報は2日後の同月27日に所属事務所により発表された。
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前田憲男 |
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笠井紀美子 |
The Modern Playing Mate - ソー・ダンソ・サンバ
7inch EP : Union Records SUW-71-J Jazz Concise Series
LP : The Modern Playing Mate
Union Records UPS-5152-J
1967年8月リリース。
作詞 : Vinicius de Moraes
作曲 : Antonio Carlos Jobim
Arranged, Bass : 栗田八郎
Congas : 川原正美
Drums : ジミー竹内
Piano : 世良 譲
Scat : 笠井紀美子
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
So danco samba (ソー・ダンソ・サンバ) は Jazz'n samba とも言う。
白木秀雄クインテットや西条孝之介トリオのジャズ・ベーシストだった
栗田八郎がアレンジを手掛けたユニットのアルバムで、
白木秀雄クインテットの同僚であったピアニストの世良 譲らと
結成した。スキャットは若き日の笠井紀美子が担当している。
栗田八郎は1967年12月1日公開の松竹映画「囁きのジョー」で
バンドマン(ベース)役で俳優としても出演した事でもマニアには有名。
どこか気だるく虚ろでありながらも、少女っぽさを印象付ける
スキャットは笠井紀美子である。世良 譲のリリカルなピアノと
川原正美の小気味良いコンガによる長尺のインタープレイが素晴しい。
コンガを担当している川原正美は、日本を代表するラテン・ビッグバンド
である有馬徹とノーチェクバーナの一員だったパーカッションプレイヤーだ。
彼は1967年に The Modern Playing Mate (Union Records UPS-5152-J)
に参加し、同年に下記初のリーダーアルバムをリリースした。
川原正美とロス・ルンペロス - Latin Go Go (Takt TS 5007)
1970年3月25日にリリースされたコンセプトアルバムの
川原正美とエキゾティック・サウンズ - 恍惚 / エクスタシー
(Columbia YS-10077-J) は濃厚なラテン・サウンドに女性の喘ぎ声が絡む
和製エキゾチカ作品で、そのアルバムで音楽監督を務めた
彼は池玲子の「恍惚の世界」を録音したことでも知られている。
笠井紀美子 (かさい きみこ : 1945年12月15日生れ)
日本の宝飾デザイナー、元ジャズ歌手。
京都府京都市出身。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ在住。
夫は、リズム・アンド・ブルース歌手であったミニー・リパートンの
元夫で、音楽プロデューサーのリチャード・ルドルフ。
同志社女子高校中退。1964年に上京し、スタンダード曲を歌ったり、
フュージョンの要素を取り入れたりして人気を集める。
1971年9月に日清食品が世界初のカップ麺であるカップヌードルを
発売した際にはコマーシャルソングを歌い、商品とともに
一世を風靡した。1978年にカリフォルニア州ロサンゼルスに移住。
1987年から音楽活動と並行して宝飾デザイン業をはじめる。
1990年、宝飾品ブランド「kimiko by KIMIKO」を起こす。
1998年、30年にわたる音楽活動から引退。
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川原正美 |
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Modern Playing Mate - デイ・バイ・デイ
7inch EP : Union Records SUW-71-J Jazz Concise Series
LP : The Modern Playing Mate
Union Records UPS-5152-J
1967年8月リリース。
作詞 : Sammy Cahn
作曲 : Axel Stordahl and Paul Weston
Arranged, Bass : 栗田八郎
Congas : 川原正美
Drums : ジミー竹内
Piano : 世良 譲
Scat : 笠井紀美子
Frank Sinatra のカヴァー。
白木秀雄クインテットや西条孝之介トリオのジャズ・ベーシストだった
栗田八郎がアレンジを手掛けたユニットのアルバムで、
白木秀雄クインテットの同僚であったピアニストの世良 譲らと
結成した。スキャットは若き日の笠井紀美子が担当しており
彼女の特徴であるシルキーヴォイスの芽生えを見るようである。
栗田八郎は1967年12月1日公開の松竹映画「囁きのジョー」で
バンドマン(ベース)役で俳優としても出演した事でもマニアには有名。
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The Modern Playing Mate - キャント・ゲット・オーヴァー
LP : The Modern Playing Mate
Union Records UPS-5152-J
1967年8月リリース。
作詞作曲 : Marilyn Gins-Steve Lawrence-Eydie Gorme
Arranged, Bass : 栗田八郎
Congas : 川原正美
Drums : ジミー竹内
Piano : 世良 譲
Scat : 笠井紀美子
Eydie Gorme "Can't Get Over (The Bossa Nova)" のカヴァー。
白木秀雄クインテットや西条孝之介トリオのジャズ・ベーシストだった
栗田八郎がアレンジを手掛けたユニットのアルバムで、
白木秀雄クインテットの同僚であったピアニストの世良 譲らと
結成した。スキャットは若き日の笠井紀美子が担当している。
ここでは曲の前後で「ジンジン」と小気味よく、そして曲中では
「ダバダバディバダ」とナンセンスシラブルをスキャットに
しており、彼女のセンスの良さが伺える。
また世良 譲のリリカルなピアノと川原正美の小気味良いコンガ
による長尺のインタープレイも聴き所だ。
栗田八郎は1967年12月1日公開の松竹映画「囁きのジョー」で
バンドマン(ベース)役で俳優としても出演した事でもマニアには有名。
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The Modern Playing Mate - いそしぎ (The Shadow Of Your Smile)
7inch EP : Union Records SUW-71-J Jazz Concise Series
LP : The Modern Playing Mate
Union Records UPS-5152-J
1967年8月リリース。
作詞 : Paul Francis Webster
作曲 : Johnny Mandel
Arranged, Bass : 栗田八郎
Congas : 川原正美
Drums : ジミー竹内
Piano : 世良 譲
Scat : 笠井紀美子
The Shadow Of Your Smile は、1965年の映画『いそしぎ』の
テーマ曲として書かれたポピュラー・ソングである。
英語では別名「Love Theme from The Sandpiper」
(いそしぎの愛のテーマの意) と呼ばれ、
日本語では「いそしぎのテーマ」、
あるいは単に「いそしぎ」とも呼ばれる。
作曲はジョニー・マンデル (Johnny Mandel)、
作詞はポール・フランシス・ウェブスター (Paul Francis Webster)
である。映画『いそしぎ』では、ジャック・シェルドン
(Jack Sheldon) のトランペット・ソロで演奏され、
後にトニー・ベネット (Tony Bennett) の歌でマイナー・ヒットとなった
(このヴァージョンも作曲者マンデル自身が編曲・指揮を担当した)。
この曲は、1965年のアカデミー歌曲賞、および、1966年の
グラミー賞最優秀楽曲賞に選ばれた。作曲者 Johnny Mandel は
熊本県民謡の五木の子守唄の「おどま盆ぎり盆ぎり」を
耳にしてそれをヒントにして作曲したと言っているらしい。
それ故か、日本人に馴染みやすいメロディーである。
白木秀雄クインテットや西条孝之介トリオのジャズ・ベーシストだった
栗田八郎がアレンジを手掛けたユニットのアルバムで、
白木秀雄クインテットの同僚であったピアニストの世良 譲らと
結成した。スキャットは若き日の笠井紀美子が担当している。
栗田八郎は1967年12月1日公開の松竹映画「囁きのジョー」で
バンドマン(ベース)役で俳優としても出演した事でもマニアには有名。
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The Modern Playing Mate - ケメコ
LP : The Modern Playing Mate
Union Records UPS-5152-J
1967年8月リリース。
作詩作曲 : 笠井紀美子
Arranged, Bass : 栗田八郎
Congas : 川原正美
Drums : ジミー竹内
Piano : 世良 譲
Scat : 笠井紀美子
作詩作曲は笠井紀美子で彼女のオリジナル曲。
笠井紀美子のあだ名がケメコだった。
白木秀雄クインテットや西条孝之介トリオのジャズ・ベーシストだった
栗田八郎がアレンジを手掛けたユニットのアルバムで、
白木秀雄クインテットの同僚であったピアニストの世良 譲らと
結成した。スキャットは若き日の笠井紀美子が担当している。
ここでは大人っぽいスキャットを披露している。
時に感情的で、時に流麗な世良 譲のピアノに合せて
インタープレイを繰り広げる川原正美のコンガが素晴しい。
栗田八郎は1967年12月1日公開の松竹映画「囁きのジョー」で
バンドマン(ベース)役で俳優としても出演した事でもマニアには有名。
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笠井紀美子 |
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鬼敏剛とコンボ '67 - イエスタデイ (Yesterday)
LP : Bossa Nova夜のためいき
Polydor SLJM-1379
1967年9月5日リリース。
Also released in 1968 as
LP : あなたと夜とボサ・ノヴァ
Polydor SLJM-1401 (Polydor SE 6803)
Also released in 1969 as
LP : Bossa Nova・眠られぬ夜のために
Polydor SMR-1035
作詞作曲 : John Lennon-Paul McCartney
編曲 : 伊部晴美
The Beatles のカヴァー。
何気にエロい女の吐息で幕を開け、夢見心地のスキャットで
懐古的にイエスタデイに誘う見事な演出。
この時期に Polydor は年末までに深夜族をターゲットにした
ボサノヴァインストやムードインストアルバムをリリースする。
秋本薫を筆頭に、山口軍一とルアナ・ハワイアンズ, 道志郎, 高橋レナ,
伊部晴美, 小川隆, 横内章次, 南部三郎, 千本馨子,
山内喜美子, ポリドール・オーケストラ etc etc
その流れでサックス奏者である鬼敏剛をバンドリーダーにした
このアルバムがリリースされたのだが、1969年には
タイトルと品番を変えて再リリースされている。
当時はイージーリスニング、喫茶店のBGMで使われるサウンドを
全般的に軽音楽と呼んでおり、特にギターのムードインストと
サックスのムードインストのアルバムは愛好者が増えており
一定の売上げが見込めたので、各社が競うように
この手のアルバムを量産していった。
伊部晴美は1933年12月14日、東京で生まれ、
ギターを古賀政男に師事。東洋音楽学校を経て、
プロギタリストとしてデビューした。
フラメンコからモダン・ジャズまで広いレパートリーを持つ他、
舛田利雄監督作品を中心に多数の映画音楽も手掛ける。
歌謡曲・演歌のインストゥルメンタルアルバムも数多く
発売しており、同じギタリストのフランツ・レフラーや、
テナーサックス奏者の秋本薫などと組む事も多かった。
1996年に癌で死去。
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伊部晴美 |
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川原正美 |
川原正美とロス・ルンペロス - マシュ・ケ・ナダ
LP : Latin Go Go
Takt TS 5007
1967年リリース。
作曲 : Jorge Ben
Trumpet : 日野皓正
Double Bass : 原田政長
Jorge Ben のカヴァー。
このLPは日野皓正と原田政長が参加している為比較的よく知られている。
1966年10月にオーデイオ・メーカーだった「タクト電機株式会社」
(当時の住所は東京都世田谷区舟橋町1128)が
Takt Records (タクトレコード) を発足させ日本のジャズメンの録音を開始。
1966年11月25・30日・12月4日に記念すべきタクトレコードの
第1作『渡辺貞夫/ジャズ&ボッサ』が録音された。
ディレクターは谷口茂巳、小野正一郎両氏。
また大森盛太郎氏が監修にあたり、記念すべき1作目の「ジャズ&ボッサ」は
1967年2月1日に発売された。
川原正美は、日本を代表するラテン・ビッグバンドである
有馬徹とノーチェクバーナの一員だったパーカッションプレイヤーだ。
彼は1967年に The Modern Playing Mate (Union Records UPS-5152-J)
に参加し、同年に本件初のリーダーアルバムをリリースした。
1970年3月25日にリリースされたコンセプトアルバムの
川原正美とエキゾティック・サウンズ - 恍惚 / エクスタシー
(Columbia YS-10077-J) は濃厚なラテン・サウンドに女性の喘ぎ声が絡む
和製エキゾチカ作品で、そのアルバムで音楽監督を務めた
彼は池玲子の「恍惚の世界」を録音したことでも知られている。
日野皓正 (ひの てるまさ : 1942年10月25日生れ)
ジャズ・トランペット(コルネット)奏者。東京都生まれ。
アメリカ・ニューヨーク在住。
父は、タップダンサーでトランペット奏者の日野敏。
弟は、ジャズ・ドラマーの日野元彦。
ギター&ベースルシアーでMas Hino NYCオーナーの
Mas Hino (日野雅信) は長男、ベーシストの日野賢二は次男。
日野皓正クインテットでは、メンバーに新人を加え
育てていくことでも有名。1950年代前半に、かまやつひろしの
父ティーブ・釜萢が設立した「日本ジャズ学校」に通い
トランペットを習った。同校は日本初のジャズの専門学校であり、
ミッキー・カーチスや平尾昌晃、弘田三枝子、ペギー葉山など
戦後の日本の音楽界を代表するミュージシャンを多数育てた。
またトランペット奏者であった坂上弘からもトランペットの
手ほどきを受けた。私生活では20歳の時に知り合った恋人と
最初の結婚をする。その後再々婚した現在の妻はアメリカ人。
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日野皓正 |
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泉田エミイ |
泉田エミイ - Aqua Di Beber (おいしい水)
Sadao Watanabe & Bossanova
ソノシート : 朝日ソノラマ K-19
1967年10月12日リリース。
1-A Mas Que Nada 1-B Ague De Beber
2-A Garota De Ipanema 2-B So Danco Samba
3-A Cupid’s Song 3-B Reza
作詞 : Vinicius de Moraes
作曲 : Antonio Carlos Jobim
渡辺貞夫クインテット+泉田エミイ
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Guitar : 中牟礼貞則
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Vibraphone : Unknown
Vocal, Cavasa : 泉田エミイ
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
泉田エミイは1951年1月にサンパウロで生れブラジル国籍を
持つ日系二世である。彼女はミュージシャンの父親の仕事の都合で
住居を転々とする生活を送っている。
父がヴァイオリン、母はピアノをひき、ペルーの国立劇場でオペラの
演出を手がけたりもする音楽一家に育ち、四才からピアノを習う。
1953年に大阪へ来て1955年にはブラジル・リオへ向かった。
感受性が豊かな幼い頃からサンパウロやリオで培った音感や
歌好きの明るい性格は後に日本で開花する。
1960年に東京へ再来日、1963年には関西、1966年にはペルー、
そして1967年、母親の病気の治療のために再び東京へやって来て
玉川学園編入した。泉田エミイは当時、玉川学園高等部の高校1年で、
同級生に井上陽水の奥さんとなる石川セリがいた。
そんな16歳の彼女の元へ渡辺貞夫セクステットのメンバーの
菊池雅章からオファーの電話がかかってきた。
渡辺貞夫がポルトガル語と日本語ができる女性歌手を探しており
菊池自身のピアノの伴奏で歌のテストをしたいとの事。
彼女は日本語はもとより、ポルトガル語、スペイン語、英語に堪能。
アストラッド・ジルベルトをも想起させる少女っぽい歌声、
サンバのリズムを生まれながらに身につけた逸材であった。
これをスタートに渡辺貞夫セクステットと泉田エミイの活動が
始まり朝日ソノラマと新興レーベル Taktでの事なるセッションの
録音が残された。
本場ブラジル仕込みのボサノヴァを美しいポルトガル語で歌って
初めて我が国のレーベルでリリースしてくれたのは泉田エミイである。
その後、クラウディア・ラロやソニア・ローザらブラジル人女性が
来日し日本でのボサノヴァの普及に貢献したが、紛れも無く
泉田エミイがパイオニアーであり、同時にロリータボサの種を
日本の地に最初に撒いた女の娘であった。
声楽研究家諸氏がボーイソプラノを尊ぶように
ジャズ/ポピュラーシーンではロリータヴォイスを尊ぶ。
同様にポップミュージックシーンでキッズポップが愛好される。
これは穢れの無い純潔を求める哺乳類の本能から来るものだ。
下記は朝日ソノラマのソノシートに掲載された文章
最後に泉田エミイを紹介しましょう。
ブラジル生まれの16才の女の子です。
ぼくは日本へ帰ってきて、ボサ・ノヴァを演奏しはじめてから、
ずっと歌手をさがしていました。いろいろとオーディションも
やったのですが、ついにボサ・ノヴァが唄える人は現れませんでした。
ところがある日、突然泉田エミイがぼくのところへ来たのです。
さっそくテストしたところ、実にいいフィーリングをもっているのです。
日本人ばなれしたボサ・ノヴァのフィーリングを彼女はもっているのです。
歌手としては、もちろんまだ無名の新人ですが、実にまれな才能を
もっている貴重な存在です。彼女の今後の成長をぼくは
大いに楽しみにしているのです。
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泉田エミイ - The Girl From Ipanema (イパネマの娘)
ソノシート : 朝日ソノラマ K-19
1967年10月12日リリース。
1-A Mas Que Nada 1-B Ague De Beber
2-A Garota De Ipanema 2-B So Danco Samba
3-A Cupid’s Song 3-B Reza
作詞 : Vinicius de Moraes
作曲 : Antonio Carlos Jobim
渡辺貞夫クインテット+泉田エミイ
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Guitar : 中牟礼貞則
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Vibraphone : Unknown
Vocal, Cavasa : 泉田エミイ
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
The Beatles の「Yesterday」などに次いで、世界中で多くカヴァー
されたポピュラー・ソングの一つといわれ、ボサノヴァのナンバー
としてはもっとも著名な曲となっている。
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泉田エミイ - Cupid's Song (キュービッツ・ソング)
ソノシート : 朝日ソノラマ K-19
1967年10月12日リリース。
1-A Mas Que Nada 1-B Ague De Beber
2-A Garota De Ipanema 2-B So Danco Samba
3-A Cupid’s Song 3-B Reza
作詞 : 小室等, 泉田エイミ, 渡辺貞夫
作曲 : 渡辺貞夫
渡辺貞夫クインテット+泉田エミイ
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Guitar : 中牟礼貞則
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Vibraphone : Unknown
Vocal, Cavasa : 泉田エミイ
泉田エミイは当時、玉川学園高等部の高校1年で、
同級生に井上陽水の奥さんとなる石川セリがいた。
この曲は3日後にユキとヒデが「スノー・ドルフィン・サンバ」と
して1967年10月15日リリース (Polydor SDP-2015)
泉田エミイ - Cupid's Song (キュービッツ・ソング) は
1968年3月25日に Takt TS-301 シングルリリースの際
B面曲として収録されるが、Takt TS-301 シングル盤では
間奏サビの部分でトロンボーンがハモるが、こちらのソノシート
では聴こえないので異なるセッションだと思われる。
1966年10月にオーデイオ・メーカーだった「タクト電機株式会社」
(当時の住所は東京都世田谷区舟橋町1128)が
Takt Records (タクトレコード) を発足させ日本のジャズメンの録音を開始。
1966年11月25・30日・12月4日に記念すべきタクトレコードの
第1作『渡辺貞夫/ジャズ&ボッサ』が録音され、
11月30日では「キューピッツ・ソング」が録音された。
ディレクターは谷口茂巳、小野正一郎両氏。
また大森盛太郎氏が監修にあたり、記念すべき1作目の「ジャズ&ボッサ」は
1967年2月1日に発売された。
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泉田エミイ - Reza (祈り)
ソノシート : 朝日ソノラマ K-19
1967年10月12日リリース。
1-A Mas Que Nada 1-B Ague De Beber
2-A Garota De Ipanema 2-B So Danco Samba
3-A Cupid’s Song 3-B Reza
作詞 : Ruy Guerra
作曲 : Edu Lobo
渡辺貞夫クインテット+泉田エミイ
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Guitar : 中牟礼貞則
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Vibraphone : Unknown
Vocal, Cavasa : 泉田エミイ
Edu Lobo のカヴァー。
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泉田エミイ
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渡辺貞夫セクステット+泉田エミ (泉田エミイ) - O' Pato (オ・パート)
カセットテープ : アポロン APY 108
1967年リリース。
作詞 : Neuza Teixeira
作曲 : Jayme Silva
邦題は「あひるのサンバ」や「ガチョウのサンバ」などとも呼ばれる。
渡辺貞夫クインテット+泉田エミイ
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Guitar : 中牟礼貞則
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Vibraphone : Unknown
Vocal, Cavasa : 泉田エミイ
Joao Gilbert が在籍した Garotos da Lua のカヴァー。
発売日は不明だが録音は1967年10月12日リリースの
ソノシート朝日ソノラマ K-19と同時期と推測される。
アポロン音楽工業は、1964年に文化放送系列のフジサウンド社が
設立したレコード会社。1967年にアポロン音楽工業に改称し、
1964年から2000年まで存在していた。
アポロン音楽工業は、4トラックカートリッジ・テープを
発売したことで知られている。社長・渡辺美佐。
渡辺プロダクション(ナベプロ)と文化放送などが出資する
音楽関連企業として、東京都新宿区若葉1丁目5番地の
当時の文化放送の本社内に本社を構えた。
当時は主に、ナベプロに所属し、ナベプロ傘下の渡辺音楽出版が
原盤権を持つアーティストのミュージック・テープを発売していた。
そのため、ザ・ピーナッツ(レコードはキング)、
園まり(レコードはポリドール)のように、レコードでは
違うレーベルで発売されているアーティストが
アポロンのレーベル上に名を連ねていた。
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渡辺貞夫セクステット+泉田エミ (泉田エミイ) - Corcovado (コルコバード)
カセットテープ : アポロン APY 108
1967年リリース。
作詞作曲 : Antonio Carlos Jobim
渡辺貞夫クインテット+泉田エミイ
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Guitar : 中牟礼貞則
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Vibraphone : Unknown
Vocal, Cavasa : 泉田エミイ
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
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渡辺貞夫クインテット - Mais Que Nada (マシュ・ケ・ナダ)
Sadao Watanabe & Bossanova
ソノシート : 朝日ソノラマ K-19
1967年10月12日リリース。
作曲 : Jorge Ben
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Guitar : 中牟礼貞則
Jorge Ben のカヴァー。
我が国のジャズシーンにボサノヴァを紹介した先駆者の
渡辺貞夫氏が1967年3月8日、29日に録音、1967年6月15日に
リリースしたアルバム Bossa Nova '67 (Victor SJV-274) に収録された
Mais Que Nada が本邦初のカヴァーだった。
この音源は1967年6月15日に同時リリースした
4曲 EP (Victor SVC-259) にも収録されている。
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渡辺貞夫クインテット - So Danco Samba (ソ・ダンソ・サンバ)
Sadao Watanabe & Bossanova
ソノシート : 朝日ソノラマ K-19
1967年10月12日リリース。
作曲 : Antonio Carlos Jobim
Alt Sax, Flute : 渡辺貞夫
Piano : 菊地雅章
Drums : 富樫雅彦
Bass : 原田政長
Guitar : 中牟礼貞則
Antonio Carlos Jobim のカヴァー。
So danco samba (ソー・ダンソ・サンバ) は Jazz'n samba とも言う。
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ユキとヒデ - スノー・ドルフィン・サンバ
7inch single : Polydor SDP-2015
1967年10月15日リリース。
作詞 : 中村小太郎
作曲 : 渡辺貞夫
ファーストリリースは泉田エミイが渡辺貞夫クインテットをバックに
3日前の1967年10月12日にソノシートの朝日ソノラマ K-19
でリリースしていた「Cupid's Song」 である。
1966年10月にオーデイオ・メーカーだった「タクト電機株式会社」
(当時の住所は東京都世田谷区舟橋町1128)が
Takt Records (タクトレコード) を発足させ日本のジャズメンの録音を開始。
1966年11月25・30日・12月4日に記念すべきタクトレコードの
第1作『渡辺貞夫/ジャズ&ボッサ』が録音され、
11月30日では「Cupid's Song」が録音された。
ディレクターは谷口茂巳、小野正一郎両氏。
佐藤ユキは2枚目のシングル「スノー・ドルフィン・サンバ」で
矢野育子(2代目ユキ)にメンバーチェンジした。
矢野育子は三枝伸とデイ&ナイツに参加したのち、
ユキとヒデの2代目ユキとなる。
その後、「捨てられた人形」(1971.5.25発売、キャニオン)
でソロデビュー。
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渡辺貞夫 |
矢野育子 |
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ユキとヒデ - 恋のスノー・ドルフィン
7inch single : Polydor SDP-2015
1967年10月15日リリース。
作詞 : 山室等,中村小太郎
作曲 : 渡辺貞夫
佐藤ユキは2枚目のシングル「スノー・ドルフィン・サンバ」で
矢野育子(2代目ユキ)にメンバーチェンジした。
矢野育子のヴォーカルは初代より軽くてポップである。
矢野育子は三枝伸とデイ&ナイツに参加したのち、
ユキとヒデの2代目ユキとなる。
その後、「捨てられた人形」(1971.5.25発売、キャニオン)
でソロデビュー。
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浜口庫之助 - 雨のピエロ = Song Of Raindrops
LP : 歌えば天国
CBS YS-10014-JC
1967年10月25日リリース。
作曲 : 浜口庫之助
編曲 : ミルト・ロジャーズ
演奏 : ミルト・ロジャーズと彼のグループ
Piano : ミルト・ロジャーズ
Bass : ドン・バグリー
Drums : パウロ・F・マガラエス
Guitar : ローリンド・アルメイダ
Percussion : チコ・グヴェロ
Tenor Saxophone, Flute ; ビル・パーキンス
ポール聖名子 (ポールみなこ : シリア・ポールの姉) のカヴァー。
浜口庫之助/自作自演集アルバムからセルフカヴァー。
浜口庫之助 (はまぐち くらのすけ : 1917年7月22日 - 1990年12月2日)
日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、
作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」
のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで
数々のヒット曲を生み出すようになった。また「有難や節」を題材にした
日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1963年、妻、邦子と死別。この年公開された映画「拝啓天皇陛下様」
には、容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演した。
1965年「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、
ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子を
スターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞・作曲賞
を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を
世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを
得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女をもうけた。
晩年の1987年には島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」が大ヒットした。
1989年、テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当した。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から
叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」
という思いから辞退した。1990年12月2日、喉頭癌のため東京都豊島区の
癌研究会附属病院にて死去、73歳没。クリスチャンであったため、葬儀は
東京都千代田区飯田橋の富士見町教会で営まれた。
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浜口庫之助 - 粋な別れ = Tears Do Nothin' For Sayonara
LP : 歌えば天国
CBS YS-10014-JC
1967年10月25日リリース。
作曲 : 浜口庫之助
編曲 : ミルト・ロジャーズ
演奏 : ミルト・ロジャーズと彼のグループ
Piano : ミルト・ロジャーズ
Bass : ドン・バグリー
Drums : パウロ・F・マガラエス
Guitar : ローリンド・アルメイダ
Percussion : チコ・グヴェロ
Tenor Saxophone, Flute ; ビル・パーキンス
石原裕次郎のカヴァー。
浜口庫之助/自作自演集アルバムからセルフカヴァー。
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浜口庫之助 - 月のエレジー = Elegy For The Moon
LP : 歌えば天国
CBS YS-10014-JC
1967年10月25日リリース。
作曲 : 浜口庫之助
編曲 : ミルト・ロジャーズ
演奏 : ミルト・ロジャーズと彼のグループ
Piano : ミルト・ロジャーズ
Bass : ドン・バグリー
Drums : パウロ・F・マガラエス
Guitar : ローリンド・アルメイダ
Percussion : チコ・グヴェロ
Tenor Saxophone, Flute ; ビル・パーキンス
守屋浩のカヴァー。
浜口庫之助/自作自演集アルバムからセルフカヴァー。
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浜口庫之助 - 甘い夢 = Sweet Dreams
LP : 歌えば天国
CBS YS-10014-JC
1967年10月25日リリース。
作曲 : 浜口庫之助
編曲 : ミルト・ロジャーズ
演奏 : ミルト・ロジャーズと彼のグループ
Piano : ミルト・ロジャーズ
Bass : ドン・バグリー
Drums : パウロ・F・マガラエス
Guitar : ローリンド・アルメイダ
Percussion : チコ・グヴェロ
Tenor Saxophone, Flute ; ビル・パーキンス
広瀬美砂のカヴァー。
浜口庫之助/自作自演集アルバムからセルフカヴァー。
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浜口庫之助 - 銀座の子守歌 = Lullaby Of Ginza
LP : 歌えば天国
CBS YS-10014-JC
1967年10月25日リリース。
作曲 : 浜口庫之助
編曲 : 沢田駿吾
演奏 : 沢田駿吾と彼のグループ
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 広瀬三貴男
Drums : 日野元彦
Piano : 世良譲
Tenor Saxophone : 西条孝之介
守屋浩のカヴァー。
浜口庫之助/自作自演集アルバムからセルフカヴァー。
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弘田三枝子 - 悲しみの足音 (Blue Bossa Nova)
7inch single : Columbia Records ?P-3
1967年11月1日リリース。
作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
演奏 : コロムビア・オール・スターズ
本件録音当時、弘田三枝子は20歳である。
大人の色香をまとった艶声に抑制の効いた
ヴォーカルマナーが素晴しい。
弘田三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子、
1947年2月5日 - 2020年7月21日)
日本のポップス、歌謡歌手。愛称はMICO(ミコ)
歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカヴァーした
和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された。
世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り、
幼稚園の頃FENのラジオに魅せられて歌手になることを決意。
母の協力のもと、7歳の頃から自らの意思で、かまやつひろしの父の
ティーブ・釜萢が運営する 「日本ジャズ学校」に週1回バスで通い、
英語の発音の基礎からスパルタ教育を受け、8歳から進駐軍のキャンプで
歌っていたともいい、駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に
進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた。
曲を提供されて自分の世界にもっていくために、家での練習の際、
歌詞を理解してメロディーを体に入れてから、自ら考案した
記号を譜面に記載したうえで、自ら歌唱したテープを確認し
歌をものにしたうえで収録に臨んだという。
この儀式は、レコードデビューからラストシングル収録まで
続けられたという。
1961年に東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」
のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)
でデビュー(草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。
翌1962年には各社競作で出された「ヴァケーション」(コニー・フランシス
のカヴァー)が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、
金井克子らも同曲をカヴァーした。同年NHK紅白歌合戦に初出場。
1973年の森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。
1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていた
エラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に
「養女にしたい」とまで言われている。
1964年10月に日本コロムビアへ移籍。新幹線で移動中、グレンミラー楽団
を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを
主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」
と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、
自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。
その結果、1965年7月に東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の
「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、
ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した。
3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオに
トニー・スコットが加わったカルテットをバックに
「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、
「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、
「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」の
ジャズ編曲版を歌い、トリを務めた。その足でニューヨークに渡り、
譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等の
オリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏
のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム
「ニューヨークのミコ」を制作した。
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筒美京平 |
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レオ・ビーツ - 霧の中のマリアンヌ
7inch single : Seaven Seas HIT-719
1967年11月10日リリース。
作詞 : 橋本 淳
作曲編曲 : すぎやまこういち
メジャーデビューシングルのいかした (死語) ビートボサ。
里見洋率いる福岡のGSグルーである、後にルートNo.1となり、
里見洋と一番星へと変形し、さらにブルージャッカスへと昇華した。
本来ならば彼らはその後のメンタイロックに影響を与える
立ち居地にいた。
1966年11月に結成され福岡を中心に活躍していた
里見洋とロス・カンターノスというラテンバンドがスタート。
そして福岡に来ていた布施明(話題づくりのためで、実際には
渡辺プロの社員)によってグループは発掘された。
1967年7月に彼らは上京して渡辺プロと契約した。
因みにロス・カンターノス以前にリーダーの里見洋はクニ河内らと
サンライズというラテンバンドを結成していた。
当時福岡を本拠地にする西鉄ライオンズにちなみレオ・ビーツと
グループは改名され、先ずはジャズ喫茶での仕事を始めた。
ラテン系ブラスロックを得意とした彼らは同年11月にキング傘下の
セブンシーズからボサノヴァビートを強調した「霧の中のマリアンヌ」
でデビューリリースに至った。彼らの演奏能力は高い評価を
得ており、渡辺プロやキングレコードの歌手 木の実ナナや奥村チヨ
らのレコードやステージ上でのバッキングバンドとして重宝されていた。
彼らはライヴなどではハードなサイケチューンを演奏したり、
ポールリビアとレイダースをカヴァーする流行に敏感なGSだった。
すぎやまこういち (本名:椙山 浩一 読みは同じ)、
(1931年4月11日 - 2021年9月30日)
日本の作曲家・編曲家・指揮者。日本作編曲家協会 (JCAA) 常任理事、
日本音楽著作権協会 (JASRAC) 評議員、日本カジノ学会理事、
日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。
名義にひらがなを使用しているのは、「誰もが分かるように」したため。
位階は従四位。当初は音楽大学への進学を望んでいたが、音楽大学に
入学できるほどにピアノが弾けなかったことから断念し、
東京大学理科II類に進学。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。
3年のとき、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ
傍系進学。しかし、教官が授業にあまり出ないすぎやまの顔を
覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため
1年留年して卒業。卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイト
をしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を
音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、
引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後、
芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。
1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」
と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。
次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる
『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組
はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に
集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが
難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、
ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集に
ナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て
放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード
芸能界を変えた男・渡辺晋物語』としてドラマ化された。
当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、
すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。
また、1964年から2010年までの長年に渡り、正月・元日の
看板番組になっていた大型バラエティ番組『新春かくし芸大会』も
すぎやまと渡辺の2人が主導する形で制作・放送されていた。
1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても
精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も
始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、
自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように
苦慮するようになり、また JASRAC とフジテレビが著作権料の
支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家
としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月に
フジテレビを退社した。退職後、フリーのディレクターとして
フジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から
作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、
彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。
1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く
手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』
のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し
『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表
(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。
自ら「B面の王者」を自称しており、「花の首飾り」や「学生街の喫茶店」
のように当初はシングルB面ながらラジオでのオンエアなどで
徐々に人気が出てロングセラーになったという例がいくつかある。
インタビューでは「(9歳下の)筒美京平さんは狙ってヒットを
打てるすごい作曲家だが、自分は頑固なんで時流に乗った曲作りは
できなくて」と語っている。『ザ・ヒットパレード』で音楽を担当した
宮川泰とは同い年(学年は宮川が早生まれのため一つ上)だが、
作曲家になる勉強のために宮川の書いた譜面を参考にしていたため
宮川泰を「師匠」と呼んでいた。
ポップスやクラシックを多く作曲しているが、少数でありながら
現代音楽、実験音楽も作曲している。また、ジャズに関しては
親交のあった色川武大によると著書にて「すぎやまさんはジャズ嫌い」
と書かれているが、実際はドラクエのカジノの音楽などジャズ調の
曲も多く作曲している。
また、演歌について「演歌こそ日本民族の音楽である、という
権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から
始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を
築いたと断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を
歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は
少ないのではないか」と否定的な見解を自著に記している。
ただし、風来のシレンシリーズでは演歌調の曲も作曲している。
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すぎやまこういち |
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日高吾郎 |
日高吾郎 - あの人は知らない
LP : 眠れぬ夜のバラード 全国10万人のホステスが選んだ14
Crown GW-5008
1967年11月リリース。
作詞作曲 : 日高吾郎
編曲 : 小杉仁三
演奏 : クラウン・オーケストラ
テナー・サックス, フルート : 宮沢昭
スキャット : 伊集加代子
ウェットで寝苦しい夜ですら雨音のリズムを
心地よくしてくれるムーディーボサの隠れた逸品。
水沢圭吾 (中山大三郎の別名義) のライナーより。
初めに 日高吾郎を知る人は少ない。
レコードで知ってる人でも「流れ者小唄」あるいは「流れ者ブルース」
を唄う、映画界出身の艶歌調歌手、くらいの印象しかないだろう。
お聴きになればわかることだが、これは映画俳優の「かくし芸」でも
なければ、艶歌調歌手の「背伸び」でもない。立派なムード歌謡である。
彼はデビューする前、あるクラブで歌っていた。クラシックギターを
かかえて、ただそれだけをバックに。
そのころの彼の歌はバラードであり、歌い方はルバートであった。
冒険すぎるくらいに自分でアレンジし、思いきってくずして歌っていた。
言ってみればノーテンポである。はじめの1小節が4/4拍子だとすると、
次の小節が3/8拍子になったり、さらに4/12拍子になったり・・・。
要するに、自分のムードのまま、思いのままに歌う歌手であった。
明け方近くまでやっているそのクラブは、夜中の0時がすぎるころ、
いつでも満員になった。店をハネたホステスたちが、銀座から、赤坂から、
またお座敷を終えた芸者が新橋から、柳橋から神楽坂からやってくる
からである。彼の、やりきれないほど切々と歌う、その歌を聴くために・・・。
黒いスーツに黒いズボン、黒い靴に黒い靴下、まっ白いワイシャツ、
胸と袖口に光る小さな宝石、そのプロポーションも、他の歌のムードを
出すために用意された小道具だった。
そして、東京・大阪を中心として、全国50の主要都市に住む
ホステス10万人からアンケートをとった結果これらの曲が浮かび上がった。
それがこの企画になったわけである。
このLPで、彼は艶歌調歌手から離れて、自分の夢を歌う。
当時のリクエストのベストヒットに新曲(これらの新曲はこのLPの
ために用意されたもの)を加えて、彼は歌う。
この雰囲気をあなたの感覚で受け取ってほしい。(水沢圭吾)
日高晤郎 (ひだかごろう、1944年2月28日 - 2018年4月3日)
日本の芸人、ラジオパーソナリティ、歌手、俳優、声優。
生前は東京都杉並区荻窪に居住していた。
吹き替えショーン・コネリー
007 ロシアより愛をこめて(ジェームズ・ボンド)※TBS旧録版
007 ゴールドフィンガー(ジェームズ・ボンド)
1960年、コックの見習いをしながら高校に通っていた時、
スポーツ新聞で見た、大映主催の「第1回ミス・ミスターフレッシュ
フェイスコンテスト」に応募。中学校で演劇部だった経歴を活かし、
優勝を飾る。大映京都撮影所演技研究所に入所(第2期生)。
1961年、新人俳優「細谷新吾」を名乗り、八代目 市川雷蔵の相手役
として、映画『江戸へ百七十里』で1962年にデビューする。
雷蔵に才能を認められ、もっと学びたい新吾のためにと、
雷蔵の推薦で一時期は劇団くるみ座の毛利菊枝の下で、「特待生」
として座員と共に演技や台詞の基礎を学んでいる。その後、勝新太郎
にも目をかけられ、2人の師匠の下で、数々の映画に出演。
1965年、「もっと活動の場を広げて修行したい」との志で、
勝とのつてがある人を見つけ出し、上京を決意。大映を退社。
活動の場を既に斜陽となっていた映画界から、テレビドラマに移す。
芸名を「飛鷹 一 (ひだか はじめ)」に改名。
勝は新吾の固い意志を理解し、上京に猛反対する新吾の養父に
自ら土下座し、説得した。一方、自らの出自と重なる部分に
同情したり笑顔を欠かさない新吾を気に入り、レッスン料を
負担するなど面倒を見ていた雷蔵も自分の映画に準主役級の役を
用意していたところでの報せで、残念がる一方「確かに、お前に
ここは狭すぎる」と理解を示した。
こうして上京を果たすが、当然満足に仕事にはありつけず、
この頃から弾き語りやクラブのボーイなどで日銭を稼ぎ、
食い繋ぐ生活となる。後年ディナーショーなどで披露していた
フラメンコギター演奏はこの頃に学んだものである。
雷蔵の「売れてないと思うと売れてない顔になる。
まだ売り出してないと言え」の言葉を胸に、雷蔵を安心させようと
「某局のプロデューサーから目をかけてもらった」などと嘘の手紙を
書いていたが、当の雷蔵は周囲の後輩俳優に「新吾は偉いやっちゃなぁ。
毎月、こうして手紙をくれるが、喰えていない事くらい俺にもわかる、
しかし喰えない時に、こうして見栄を張れるというのは立派なもんや。
見栄があるから保っていられるんや」と話し、しっかり見抜きながら
その姿勢を褒め、撮影で上京する度に新吾に会いに行った。
1967年、クラウンレコードから「流れ者小唄 (B面:東京阿呆鳥)」
で歌手デビュー。「飛鷹だと読みにくい」との理由で付けられた
芸名が「日高吾郎」で、これがその後の芸名となる(のちに晤郎と改名)。
以後、3年間で、LP盤を含め10枚のレコードを発売。
1969年7月17日、役者としての日高を認め、その後も支え続けた
師匠、市川雷蔵が転移性肝がんのため37歳の若さで死去。
日高はその訃報を、仕事で疲れて帰宅した新宿の自宅に配達された
夕刊で知り、その夕刊を抱き締め涙を流した。「役者」でなく「歌手」
として師匠の死を知ることとなった事に大きな衝撃を受け、これを
契機にレコード歌手を断念。その後は俳優として、テレビドラマの出演、
ワイドショーのレポーター、声優として洋画の吹き替え、
ラジオドラマの出演などの活動を続ける。
テレビドラマは、大河ドラマ『元禄太平記』(1975年)の
片岡源五右衛門役。『特別機動捜査隊』(NETテレビ)の
日高刑事(高倉班)・田代刑事(日高班)役などの
レギュラー出演で知られた。
伊集 加代 (いしゅう かよ、1937年5月20日生れ)
日本の歌手、セッションシンガー、我が国を代表する
女性スキャットシンガーである。
旧芸名、伊集 加代子 (いしゅう かよこ)。東京都出身。
東邦音楽短期大学声楽科でクラシックを学び、卒業後
ジャズヴォーカリスト水島早苗に師事。
フォー・シンガーズ、シンガーズ・スリーなどグループコーラス
の活動と並行して、スタジオコーラス・CMソングなど
数千作品に参加。「スキャットの女王」と呼び親しまれ、
1960年代後半から1980年代にかけて活躍した代表的な
女声スタジオコーラスシンガーの一人。
編曲は小杉仁三。昔持っていた小杉さんの写真が紛失したので
小杉さんの画像掲載は諦めた。小杉さんは日本クラウンと専属契約
していた時期があり、その時期にクラウン以外で活動した際には
ありたあきらの別名を使用していた。
例えば、ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」(編曲 ありた・あきら」)
小杉さんが編曲を手掛けた歌謡曲は多数ある。小林旭
「恋の山手線」(作曲:浜口庫之助)から美川憲一
「柳ヶ瀬ブルース」(作曲:宇佐英雄)他挙げれば切がない。
小杉仁三は昭和歌謡を代表するアレンジャーである。
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伊集 加代子 |
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松本 浩 |
松本浩とブルー・ナイツ - My Little Finger Misses You (小指の思い出)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 鈴木淳
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
伊東ゆかりのカヴァー。.
ラウンジ歌謡の名作を軽快なボサポップチューンに仕上げている。
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松本浩とブルー・ナイツ - Macks My Love (いとしのマックス)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 荒木一郎
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
荒木一郎のカヴァー。
かっこいいフィルインで幕を開けるビートチューンで
中牟礼貞則の切れの良いギターと宮沢昭のクールなフルートが
深夜のクルーズをスリリングなものにする。
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松本浩とブルー・ナイツ - Blue Chateau (ブルー・シャトウ)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 井上忠夫
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
ジャッキー吉川とブルー・コメッツのカヴァー。
この曲はもともと、作曲者の井上忠夫 (井上大輔) が木の実ナナに
提供する作品を書いているうちに出来たものである。
カナダのレイクルイーズホテルに宿泊中作曲した。
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松本浩とブルー・ナイツ - Hallelujah (恋のハレルヤ)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 鈴木邦彦
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
黛ジュンのカヴァー。
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松本浩とブルー・ナイツ - Blues of the Last Night (恋獄のブルース)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 吉田正
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
マハロ・エコーズのカヴァー。
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松本浩とブルー・ナイツ - I Love You (好きさ 好きさ 好きさ)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : Chris White
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
オリジナルは勿論 The Zombies だが、日本では当時GS期であり
本件はザ・カーナビーツのカヴァーヴァージョンを利用している。
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松本浩とブルー・ナイツ - Recollections (おもいで)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 平尾昌晃
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
布施 明のカヴァー。
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松本浩とブルー・ナイツ - Young Courage (勇気あるもの)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 吉田正
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
吉永小百合 with トニーズのカヴァー。
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松本浩とブルー・ナイツ - The Girl Of Kasbah (カスバの女)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 久我山明
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
エト邦枝のカヴァー。
この曲は1955年5月に発表された歌謡曲で、
映画「深夜の女」の主題歌として制作された。
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松本浩とブルー・ナイツ - Let's Dance Tonight (今夜は踊ろう)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : 荒木一郎
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
荒木一郎のカヴァー。
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松本浩とブルー・ナイツ - L'amour c'est pour rien (恋心)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : Enrico Macias
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
オリジナルは Enrico Macias (エンリコ・マシアス) だが
1965年の岸 洋子のカヴァーヴァージョンを利用している。
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松本浩とブルー・ナイツ - I Really Don't Want to Know (知りたくないの)
LP : Bossa Nova In Tokyo ボサノバ流行歌ベスト・ヒット
Victor SJV-311
1967年11月リリース。
作曲 : Don Robertson
ヴィブラホーン : 松本浩
ギター : 中牟礼貞則
ギター : 鈴木康充
ベース : 稲葉国光
フルート : 宮沢昭
ドラムス : ジョージ大塚
パーカッション : 小野寺武司
スキャット : 山崎みずえ
オリジナルは、レス・ポール&メリー・フォードが1953年に
録音したもので、1954年の年間トップ100入りを果たした。
アンディ・ウィリアムスは、1963年のアルバム『Days of Wine
and Roses and Other TV Requests』でこの曲を取り上げた。
トミー・エドワーズ、ロニー・ドーヴほかにも、
エルヴィス・プレスリー(1970年)や、エディ・アーノルド
らによる録音がある。
日本語では、かつては「たそがれのワルツ」としても知られた。
まずエディ・アーノルドのヴァージョンが『たそがれのワルツ』
という曲名でヒットし、1964年になかにし礼が『知りたくないの』
という曲名で日本語詞をつけ、菅原洋一が歌って1965年に
発表されたヴァージョンが1967年になってからヒット曲となった。
菅原のカヴァーは1965年10月に「恋心」のB面として発売されたが、
1967年にジャケットを入れ替えて再発、有線放送をきっかけに
同年春から夏にかけて大ヒットし、80万枚を超える売上を記録した。
なかにし礼にとっては、作詞家としての最初の成功作となった。
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佐良直美 - 私の好きなもの
7inch single : Victor SV-632
1967年12月5日リリース。
LP : 佐良直美とともに 世界は二人のために
Victor SJV-338
1968年2月25日リリース。
作詞 : 渡辺研一
補作詞 : 永六輔
作曲編曲 : いずみたく
佐良直美 (さがら なおみ、1945年1月10日生れ)
日本の女性歌手・タレント・女優・作曲家・実業家。
出生名は山口納堡子 (やまぐち なほこ) だが、現在は戸籍名を
芸名と同じく佐良直美に改名している。日本芸術専門学校特別講師。
東京都出身で、明治時代の漢学者川田甕江の玄孫で住友財閥の
常務理事の川田順 (甕江の三男) の従曾孫にあたる。
遠縁に吉永小百合がいる。また山本直純の妻の山本正美も遠縁にあたる。
日本大学藝術学部を卒業後、1967年に「世界は二人のために」で
歌手活動を始めて120万枚のレコードを売り上げ、
第9回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、同年の第18回NHK
紅白歌合戦に初出場する。1968年に「世界は二人のために」が
第40回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に採用された。
1969年に「いいじゃないの幸せならば」で第11回日本レコード大賞
を受賞し、女性歌手初の日本レコード大賞新人賞・大賞受賞者となる。
1970年に芸術選奨新人賞を受賞する。1971年に所属事務所である
オールスタッフプロから独立し、(株)佐良直美音楽事務所を設立する。
歌手としてだけでなく、作曲(テレビドラマの音楽も担当)、
タレントとしてのバラエティー番組への出演やテレビ番組の司会、
女優としても『ありがとう』に出演するなど、多方面で活躍した。
1980年にタレントのキャッシーとの同性愛関係スキャンダル報道が
されて以後は、次第に芸能活動から遠ざかり、同年のNHK紅白歌合戦
も落選した。佐良本人は後に「あれは何がなんだか全然わかりません。
ビックリするだけでした。ただ、どの社会にも裏表や力関係がある。
そういうことなんでしょうね」と騒動を否定している。
いずみ たく (1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家・政治家。元参議院議員(第二院クラブ)。
本名は今泉隆雄(いまいずみ たかお)
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科
に入学する(同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。
1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などを
しながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる
冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。
1955年には、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。
歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調は
さまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、
ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の
組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広い
ジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。
いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた。
1965-69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”を
デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。
このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、
「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年(昭和44年)には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が
第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、
1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞
特別賞を受賞。1972年テイチク・レコード傘下にBLACKレーベルを開設。
1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を
提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー
出演者グループであるヤング101の卒業生にグループ・サウンズの
フィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身が
プロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。
全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。
「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと
演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」
では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、
「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジット
は非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。
結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を
米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、
または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの
構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋の
ソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
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いずみ たく |
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水原弘 - 好きと云ってよ
7inch single : 東芝 TP-1578
1967年 12月25日リリース。
作詞 : 丹古晴己
作曲 : 大本恭敬
冨田勲が手掛けた円谷プロの「恐怖劇場アンバランス」の
エンディングテーマ曲のボサに似たテイスト。
シックなボサ歌謡の名曲。
なお1984年のシングル東芝 TP-17107 では同じオケを使って
B面に収録している。
水原弘 (みずはら ひろし : 1935年11月1日 - 1978年7月5日)
日本の歌手・俳優。愛称は「おミズ」。
東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。
東京都立赤坂高等学校商業科卒業。
マナセプロダクションに在籍していたが、一時期、渡辺プロダクション
に所属。井上ひろし、かまやつひろしとのトリオで「三人ひろし」と
呼ばれていた (ただし水原の持ち味は当時の「ロカビリー・アイドル」
としては全く異質であったため、後に守屋浩と交代する)。
東京都立赤坂高等学校2年の時に、文化放送主催の『素人ジャズ喉自慢』
に優勝。その後活動していたジャズ喫茶で渡邊美佐にスカウトされ、
芸能界入り。1957年ダニー飯田とパラダイス・キングに初代ヴォーカル
として参加するが、翌年には脱退。1958年水原弘とブルーソックス
を結成。メンバーには森山加代子・ジェリー藤尾がいた。
1959年、東京芝浦電気(現・東芝)の音楽レコード事業部の
東芝レコードから「黒い花びら」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)で
レコード・デビュー。夏木陽介主演の東宝映画『青春を賭けろ』に
歌手役で出演。「黒い花びら」は発売初年に30万枚、
総合計57万枚という当時としては大ヒット作となった。
ちなみに最初のマネージャーは渡邊美佐の妹、曲直瀬信子だった。
またこの年から始まった第1回日本レコード大賞を「黒い花びら」
で受賞。新人デビュー年の大賞受賞は現在においても水原が
唯一である。また第10回NHK紅白歌合戦に初出場。
その後も3年連続で紅白に出場を果たし、独特の甘い“低音”で
一世を風靡した。そして20代の女性たちに多大な人気があった。
1960年代前半より各社の映画作品への出演が増え、現代劇作品の
主役や時代劇作品の準主役級の役をこなし、多くの人気俳優と共演。
共演した俳優から高い評価を得ている。
東宝映画『皆殺しの歌、拳銃よさらば』で主役を演じた際には、
仲代達矢に「この主役の演技ができるのは水原弘だけだ。」と
褒められたというエピソードが残っている。
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黒沢明とロス・プリモス |
黒沢明とロス・プリモス - 好きと云ってよ
LP : ラブユー東京/ロス・プリモス夜のムードをうたう / love you tokyo
Crown GW-5007
1967年 12月リリース。
作詞 : 丹古晴己
作曲 : 大木恭敬
編曲 : 井上忠也
水原弘のカヴァー。
ロスプリは何故この曲をシングルカットしなかったのだろうか。
競作にしないように水原弘側との協約でもあったのかも。
ロス・プリモスは日本ムード歌謡界を代表するグループである。
1961年にラテンコーラスグループの黒沢明とロス・プリモス
として結成。なお、黒沢は、映画監督の黒澤明と同姓 (漢字違い)
同名であるが別人である。1965年にメインヴォーカルに森聖二を
新たに迎え“大人にも楽しめて唄える歌”として、1966年4月に
クラウンレコードよりA面「涙とともに」(作詞 : 木村伸・作曲 : 中川博之)
B面『ラブユー東京』(作詞 : 上原尚・作曲 : 中川博之)の作品で
デビューした。これは、中川博之にとってもデビュー作となり、
以来数多くの作品を共にすることになる。
この時レコードジャケットは白黒だった。
地道な活動により、1年後に「ラブユー東京」が大ヒット、
思いがけない展開に慌ててAB面をひっくり返し、
ジャケットがカラーの「ラブユー東京」が登場した。
1968年1月に創刊されたオリコンでは創刊号(1968年1月4日付)
から2週連続第1位を獲得した。1968年4月29日発売のオリコンHOT100
には、「ラブユー東京」「雨の銀座」「ラブユーいとはん」「たそがれの銀座」
の4曲がランクインしている。銀座シリーズ第2弾「たそがれの銀座」
は発売と同時にオリコンに登場。この曲で同年NHK紅白歌合戦に出演。
その後も、静岡県伊東市の城ヶ崎海岸に歌碑まで建ったという
「城ヶ崎ブルース」、銀座シリーズ第3弾「恋の銀座」、
当時タイトルが長く話題になった「さようならは五つのひらがな」、
タンゴのリズムが軽快な「君からお行きよ」など次々と発表する。
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沢田駿吾 |
山本邦山&沢田駿吾クインテット - さのさ
LP : Shakuhachi & Bossa Nova = 尺八とボサ・ノヴァ
Union Records UPS-1030-J
1967年12月リリース。
鹿児島県民謡 (串木野さのさ) Shakuhachi : 山本邦山
沢田駿吾クインテット
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Piano : 徳山 陽
Sax : 村岡 健
Drums : 日野元彦
尺八ブローに外人たちは狂喜した。
ジャポニズムの再発見だ。
昭和初期、服部良一は本格的なジャズの作曲・編曲でヒット曲を連発した。
彼が和製ポップスのヒントとしたのは『民謡』だった。
佐々紅華 (さっさ こうか)、服部良一たち昭和初期にジャズの影響を
受けて新しい音楽を作っていた作曲家たちは、単にコピーするのではなく、
日本的な音楽を作ることが頭にあった。その時、日本的な素材として
民謡が取り上げられた。そのような状況だったので我が国の
流行歌は『民謡』と『ジャズ』のミクスチュアー的な要素を含んでいた。
さらに戦後の日本のジャズミュージシャンが民謡や古謡をジャズアレンジ
してクロスオーヴァーに挑戦し、別の領域へ移行する。
これは日本のジャズミュージシャンたちによるアイデンティティの
確立であり、1960〜70年代にかけて、日本のジャズマンは盛んに
民謡や古謡を通じて日本独自の表現を模索していった。
特に和楽器とジャズの融合は西洋人達にとってアヴァンギャルドな
表現であり、既成の芸術観念や形式を否定する先端的な芸術と
大きな評価が西洋人達から与えられた。
尺八によって奏でられる雅な美しさ。
これが和と洋の融合 (Fusion フュージョン)
山本邦山 (やまもとほうざん : 1937年10月6日 - 2014年2月10日)
滋賀県大津市出身の尺八演奏家、作曲家。元東京芸術大学教授、人間国宝。
本名は山本泰正 (やまもと やすまさ)。
長男は尺八奏者の山本邦山 (二代目、襲名前は山本真山)。
都山流尺八演奏を、父である山本鵬山に習う。
のち中西蝶山門下に入る。
沢田駿吾、本名は澤田駿五 (1930年2月10日 - 2006年8月28日)
日本のジャズ・ギタリスト。
1930年2月10日、愛媛県西宇和郡八幡浜町出身。
少年時代に『姉妹と水兵』(1944年アメリカ映画)を見て、
劇中のギター演奏に魅せられたのがギターを始めるきっかけに
なったと言う。第二次世界大戦後に東京へ出て、本格的に
ジャズギターを始めると共に、米軍キャンプを回るようになる。
1954年に神奈川県横浜市の伊勢佐木町にあったクラブ:モカンボ
行われた『モカンボ・セッション』では、ハナ肇、植木等、
守安祥太郎らと共に参加している。
1957年にチコ・ハミルトン楽団のギタリストだった
デンプシー・ライトに弟子入りし、本格的なジャズギター
テクニックの伝授を受けた。
また、作曲家としても活動し、東京放送(現在のTBSテレビ)
系列のテレビドラマ『月曜日の男』の劇伴音楽と主題歌の作曲
を手掛けるなど数多くの作品も残した。
ジャズギタリストとしては自らバンドを率いたり、前田憲男など
音楽仲間のバンドに参加するなど、幅広い活動を展開した。
一方では1975年に『ルーツ音楽院』というジャズマン養成の
音楽学校を開校し、初代校長として後進の指導に当たった。
2006年8月28日、肝細胞癌の為に逝去。76歳没。
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山本邦山&沢田駿吾クインテット - 関の五本松
LP : Shakuhachi & Bossa Nova = 尺八とボサ・ノヴァ
Union Records UPS-1030-J
1967年12月リリース。
島根県民謡 Shakuhachi : 山本邦山
沢田駿吾クインテット
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Piano : 徳山 陽
Sax : 村岡 健
Drums : 日野元彦
風にたなびく尺八、村岡 健のクールなサックスに
徳山 陽のシックなピアノが心地よい。
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山本邦山&沢田駿吾クインテット - 黒田節
LP : Shakuhachi & Bossa Nova = 尺八とボサ・ノヴァ
Union Records UPS-1030-J
1967年12月リリース。
福岡県民謡 Shakuhachi : 山本邦山
沢田駿吾クインテット
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Piano : 徳山 陽
Sax : 村岡 健
Drums : 日野元彦
まるでブラックエクスプロイテーション(Blaxploitation 1970年代前半
に登場したアメリカの映画のジャンル。黒人観客を対象に、黒人俳優が
アクションを披露する探偵・警察映画、ギャング映画、ホラー映画など)
のワンシーンを観てるような構成である。
スリリングとクールネスが全体を支配している
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山本邦山&沢田駿吾クインテット - 佐渡おけさ
LP : Shakuhachi & Bossa Nova = 尺八とボサ・ノヴァ
Union Records UPS-1030-J
1967年12月リリース。
新潟県民謡 Shakuhachi : 山本邦山
沢田駿吾クインテット
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Piano : 徳山 陽
Sax : 村岡 健
Drums : 日野元彦
こちらはリズミカルでありながらも、抑制の利いた徳山 陽の
ピアノと山本邦山の尺八がフュージョンフィールドに行かせない
作用を持っている。さすが人間国宝。
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山本邦山&沢田駿吾クインテット - さんさ時雨
LP : Shakuhachi & Bossa Nova = 尺八とボサ・ノヴァ
Union Records UPS-1030-J
1967年12月リリース。
宮城県民謡 Shakuhachi : 山本邦山
沢田駿吾クインテット
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Piano : 徳山 陽
Sax : 村岡 健
Drums : 日野元彦
冒頭で聴かせる山本邦山の尺八ブローは外人たちが狂喜する
時代劇のそれ。和楽器のメロディとボサリズムの見事な融合
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山本邦山&沢田駿吾クインテット - 刈干切唄
LP : Shakuhachi & Bossa Nova = 尺八とボサ・ノヴァ
Union Records UPS-1030-J
1967年12月リリース。
宮崎県民謡 Shakuhachi : 山本邦山
沢田駿吾クインテット
Guitar : 沢田駿吾
Bass : 池田芳夫
Piano : 徳山 陽
Sax : 村岡 健
Drums : 日野元彦
シックなボサと枯れた味わいの尺八の素晴しい融合。
村岡 健のサックスと沢田駿吾のギターも良いアクセントだ。
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【戻る】【続く】 |