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Vol. 3
01 The Fantastic Baggys - Tell 'Em I'm Surfin'
02 Monagrams - Go-Go Marlin
03 Freddy Cannon - Little Miss A Go Go Go
04 Johnny Cymbal - Go V.W. Go
05 Buddy Randel & The Knickerbockers - Bite Bite Barracuda
06 Jackie And The Giants - Ford G.T.
07 The Roamers - We Build A 409
08 Sandy And The Beachcombers - Daytona Darlin’
09 The Chords - 2 + 2
10 Ron Winters - Big Black Bike
11 Gary Zekely - Other Towns, Other Girls
12 The Buddies - I’ll Surf Around The World
13 The Crockett Brothers - Mother Mother Can I Go Surfin'
14 The Surf Breakers - Rindin' In Number Nine
15 The Four - Lonely Surfer Boy
16 The Beachcombers - Surfin’ The Summer Away
17 Ron Barrett and The Duals - The Big Race
18 Long Island Sounds - Tiger
19 The Chains - Carol’s Got A Cobra
20 Cartee Brothers - My Little Jeep
21 Dave and The Marksmen - Kustom Kar Show
22 The Survivors - Pamela Jean
23 Robby & The Robbins - Surfer's Life
24 The Sunrays - Outta Gas
25 The Four Dimensions - Sand Surfin'
26 The Triptides - Go Mustang
27 Five-Hundreds - Wheel's Last Ride
28 The Emerald City Bandits - Full Blown Caddy
29 Larry & The Loafers - Let's Go To The Beach
30 The Dolphins - Surfing- East Coast
31 The Mark Four - Swingin Hangout
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Vol.3
ここでは Surfin’ & Hot Rod / Biker Tune を
中心に収録しました。Bobby Russell の足跡を
紹介すべく彼の曲を4曲収録しています。
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The Fantastic Baggys |
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3-01
The Fantastic Baggys - Tell 'Em I'm Surfin'
(7: Imperial 66047) 1964
(LP: Imperial LP-9270 mono / LP-12270 stereo) 1964
Phil Sloan と Steve Barri の代名詞となった
The Fantastic Baggys のプロジェクトは
1964年から始まっている。当初 The Baggys と
名づけられていたこのセッションバンドはデモ音源
を完成させたばかりだった。Lou Adler はその音源
を友人で Rolling Stones のマネージャーだった
Andrew Loog Oldham に聴かせた。
すると Mick Jagger までもが音源を聴いて驚いた。
感想を尋ねられた際に Mick Jagger は「Fantastic !!」
を連呼したという。それを由来にその後彼らは
The Fantastic Baggys と呼ばれるようになった
経緯を持つ。(後年 Andrew Loog Oldham と袂を分けた
Mick Jagger は "Paint It, Black" のセッションに
Phil Sloan を呼び出しアドヴァイスを受けている)
The Fantastic Baggys のアルバム用フォトセッション
に参加している二人は Bob Myman と Jerry Cargman
だが、プロジェクトの為に集められたメンバーで
アルバム録音には参加していない。
Bob Myman はドラム担当となっていたが Phil Sloan
の高校時代のクラスメイト、Jerry Cargman こと
Jered Cargman は後に女優 Donna Loren と結婚し、
この夫婦は現在ハワイで ADASA という
ジュエリーショップを経営している。
Hey mom, If any other girl from the baseball team
Ever call me on the phone
to ask me to play an important game
just say their captain ain't at home
Tell 'em I'm surfin'
(Don't care about hittin' homeruns now)
Tell 'em I'm surfin'
(Wanna have me some fun fun fun now)
I'm tradin' in you know that ball sail sea
and then the fall
I'm goin' surfin'
And if that pretty little girl from across the street
Who's been botherin' me for days
To go swimmin' in her pool well
her pool's real cool
But it hasn't got ten foot waves
Tell her I'm surfin'
(she's a mighty, mighty cute girl now)
Tell her I'm surfin'
(but I'd rather be shooting the curl, now)
If she wants some company
I'll be out at Wind and sea
I'm goin' surfin'
Last year I had a summer job
and all day long I had to run around
But now I can afford a new surfboard
And all summer long I'm gonna bum around
So just pack me a lunch and I'll be on my way
Oh, yeah there's one more thing to do
If the mailman comes with a letter for me
Just forward it to Malibu
Where I'll be surfin'
(just drop it in my '34 Ford now)
Tell 'em I'm surfin'
(I'll read it while I'm waxin' my board now)
I won't be home for days, I'll be ridin' the waves,
I’m goin' surfin’
I’m goin' surfin’
(Gonna throw my books away)
I’m goin' surfin’
(You're gonna surf twenty-four hours a day now)
I won't be home for days, I'll be ridin' the wave
I'm goin' surfin'
I'm goin' surfin'
(Fade out)
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3-02
Monagrams - Go-Go Marlin
(7: Charrington Records 1000) 1965
Michigan 州のバンド。Marlin とは直訳すれば
カジキマグロの事だが、これはその容姿から
ファストバックスタイルの2ドアスポーツクーペを指す。
Michigan 州 Detroit 出身の俳優 Rod Wasserman
がソングライタークレジットされてるので
恐らく彼が歌っているものと推察される。
Michigan 州 Detroit のローカルレーベル Pioneer Records は
Psych Hard Rock の Bump が有名だが、このレーベルは
独立系プロデューサーでエンジニアーの Gary Rubin が運営
しており、1964年から Rod Wasserman と共作していた。
Gary Rubin は Pioneer Recording Studio も所有していたので、
恐らくこれもそのスタジオで録音されたと考えられる。
アレンジを努めてる Sonny Saunders は Chicago 出身の
黒人アレンジャーだと考えられ、彼は1959年からレコードデビュー
しており、本件シングルの1965年なら当時26歳なので
間違いないだろう。
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Fastback / Marlin |
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Freddy Cannon |
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3-03
Freddy Cannon - Little Miss A Go Go Go
(7: Warner Brothers-5615) 1965
Boston 出身で、1959-1963年まで Philadelphia の
Swan Records から多くのヒットを飛ばした Freddy Cannon
だったが、1964年には西海岸の大手 Warner Brothers へ
と移籍する。移籍第一弾の “Abigail Beecher” こそ16位と
好成績を残すが、以後にリリースされた数枚のシングルは不発。
そして1965年、Warner Brothers での5枚目のシングルとして
リリースされたシングルがこれだ。Warner Brothers 時代では
結果的に唯一となるピクチャースリーヴ付きで発売されたが、
A面扱いの "In The Night" (Boyce-Hart作)が132位と
いう霞のようなヒットで終わってしまう。しかしながら西海岸
は折からの Surfin’ Music ブームの真っ只中であり、
Freddy Cannon も64年の Warner Brothers からの1枚目
のアルバム "Abigail Beecher" では "Califronia Sun" や
"Hey Little Cobra" をカヴァーするというように、
Surfin’ Music に興味を持っていたようだ。
B面扱いだった本件 "Little Miss A Go Go Go" だが、
レーベル設立前の初期 Kama-Sutra Production による作品で
Jan Berry と "Dead Man’s Curve" や The Angels
に "I Adore Him" を提供した Artie Kornfeld と、その相棒
である Steve Duboff が書いた曲である。このコンビは
これより後に The Cowsills への楽曲提供、並びに
バックアップとして有名となる。New York で生まれ育った
Artie Kornfeld だが、これより少し前の Jan Berry との
共同作業の中で、Surfin’ Music のヒットの可能性を知り、
そのフィールドへ積極的に関与したことは想像に難くない。
Teen Pops ファン、そして Surfin’ Music ファンの両方から
支持を受ける1964年の Susan Lynne によるシングル
2サイダー、"Don’t Drag No More" と "In His Car" も
Artie Kornfeld の作品だった。
本件 Freddy Cannon の "Little Miss A Go Go Go"
であるが、小ヒットのB面曲、そしてサーフ・フィールド
以外の歌手ということで、意外に知られていない作品かも
しれない。サウンドとしてはイントロや間奏といった要所に
ファンキーなオルガンを配したダンサンブルなゴー・ゴー
サウンドだが、歌詞には Surfin’ はもちろん、GTO や
Shoot The Curl といった Surfin’ Music ではお馴染みの
単語が織り交ぜられている。
そして極めつけは "Race to the Dead Man’s curve"
と Artie Kornfeld 自らが書いたヒットの曲名までが
登場する楽しい曲だ。バックにはもちろん、ファルセット
ヴォーカルを付けるグループも参加している。
ちなみ に Freddy Cannon が当時 L.A.で人気の
あった音楽番組、"Hollywood A Go Go" にこの曲を
引っさげて登場する映像が残っており、これはダンサー
たちが曲に合わせてモンキー、ゴー・ゴーを踊りまくるという
最高の映像だ。なお、Gary Lewis And The Playboys
による The Beach Boys Style の曲に、よく似た
タイトルの "Little Miss Go-Go" があるが、
それとは同名異曲である。
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Johnny Cymbal |
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3-04
Johnny Cymbal - Go V.W. Go
(7: DCP Records DCP-1135)1965
今さら説明は不要のビッグ・ヒット "Mr. Bassman"(1963)
で有名な Johnny Cymbal だが、実は彼は Scotland
生まれのイギリス人である。そんな彼も時流に便乗し
Teen Pops サイドからの Surfin' & Hot Rod Theme の
作品をいくつかリリースしている。
ここに収録した "Go V.W. Go" は、ドイツが生んだ名車
Volks Wagen (Beetle)のことを歌った Johnny Cymbal の
自作曲。1965年にA面扱いで DCP Records よりリリース
されたもので、一部は珍しいピクチャースリーヴ付きでの
リリースだったが、残念ながらヒットはしていない。
DCP Records は、Paul Anka などを見出したことで
有名なアレンジャーの Don Costa のプロダクション
Don Costa Production が発展したもので1964年に設立、
会社名はその頭文字を取ってDCP Records となった。
プロデュースを担当したのは、"Mr. Bassman" でも
アレンジを担当した Alan Lorber だ。彼は New York の
プロデューサー、アレンジャー、指揮者で、ポップスのみならず
Jazz やポピュラー・ミュージックの現場でも仕事もこなし、
C&W ミュージックの聖地 Nashville のレコーディング現場に
New York Style を始めて持ち込んだ人物としても知られている。
ポップス作品では、Phil Spector 初期のプロデュース曲
である Gene Pitney "Every Breath I Take" の
アレンジも有名だ。本件はサウンドとしては Johnny Cymbal
の従来からの路線で、女性コーラスが入る典型的な
Teen Pop ものである。
他に Johnny Cymbal は Kapp-539 でリリースした
1963年のB面曲 "(Surfin’ At) Tia Juana" (こちらも
Alan Lorber のアレンジ)などもリリースしている。
なお " Go V.W. Go " は当時、日本でも United Artists
経由でシングルがリリースされており、
邦題は「ホット・ロッド・ディト」というものだった。
デートでもなくデイトでもない「ディト」 うふふ
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ホット・ロッド・ディト |
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Buddy Randel & The Knickerbockers |
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3-05
Buddy Randel & The Knickerbockers - Bite Bite Barracuda
(7: Challenge 59268) 1965
後に The Beatles Style で "Lies" (1965年12月4日
をピークに20位) のヒットを放った The Knickerbockers
のデビュー・シングルがこの曲。彼らのグループ名は地元の
New Jersey 州の Knickerbocker Road (国道 505)
に因んで名づけられた。Buddy Randell (本名 William Crandall)
は 1958年1月27日をピークに全米3位の大ヒットとなった
"Short Shorts" (日本ではタモリ倶楽部のオープニング曲
として有名)の The Royal Teens のメンバーだった。
(当時の名称は Billy Crandall) そして Charles 兄弟と
元 The Castle Kings (Atco) のドラマーだった
Jimmy Walker の4人で構成される。
当時 New York 州の Albany にあるラウンジ
The University Twist Palace で演奏していた Jerry Fuller
によってスカウトされた彼らは Jerry Fuller が出資
している Challenge Records と契約する事になった。
Buddy Randell (Lead Vocal, Sax)
Beau Charles (Guitar, Vocals)
John Charles (Bass Guitar, Vocals)
Jimmy Walker (Drums)
本件は Carol Connors 作の Hot Rod Song だが、
New Jersey 出身の彼らのデビュー曲として、
なぜこの曲が選ばれたのであろうか?
作者の Carol Connors は、実はこの曲について
よく覚えていないらしい。「Oh My God あれを私が
書いたって本当なの?ええ、きっとそうでしょうね。
ぼんやりとだけど、私の心の中にはそんな記憶が
あるわ。だって私は "Hey Little Cobra" や
たくさんの車についての曲を書きましたから。
実際私は、自分で GTO も Cobra も Mustang
もやりましたからね」だそうだ(笑)
とにかく、この曲は Carol Connors によって
Challenge Records が所有する音楽出版社、
Four Star Music に持ち込まれた。Challenge Records
所属の歌手で、ソングライターだった Jerry Fuller
(Ricky Nelson の "Travelin’ Man" の作者として有名)
自身がスカウトした The Knickerbockers をプロデュース
することになった。Jerry Fuller は New York に飛び、
The Knickerbockers のごく初期のセッションでこの曲を
録音した。ちなみにB面曲の "All I Need Is you" は
東海岸の伝統的な White Doo Wop で美しいBalladだ。
なお The Knickerbockers は、もう1曲 Carol Connors
作品の Hot Rod Song "Mighty Mighty Barracuda" も
レコーディングしたが、こちらは残念ながら当時レコード化
されることはなかった。
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Bobby Russell |
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3-06
Jackie And The Giants - Ford G.T.
(7: Hit 185) 1965
Bobby Russell は1968年に彼が書いた
"Little Green Apples" が競作となり、
時系列順で言うと先ず英国シンガー
Roger Miller ヴァージョンが3月2日をピークに39位、
Patti Page ヴァージョンが7月6日をピークに96位、
O.C. Smith ヴァージョンが8月17日をピークに2位
と春から夏にかけてジワジワと全米大ヒットとなり、
ソングライターとして成功し、後に彼の妻となる
Vicki Lawrence に書いた"The Night the Lights
Went Out in Georgia"が1973年2月10日を
ピークに全米1位になった。
しかしそんな優秀なソングライター Bobby Russell
はシンガーソングライターとしての下積みが長かった。
1959年から18歳でソングライターデビューしており
同年にカントリーデュエット Sadie & Bobby Russell -
Shackled / Not Even Friends (D 1115) でレコード
デビューをし、やはり1959年にはソロのティーンポップ
シンガーとして Dum Diddle / Perhaps (Felsted 45-8559)
でソロデビューしている。そんな中 Bobby Russell は
地元 Nashville の音楽シーンで多くのグループを
掛け持ちしていた Buzz Cason と出会う。
Buzz Cason は Snuff Garrett のアシスタントとして
Los Angeles に出向いて1960年からソロシンガー
としてのキャリアーを確立しようとしており
彼は Liberty Records と契約し映画 "Circus Of Horrors"
の主題歌を変名の Garry Miles 名義でリリースした
"Look for a Star" が6月20日をピークに全米16位の
ヒットとなった。(注:綴りの異なる Garry Mills -
Look for a Star Part 1 Imperial 5674 は違うシンガーに
歌わせており、そちらのヴァージョンも6月20日を
ピークに全米26位のヒットとなる)
Bobby Russell と Buzz Cason が出会ったのは
そんな頃だった。Snuff Garrett のアシスタントだった
Buzz Cason は Bobby Russell と一緒に "Tennessee"
と言う地元を題材とした所謂御当地ソングを書いたところ、
その曲は Jan & Dean によってシングルカット
(Liberty F-55454) をされた。プロデュースは
Lou Adler, Snuff Garrett が担当しており、
この曲は1962年5月26日をピークに全米69位の
スマッシュヒットとなった。この手応えを得た Buzz Cason
と Bobby Russell は West Coast の Youth Culture
を意識したサウンドを作り始める。
Buzz Cason と Bobby Russell はソングライターや
録音ユニットとして 1963年から Hit Recordsに参加する。
Bobby Russell はセッションシンガーとしても参加し、
そこで作られていったサウンドは後に Buzz Cason や
Bergen White らと外部から参加した
Ronny & The Daytonas へと発展する。Bobby Russell は
1963年から Bergen White, Benny Latimore, Alpha Zoe
らと The Jalopy Five や The Music City Five と言った
名義のスタジオセッションバンドで地元ナッシュビルの
廉価盤レーベル Hit Records とその系列レーベルの
Giant Records や Modern Sound, Spar Records 等で
録音していた。そこには Bobby Russell And
The Tennessee Three (1963年 Hit Records) や
Merry Men (1963年 Giant Records) のような
彼のプロジェクトユニットも含まれる。
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3-07
The Roamers - We Build A 409
(7: Hit 160) 1964
アメリカ南部、Nashville でプロデューサー、アレンジャー、
ソングライター 、歌手として活躍した Bobby Russell と、
Bergen White が中心となってレコーディングされたのが
本作。Hit Records は Spar, Giant, Modern Sound など
多くの系列会社を持っていたが、すべては廉価盤を販売
する会社だった。これらの会社のレコードは、一般の
レコード店ではなく、例えばロー・ティーン向けの
キャンディ・ストアーやスーパー・マーケットで販売
されたものだ。1960年代当時、普通の大手レコード会社
のシングル盤が1枚98セントや1ドルで売られていた
ところを、これらの廉価盤レーベルは1枚39セント、
もしくは3枚で1ドルという低価格で販売していたのだった。
「39セント」という価格は、Hit Records のオリジナルの
カンパニースリーヴに堂々と印刷されている。
そしてそのカタログは、The Beatles や The Beach Boys
らを初めとする人気グループのヒット曲の安易な
カヴァーソングも多かったが、実はオリジナルソングには
内容の良いものも多く残されており、現在ではそのコレクター
がいるほどだ。こうしてコレクターたちが発見していった
オリジナルソングのうちの1曲が本作である。
「409は俺たちが作った」という、The Beach Boys の
"409" に対する Ballad のアンサー・ソングだ。
"409" でお馴染みの “Giddy Up, Giddy Up” の
バック・コーラスも入り、エコーたっぷりの情緒ある
Bobby Russell のヴォーカルで歌われている。これらの
Hit Records や Spar のレコーディングには、
Buzz Cason (Guitar, Keyboard, Vocal)
Bill Justis (Saxophone)
Floyd Cramer (Keyboard)
Hank Garland (Guitar)
といった多くの南部出身の有名ミュージシャンたちも
参加している。
Buzz Cason は The Ronny And The Daytonas の
レコーディングにも参加、Buzz And Bucky
(Buzz Cason & Buck Wilkin) としてのシングルも残し、
更には Los Angeles に出て、Surf Music と大きく
関わっていく。Bill Justis は "Raunchy" のヒットで
最もよく知られ、Sun Records における Rockabilly
や Rock And Roll の伝説的なアーティストたちとも
関わりが深く、彼は Ronny And The Daytonas の
マネージャーとプロデューサーも務めた。
Floyd Cramer と Hank Garland の2人は、
Elvis Presley の Nashville セッションにも参加した
猛者たちだ。そしてスタジオにおける Bobby Russell
の役割は主にヴォーカル、プロデュース、
そして Bergen White はプロデュース、ヴォーカル
の他、ストリングスやホーンのアレンジも担当していた。
Bobby Russell や Buzz Casonは、やはり Nashville
出身のグループである Ronny & The Daytonas とも
深く関わっている。そのため、Hit Records を始めと
する Surf Music の多くは、Ronny & The Daytonas
と似た手触りを持つものも多い。こうしたことを考慮すると、
単なる廉価盤のレコーディングとは侮れないのである。
これらの廉価盤レーベルは地元の若手作家達に
とっては自作をレコーディング出来る良いレーベルだった。
カヴァー曲を歌うにしてもアレンジの勉強にもなるし、
当然ヴォーカル&コーラスですらこのレーベルで基礎を
学んだ地元ミュージシャンは多い。それ故に Hit Records
を始めとする傘下レーベルのコレクターは多い。
Bobby Russell と Bergen White は、Nashville 産の
Surf Music のみならず、あらゆるポップ・ミュージックの
フィールドでも活躍した才能豊かなコンビでもある。
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The Daytonas |
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3-08
Sandy And The Beachcombers - Daytona Darlin’
(7: Star 760) 1965
Bobby Russell が書いた曲だが、そのサウンドを
聴けば解るようにこのバンドは Ronny & The Daytonas
の The Daytonas だ。彼らは後に The Hombres と
名を変えて ”Let It Out” で1967年9月16日をピークに
全米12位の大ヒットを作る。本件は Chuck Berry Style の
ギター・リフを用いた軽快な Rock And Roll となっている。
Surf Style のバック・コーラスは挿入されない代わりに
ダブル・リードで歌われ、サウンドに厚みを持たせる
という手法を取っている。
Daytona とは、1959年に Florida 州 Daytona Beach
に NASCAR の統括するストック・カーのレース会場
として建設されたオーバルトラック、Daytona International
Speedway のことで、ここは Daytona 500 が開催
されるコースとして名高い。
Sandy And The Beachcombers 名義のシングル盤
としてリリースされているが、発売元の Spar Records の
系列である Modern Sound のタイトルの付けられていない
オムニバス・アルバム(Modern Sound MS 1013)にも
収録されている。
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Bobby Russel |
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3-09
The Chords - 2 + 2
(7: Hit 163) 1964
これも Bobby Russell 単独作品だがコーラスが入り、
Ronny And The Daytonas Style となっている。
スピート感溢れるかっこいい Hot Rod Song で
Bobby Russell をリードヴォーカルにして
The Daytonas がバックを務めている。
2+2 とは、2人乗りの Coupe 形状のスポーツ・
カーの後部座席にあと2人乗れるようにシートを
加えたものである。後部座席は狭いが、一応4人
乗れる。日本では2バイ(×)2のフェアレディZ
がこの形状を採用したのが有名だ。
1964年に The Chords 名義で Hit Records から
リリースされた本件だが、翌1965年には
Sandy And The Beachcombers 名義
のシングル "Daytona Darlin’" (Star 760)
のB面としてもリリースされていて、どちらも同じ
レコーディングだ。
因みにこれらのセッションユニットは1966年の
The Communication Aggregation - Freak-Out, U.S.A.
(Our Bag 101 / 2nd press RCA Victor 47-8930)
の One Off ユニットとしてシングル1枚をリリースしたり、
また1967年に Buzz Cason が Elf レーベルを設立した
際に Bobby Russell のバックバンドを務めたり、
単体では The Bright Hour (Elf 90,001) として
シングルをリリースする。
言わば彼らは Buzz Cason & Bobby Russell の
お抱えハウスバンドとしても機能していた。
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Mustang 2 + 2 |
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Ron Winters |
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3-10
Ron Winters - Big Black Bike
(7: Smash S-1987 Promo only) 1965
これを歌った時 Ron Winters は20歳だが
業界ではベテランとしての大きな立ち居地を持っていた。
The Beach Boys Style のコーラスが入るかなり
本格的な Hot Rod Sound に仕上がった曲である。
The Shirelles, The Three Suns, The Angels 他
New York レコーディングの多くで活躍した黒人アレンジャー
の Leroy Glover がアレンジャークレジットされており、
Bob Feldman, Jerry Goldstein and Richard Gottehrer の
F.G.G. Productions の正統的なプロダクトである。
実は本件のB面 "My Girl" であるが、Bruce Johnston と
Terry Melcher がプロデュースした1964年リリースの
The Osmonds の "Mr. Sandman" のB面曲だった
"MY Mom" とほぼ同じメロディの曲なのである。
リリース年を考慮すれば "My Mom" が先と
いうことになるが、"My Mom" の作者クレジットは
Darlin-Melcher (Bobby Darlin-Terry Melcher) なのに
対して、"My Girl" のほうは Feldman-Goldstein-Gottehrer
となっている。いずれにしても New York で活躍していた
Feldman-Goldstein-Gottehrerのトリオが、西海岸の
サウンドやテーマに注目していたことは間違いないだろう。
Ron Winters は 1945年4月1日に New Jersey 州
Paterson で生まれ、本名を Ronald C Striano と
いうイタリア系シンガー兼ミュージシャン、実業家だ。
イタリア人の移民の両親を持ち、彼の大家族には多くの
ミュージカルアーティストやメディアアーティストがいた。
パフォーマー、ライター、レコードプロデューサー、
業界のエグゼクティブで Dicky Doo & The Don'ts の
メンバー Gerry Granahan によって1957年、12歳の
ときに Ron Striano はスカウトされた。
当時 Gerry Granahan は新しい音楽業界のベンチャー
である Caprice Records を運営していた。
Gerry Granahan の伝記によると「3回のリリースの
過程で、Gerry Granahan はチームの残りのメンバー
を集め、Caprice Records に運営人のトップを迎え入れ
ました。配給を担当する Canadian-American Records
の Neil Gallagen もそこに含まれていました。
アレンジャーには、長年の協力者である Arnie Goland
とA&R部門を率いる Hutch Davie がいました。
社内バンドを率いてスタジオ・ミュージシャンの請負業者
を務める Ron Striano という若いギタリストを連れて
きたとき、すぐにレーベルスタッフ達に Ron Striano が
かけがえのない存在であることが証明されました。
Ron Striano の同級生の歌手兼ソングライターの
Rose Marie Cassili という若い女性。彼女に芸名
Janie Grant を与え、Gerry Granahan は彼女の
オリジナル曲の1つ "Triangle" で1961年3月27位
をピークに全米29位に到達したレーベルの最初の
ヒットを生み出しました。レーベルのために物事はすぐに
雪だるま式になり始めました。Ron Striano は次に
New Jersey の女性ヴォーカルトリオ The Starlets を
発掘しました。彼女らが The Angels と変名して
リリースした "'Til" (1961年10月16日ピーク14位)
と "Cry Baby Cry" (1962年2月17日ピーク38位)
のレコーディングはレーベルの最大のヒット曲の2つ
であり、これまでに録音されたガールグループサウンド
の最高の例の2つと見なされています。」
スタジオ・ミュージシャンを続けていた1961年、
Ron Striano は15歳の時に Cameo-Parkway Records
のオーナー Bernie Lowe とミュージシャン、ソングライター、
パフォーマーとして契約を結んだ。
その際に有名プロデューサーである Dave Appel から
Ronnie Lavelle と名づけられ Bobby Rydell,
Chubby Checker, The Dovells, The Orlons
らのレコーディングに参加した。しかしこのレーベルの
政治的な政策が彼のキャリアを進めることを妨いでいると
感じて、Ron Striano は別のクリエイティブチームに
加わるために Cameo-Parkway Records を去った。
Ron Striano は1963年に18歳で F.G.G. Productions および
Grand Canyon Music Publishing と契約した。彼は制作会社
を通じて Don Kirshner に出会い Dimension Records と
契約を結んだ。Bo Diddley に大きく影響を受けた曲である
Ron Striano の書いたデビュー曲 "Snow Girl" で
Don Kirshner は彼の名前を Ron Winters に変更した。
Ron Winters となった彼は次のシングルで Chuck Berry の
"Back In The U.S.A." をカヴァーし、これはヨーロッパで
トップ10ヒットのレコードになったが、アメリカではそれほど
成功しなかった。しかし1964年の次のリリースである
"Red MG" は、すぐにチャートを上回り始めた。
イギリスの象徴的なスポーツカー MG のメーカーである
ブリティッシュモーターコーポレーション (BMC) はこの
レコードに気づき、Ron Winters のプロデューサーは
BMC アカウントを扱った広報会社 Roland Company から
連絡を受けた。Ron Winters は、BMC が提供する1964年
の赤い MG で国をツアーし、自動車業界のショーに出演し、
レコードを演奏し、レコードと自動車の両方を宣伝した。
その後レコードプロモーションのディレクターである Danny Davis
は Ron Winters と他のレーベルで彼が扱うアーティストである
Lou Christy を彼のオフィスに呼んだ。Danny Davis はこの二人
のアーティストに「俺は Phil Spector と一緒に Los Angeles で
仕事をするポジションをオファーされたのでレーベルを去る」と
伝えた。Danny Davis は「君のプロモーションを実施する人間
は誰もいないし、君のレコードは死んでしまうだろう」と
Ron Winters に語った。Ron Winters と彼のプロデューサーは
彼のために次の方向性を再編成し、開発するために集まった。
そこで慌てて製作されたのが本件シングルであったのだが。。。
Ron Winters のデビュー曲 "Snow Girl" は Bo Diddley に
大きく影響を受けた曲であった。その独特な通称 Jungle Beat
を用いて The Strangeloves 名義で "I Want Candy"を
1965年6月26日ピークに全米11位の大ヒットにした
Bob Feldman, Jerry Goldstein and Richard Gottehrer は
F.G.G. Productions のオーナーでもある。この3人による
ソングライター&プロデューサートリオは Ron Winters の
プロデュースを担当した。オーストラリアの羊番の家族から
来たと彼ら3人が主張するこの架空のユニットグループ
The Strangeloves では Feldman、Goldstein、Gottehrer
は兄弟 Niles、Giles、Jiles として紹介され、Ron Winters は
彼らの従兄弟の "Reggie Strange" という役割を演じた。
そう、Ron Winters は The Strangeloves の裏メンバー
だったのだ。Ron Winters が F.G.G. Productions に在籍
していた間、彼が発掘した The Angels はプロダクション
ユニットとして契約しレコーディングした "My Boyfriend's Back"
で1963年8月3日ピークで全米1位の大成功を収めていた。
F.G.G. Productions での Ron Winters と The Angels の
劇的な再会により、Ron Winters は彼女達の新しいヒット
シングルでツアーを行ったときに The Angels の指揮者
および音楽コーディネーターの役割を引き受けた。
また彼は Ronnie Striano 名義でも後に Atco でアルバム
リリースする The Last Words の1966年のデビューシングル
(Boom Records BM-60,014) でアレンジャー、コンダクター
を務めている。その後も彼は多くの曲を書き、音楽ビジネスで
様々な役割をこなし続けた。
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Gary Zekely |
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3-11
Gary Zekely - Other Towns, Other Girls
(7: Ava C-151) 1965
先ずラベルのヴァリエーション説明。
初版では上部の作者クレジットが Zekely となっており
ラベル中央下の Produce も Gary Zekely のみがクレジットされた。
その後作者クレジットが Zekely から Gary Zekely と変わり
Produce も Gary Zekely & Dean Torrence とクレジットされた。
Jan & Dean の初期 Screen Gems での
録音でバックコーラスを務めていた The Matadors
の "Ace Of Hearts" を Gary Zekley が書いたのが
1962年だった。それは彼が Jan Berry に会った年
であり、それは初めてのコラボレイト作品だった。
それ以来 Surfin’ & Hot Rod Movement に急接近した
Gary Zekley は短期間でその才能を開花させている。
1963年11月にリリースされた Gary Zekley の
ソロシングル Other Towns, Other Girls /
When I Go To Sleep (Ava C-151) で Gary Zekley
と Dean Torrence は共同プロデュースをした。
Jan & Dean の1964年8月15日リリースのアルバム
"Ride The Wild Surf" の収録曲 "The Restless Surfer"
を Gary Zekley が提供しており、それは本件
“Other Towns, Other Girls” の歌詞を変えた曲で
当時 Gary Zekley と Jan & Dean は親密だった。
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Jerry Naylor |
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3-12
The Buddies - I’ll Surf Around The World
(LP: Mercury Wing MGW-12306 mono / SRW 16306 stereo) 1965
なんと The Crickets meets Surfin’ style.
Lead Vocals - Jerry Naylor (Uncredit)
Guitar - Davie Allan
Producer - Mike Curb
Buddy Holly 亡き後に The Crickets のリードシンガー
になっていた Jerry Naylor は、この Mike Curb の
Mercury Wing での一連のアルバムで全てリードヴォーカル
を担当した。彼はこのセッションの後に Los Angeles
に移りソロシンガーとしてデビューする。
因みに当時日本盤シングルがリリースされており
Ski Jump (恋のスピード・ダッシュ)
Ski City U.S.A. (あこがれのスキー・バカンス)
(Philips FL-1202) がアルバムからシングルカットされた。
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The Crockett Brothers |
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3-13
The Crockett Brothers - Mother Mother Can I Go Surfin'
(7: Del-Fi 4213 Promo only) 1963
Jeremy, Joel, Chris Crockett の3人兄弟による
グループ。Chris Crockett は13歳のときから曲を
書き始めており、彼ら兄弟はカリフォルニア州に
カントリーミュージックを根付かせる事に尽力した
名門一家 The Crockett Family Kentucky Mountaineers
の第3世代にあたる。最年長の Joel は聖歌隊のメンバーだった
のもあり高校卒業後には友人達とグループを結成し1962年
にデビューしていた The Outsiders - Joe Bad /
You've Gotta Have A Car (Eastman ES-9804)
そんな兄 Joel の影響を受けて Chris も
The Outsiders に参加した。すぐに才能を開花させた
Chris Crockett は兄弟の Jeremy, Joel を説得してトリオ
The Crockett Brothers を結成して Del-Fi と契約に至った。
彼らは商業的な成功を収める事はできずグループを
解散させ、兄弟は異なる道へと分かれた。
1975年 Chris Crockett は音楽出版社の
Garrett Music Enterprises, Inc. (Snuff Garrett) の
スタッフライターになり、Brenda Lee, Larry Mahan,
Donnie Brooks, Susie Allenson などに曲を書いた。
Chris Crockett はグラミー賞に投票する組織である
国立録音芸術家科学アカデミー(NARAS)の生涯会員
であり、国際ナッシュビル作曲家協会(NSAI)の
会員としても名を馳せている。
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3-14
The Surf Breakers - Rindin' In Number Nine
(7: Mercury 72174) 1963
Guy Hemrick-Jerry Styner の初期 Surfin’ 作品。
彼らは当時 American International Pictures の
Beach Movie の為の専属ソングライターコンビだった。
1963年8月に劇場公開された Annette と
Frankie Avalon 競演の映画 "Beach Party" で
Gary Usher-Roger Christian の曲と彼らの曲は
一緒に使用された。彼らも Gary Usher と同様に
Gold Star Recordingsのスタジオで録音していた。
因みに Guy Hemrick-Jerry Styner はその後
Jack Keller と共作で The Westwoods
"I Miss My Surfer Boy Too" と言う The Trade Winds
へのアンサーソングを書き Gold Star Studios
で録音した。
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The Four |
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3-15
The Four - Lonely Surfer Boy
(7: Clark CR-225) 1965
テネシーはナッシュビル郊外の
グッドレッツヴィル Goodlettsville 出身のグループで、
その南部特有の Twang Guitar を効果的に
使用し、生暖かく緩やかな風が感じられるバラード。
彼らは The 4 と名乗る事もあったヴォーカルグループで
他のシングルでもその実力が確認できる。
George Parks (Lead Vocal, Guitar)
Greg McCarley (Guitar)
Paul Crider (Bass Guitar)
Larry Rains (Drums)
メンバーの George Parks は後に Stax Records
のソングライターとなった。
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Alzo
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Frank Gari |
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3-16
The Beachcombers - Surfin’ The Summer Away
(7: Diamond D-168) 1964
以前 Alzo 本人にインタビューした時に語ってくれたが
既に1950年代後半から多くのポピュラーヒットを
持っていた Frank Gari は甥のAlzo を誘って
Beach Boys style のこのシングルをリリースした。
Frank Gari と Bobby Darin, Roger McGuinn (後の The Byrds)
は1963年に The City Surfers というスタジオユニット
で Capitol Records から2枚のシングルをリリース
していた。Surfin’ Music のムーヴメントに
夢中になっていた Frank Gari に説得された若き Alzo は
ここでレコードデビューを果たす。
驚くべきことにB面に収録されたヴォーカルバラード
"This Is My Love" に Alzo は Alfred Affrunti 名義で
クレジットされているが、この時 Alzo は17歳である。
ヴォーカルミュージックが New Yorker 達の生活に
いかにして根付いているのかが解る 2 sider である。
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3-17
Ron Barrett and The Duals - The Big Race
(7: Juggy 321) 1962
Juggy 321 が初版で Infinity INX-032 がセカンドプレス。
Los Angeles の黒人グループで Don Julian & The Larks
でも活躍してた Ronald Barrett がリードヴォーカル参加
したシングル。
The Duals は “Stick Shift” をヒットさせたグループで
黒人がこんな曲をやっているのは珍しい。
Ronald Barrett
Henry Bellinger
Johnny Lageman
ここでは Car Effects と Fuzz を使ったかっこいい
ロッカースタイルで歌っているのだが、クレジットは無いが
彼の親友だった Jack Nitzsche がプロデュースと
アレンジで参加しているらしい。Ronald Barrett は
Jack Nitzsche のコラボレイターとしても有名なので
そりゃそうだろう。
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3-18
Long Island Sounds - Tiger
(7: Wonder 165) 1965
New England のバンドで The Valrays の
Rod McBrien の初期バンドとは同名異バンドだ。
恐らくソングライターの Fred O’Brien は
このグループのメンバーと思われるが
この名前と Rod McBrien が混同されたのだろう。
Jan & Dean "Drag City" meets Fantastic Baggys
"Surfin's Back Again" と言ったサウンドで
Car Effects を効果的に使用している。
1962年に Esso ガソリンはキャンペーンで
“Put A Tiger In Your Tank”(君の車のタンクに
タイガーを入れようぜ)のキャッチコピーが使った。
それを期に Tiger In Tank 系の歌は幾つか存在
するのだが、この曲もその一つで Esso のガソリン
を入れてパワフルに加速する車を歌っている。
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Carol Connors |
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3-19
The Chains - Carol’s Got A Cobra
(7: HBR 460) 1966
先ずラベルのヴァリエーション説明。
初版はソングタイトルが CAROL'S A GOT A COBRA
で出版社が BEVERLY GLEN MUSIC CO. Beverly Glen とは Los Angeles の主要ルートにある有名な通りで
高級住宅街も含まれるので恐らく Carol Connors の住所に
因んで名づけた出版社なのだろう。
次にソングタイトルを CARROLL'S GOTTA COBRA
そして出版社が Masked Grandma Music と改めた。
これは California Suns “Masked Grandma” のプロジェクトに
合せて名づけたのだろうから後期プレスと言える。
Carol Connors は自身が書いた
The Rip Chords - Hey Little Cobra の大ヒットによって
本物のスポーツカー Shelby Cobra をプレゼントされた。
それをコンセプトとして Gary Usher の盟友で作詞家の
Roger Christian に作詞を依頼した。
スタジオユニットを用いてリリースしたのがこの
The Chains - Carol’s Got A Cobra (HBR 460) だった。
皮肉な事だがB面の "I Hate To See You Crying"
のほうがガレージサウンド愛好家達から高い評価を受けている。
Carol Connors はこの "Carol’s Got A Cobra"
をプロトタイプとしてさらに細部を仕上げた曲
“Masked Grandma” というサーフィンスタイルの
ノヴェルティーポップソングを書いた。
この曲は Jan & Dean の1964年の大ヒット
”The Little Old Lady From Pasadena” のカウンターソングで、
ロスアンジェルス郊外のパサデナからやって来たお婆ちゃん
がスーパーマーケットで買い物をするのだが、
周囲を気にしないそのマイペースによってショッピングカートを
押しながら店内のトマトジュース缶の山を倒したりと
お婆ちゃんが大騒動を起こすドタバタ系ノヴェルティーソングだ。
しかしいざ Jan & Dean に歌わせようとしたところ
Jan が交通事故で瀕死の状況に陥った。
そして “Masked Grandma” は白羽の矢がたった
California Suns へと受け継がれた。
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Al Cartee |
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3-20
Cartee Brothers - My Little Jeep
(7: Qualla 1965-03) 1965
Al Cartee 率いる Nashville のバンドで
Al Cartee, Brent Cartee, Don Cartee からなる兄弟グループだ。
Alan Cartee & The Cartees とも言う。
彼らは The Beach Boys 風の作品を数曲
リリースしており、Nashville の Beach Boys
と呼んであげたい。内陸部なら Hot Rod song を
歌えばよいのに、オフロード用のジープですよ(笑)
ストライプシャツに土埃は似合わないだろう。
スピード目的ではなく山やデコボコ道を走ってたら
Beach Boys のようなかっこいいイメージから
遠のくでしょうに、なぜジープを歌う??
「そこに山があるから」と彼らの答えが返ってきそうだ。
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Dave and The Marksmen |
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3-21
Dave and The Marksmen - Kustom Kar Show
(7: A&M Records 730) 1964
このバンドは1963年8月、The Beach Boys を
脱退した David Marks が中心となったものである。
David Marks (Guitar, Vocals)
Gene Fetco (Guitar)
Ed Gauntt (Guitar)
Denny Murray (Vocals)
Bill Trenkle (Bass)
Mark Groseclose (Drums, Vocals)
ドラマーだった Mark Groseclose は The Beach Boys
の Carl Wilson と同じ高校に通っており The Juguars
という Garage Band に在籍していた。
1963年2月、The Beach Boys のドラマー Dennis Wilson
は車で事故を起こしてしまい、負傷してしまう。このころ
The Beach Boys はすでに人気バンドとなっており、
あちらこちらからの出演依頼が絶えることはなかった。
そこで当時はまだマネージャーを務めていた
Murray Wilson は困った末に、Mark Groseclose に
ライヴでの代役を依頼した。こうして一時的に
The Beach Boys のドラマーとなった Mark Groseclose は
年の近かった David Marks と友人となる。
その年の8月、The Beach Boys を脱退した David Marks
は、Mark Groseclose と再会しこのバンドに加入、
David Marks And The Marksmen となる。
Surf Music Craze に沸く西海岸では元 The Beach Boys
の肩書は強いもので、バンドはまず Warner Brothers
と契約をした。結果的にここでは1枚のシングルを出しただけ
でワン・ショットのような形となってしまったが、今度は
Herb Alpert の持つ A&M との契約を交わす。
ここで最初にリリースされたシングルが本件だ。
"Kastom Kar Show" は Mark Groseclose の自作の
ヴォーカル曲だ。ヴォーカル曲とは言え The Beach Boys Style
のバック・コーラスは入らず、ビートの効いた
Garage Rock And Roll だ。歌や演奏は決して上手いとは
言えないが、これもまさしく California の Youth Culture の
中心である Garage Music 文化だ。本来なら "Custom Car"
と綴るところを、敢えて "Kustom Kar" としたところに、トッポい
かっこよさを感じずにはいられない。ところで David Marks が
The Beach Boys を脱退した一因には、マネージャーの
Murry Wilson との確執があったと言われているが
その Murry Wilson は Radio DJ たちに「The Marksmen
のレコードをかけるなら、The Beach Boys のレコードは
かけさせない」と圧力をかけたというのだから大人げない。
そりゃないよ!
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Brian Wilson |
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3-22
The Survivors - Pamela Jean
(7: Capitol 5102) 1964
今まで The Survivors とは実態のないグループ
として扱われていたが、実際は実態があるユニットだった。
Brian Wilson
Bob Norberg
Dave Nowlan
Rich Peterson (Rich Alarian)
David Nolan によると「1963年の初めに私は
Los Angeles の South Bay area にあるアパート
に引っ越しました。ある日、ミュージシャンの友達
何人かが来て部屋でジャムセッションをしてたら
ある男がドアをノックして、『こんにちは、僕は隣に
住んでいます。しばらく中に入って、みんなの
話を聞いてもいいですか?』と言いました。
私は彼を招待し、私たちは演奏を続けました。
すると休憩中に彼は言った、『君たちは本当に演奏
がいい。君たちは The Beach Boys のことを
聞いたことがありますか?』
もちろん我々は『YES!』と言った。
彼の次の言葉は『僕は Brian Wilson です』でした。
数日後、Brian Wilson のルームメイトである
Bob Norberg に会い、次に Brian Wilson の友人の
1人である Rich Peterson に会いました。
(注:Rich Peterson は Carl Wilson の古い友人で
Wilson 兄弟全員の知人だった。)
当時、私は19歳で、Brian Wilson は21歳だったと
思います。私たちは1963年の夏のほとんどを、
Brian Wilson と一緒に車に乗って過ごしました。
それは、The Beach Boys と一緒に Gold Star や
Western recording studios に行くことを
意味することでもありました。Gold Star での
あるセッションで、Bob Norberg, Rich Peterson
と私は、The Beach Boys のヒット曲
"Be True to Your School" (Capitol 5069)
で手拍子やその他のバックグラウンドサウンドを
提供しました。Brian Wilson は、そのトラックの
チアリーダーとして The Honeys も使用しました。
それから、Brian Wilson は私たちのために
特別に2つの曲を書きました。"Wich Stand"
と "A Joy Ride Cruise" です。Hal Blaine がドラム
を担当し、Gold Star で "Wich Stand"
をレコーディングしましたが、"A Joy Ride Cruise"
はレコーディングには至りませんでした。
(注:Brian Wilson は "Wich Stand" という曲を書き、
Brian Wilson がベースとピアノ、Hal Blaine がドラム、
2人のサックス・プレイヤーが入って録音は完了したが、
それを聴いた Capitol Records のプロデューサーは
「曲はいいがこれでは The Beach Boys と同じだ」と
言ったため、Brian Wilson は The Beach Boys と
大きく違うスタイルの曲を作ると言ってそのマスターを
持ち帰った。)
当時、Brian Wilson は Dion Style に夢中に
なっていて、Dion のヒット曲 "Come Go With Me"
と "Donna The Prima Donna" のサウンドを念頭に
置いて、Brian Wilson は私たち4人のために
The Beach Boys の “Car Crazy Cutie" の
メロディーを用いて ”Pamela Jean" を書きました。
(注:Brian Wilson は Rich Peterson のガールフレンド
の名を使って、Rich Peterson が歌詞を書いた ”Pamela Jean"
を作曲する。1963年夏には完成し Capitol Records も
この曲を気に入りリリースが決定したがリリーススケジュール
は大幅に遅れていく。)
The Survivors とは Brian Wilson, Bob Norberg,
Rich Peterson そして私 Dave Nowlan の
4人の事です。」 Capitol から次のアルバムをリリース
しなければいけない Brian Wilson はほぼ同時期に
“Pamela Jean" の歌詞を変えて ”Car Crazy Cutie”
のタイトルで録音し、その曲は 1963年10月21日に
リリースされた The Beach Boys のアルバム
Little Deuce Coupe (Capitol Records T/ST-1998)
A4 に収録された。The Survivors のメンバー達は
Brian Wilson に抗議したが「曲は僕のものだ」と言われて
返す言葉がなかった。このシングルはたいしたプロモーション
もなく1964年1月にリリースされた。
現存する Capitol Records マスター・テープではイントロの
コーラスの頭が切れてしまっているのでリリースされた
シングルは全て冒頭のコーラスが1音欠けている。
(注:テスト・プレスのアセテート盤のみ完全版なので
その後出回ったブート等で聴けるフルヴァージョン音源は
音が悪い。デジタル時代になって随分音質良くされてるようだが)
それはアメリカが British Invasion に襲われる前夜の事だった。
この曲は南カリフォルニアのラジオとテレビでは少しだけ
注目されたらしい。
運が悪いことに The Beatles - I Want To Hold Your Hand
が大ヒットを記録している最中で Capitol Records は
The Beatles のプロモーションに没頭している最中だったので
The Survivorsのレコーディングもこれで最後となった。
しかしこのシングルを 1963年中に Capitol Records が
リリース出来なかったのは彼らにとって不運だった。
A-wop, a-wop, a-what I'd do,
woah, wop, a-wop, a-what I'd do
Woah, wop, a-wop, a-what I'd do, woah,
wop, a-wop, a-what I'd do
I used to think I was the all-time guy now
I used to put down every girl that came by
I thought I was cool now to treat 'em all mean
But I'll be sweet to my Pamela Jean
Woah yeah (wop, a-wop, a-what I'd do)
Woah oh oh oh oh (wop a-wop a-what I'd do)
Oh oh oh oh oh (wop a-wop a-what I'd do)
Oh oh oh oh oh (wop a-wop a-what I'd do)
I know this town like the palm of my hand now
I've cruised every strip and every hamburger stand now
It really don't matter baby what I've seen
Cause I've found a girl named Pamela Jean
A-wop, a-wop, a-what I'd do, woah,
wop, a-wop, a-what I'd do
Woah, wop, a-wop, a-what I'd do, woah,
wop, a-wop, a-what I'd do
(Instrumental)
Oh, Pamela Jean, Pamela Jean,
Pamela Jean, Pamela Jean
I never had a steady girl now for more than a day
I get a good thing going then I throw it away
I gotta settle down if you know what I mean
And I'm gonna stick to my Pamela Jean
Woah yeah (wop, a-wop, a-what I'd do)
Woah oh oh oh oh (wop a-wop a-what I'd do)
Oh oh oh oh oh (wop a-wop a-what I'd do)
Oh oh oh oh oh (wop a-wop a-what I'd do)
A-wop, a-wop, a-what I'd do, woah,
wop, a-wop, a-what I'd do
Woah, wop, a-wop, a-what I'd do,
woah, wop, a-wop, a-what I'd do
A-wop, a-wop, a-what I'd do, woah,
wop, a-wop, a-what I'd do
Woah, wop, a-wop, a-what I'd do,
woah, wop, a-wop, a-what I'd do
A-wop, a-wop, a-what I'd do, woah,
wop, a-wop, a-what I'd do
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Robby & The Robbins |
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3-23
Robby & The Robbins - Surfer's Life
(7: Todd 1089) 1963
Wisconsic 州のティーングループで
後の The Robbs (Mercury / Dunhill) である。
彼らは Milwaukee に近い Oconomowoc という
町の出身で、長男の Dee Robb (Guitar, Vocals),
次男 Joe Robb (Guitar, Vocals),
三男 Bruce Robb (Keyboards, Vocals)
彼らの従兄弟 Craig Robb (Drums. Real name Craig Krampf)
という構成で当初は Dee Robb & the Robbins
と名乗って地元のクラブバンドをやっていた。
これは彼らのデビューシングルで Jan & Dean,
The Beach Boys について言及する歌詞で
この Surfin’ Garage のシングルをリリースした。
その後の彼らは California へ移住し、良質な
サンシャインポップをリリースしていく。
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The Sunrays |
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3-24
The Sunrays - Outta Gas
(7: Tower 101) 1964
Capitol Records の子会社として設立された
Tower Records がリリースした初のシングルで
1964年9月にリリースされた The Sunrays の
デビューシングル。
Rick Henn (Lead Vocal, Drums)
Eddy Medora (Lead Guitar, Vocals)
Byron Case (Rhythm Guitar, Vocals)
Vince Hozier (Bass Guitar, Vocals)
Marty DiGiovanni (Keyboard, Vocals)
The Beach Boys のマネージャーを解雇された
Murray Wilson (Murry Wilson) が両面とも
作詞、作曲、プロデュースでクレジットされてる。
これは The Beach Boys に強い対抗意識を持った
Wilson 兄弟の父親 Murry Wilson の表れだろう。
Murry Wilson は The Sunrays のメンバー達に
「The Sunrays のマネージャー/プロデューサー
の役割に私が貢献すれば、君達は The Beach Boys
よりもさらに大きくなるだろう」と宣言した。
実際には Murry Wilson が "Car Party" を書き、
"Outta Gas" はメンバー達で書いている。
結局 "Outta Gas" がローカルヒットとなり
グループは手応えを感じた。
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The Four Dimensions |
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3-25
The Four Dimensions - Sand Surfin'
(7: Goldust Records GR45-5013) 1966
砂漠の多い New Mexico 州の4人組バンドだ。
彼らは地元のローカルクラブで活動していた。
Keith Hackney (Guitar)
Jack Starkey (Guitar)
Phil Holmes (Bass Guitar)
Billy Conger (Drums)
当然ながら波がないので「砂の上で滑ってみましたあっ!」
てのがこの曲のコンセプトで、これはノヴェルティーとして
メンバーは書いたのだが、ソリッドなロッカースタイルで
かっこいいので地元の反応は良かったらしい。
まるで興奮した猿のような凄まじいファルセットである。
地元の子供たちの多くが Sand Surfin' で遊んでいたので、
この曲は地元で人気があった。彼らはその後バンドバトル
に勝ち抜いて California へ進出する切符を手に入れたが
メンバーの Keith Hackney が徴兵でベトナムに
行ったのでバンドは解散してしまった。しかし1966年
でこれだ、やはり都会とローカルの意識の違いは
Pet Sounds 元年の1966年作品で比べるとよく解る。
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Sand Surfin' / Sandboarding |
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3-26
The Triptides - Go Mustang
(7: Official Records 45-1001) 1964
Ohio 州 Cincinnati 出身のガレージバンド。
このシングルは KING custom pressing なので
自主盤である。これが Mustang をテーマにした
ストレートなガレージロッカーで、間奏部で
ピアノのブレイクが入る等、かなりかっこいい
立てノリのロックンロールである。
ロックンロールファン、ガレージマニア、
カーソングコレクター双方を
狂喜させる内容なので非常に人気が高い。
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3-27
Five-Hundreds - Wheel's Last Ride
(7: Mercury 72291 Promo only) 1964
プロデュースが Hooven-Winn-Sill Productions
なので Los Angeles のセッションユニットと判断できる。
Joseph Hooven と Hal Winn は1966年から
Double Shot Records を設立し、サブレーベル
Sure Shot, Whiz Records も運営する。
Joel Sill はソングライターとして数々の曲を書いており、
Surfin' & Hot Rod 関係ではこの3人で、
おばちゃんが歌うノヴェルティーサーフ
Sandra Gould - Hello Melvin (This Is Mama) /
My Son The Surfer (Philips 40138) を1963年に
リリースしている。
本件シングルのA面は The Catalinas - Run Little Rabbit
のカヴァーで強烈なコンプレッサーをかけた荒々しい
サウンドだ。本家 The Catalinas は1964年リリース
のアルバム "Fun, Fun, Fun" に "Run Little Rabbit"
を収録していたが先に他の曲をシングルカットしており、
本件 The Five-Hundreds が1964年6月にシングルを
リリースした後1965年に The Catalinas は慌てて
"Run Little Rabbit" をシングルカットしている。
ここで紹介する The Five-Hundreds のB面曲
"Wheel's Last Ride" は The Four Preps や
The Lettermen にも曲を書いている Eddy Carroll
のオリジナル曲で、A面同様に強いコンプレッサーを
かけているが Mix down の失敗からかチューンの
冒頭が録音されておらず突然のイントロから始まり
長引いたエンディングがそのまま録音されており
聴いていて不思議な錯覚に陥る。
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Dante & The Evergreens |
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3-28
The Emerald City Bandits - Full Blown Caddy
(7: Philips 40197) 1964
これは Dante & The Evergreens が関係しており
ワイルドなガレージロッカースタイルの隠れた逸品。
曲を書いてアレンジを担当したのが Dante こと
Donald Drowty である。Dante & The Evergreens は
1959年にカリフォルニアのサンタモニカ大学で結成された。
Dean Torrence (Jan & Dean) によってスカウトされ
すぐに Herb Alpert と Lou Adler のもとに
連れて行かれた経緯を持つ。彼らのヒット曲である
"Alley Oop" は Herb Alpert と Lou Adler が
プロデュースを担当した。
この歌は The Hollywood Argyles と競作になり
The Hollywood Argyles version はビルボード1位、
Dante & The Evergreens version はビルボード15位
だったが東海岸では Dante & The Evergreens version
のほうがヒットした。彼らはメンバーの Frank Rosenthal
が約半年続く病気にかかり、グループのツアーを大幅
に削減した後、1964年に解散した。
Dante こと Donald Drowty は Dean Torrence (Jan & Dean)
とのユニットである The Emerald City Bandits 名義で
このシングルをリリースした。推測だがトラック録音は
Dante & The Evergreens でされていたのかも知れない。
特に Dean Torrence がバッキング参加したB面は
Dante & The Evergreens の作風まんまで
録音が妙にデモっぽい。因みに彼らの Dante & His Friend
名義の “Little Miss America” は The Beach Boys の
デビュー・アルバムでカヴァーされた事でも有名だ。
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Larry & The Loafers |
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3-29
Larry & The Loafers - Let's Go To The Beach
(7: Shurfine 017) 1966
Blue Label / Pink Label の2種類がリリースされてる。
Larry Tyler Parker をリーダーとしたアラバマ州
のバンドで、地元の多才なミュージシャン達で
構成されていた。
Larry Tyler Parker (Lead Vocal)
Charles Giambrone (Vocals, Bass, Trumpet, Guitar, Piano)
Wayne Gross (Guitar, Saxophone, Clarinet)
Johnny Nations (Piano, Vocals)
Dale Serrano (Drums)
同地はミシシッピ州とアトランタ州に挟まれ
海岸部が非常に小さい。故に無いものねだり的な
ビーチソングだが、これが初期トラッシュパンクとでも
言えるようなスタイルで、驚くべきはヴォーカルが
Higher key (レコーディング最中にパフォーマーが
トリップしてしまい、もしくは意図的に我を見失い
ハイテンションになり意外な結果を生み出してしまう)
で歌われる瞬間が収録されており、それが聴く者を
ナチュラルハイにしてしまうのだ。
Randy Holden の曲でもお馴染みの
The Other Half - I Need You (Acta 45-806) の
シングルヴァージョンでも聴けるように "Yeah"
だの "Baby" といった無意識の掛け声が
Higher key で気分がハイになっている証であり、
この天然ドラッグ効果がこの曲の価値を高めている。
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The Dolphins |
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3-30
The Dolphins - Surfing- East Coast
(7: Yorkshire YO-125) 1965
New York 州郊外の Westchester 出身の
5人組で Tor Pinney と Roy Pinney の兄弟を
中心に友人達で構成されている。
Tor Pinney (Lead Guitar, Vocals)
Roy Pinney (Bass Guitar, Lead Vocal)
Andy Woll (Rhythm Guitar)
Doug Frank (Drums)
Brian Kelly (Keyboard, Tambourine, Lead Vocal)
当時メンバーは全員が高校生であった為に
ゴーゴークラブで歌う以外、ツアーサーキットは
経験していない。しかし周辺では彼ら以外に
The Beach Boys スタイルを模倣したヴォーカル
グループがいなかった為に同地では重宝された
存在だった。この歌はカリフォルニア州で
ムーヴメントになっていた Surfin’に対する
アンサーソングで、どちらかといえば The Surfaris
のようなスタイルで歌われている。
ロードアイランド州最大の都市プロビデンスでは
1965年の夏にローカルチャートではあるがトップ10
ヒットとなった。グループのリーダーでギタリストの
Tor Pinney はこのバンド解散後もミュージシャンを
続けて、最終的には Steam のメンバーとなり
“Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye” のヒット曲
をリリースするに至った。
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The Mark Four |
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3-31
The Mark Four - Swingin Hangout
(7: Pacific Challenger 1002) 1963
Los Angeles 東部の町 West Covina 出身の
4人組ガレージバンドのファーストシングル。
Jim Patton (Lead Vocal, Sax)
Rick Whittington (Lead Guitar)
Jerry Ainsworth (Rhythm Guitar)
Dave O'Brien (Drums)
1963年の秋に結成した高校生バンドで当時
彼らは16〜17歳だったのでクラブ演奏は出来ず、
南カリフォルニア中の高校のダンスパーティー
専門のバンドだった。
間もなくして Rick Whittington の父親が
彼らのマネージャーとなり、Pacific Challenger
とレコード契約を結んだ。彼らは同レーベルの
プロデューサーの Bob Mahoney のために
2つのセッションを行った。最初のセッションは
1964年に Los Angeles の Western Recorders
で行われ、Jim Patton のオリジナル曲
Just My Dream / Swingin' Hangout
(Pacific Challenger 1002) が録音され
彼らのファーストシングルとなった。
Jim Patton の記憶によればそれは5000枚売れたが
売れた金を彼らは一度も見たことがないらしい。
因みに彼らの曲の中でこの曲のみ出版社が
Murry Wilson が The Beach Boys のために
設立した Sea Of Tunes とクレジットされている。
Bob Mahoney は The Beach Boys の
マネージャーだった Murry Wilson とビジネスコンタクト
を持っており、Murry の助けを借りて The Mark Four
は1964年2月7日に Huntington Beach の
The Pavilon Ballroom で行われた The Beach Boys
のコンサートのオープニングアクトを務めた。
そしてバンドは1964年後半には解散している。
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【戻る】【続く】 |
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