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Vol. 11
01 Betty Ann Shor - Bikini
02 Tennie Leonard - (Can't Get Into) Last Year's Bikini
03 Jo-Ann Campbell - Beach Comber 04 Terry Ann - Motorcycle Jack
05 Dorinda Duncan & The Capri's - Caddy Daddy
06 Tuesday Weld - All Through Spring And Summer
07 Carole King - Queen Of The Beach
08 Annette - Waikiki
09 The Vonnair Sisters - Beach Love
10 Norma Mendoza And The Jimmy Wisner Quintet -
The Girl On The Beach
11 Linda Scott - Through The Summer
12 Linda Leigh - Lover's Beach (Concerto For The X-15)
13 The Lewis Sisters - Moonlight On The Beach
14 Vicki And The Townsmen - Beach Blues
15 Linda Burnette With Robby And The Ramblers -
My Old Model T
16 Annette - Surfer's Holiday
17 Little Pattie With The Statesmen - He's My Blonde Headed
Stompie Wompie Real Gone Surfer Boy
18 Donna Gaye - Hey, Beach Boy
19 Margie Bayes with The Hearsemen - Why Can't I Go Surfing?
20 Margy Bayes - I Wanna Wear My New Bikini
21 Pam Oakley And The Viscounts - I Want To Be A Surfer Girl
22 Noeleen Batley - Surfer Boy
23 Wee Liz - Lonesome 409
24 The Bitter Sweets - What A Lonely Way To Start
The Summertime
25 Della Rae - Hurry Up Summer
26 Annette - Bikini Beach
27 Dee Dee Sharp - Down By The Oceanside
28 The Orlons - Surfin'
29 The Petites - Get Your Daddy's Car Tonight
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Vol.11
Girl / Female Edition 4
Other stuff with beach pop, summer pop etc
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Betty Ann Shor |
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11-01 Betty Ann Shor - Bikini
(7: Justice Records JU 682) 1959
Rock & Roll era の1959年に New York のローカルレーベルから
リリースされた1枚で明らかに1958年のヒット
Royal Teens "Short Shorts" の影響下で書かれている。
我が国には提灯ブルマ (ちょうちんブルマ:女児の下半身に
フィットしていないブカブカのブルマ。1964年の東京オリンピックでは
他国がショーツ型ブルマでプレイする中、女子バレー日本代表は
ちょうちんブルマを着用して金メダルを獲得している) という
偉大な文化があるが、1959年のビキニといえばヘソも隠れるほどの
デカパンでその多くが提灯ビキニであった。
現代ほど際どくセクシーなデザインではなかったにしても当時は
世の殿方達にとってウハウハ (死語) 級のセクシー水着であったために
Rock & Roll era にリリースされたビキニソングは冷やかし系の
ノヴェルティーソングが一般であった。
そこに小さな女の娘にこの題材で歌わせるとなると、もはや
コメディーソングである。
因みに作者の Andy Halmay-Dick Friedenberg は1958年に
Lillian Briggs "Come Here" (Sunbeam 104) を書いており
Andy Halmay は1958年に Carl Perkins "Pop, Let Me Have The Car"
(Columbia 4-41207)
Dick Friedenberg は1959年に The Tempos "Bless You My Love"
(Climax Records 45-102) を書いている事を追記しておこう。
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Tennie Leonard |
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11-02 Tennie Leonard - (Can't Get Into) Last Year's Bikini
(7: Coral 62368 Promo only) 1963
長いキャリアを持つ彼女の初期の作品で「去年のビキニがもう着れない」
といったノヴェルティーソングである。
彼女は Manhattan のアッパーウェストサイドで育ち、
Frank Sinatra がまだヴォーカルグループ The Hoboken Four の
一員だった頃、ラジオで “Major Bowes” に出演していたように、
彼女もまた子供のパフォーマーとして有名な “Ted Mack’s Amateur Hour”
に出演していた。彼女は他の数多くの子供向けテレビ番組にも
出演しており高校ではオペラを勉強してたが、すぐに本来の自分の
スタイルに気づきブロードウェイミュージカルとポップスタンダード
の道を選んだ。
17 歳のとき彼女は最初のシングル “Sincerely Yours” を共作し、
RCA/Decca records のためにレコーディングした。
1960年代には “Look at Me”, “Poor Girl”
そして本件 “Last Year’s Bikini” で有名になった。
その後、彼女の歌手としてのキャリアはキャバレーとナイトクラブに移り
毎晩 The Living Room, Rita Dimitri’s La Chansonette, The Bon Soir,
The Blue Angel に出演し、Johnny Carson の The Tonight Show や
The Merv Griffin Show 等にも出演しショービズの世界で成功した。
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Jo-Ann Campbell |
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11-03
Jo-Ann Campbell - Beach Comber
(7: Gone Records 5068) 1959
(LP: End END LP-306 Mono) 1959
シングルのラベルクレジットは "Beach Comber" だが
アルバム I'm Nobody's Baby ではクレジットが "Beachcomber"
となってる。
Florida 州 Jacksonville 出身の Jo Ann Campbell は
ロカビリーのパイオニアの1人である。
彼女は4歳で音楽学校に通い始め、Fletcher High School
でバトンガールとして多くの栄誉を勝ち取った。
1954年、彼女はダンサーとしてヨーロッパを旅し、
その後 New York に移り、そこで Johnny Conrad Dancers
に参加し、The Milton Berle Show や The Colgate Comedy Hour
などのテレビ番組に出演した。1956年、彼女はダンスをやめて
歌手になることを決意。彼女は New York の RKO-Point Records
と最初のレコーディング契約を結び、1956 年にデビューシングル
Where Ever You Go / I'm Coming Home Late Tonight を
リリースした。ハーレムのアポロ・シアターで演奏した後、
Eldorado Records と契約、彼女は1957年にセカンドシングル
"Come On Baby" を書いてリリースした。
その後彼女は Go, Johnny, Go (1959) と Hey, Let's Twist! (1962)
の二つの有名なロックンロール映画に出演をしてる。
本件シングルのリリース当時に彼女は21歳で
ロックンロール期にリリースされたビーチポップで、かっこいい
ギターブレイクを挿入し Male group をバックに歌っている。
彼女は5年後の1964年には人気絶頂期にソングライターの
Troy Seals と結婚して引退する。しかし1965年に夫婦の
Jo Ann & Troy 名義でシングル2枚をリリースする。
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11-04
Terry Ann - Motorcycle Jack
(7: Cleveland 103) 1960
AKA Terry Ann & Lafferty-Furth Gang.
Great female rocker in hot rod motorcycle theme
with cool exhaust sound effects.
Although it was released before The Beach Boys' debut,
it features a male group's surf style falsetto chorus.
Written by Claire Lafferty.
Produced by Lafferty, Furth.
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Dorinda Duncan |
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11-05
Dorinda Duncan & The Capri's - Caddy Daddy
(7: Glendale 1011) 1961
The Briarwood Singers solo.
Female pop with hot rod car theme.
Backed by The Capri's.
Written by Harold Langsdorf.
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Tuesday Weld |
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11-06
Tuesday Weld - All Through Spring And Summer
(7: Plaza Records P-508) 1962
女優 Tuesday Weld のレコードデビューシングルで当時19歳!
素晴らしく美しいサマーバラードを見事に歌っている。
Ricky Nelson の "Blood From A Stone” を書いた Rupert Stephens
と Wendy Hill, Christy Loring, Kelley Kendricks らガールポップを
書いている Jan Zackery が作者としてクレジットされている。
驚くべき事は The Electric Prunes の " Mass in F Minor" の作者で
今や Dr. Dre や DJ Shadow や Lauryn Hill にサンプリングされ
Drum and bass, Abstract hip-hop 界隈で有名にもなった
David Axelrod の初期プロデュース作品 (うぎゃああああ:死語)
因みに Orchestra Conducted by H.B. Barnum (むぎゅう:死語)
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David Axelrod
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H.B. Barnum |
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Carole King |
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11-07
Carole King - Queen Of The Beach
(7: RCA Victor 47-7560) 1959
Carole King のセカンドシングルにて後に結婚する Gerry Goffin と
ソングライターコンビを結成した初期の傑作ビーチロッカー。
Rock & Roll ムーヴメント真っ只中の当時この天才娘は
なんと17歳のソバカス女子高校生である。
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Annette |
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11-08
Annette - Waikiki - Muscle Bustle
(LP: Buena Vista Records BV-3314 mono /
BV STER-3314 stereo) 1964
Tracks from her album "Muscle Beach Party" 1964年3月25日に公開された "Muscle Beach Party" は
American International Pictures が制作した7本の
ビーチ パーティ映画の2作目にあたる。
前作 “Beach Party" に引き続き Frankie Avalon と Annette が主演し、
William Asher が監督を務めた。William Asher このシリーズの他の4本の
映画も監督している。この映画は “Beach Party" の続編で
映画には Dick Dale, Donna Loren, Stevie Wonder も出演している。
ちなみに、Muscle Beach は Venice Beach の愛称で、
マッスル コンテストが頻繁に開催されることからこの名前が付けられた。
同地は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス西部の
サンタモニカとロサンゼルス国際空港の間に位置する。
目の前に広がるビーチの他、運河とオーシャンフロントウォークでの
パフォーマンスで知られる。ビーチ沿いにはたくさんの土産物屋や
露店が立ち並び、砂浜に生えるヤシの木、建物の壁に描かれた
グラフィティなどと相まって、いかにもカリフォルニアという雰囲気を持つ。
そのため、ロサンゼルス周辺でも代表的な観光スポットの一つであり、
さまざまな映像作品の舞台となってきた。
前作 "Beach Party" に続き音楽を依頼された Gary Usher は
Roger Christian と話し合った末に、Brian Wilson にも協力を
要請している。Gary Usher,Roger Christian, Brian Wilson
が共作し、3人がこの映画のために書いた曲は全6曲である。
@ Surfer's Holiday / Annette, Frankie Avalon
冒頭のシーンでみんなでビーチ向かう車の中で歌われる。リードヴォーカルは
Annette と Frankie Avalon で、Dick Dale のギターソロがフューチャー
されている。Gary Usher 自身が The Super Stocks 用に同じバックトラックで
リードをとったデモヴァージョンも存在し Gary Usher によれば、
それに Annette と Frankie Avalon のヴォーカルを被せたらしい。
Frankie Avalon のソロバージョンは、1964年3月25日の彼のアルバム
"Muscle Beach Party And Other Motion Picture Songs"
(United Artists Records UAL 3371 mono /UAS 6371 stereo)
にも収録されている。
A My First Love / Dick Dale and The Del-Tones
Annette と Frankie Avalon が出かけたダンスパーティー。
そこで Dick Dale が The Del-Tones を従えて歌う。
奇抜なメロディーの曲だが力強いバッキングが施されている。
The Super Stocks (Featuring Gary Usher) もこの曲を録音し
1964年7月にリリースされたアルバム "Surf Route 101"
(Capitol T-2113 mono /ST-2113 stereo) に収録されている。
B Muscle Beach Party / Dick Dale and The Del-Tones
My First Love に続き Dick Dale が歌う。
The Super Stocks (Featuring Gary Usher) もこの曲を録音し
1964年7月にリリースされたアルバム "Surf Route 101"
(Capitol T-2113 mono /ST-2113 stereo) に収録されている。
Frankie Avalon のソロバージョンは、1964年3月25日の彼のアルバム
"Muscle Beach Party And Other Motion Picture Songs"
(United Artists Records UAL 3371 mono /UAS 6371 stereo)
にも収録されている。
C Running Wild / Frankie Avalon
ダンスパーティーの途中 Frankie Avalon が突然立ち上がり、これを歌う。
この曲のスタジオ録音は、1964年3月25日の彼のアルバム
"Muscle Beach Party And Other Motion Picture Songs"
(United Artists Records UAL 3371 mono /UAS 6371 stereo)
にも収録されている。
D Muscle Bustle / Dick Dale and Donna Loren
Dick Dale と Donna Loren が歌う。
Donna Loren は1964年3月に Challenge 59237 として
シングルカットし、1965年リリースの彼女のアルバム
"Beach Blanket Bingo" (Capitol T 2323 mono /ST 2323 stereo)
にも収録された。
E Surfin' Woodie / Cast (Acappella) Lead by Dick Dale
ビーチでみんなが Dick Dale を取り囲んで歌う。
アカペラでリードは Dick Dale だがたったのワンコーラス
で次のシーンへと移ってしまう。
これらの曲は、映画のワンシーンで使われているものなので、
途中セリフが入ってしまいレコードのようには楽しめないが、映画で
使われているヴァージョンは全てレコード化されていないので
貴重である。映画で使われたヴァージョンのバックトラックの
レコーディングでは Gary Usher, Dick Burns, Dennis McCarthy,
Les Weiser 他にも Brian Wilson もピアノとバックコーラスで参加
していると Gary Usher 自身が語っている。この映画が公開
された3月には Annette がこれにあわせ本件アルバムMuscle Beach Party
(Buena Vista Records BV-3314 mono / BV STER-3314 stereo)
をリリースした。1963年リリースの前作アルバム Beach Party
(Buena Vista Records BV 3316 mono / STER-3316 stereo)
より若い番号なのは Annette のソロアルバムと分けていた
為だろうか。
このアルバムに収録された3曲 "Muscle Beach Party"
"Surfer's Holiday" "Muscle Bustle" はアルバム用に再レコーディング
されたもの。"Surfer's Holiday" は当初はタイトルを
"Surfin' Holiday" として書かれていた。これは Brian Wilson が書き下ろして
Bob Norberg と Cheryl Pomeroy のデュエット Bob & Sheri が録音していた
"Ride Away" と言う未発表曲が原曲である。
Annette が歌ったこの曲は "Muscle Beach Party" のB面で日本盤のみ
シングルカットされている。因みに Jan and Dean も
Unreleased ながらこの曲を1963年に録音した。その為に当初は
Jan and Dean のアルバムに収録も検討されたと推測される。
Gary Usher と Roger Christian はこのアルバムのために新たに
Custom City, Draggin' U.S.A., Rebel Rider, Waikiki, Shut Down Again
の5曲を提供している。アルバムはそこそこのヒットとなり1964年3月に
Custom City / Rebel Rider (Buena Vista 432) と
Muscle Beach Party / I Dream About Frankie (Buena Vista 433)
がシングルカットされた。Custom City / Rebel Rider のシングルは
続く Muscle Beach Party と連番でプレスされアルバムリリースと時期が
重なった為にプロモーションも弱く短期間で回収されているために
非常にレアである。またGary Usher と Roger Christian, Brian Wilson
の3人の個性が表れている "Muscle Beach Party" だが、この曲調は
The Beach Boys の "Cherry, Cherry Coupe" (原曲 Land Ahoy) から、
その後 Gary Usher のグループ The Surper Stocks の "Surf Route 101" や
"Malibu Blues" にも通低する、のどかな主旋律を持つ。
また、3人によってこの映画の為に書かれた "Running Wild" は
その後 Frankie Avalon のアルバム "Songs From Muscle Beach Party"
に収録される。
Muscle Bustle
Come along with me and we’ll all have some fun
To a swingin’ little beach down on 101
There’s a new dance craze
That they’re gonna teach
The only place to learn is at Muscle Beach
Flex up your thighs
That’s how it goes
Turn your head
Strike up a pose
Do the Mashed Potatoes
Stick out your chest
Guys are lookin’ good
Girls are lookin’ best
Muscle Bustle
Everybody do it now
Muscle Bustle
Move a little muscle now
Muscle Bustle
Everybody kick up the sand
Come on now
Just like a muscle man
(Instrumental)
It’s the latest dance that's goin’ around
If you can’t have it
You’re muscle bound
Do the Slauson Shuffle, as you kick up the sand
Pick up the chicken, you’re a muscle bustle man
Flex up your thighs, that’s how it goes
Turn your head, and you strike up a pose
Do the Mashed Potatoes
As you stick out your chest
Guys are lookin’ good
Girls are lookin’ best
Muscle Bustle
Everybody do it now
Muscle Bustle
Move a little muscle now
Muscle Bustle
Everybody kick up the sand
Come on now
Just like a muscle man
Muscle Bustle
Everybody do it now
Muscle Bustle
Move a little muscle now
Muscle Bustle
Everybody kick up the sand
Muscle Bustle
Everybody do it now
Muscle Bustle
Move a little muscle now
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Brian Wilson
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Gary Usher
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Roger Christian
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The Vonnair Sisters |
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11-09
The Vonnair Sisters - Beach Love
(7: Buena Vista Records F-383 y) 1961
(7: Buena Vista Records F-383) 1961
日本では1962年にザ・ピーナッツがカヴァーした
「あなたなんかもういや」のオリジナル曲
The Vonnair Sisters - I Don't Want To Play In Your Yard
で知られる三人姉妹。
Renee Von Euer, Sheila Von Euer and Sonya Von Euer と
ファミリーネームが Von Euer である。どうやら Disney musical の
director をしていた Basil Adlam (Buzz Adlam) のソングライター
パートナーの Mitzi Vonnair から彼女達はグループ名をつけられたようだ。
彼女達は Annette & The Vonnair Sisters - Dreamin' About You /
Strummin' Song (Buena Vista Records F-388) で Annette の
バックアップコーラスを担当した事もある。姉妹グループ特有の
実力の高いコーラスワークを武器に Buena Vista Records で
6枚のシングルをリリースした。
本件はそんな彼女達のデビューシングルで、細波の効果音と
語りを入れた美しいビーチバラードの傑作。
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Norma Mendoza |
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11-10
Norma Mendoza And The Jimmy Wisner Quintet -
The Girl On The Beach
(7: Decca 31985) 1966
1931年 Philadelphia 生まれのピアニスト Jimmy Wisner は1950年代に
地元のジャズバンド Charlie Ventura And His Orchestra に参加した。
1959年に Jimmy Wisner Trio を結成しアルバムをリリース。
1960年に地元のクラブサーキットでハワイ生まれで同い年の女性シンガー
Norma Mendoza のバックを務めた。同年演奏を Jimmy Wisner Trio
が担当し Norma Mendoza のデビューアルバム All About Norma が
リリースされ,そこでは多くの曲を Jimmy Wisner が書き下ろしている。
アルバム制作を通じ親密になった Jimmy Wisner と Norma Mendoza
は結婚した。Jimmy Wisner は Jimmy Wisner Trio の活動を続けながら
ダンスムーヴメントで Danny & The Juniors や The Dovells,
Chubby Checker, Dee Dee Sharp らの全国的なヒットを量産し始めた
地元のレーベル Cameo-Parkway Records に売り込みを始めた。
そこで Jimmy Wisner は John Madara & David White
(通称 Madara-White) の名ソングライターコンビに出会った。
Madara-White の作品にアレンジャーとして迎えられた Jimmy Wisner は
アレンジャー、プロデューサーとして成長していき数多くの楽曲を
手掛けていく事になる。
で、本件はそんな Jimmy Wisner が妻で最高のヴォーカリストである
Norma Mendoza をフロントに立てた作品で、夢見心地な
Summer Bossa で聴く者をうっとりさせる傑作シングルだ。
因みに Jimmy Wisner-Norma Mendoza は夫婦で楽曲も書いており
結婚した1960年の Merv Griffin "Hey, Pretty Baby" を皮切りに
当然ながら Jimmy Wisner がアレンジャーを務めた作品ばかりで
1962年 Billy Duke "Timbuctu" , Georgie Camp "Jimmie Told A Lie"
1962年に "So Much In Love" でも有名な The Tymes の
デビューアルバムのタイトル曲 "Somewhere" を提供。
1963年には Bobby Rydell に "Love, Love Go Away" を提供している。
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Jimmy Wisner
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John Madara & David White |
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Linda Scott |
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11-11 Linda Scott - Through The Summer
(7: Congress 103) 1962
(LP: Congress Record Corp. LP 3001 Mono / LPS 3001 Stereo) 1962
当時17歳の Linda Scott が歌う可憐なサマーバラードで
A面 Bing Crosby の1937年のヒット曲カヴァー "Never In A Million Years"
は1962年6月に Billboard Chart 56位のスマッシュヒットになった。
本件は所謂ヒットシングルのB面曲である。
作者は Rudy Clark でプロデュースとアレンジは Hutch Davie が担当した。
しかし17歳でこの安定感、前年に "I've Told Every Little Star"
(Canadian American Records, Ltd.123) で全米3位の大ヒットを
記録したのだから、もはや超売れっ子少女だった。
1945年6月1日に New York 州 Queens で生まれた
Linda Joy Sampson は家族とともに New Jersey 州 Teaneck に
引っ越したとき11 歳だった。コラムニスト Dick Kleiner によると
彼女が13歳のとき地元の新聞でソングライターの Jane Douglass White
に関する記事を読んだという。彼女は New Jersey 州在住の女流作家
Jane Douglass White に手紙を書き、彼女を紹介されて気に入った
Jane Douglass White は彼女の注目を集めるデモンストレーション
の制作を手伝いデモレコードでピアノを演奏した。
1959年に Arthur Godfrey の人気CBSラジオ番組に出演するための
オーディションを受けたとき彼女は Teaneck の中学校に通っていた。
番組への出演を勝ち取った後、彼女や他の若いパフォーマー達は
番組の常連ゲストになった。 番組の放映中に歌った彼女は Epic Records
に注目され、Linda Sampson 名義のシングル
In-Between Teen / Lover Of The Year (Epic 5-9341) で1959年に
デビューした。
Teaneck 高校に進学した彼女は、1961年に Santo & Johnny
の "Sleep Walk" で全米1位を得た新興レーベル
Canadian-American Records と契約した。
レーベルは彼女の芸名を Linda Scott に変更し、Oscar Hammerstein II
と Jerome Kern が1932年に制作した Music In The Air のために
書いたスタンダード曲 "I've Told Every Little Star" をリリースした。
この曲は100万枚以上を売り上げ全米3位の大ヒットとなり、
Linda Scott はゴールドディスクを獲得した。
Linda Scott の3大ヒット曲は "I've Told Every Little Star" (全米3位)
"I Don't Know Why" (全米12位)
"Don't Bet Money Honey" (全米9位) で、最初の2曲はスタンダード曲
のカヴァーで、3番目は彼女の自作曲だったので彼女の
ソングライティングセンスをも物語っている。
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Hutch Davie
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Rudy Clark |
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Linda Leigh |
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11-12
Linda Leigh - Lover's Beach (Concerto For The X-15)
(7: Reprise Records R-20,078) 1962
Surfin' & Hot Rod 業界では Bruce Johnston のレアワークス
Linda Leigh And The Treasure Tones - My Guy / I Promise You
(American International Records 540)
でも知られる Linda Leigh だが、この歌は1961年の映画 X-15 に
関連している。所謂 Space Age / Space Bachelor Pad モノで、
宇宙時代の独身者愛好音楽といった宇宙時代幕開けをステレオサウンド
で満足に浸る独身者の愛好するイージーリスニング系のサウンドを指す。
実験用ロケットの X-15 からインスピレーションを得たもので、
X-15とは極超音速飛行を達成した最初の有人航空機であり、
成層圏上空の飛行を初めて達成した航空機でもある。
この映画は、NASA の最も初期のプログラムの1つである
ロケット飛行機の開発プログラムをドラマ化したもので
NACA (NASAの前身) から継承されたもの。
パイロット、航空機関士、乗組員とその家族などの登場人物が
登場するこのプロットラインは、実際の出来事を中心に
描かれた架空の物語だった。
出演は David McLean, Charles Bronson, James Gregory,
Mary Tyler Moore (映画初主演) らで、Richard Donner の
監督デビュー作。ナレーションは James Stewart が務めた。
でその背景を元に先ず映画公開された1961年に
Elliott Evans "Concerto For The X-15 (A Tribute To The X-15)"
(Reprise Records R-20,039)
Elliott Evans "Lovers' Beach (Concerto For The X-15)"
(Reprise Records R-20,039 Promo)
がリリースされたのだが、プロモ盤は本件と同じタイトルに
変更して配布された。
共にB面は Neal Hefti - Theme From The X-15 が収録された。
で前置きが長くなったが、本件はその翌年に Linda Leigh が
リリースしたシングル。これは映画に良くある手法で
壮大なスペクタクルや人類の悲劇のシーンではバックで美しい
バラードが流れて具体的現実と非現実の狭間で視聴者に
観念的な視点を訴える技法がこの美しいビーチバラード
から伺える。戦争の爆撃シーンに美しいクラシックを
流して効果をあげるのと同じ。
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The Lewis Sisters |
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11-13
The Lewis Sisters (The Singing School Teachers) -
Moonlight On The Beach
(7: V.I.P. V.I.P.-25024) 1965
Helen Lewis (AKA Helen Mastor) と Kay Lewis (AKA Kay Miller)
による白人姉妹デュエット。写真では、かしまし娘をも想起させるポーズで
笑いを誘うが、この美しいビーチバラードは Berry Gordy Jr. と Robert Gordy
によって書かれ、彼らの共同プロデュースで録音された。
Helen と Kay の姉妹は、クラシックの傾向を取り入れたニッチで
斬新なレコードを数多くリリースしていたが、彼女達はアーティスト
としてではなく、ソングライターおよびバックヴォーカリストとして
Los Angeles にある Motown の西海岸オフィス (後の MoWest) に
やって来た。プロデューサー Hal Davis は彼女達の声をとても
気に入ったので、最終的にアーティスト契約も結ぶことになった。
不可解なことに The Singing School Teachers「歌う学校の先生たち」
と宣伝され(二人とも実際には教師ではなかったが)、Motown 社長の
Berry Gordy Jr. が直接関与し、リリースするという稀な特権にも
かかわらず、彼女達の Motown での2枚のシングルは大きな関心を
集めることができなかった。
その後 Helen と Kay はソングライティングにこだわり
優れた曲を書いた。姉妹で書いた代表的な曲を列記する。
Smokey Robinson & The Miracles "Baby Baby"
Martha & The Vandellas "Happiness Is Guaranteed"
Patrice Holloway "Stay With Your Own Kind"
Gladys Knight & The Pips "Just Walk In My Shoes"
The Sweet Inspirations "Walk In My Shoes"
Lisa Miller "Love Is" / "Loneliest Christmas Tree"
Sandy Wynns (Edna Wright) "How Can Something Be So Wrong
(And Always Feel So Good)" / "Love's Like Quicksand"
H.B. Barnum "Heartbreaker"
Edwin Starr & Blinky "Can't We Be Strangers Again"
Edwin Starr & Blinky "I See A Rainbow"
Nancy Wilson "How Many Broken Wings"
Les McCann With Roberta Flack "How Many Broken Wings"
The Osmonds "He's The Light Of The World"
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Berry Gordy Jr. |
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11-14
Vicki And The Townsmen - Beach Blues
(7: Vestal 1913) 1964
ガールシンガー Vicki Roberts をフロントにした Alabama の
ガレージバンドが残したビーチバラードの逸品で彼女と
The Ramrods のギタリストでヴォーカル担当の Joe Lackey
による共作で、録音は地元 Alabama 州 Birmingham の
Boutwell Recording Studios で行われた。
Vicki And The Townsmen の前に前身バンドの Vicki And The Spades
は1962年に Tell Me No Lies / About Cool (Vestal 1908) をリリースし
"Tell Me No Lies" は Birmingham で数週間ナンバー1ヒットとなった
経緯がある。この The Spades は作者の Joe Lackey が在籍していた
地元の Surf band の The Ramrods の変名である。
Woodlawn 高校出身の Terry Grill (Guitar), Eddie Stovall (Guitar),
Daley Vandergrif (Drums) の3人はガレージバンドを結成し
The Ramrods の Joe Lackey の紹介で元 Vicki And The Spades
の中核メンバーで当時 Berry 高校の女子高生だった Vicki Roberts
とキーボード奏者で Shades Valley 高校の Phil Hill に出会った。
その時にドラマーの Daley Vandergrif は The Hard Times
(Ultimate 1 in 1966) に移籍して (このグループは The Rites Of Spring
名義で Parkway P-109 をリリースした)、初代キーボード奏者の
Phil Hill が早々にグループを脱退し、ギタリストの Eddie Stovall
はすぐにアラバマ大学に進学した。残った Terry Grill は
ギタリスト Rick Hester, ベーシスト Gary Quattlebaum と
ドラマー Tony Ardovino を加えてバンドを維持し
紅一点 Vicki Roberts をリードヴォーカルにした
Vicki And The Townsmen を結成した。
Gary Quattlebaum が不在の時は地元の雄 The Distortions の
Robert Alexander が参加共演していた。
彼らは Sock-hops (ティーンエイジャー相手のダンスイヴェント)
に数回参加し、本件シングルを録音した。
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11-15
Linda Burnette With Robby And The Ramblers - My Old Model T
(7: Perry 5 A) 1961
Early 1960s label from Port Clinton, Ohio.
Dist. & Lic. by Howard L. Lafer.
Female singer from Norwalk, Connecticut.
Excellent female rocker in car theme.
Written by Lafer, Jackson.
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Robby And The Ramblers |
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Annette |
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11-16 Annette - Surfer's Holiday - Rebel Rider
(LP: Buena Vista Records BV-3314 mono /
BV STER-3314 stereo) 1964
Tracks from her album "Muscle Beach Party"
Annette - Rebel Rider
(7: Buena Vista Records F 432) 1964
1964年3月25日に公開された "Muscle Beach Party" は
American International Pictures が制作した7本の
ビーチ パーティ映画の2作目にあたる。
前作 “Beach Party" に引き続き Frankie Avalon と Annette が主演し、
William Asher が監督を務めた。William Asher このシリーズの他の4本の
映画も監督している。この映画は “Beach Party" の続編で
映画には Dick Dale, Donna Loren, Stevie Wonder も出演している。
ちなみに、Muscle Beach は Venice Beach の愛称で、
マッスル コンテストが頻繁に開催されることからこの名前が付けられた。
同地は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス西部の
サンタモニカとロサンゼルス国際空港の間に位置する。
目の前に広がるビーチの他、運河とオーシャンフロントウォークでの
パフォーマンスで知られる。ビーチ沿いにはたくさんの土産物屋や
露店が立ち並び、砂浜に生えるヤシの木、建物の壁に描かれた
グラフィティなどと相まって、いかにもカリフォルニアという雰囲気を持つ。
そのため、ロサンゼルス周辺でも代表的な観光スポットの一つであり、
さまざまな映像作品の舞台となってきた。
前作 "Beach Party" に続き音楽を依頼された Gary Usher は
Roger Christian と話し合った末に、Brian Wilson にも協力を
要請している。Gary Usher,Roger Christian, Brian Wilson
が共作し、3人がこの映画のために書いた曲は全6曲である。
@ Surfer's Holiday / Annette, Frankie Avalon
冒頭のシーンでみんなでビーチ向かう車の中で歌われる。リードヴォーカルは
Annette と Frankie Avalon で、Dick Dale のギターソロがフューチャー
されている。Gary Usher 自身が The Super Stocks 用に同じバックトラックで
リードをとったデモヴァージョンも存在し Gary Usher によれば、
それに Annette と Frankie Avalon のヴォーカルを被せたらしい。
Frankie Avalon のソロバージョンは、1964年3月25日の彼のアルバム
"Muscle Beach Party And Other Motion Picture Songs"
(United Artists Records UAL 3371 mono /UAS 6371 stereo)
にも収録されている。
A My First Love / Dick Dale and The Del-Tones
Annette と Frankie Avalon が出かけたダンスパーティー。
そこで Dick Dale が The Del-Tones を従えて歌う。
奇抜なメロディーの曲だが力強いバッキングが施されている。
The Super Stocks (Featuring Gary Usher) もこの曲を録音し
1964年7月にリリースされたアルバム "Surf Route 101"
(Capitol T-2113 mono /ST-2113 stereo) に収録されている。
B Muscle Beach Party / Dick Dale and The Del-Tones
My First Love に続き Dick Dale が歌う。
The Super Stocks (Featuring Gary Usher) もこの曲を録音し
1964年7月にリリースされたアルバム "Surf Route 101"
(Capitol T-2113 mono /ST-2113 stereo) に収録されている。
Frankie Avalon のソロバージョンは、1964年3月25日の彼のアルバム
"Muscle Beach Party And Other Motion Picture Songs"
(United Artists Records UAL 3371 mono /UAS 6371 stereo)
にも収録されている。
C Running Wild / Frankie Avalon
ダンスパーティーの途中 Frankie Avalon が突然立ち上がり、これを歌う。
この曲のスタジオ録音は、1964年3月25日の彼のアルバム
"Muscle Beach Party And Other Motion Picture Songs"
(United Artists Records UAL 3371 mono /UAS 6371 stereo)
にも収録されている。
D Muscle Bustle / Dick Dale and Donna Loren
Dick Dale と Donna Loren が歌う。
Donna Loren は1964年3月に Challenge 59237 として
シングルカットし、1965年リリースの彼女のアルバム
"Beach Blanket Bingo" (Capitol T 2323 mono /ST 2323 stereo)
にも収録された。
E Surfin' Woodie / Cast (Acappella) Lead by Dick Dale
ビーチでみんなが Dick Dale を取り囲んで歌う。
アカペラでリードは Dick Dale だがたったのワンコーラス
で次のシーンへと移ってしまう。
これらの曲は、映画のワンシーンで使われているものなので、
途中セリフが入ってしまいレコードのようには楽しめないが、映画で
使われているヴァージョンは全てレコード化されていないので
貴重である。映画で使われたヴァージョンのバックトラックの
レコーディングでは Gary Usher, Dick Burns, Dennis McCarthy,
Les Weiser 他にも Brian Wilson もピアノとバックコーラスで参加
していると Gary Usher 自身が語っている。この映画が公開
された3月には Annette がこれにあわせ本件アルバムMuscle Beach Party
(Buena Vista Records BV-3314 mono / BV STER-3314 stereo)
をリリースした。1963年リリースの前作アルバム Beach Party
(Buena Vista Records BV 3316 mono / STER-3316 stereo)
より若い番号なのは Annette のソロアルバムと分けていた
為だろうか。
このアルバムに収録された3曲 "Muscle Beach Party"
"Surfer's Holiday" "Muscle Bustle" はアルバム用に再レコーディング
されたもの。"Surfer's Holiday" は当初はタイトルを
"Surfin' Holiday" として書かれていた。これは Brian Wilson が書き下ろして
Bob Norberg と Cheryl Pomeroy のデュエット Bob & Sheri が録音していた
"Ride Away" と言う未発表曲が原曲である。
Annette が歌ったこの曲は "Muscle Beach Party" のB面で日本盤のみ
シングルカットされている。因みに Jan and Dean も
Unreleased ながらこの曲を1963年に録音した。その為に当初は
Jan and Dean のアルバムに収録も検討されたと推測される。
Gary Usher と Roger Christian はこのアルバムのために新たに
Custom City, Draggin' U.S.A., Rebel Rider, Waikiki, Shut Down Again
の5曲を提供している。アルバムはそこそこのヒットとなり1964年3月に
Custom City / Rebel Rider (Buena Vista 432) と
Muscle Beach Party / I Dream About Frankie (Buena Vista 433)
がシングルカットされた。Custom City / Rebel Rider のシングルは
続く Muscle Beach Party と連番でプレスされアルバムリリースと時期が
重なった為にプロモーションも弱く短期間で回収されているために
非常にレアである。また Gary Usher と Roger Christian, Brian Wilson
の3人の個性が表れている "Muscle Beach Party" だが、この曲調は
The Beach Boys の "Cherry, Cherry Coupe" (原曲 Land Ahoy) から、
その後 Gary Usher のグループ The Surper Stocks の "Surf Route 101" や
"Malibu Blues" にも通低する、のどかな主旋律を持つ。
また、3人によってこの映画の為に書かれた "Running Wild" は
その後 Frankie Avalon のアルバム "Songs From Muscle Beach Party"
に収録される。
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Brian Wilson
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Gary Usher
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Roger Christian
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Little Pattie |
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11-17
Little Pattie With The Statesmen - He's My Blonde Headed
Stompie Wompie Real Gone Surfer Boy
(7: Australia His Master's Voice EA-4604) 1963
(7: US World Hits 150) 1964
Little Pattie - The Many Moods Of Little Pattie
(LP: Australia His Master's Voice OCLP-7621 Mono) 1964
この小娘の出現によってオーストラリアのサーフィンソングブームは
一気に盛況したと言っても過言ではない。
Patricia Amphlett は1949年にオーストラリアの
ニューサウスウェールズ州パディントンで生まれた。
Sydney Girls High School 時代に Patricia という
背の高い友人が二人いたので彼女は Little Pattie
というニックネームが付けられた。
彼女は13歳のときに最初にテレビに出演し、
Opportunity Knocks シリーズで歌い、
高校3年生のとき彼女は毎週 The Bronte Surf Club
で演奏する The Statesmen のリードシンガーとして
活動を始めた。グループは彼女のヴォーカルに
感銘を受け、EMIとのレコーディング契約を結んだ。
1963年11月の彼女のデビューシングルとなった
"He's My Blonde Headed, Stompie Wompie,
Real Gone Surfer Boy"は、シドニーで2位の
大ヒットとなり、彼女はバンドスタンドを含むテレビの
バラエティ番組に定期的に出演し、オーストラリアの人気
Surf band の Col Joye and The Joy Boys のツアーを
サポートした。その後、彼女はベトナム戦争中に
オーストラリア兵士の慰問ライヴでベトナムへ行き、
その際日本に立ち寄って日本のテレビ番組に出演し、
1965年には日本でもレコーディングをして
小さな恋人(作曲:弾 厚作 = 加山雄三) / 黄色いレモン
(作曲:筒美 京平)を日本語盤でリリースした。
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Donna Gaye |
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11-18
Donna Gaye - Hey, Beach Boy
(7: Australia Kommotion KK-1559) 1966
豪州は Sydney 生まれのガールポップシンガー。
彼女は本名を Vivienne Jarvis と言い、幼い頃から動物が大好きで
獣医になることが彼女の夢だった。
しかし母親が彼女を大学に行かせる経済的余裕がないと言ったとき、
彼女は「まあ、学校には行かない」と言って自分が何をしたいのかも
分からないまま、15歳で高校を中退した。
その後彼女は Sydney のバンド The Convairs で歌うように頼まれた。
The Convairs で約6か月間働いた後、彼女はビートバンドのツアーの
サポート・シンガーとしてのオーディションを受けた。
オーディションは当時 Sydney で最も人気のあるダンス会場の
一つである Surf City で開催され、ツアープロモーターは
Ma Harrigan で ツアーのヘッドアクトは Billy Thorpe & The Aztecs
だった。彼女のオーディションは成功し、Billy Thorpe & The Aztecs,
Jade Hurley, Merv Benton, Vikki Forrest らとツアーをすることになった。
ツアーが成功し彼女が Sydney に戻ったとき、プロモーター Ivan Dayman
の下で働いていた John Jennings が Sydney にあるもう一つの人気の
ティーンエイジャーダンス会場である The Bowl で歌うように彼女に
打診した。Ivan Dayman は当時オーストラリアの音楽業界の重要人物で
オーストラリア全土にダンスのネットワークを運営し、
Sunshine Records とその傘下の Kommotion レーベルのオーナーだった。
彼女はベテラン俳優の Reg Quartley (一般的に知られている Uncle Reg)
が司会を務める‘Kaper Kabaret’(カパー・キャバレー) と呼ばれる
子供向けテレビ番組に定期的に出演した。
この番組には、後に Marty Rhone に名前を変え、オーストラリアの
ポップミュージックシーンでよく知られるようになった Karl Van Rhoon
という若手の新進気鋭歌手も出演していた。
彼女がこの番組で出会い、友人になったもう一人の若き才能ある
歌手があの Trevor Gordon で、彼女が The Bee Gees と出会ったのは
Trevor Gordon を通じてだった。
Maurice Gibb は彼女のボーイフレンドになり、名前を Donna Gaye
に変えるように彼女に提案した。
彼女はいつも双子の Robin & Maurice Gibb そして Trevor Gordon の
4人で一緒に遊んでいた。Barry Gibb が曲作りに集中している間、
Robin & Maurice Gibb はクレイジーなホームムービーの制作に
集中していた。
ある日、みんなが Donna の家に行き、午後を過ごした。
家に帰る時間になると、彼女の母親の Mini に全員が積み込まれ、
かなり窮屈だった。車には Donna, Trevor Gordon,
Robin & Maurice Gibb, 女の子 (Robin Gibb のガールフレンド),
ドラムセット, ギターが詰め込まれていた。
]彼らが Gibbの家に到着すると、Barry Gibb は外に立ってギター
をかき鳴らしていた。小さな車にみんながぎゅうぎゅうに
詰め込まれているのを見て Barry Gibb はこう言った。「閉所恐怖症に
ならないかい?」 それから間もなくThe Bee Gees は
次のシングル"Claustrophobia" (閉所恐怖症) をリリースした。
その後、Donna は Trevor Gordon や Gibb 兄弟と再び会うことは
なかった。Trevor Gordon はその後デュオ The Marbles の一員として
国際的な成功を収めた。The Bee Gees が作詞・プロデュースした
彼らの曲 "Only One Woman" は英国トップ3ヒットとなった。
当時 Sydney にいたグループが何であれ The Playboys や The Blue Jays
などのビートグループのサポートを受けて The Bowl で何度も彼女が
成功を収めた後、スターの Normie Rowe と一緒にツアーをしたいか
尋ねられた。これは彼女のキャリアにとってもう一つのエキサイティング
な機会であり、彼女はこのオファーを受け入れることにそれほど
躊躇しなかった。Normie Rowe は当時オーストラリアで最も人気の
あるアーティストで、オーストラリア全土で前例のない成功を
収めており、演奏するたびに暴動が起きた。
その後彼女は Bandstand, The Go!! Show, Saturday Date などの
テレビ番組に出演した。彼女はシングルのレコーディングを依頼され、
彼女のために選ばれた曲は Sue Thompson のヒット曲 "Norman" だった。
歌詞は Normie Rowe に敬意を表して Normie に変更され、
Sunshine Records の他のアーティスト Peter (Doyle), Tony (Worsley),
Mike (Furber) の名前も歌詞に含まれた。キャッチーで歌いやすい
この曲は多くのエアプレイを獲得し、Brisbane ではトップ 20 に到達した。
ベテランのロッカー Lonnie Lee が、Sunshine Records のオーナー
Ivan Dayman が立ち上げた Kommotion という新しいサブレーベルで
このレコードをプロデュースした。
シングルの初期プレスでは、両面に誤った作家クレジットが記載
されていたが、セカンドプレスでこのエラーは修正された。
Donna Gaye は Ivan Dayman が運営する Kommotion
レーベルと契約し、3枚のシングルをレコーディングした。
本件はそのラストシングルである。
オリジナルの Andrea Carroll が1966年7月に20歳でリリース、
こちら Donna Gaye が1966年11月14日に17歳でリリース。
米豪の競作ガールポップと言ってもよい範疇だ。
1968年彼女はアメリカ軍をもてなすためにベトナムをツアーし、
帰国後、彼女は元 The Escorts の Dennis Annable と結婚して
歌手を引退した。
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Margie Bayes |
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11-19
Margie Bayes with The Hearsemen - Why Can't I Go Surfing?
(7: Australia W&G WG-S-2509) 1965
(EP : Australia W&G WG-E.2701) 1966 (as Margy Bayes)
Margaret Joyce Bayes は1945年9月7日に Melbourne 郊外
の内陸部 Richmond で生れた。
Margie は5歳のとき、始まったばかりのラジオ番組 Swallow’s Juniors
で歌い始めた。彼女の兄と同じ学年の女の子がこの番組に参加し、
Margie は彼女の母親に番組のオーディションに連れて行ってくれないかと
尋ねた。Margie は幼少期にラジオコマーシャルも数多く制作した。
最もよく知られているのは、1954 年に彼女が9歳のときに
録音された『Iddy Biddy Peas』で、"Road To Gundagai" を書いた
Jack O’Hagan がジングルを作曲しレコーディングでは
ピアノを演奏した。このコマーシャルは8年間放送され、
オーストラリア全土で放映された。そして彼女には税金を払い
始めなければならないほどのお金が支払われた。
それ以来、彼女が作ったすべてのコマーシャルに対して税金を
支払わなければならなくなり、11歳になるまでに彼女は父親よりも
多くのお金を稼いでいた。 彼女はとてもラジオフレンドリーな
声をしていた。なぜなら彼女は最終的に50以上のラジオや
テレビのコマーシャルを作ることになったからだ。
彼女は Melbourne 周辺のダンスと最初のダンスで歌い始めた。
彼女が現れたのは、Melbourne から132キロ離れた海辺の町
Wonthaggi だった。彼女は The Breakaways (Mike Davenport
on rhythm guitar, Colin Turnbull on lead guitar, Pat Turpin on bass,
Murray Anderson on drums) をバックに歌っていた。
このグループは Melbourne ではよく知られており、
1963年から1965年にかけて W&G レーベルから
6枚のシングルとアルバムをリリースした。
彼女はダンス・プロモーションと契約し The Ivan Dayman circuit
のダンスで歌った。Canterbury Ballroom や Preston の
Circle Ballroom などの会場に The Premiers や The Thunderbirds
とともに出演。 彼女は The Thunderbirds との仕事が特に
楽しかったと彼女は説明する
「私にとって良かった点は、W&G のレーベルに Betty McQuade が
いたことでした。彼女は The Thunderbirds と一緒に歌ったりも
しましたが、私と彼女は同じキーで歌いました。
だから The Thunderbirds と一緒に歌いに行ったら、
彼女も歌っていたので、その曲を知っていました。」
その後、彼女は W&G レコードとレコーディング契約を結び、
本件デビューシングルをリリースした。オーストラリアの
人気ミュージシャン Johnny Chester (The Thunderbirds) が書いた
オリジナル曲で、アップテンポのビートチューンだ。
彼女をサポートした The Hearsemen は才能あるグループで
週末のさまざまなダンスイヴェントで彼女をサポートし、
彼女の最初のシングルをサポートするのは良い選択だった。
The Hearsemen members are
Peter Litchfield on lead guitar,
Paddy Deeker on bass,
John Nicholls on rhythm guitar,
David Lambert on drums.
この曲は Melbourne のチャートにランクインしたばかりだったが
ラジオでは人気があった。
ラジオ局 3UZ の電話世論調査では “Why Can't I Go Surfing?” は
当時 The Beatles の新曲よりも多くのリクエスト票を獲得した。
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Margy Bayes |
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11-20 Margy Bayes - I Wanna Wear My New Bikini
(7: Australia W&G WG-S-8042) 1967
彼女のデビューシングル “Why Can't I Go Surfing?” は
スマッシュヒットとなった。しかしそれは彼女と W&G の
軋轢を生む始まりでもあった。
5歳で芸能界デビューした彼女は自分の歌声で人々を
楽しませたかった。しかし W&G はアイドル歌手として
徐々に彼女に性的なアピールを望んでいった。
そのギャップからか彼女は彼女なりの主張をし、それは時として
彼女をトラブルメイカーとして周囲に認識させるに至った。
彼女の次のリリースについて W&G はEPをリリースすることを
決定した。これはミニアルバムと呼ばれることが多く、EP には
通常 2 枚のシングルの両面が含まれていた。
しかし彼女のEPはこの傾向には従わず、彼女の最初の2枚の
シングルのA面と2曲の新曲 "Sweet Boy" と "Mr Moonlight" が
収録された。1964年に The Beatles が3枚目の
アルバム‘Beatles For Sale’でカバーした曲 "Mr Moonlight" について
彼女は自分自身のアレンジを録音したいと考えた。
「私は "Mr Moonlight" の歌詞を聞いて、これは美しい子守唄に
なるだろうと思いました。」 彼女はヴォーカル・トラックを録音し
その曲を未完成のまま残した。彼女の意図は W&G スタジオに戻り、
ヴォーカルのハーモニーとグロッケンシュピールを追加することだった。
しかし、数週間後、彼女は W&G の Jack Varney から電話を受けた。
Jack Varney は熟練したジャズミュージシャンで、ギターとバンジョー
を演奏し、Graeme Bell Jazz Band のオリジナルメンバーだった男だ。
1965年6月、彼は W&G レコードのプロモーションおよび
A&R マネージャーに任命された。
Jack Varney はすっかり興奮して、「Margy、入ってこいよ、EPを
プレスしたんだよ」と言った。 すると Margy は「Varney さん、
どうしてそんなことができるのでしょう。十分なトラックの準備が
できていないのに」と答えた。
しかし Jack Varney はこう答えた。「はい、もう終わったよ。
私がギターを弾いて、他の人がハモンドオルガンをそれに乗せてくれたよ」
彼女は、自分が望んでいた仕上がり方法をまったく考慮せずに
トラックが完成されたことに本当に腹を立てていた。
彼女は「冗談でしょ!、私は自分自身でハモるつもりだったのに、
グロッケンシュピールを入れてもいいって言ったのよ」と言い
Jack Varney は「そうだね、今すぐEPをリリースする必要があると
判断したんだ」と答えた。彼女は W&G スタジオに行ったが、
聴いた内容にこれ以上がっかりすることはなかった。
「私は "Mr Moonlight" を聴いたとき、泣きそうになった。
頭の中でそれがどのように聴こえるべきかを正確に知っていたので、
とても動揺しました。」
Margy の次のシングルでは、W&G の権力者が彼女のイメージを
隣の優しい女の子からもっとセクシーなイメージに変えることに決めた。
彼女は言った「もっと上げて、私はあなたの足の親指と同じくらい
セクシーです。私にはセクシーなところは何もなくて、
だからこそ "Hey Good Lookin" は私の息にぴったりの曲なのです。
それは私ではなかったし、私のありようでもなかったのです。」
彼女はB面の "Picking Up My Hat" にずっと満足していた。
この曲は明るく弾むポップソングで、元々はカナダの女性歌手
Debbie Lori Kaye が1965年に録音したもので、Betty McQuade と
Paul McKay がこのトラックでバッキング・ヴォーカルを歌った。
彼女は数多くのテレビ番組に出演し‘Swallow’s Juniors’での
露出で Melbourne ではよく知られた顔になったため、彼女の
需要は非常に高かった。彼女は‘The Go!! Show’や‘Kommotion’
などのティーンエイジャーポップミュージック番組にも出演していて
彼女は‘Sunnyside Up’のレギュラーであり、‘Woman’s World’
と呼ばれる昼の番組にも出演した。
彼女が‘The Go!! Show’に出演したあるとき、同僚の Johnny Young
が彼女を Marjy(Majorie マジョリーのように)と紹介したが
Margy はそれが好きではなかった。彼女は休憩中に Johnny Young に
話しかけ「もしまた Marjy と呼んだら、私は撮影現場には行かない」
と言った。Johnny Young は彼女に「君はそんなことはできない」
と言った。彼女は「あなたにはそれができないのはわかっているけど
私はそうする。」と答えた。次に彼女が番組に出演したとき
Johnny Young は「Marjy Bayes が "Why Can’t I Go Surfing?”を
これから歌うよ」とアナウンスした。彼女は怒って約束通り
ステージに出て行かなかった。彼らはカメラの回転を止めなければ
いけなくなって憤慨した。彼女はプロデューサー達に何が問題なのかを
説明し、彼らは Johnny Young と話し、彼女の名前を正確に
発表するように言った。この事件以降、彼女は常に Margie
として紹介された。
彼女は月曜の夜に3回連続で Graham Kennedy の
人気番組‘In Melbourne Tonight’のオープニング・ナンバーを
歌うよう依頼されたが、これは大変名誉なことだった。
その後、彼女は会議に呼ばれ、月曜の夜のオープニングのポジションを
維持するためのオファーを受けた。そのナイトショーのためのオファーが
何だったのかを理解するのはそれほど難しいことではないが、彼女は
それに参加しなかった。「私はその面接を辞めました。母には一度も
言いませんでした。私にはその準備ができていませんでした。
『私は歌うけど、そんなことはしない』と思ったんです。」
2nd シングル以降は Margie Bayes から綴りを Margy Bayes に変更
しており、本件は彼女の4枚目でラストとなったシングルである。
W&G はサーフィンをテーマで彼女が復活するのが良いと考えた。
既にサーフィンブームが去った事を考慮すると奇妙な決断だが
彼らは Sydney の女流ソングライター Joan Fairbridge に
彼女のために曲を書くことを打診した。
通常 Margy はたいていどんな曲でも受け入れたのだが、
彼女が "I Wanna Wear My New Bikini" のデモを聴いたとき、
彼女はかかとを突っ込んで言った「それは録音したくないんです」
しかし結局彼女には選択の余地がなく「君は契約中だ」と言われた。
彼女は18ヶ月の契約を結んでいたため、これが W&G のために
レコーディングした最後の曲となった。
当時は、会社が選んだ曲を録音することを強制されていた。
妥協案として、彼らは彼女がB面に自分の選んだ曲を選ぶことを
許可した。W&G は Paul Anka の曲の出版権を持っており、
彼女は "Crazy Love" を選んだ。
彼女は “I Wanna Wear My New Bikini” を人前で歌うことを拒否し、
レコードのプロモーションで彼女は "Crazy Love" を歌った。
その後も彼女は Melbourne 周辺のさまざまな会場で歌い続けた。
]1969年、彼女は Moorabbin の The Southside Six Hotel でライヴを
行った。この会場のマイクから彼女の喉に虫が入ってしまい
毒喉を患ってしまった。彼女は喉の痛みを治療するためにスプレーを
使い始めた。それにより痛みが軽減され、それでも歌うことが
できるようになった。しかし彼女はスプレーに対してアレルギーを
持っており、感染症を悪化させるだけであることが解った。
彼女が医者に行くと、医者は彼女の声帯に感染性膿瘍があり
それが喉まで達していると告げた。医師は20セント粒の大きさだが
4倍の厚さの硫黄の錠剤を処方し、彼女は体内の硫黄をすべて
溶かすために1日に7リットルの水を飲まなければならなかった。
彼女は3か月間話すことを許されず、すべてを書き留めなければ
ならなかった。彼女を知っている人なら誰でも彼女が話すのが
好きであることを知っているので、彼女にとってそれは困難だった。
最初は小さなメモ帳を使っていたが、2日目には大きなメモ帳
を使うようになった。
喉の病気により Margy Bayes の歌手としてのキャリアは
途絶えたが、5歳の頃から歌うことが大好きで人々を
楽しませてきた彼女にとって、これは悲しい結末だった。
長くなるので割愛するが、その後彼女は逞しく生きて
昨今になって彼女が残した音楽の再評価がされ、彼女は
平和な人生を送っている事を記しておこう。
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Pam Oakley |
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11-21
Pam Oakley And The Viscounts - I Want To Be A Surfer Girl
(7: Australia RCA Victor 101548) 1964
Sydney 出身の女流作家。彼女はオーストラリアのテレビに出演した
最初の女性エレキギタリストだった。
彼女が Little Pattie のサーフィンソングを聴いてインスパイアされて
本件この曲を書いた。彼女はその曲を古いオープンリールテープに
自分の歌とギターだけで録音し、RCAに持ち込んだ。
当時の P&R 担当者である Johnny Devlin は、録音するのに十分だと
判断し、バックに The Viscounts を担当させた、
このグループは既にビートバンド The Cherokees, The D-Coys で
レコードデビューしていた Kevin Smith がメンバーに在籍していた。
この曲は多くのエアープレイがあったものの、チャートではそれほど
上位には入らなかったが、彼女がテレビクラブ出演やツアーで
キャリアを積むには十分な成績を収めた。
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Noeleen Batley |
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11-22
Noeleen Batley - Surfer Boy
(7: Australia Festival Records FK-488) 1963
(EP: Australia Festival FX-10,799) 1964
(LP: Australia Festival FL-31,455) 1964
(LP: Australia Calendar Records R66-497) 1966
1944年12月25日に Sydney で生まれた彼女はオーストラリアの
60年代ポップの先駆的な女性スターの1人だった。
彼女は日本では梓みちよのヒット曲「こんにちは赤ちゃん」
(作詞:永六輔、作曲:中村八大) の英語カヴァー
"Little Treasure From Japan (Kon Nichi Wa Akachan)" でも知られる。
これは坂本九の「スキヤキ」の世界的ヒットの直後ということもあり
同じ作詞・作曲者であるこの曲も同年英国デッカ・レコードを通じ
梓みちよのバージョンが日本語のまま世界に向けて発売され
それがダウンアンダー豪州まで届いた結果である。
"Australia's Little Miss Sweetheart" というあだ名が付けられた彼女の
心地よい歌声と、控えめな隣の女の子のようなイメージは、
ティーンエイジャーにも親たちにも同様に愛され、60年代初頭のテレビ番組
"Bandstand Family" の主要メンバーとして活動した。
Noeleen Batley は1944年のクリスマスの日に Sydney で生まれ、
母親の勧めで5歳から歌い始めた。子供の頃、彼女は 2UE ラジオの
ユースパレード、2UW ラジオのアマチュアアワー、ABC ラジオの
ロックビル ジャンクションなどのラジオ番組で歌っていた。
彼女は数多くのタレントコンテストに参加し、最終的には1960年に
歌唱コンテストの賞品として Festival Records との最初のレコーディング
契約を獲得した。最初のレコード "Starry Eyed" は1960年2月に
リリースされたが成功しなかった。しかし同年10月にリリースされた
彼女の次のレコードは、オーストラリア本土のすべての首都で
トップ5に入った。それは当時16歳の Helene Grover が書いた曲
"Barefoot Boy" のレコーディングだった。それは16週間チャートに留まり、
この成功により彼女は全国的なヒット曲を持つオーストラリア初の
女性ポップ歌手となり、Youth Show, Bandstand, Six O'Clock Rockなどの
人気テレビ番組に出演するようになった。
1961年、彼女はオーストラリアのトップ女性歌手に選ばれた。
彼女の母親は彼女のマネージャーとなり、1964 年に一緒に2週間の
ニュージーランド旅行を完了した。
他の多くのオーストラリアのアーティストと比較して彼女は非常に
多作なレコーディングキャリアを持っており、彼女の功績として
約20枚のシングル、少なくとも8枚のEP、3枚のLPがあり、
それらのほとんどは1960年から1965年までの彼女のキャリアの
ピーク時に録音された。
彼女のレコーディングは Bee Gees の愛好家にとっても興味深いもので、
彼女は1960年代初頭に Bee Gees と友人であり、Barry Gibb の作品を
最初にカヴァーしたアーティストの一人であり、1964年から1965年
にかけて彼の曲を4曲録音した。
1963年から1964年の夏、オーストラリアではサーフィンサウンドが
盛況だった。Barry Gibb は、Belinda にある Tony Brady (Australia の
Frank Sinatra と呼ばれる有名な歌手) のオフィスで彼女のために
演奏した他の曲を彼女に譲った後、彼女のために特別に
本件 "Surfer Boy" を書いた。
Surfer boy, surfer boy, surfer boy, surfer boy
Surfer boy you love the sea so much
and riding waves so big and blue
But I’m in love with you surfer boy
Why can’t you learn to love me too
I’m so afraid that you’ll get hurt someday
You say that this could never be
But I’m in love with you, surfer boy
So won’t you please come home to me
You say you love me but you treat me mean
You are the meanest boy I’ve ever seen
You leave me lonely and you leave me blue
I wish you wouldn’t treat me like you do
Surfer boy, why don’t you settle down
with a love you know is true
Yes I’m in love with you, surfer boy
Why don’t you say you love me too
You say you love me but you treat me mean
You are the meanest boy I’ve ever seen
You leave me lonely and you leave me blue
I wish you wouldn’t treat me like you do
Surfer boy, why don’t you settle down
with a love you know is true
Yes I’m in love with you, surfer boy
Why don’t you say you love me too
Surfer boy, surfer boy....
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Bee Gees (Left Barry Gibb)
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11-23 Wee Liz - Lonesome 409
(7: Australia Downunder UK-1403) 1966
Wee Liz was really a young girl of 13, named Elizabeth (Betty) Reed.
Girl pop singer from Wollongong, Australia
Girl pop with car theme on shortlived Australian 60s label.
Written, Produced by Nat Kipner.
Engineered by Ossie Byrn.
Recorded at Ossie Byrne’s St Clair Studios in Hurstville.
Manufactured and distributed by Festival Records.
The label was owned by LKB Productions
that Derek Lee was the "L" who Wollongong singer/songwriter,
Nat Kipner was the "K" ,
and Ossie Byrne the "B" in this partnership.
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11-24 The Bitter Sweets - What A Lonely Way To Start The Summertime
(7: Cameo C-368) 1965 B.T. Puppy Records の超レアサイケアルバムでも有名な
Brute Force こと Stephen Friedland が曲を書き
しかも Bright Tunes "Cave Sound" Production とクレジット
させれば「すわっ、名門 Bright Tunes Production に "Cave Sound"
(洞窟音) セクションを設立したのか !?」と私は興奮した。
しかも The Tokens らを手掛けたエンジニアーの Bob Arnold
もクレジットされてる。
冒頭で「ああっ」と呻く(うめく)女の声、曲中に
導入される女性の嘆きのバックには奇妙なエフェクトが、、、、
1965年リリースで、この革新的なアレンジはやはり凄い。
当時のリスナーには、かなりアヴァンギャルドな印象を
与えただろう。いやあ、The Tokens もかなり攻めてたんですなあ、
カルトなガールポップサウンドで素晴らしい作品だ。
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Della Rae |
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11-25
Della Rae - Hurry Up Summer
(7: Groove 58-0062) 1965
名前とタイトルのクレジット上下が異なるラベルも
存在するので一応掲載しとく。
Missouri 州 St. Louis 周辺の女性シンガーで1947年生れの彼女は
1990年に42歳の若さで他界した。彼女は若い頃から St. Louis の
ラウンジクラブ The Casa-Loma の花形スターだった。
彼女は全国歌唱大会に出場した後に地元 Missouri 州 Springfield の
人気クラブ The Rendezvous club のレギュラーとなり Little Della Rae
として人気を博し、地元のソングライター Don Clements とショーを行った。
Don Clements はサーカスの空中ブランコのアーティストになることを
夢見ていたエンターテイナーで、1965年に The Anita Kerr Singers を
バックにロカビリーシングル Made In The U.S.A / My Conscience Knows
(Skipper S4KM-7917/7918) をリリースした。このA面は "Bop-A-Lena"
でも有名な地元のロカビリーシンガーソングライター Ronnie Self が
書いた佳曲だった。本件 Della Rae のこのシングルは1965年1月、
Nashville の RCA Victor Studio で録音され RCA Victor の子会社の
Groove Records で3月にリリースされた彼女のセカンドシングルだ。
興味深い事に Don Clements 同様に地元のスタッフで製作されている。
Chet Atkins らを中心としたセッションミュージシャン達で、
Elvis Presley の録音スタッフとしても有名な The Nashville A-Team が
本件録音を担当、ヴォーカル部門を The Jordanaires と分け合っていた
The Anita Kerr Singers がバックヴォーカルを務めた。
A面は Ronnie Self が書いた感傷的なフィメールバラードで
南部特有のカントリーエッジが心地よい。
でB面だが、The Box Tops - The Letter の作者で後に南部の人気作家
になる Wayne Carson Thompson の初期作の弾けたサマーポップ。
Wayne Carson は当時 Missouri 州 Springfield で生活しており、彼は
パートナーでプロモーターの Si Siman から友人の Chet Atkins を
紹介され "Hurry Up Summer" を Della Rae に書き与えた。
当時 Della Rae は18歳、それを考えるとA面の歌唱力は
際立っており、B面のサマーポップはヤングの躍動感 (赤面的死語!)
の魅力がバッチグーッ(死語)なのでチェケラーッ(死語)です。
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Annette |
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11-26 Annette - Bikini Beach - Secret Weapon
(LP: Buena Vista Records BV3324 mono / STER-3324 stereo) 1964
Tracks from her album "Annette At Bikini Beach"
Annette - Bikini Beach Party
(7: Buena Vista Records F-436) 1964 本件作者の、Guy Hemric & Jerry Stynerは後にJack Kellerと
コラボレーションし、The Westwood の "I Miss My Surfer Boy Too"
と言う The Trade Winds へのアンサーソングを書き、
Gold Star Studiosで録音した。
Annette Joanne Funicello(1942年10月22日生まれ - 2013年4月8日没)
はアメリカの女優兼歌手。彼女は12歳でプロとしてのキャリアを
スタートし、オリジナルのミッキーマウスクラブで最も人気のある
マウスケティアーズの1人になった。1963年8月7日に公開された
映画 "Beach Party" は、American International Pictures(AIP)が
10代の視聴者を対象に制作した7本のビーチ・パーティ映画の
最初の作品だった。映画はビーチ・パーティ映画のジャンルを生み出したと
評価されており、アネットは映画女優としての地位を確立し、
共演者のフランキー・アヴァロンとともに「ビーチ・パーティー」
というヒット映画のジャンルを広めた。
映画 "Bikini Beach" は1964年7月22日に公開されたシリーズ作品である。
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Dee Dee Sharp |
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11-27 Dee Dee Sharp - Down By The Oceanside
(LP: Parkway P-7035 Mono) 1963
A track from V.A. - Everybody's Goin' Surfin'
Dee Dee Sharp (本名 Dione LaRue :1945年9月9日、
フィラデルフィア生まれ) は、アメリカのR&B歌手で、
1961年にバックヴォーカリストとしてレコーディングキャリア
をスタートした。本件はサーフィンをテーマにしたR&Bガールポップ。
Cameo Parkway Records の創設者の一人で、また Dave Appell との
ソングライターコンビを組んでいた Kal Mann の単独作品。
Dee Dee Sharp の最初の仕事は Clara Ward And The Ward Sisters の
メンバーとしても有名な Willa Ward Moultrie との仕事で、
すぐに Lloyd Price, Chubby Checker, Bobby Rydell, Frankie Avalon,
Jackie Wilson などのバックヴォーカルを歌うようになった。
1962年に彼女は Cameo Parkway Records と契約し、
レーベルオーナー兼プロデューサーの Kal Mann と Bernie Lowe
によって Dee Dee Sharp と改名された。
当時、彼女の兄は彼女を "Dee" と呼んでいたが、彼女が "D sharp"
で歌っていたため、この新しい名前が与えられた。
彼女は、ビルボード ホット100 のトップ 10 ヒット曲を次々に
生み出し "Slow Twistin'" (彼女の名はクレジットされてないが
実は Chubby Checker と彼女の共演で全米3位),
"Mashed Potato Time" (全米2位),
"Gravy (For My Mashed Potatoes)" (全9位),
"Ride!" (全米5位), "Do the Bird" (全米10位)。
"Mashed Potato Time" と "Ride!" はどちらも100万枚以上を
売り上げ、ゴールド ディスクを獲得した。"Do the Bird" は、
彼女の唯一の UK シングルチャート入りを果たし、
1963年4月に最高46位を記録した。
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The Orlons |
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11-28 The Orlons - Surfin'
(LP: Parkway P-7035 Mono) 1963
A track from V.A. - Everybody's Goin' Surfin'
フィラデルフィア産 R&B カルテットによる
ビーチ ボーイズのカヴァー曲。
The Orlons はペンシルバニア州フィラデルフィア出身の
学校の友人や近所の人たちの集まりで
女性3人と男性1人からなる R&B カルテットである。
Shirley Brickley, Rosetta Hightower, Marlena Davis
そして男性シンガー Steve Caldwell.
高校時代の友人で The Dovells のリードシンガーである Len Barry は
Cameo Parkway Records のオーディションを受けるよう彼らに勧めた。
グループは1961年秋に彼のアドバイスに従ったが、最初は拒否された。
しかし、さらに2回のオーディションの後、レコード会社はグループと
契約した。Cameo Parkway の幹部 Dave Appell は Rosetta Hightower を
リードシンガーに任命し、彼らのために曲を書き始めた。
1962年、グループは Dee Dee Sharp のヒット曲 "Mashed Potato Time"
と "Gravy (For My Mashed Potatoes)" のバックコーラスを担当。
後に彼らは初の全米ヒット曲 "The Wah-Watusi" で有名になり、
この曲は米国のポップチャートで第2位となり、Watusi ダンスブームの
きっかけとなった。彼らはデビューアルバム「The Wah-Watusi」のために
Dee Dee Sharp の曲のオリジナルヴァージョンを録音し、
同年ポップチャートで第4位となった "Don't Hang Up" で2度目の
ヒットを記録。1963年にはグループ最後のトップ10ヒットとなった
"South Street" でビルボードチャートで第3位、"Not Me" で第12位
そして、グループ最後のヒットとなった "Crossfire" は19位に
ランクインした。
メンバーの Marlena Davis は1963年8月にグループを脱退し、
Marlena Davisの代わりに Sandy Person が加入した。
1964年には Steve Caldwell がグループを脱退、
Yvonne Young が短期間在籍した後、Shirley Brickleyの妹である
Audrey Brickleyが加入した。その頃には、グループの人気は
米国では衰えていた。彼らは1960年代後半までイギリスで演奏を続け、
成功を収めた。Rosetta Hightower がツアー後にイギリスに残ることを
決めたため、1968年に The Orlons は解散した。
Rosetta Hightower はソリストとして、また Joe Cocker, John Holt
などのアーティストのバックを務める人気セッションシンガーとして
成功し、彼女はレコードプロデューサーの Ian Green と結婚した。
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The Petites |
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11-29
The Petites - Get Your Daddy's Car Tonight / Sun Showers
(7: Columbia 4-41662 Promo only) Apr 1960
長女 Pati Pettit, 次女 Alice Pettit, 三女 Claudia "Pettit" Prince,
そして母 Mary Pettit と父 Bob Pettit による家族グループ。
彼女達はイリノイ州シカゴ出身で1940年代にアイオワ州で
生活していた頃から母親 Marie の伴奏で家族で歌い始めた。
彼女達は The Petites 名義でシカゴの Spinning Records でデビューし
彼女達の歌声は次第に評判になる。
The Petites は間もなくしてCBS の人気テレビバラエティー番組
The Arthur Godfrey Show (Arthur Godfrey and His Friends) に出演し
そのタレント性によって一躍有名になった。
それがきっかけとなり、NBC と3万ドルの契約を結び1958年に彼女達は
Los Angeles に引っ越した。彼女達は人気コメディアンの
George Gobel の持つプライムタイムショー The George Gobel Show の
レギュラーアクトとして活動を始め、Paul Lynde, Bea Arthur, Joe Flynn ら
スター達と共演した。
その間 The George Gobel Show のオーケストラ責任者だった
Frank DeVol を通じて Columbia Records は彼女達と契約した。
本件シングルはそんな The Petites の Columbia Records 契約後の
メジャーデビューシングルで、A面は Doris Day が Frank DeVol の
オーケストラをバックに1958年にヒットさせ、その後も The Angels,
The Shirelles に歌われた名作 "Everybody Loves A Lover" の作者である
Richard Adler & Robert Allen が書いた曲。
因みにその曲は日本では鈴木雅之氏もカヴァーした。
本件 "Get Your Daddy's Car Tonight" は娘がお父さんの車を拝借して
夜に出かけるストーリーだが、The Beach Boys の1964年の人気曲
"Fun Fun Fun" も同じストーリーでありその内容が
「不謹慎でけしからんっ!」と彼らの父親で暴君の Murry Wilson が
激怒したのは有名。The Petites のこの歌が "Fun Fun Fun"
のストーリーのヒントになったかどうかは別としても当時の女の子が
父親の車を拝借するのはよくあった事だ。
因みにこの歌はオーストラリアの女性歌手 Lorrae Desmond が
"Get Your Daddie's Car Tonight" と "Daddy's" の綴りを変えた
カヴァー曲を (UK Parlophone R4670) 1960年7月、
(Australia Parlophone A8019) 1960年9月にリリースした。
本件B面は Al Hoffman-Martin Kalmanoff 作によるサマーポップ
の隠れた逸品。これは1950年に Larry Green And His Orchestra が
リリースしたジャズヴォーカルがオリジナルで、The Petites の
このポップミュージック化に関しては間奏部で口笛を挿入するなど
Frank De Vol のアレンジが本当に見事である。
この Promo only single は1960年4月に封筒カバーに入れて配布された。
現在「ハリウッド名誉市長」として知られる Johnny Grant は
当時 KMPCラジオのディスクジョッキーであり、彼女達の最大の
ファンの一人だった。Alice Pettit と Pati Pettit が結婚した
1961年までに残った三女 Claudia "Pettit" Prince,
母 Mary Pettit と父 Bob Pettit のトリオはサンフランシスコ、リノ、
タホ湖、ニューヨーク、ラスベガスなどの都市でプロとして歌い続けた。
父 Bob Pettit が陸軍州兵に6か月間徴兵されたとき、
歌手のJudy Gardner はその時までに姉の Pati Pettit の名前を
継いでいた母 Mary Pettit と Claudia "Pettit" Prince とともに
女性3人の The Petites の1人として加わった。
その後このトリオは男性コメディアンの Jerry Colonna と1年契約を結び、
The Petites としてアメリカ国内をツアーした。
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【戻る】【続く】 |
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